第30話


「どうしたんですか?土曜日なのに朝早くから」


 私と沙織の声が聞こえたのか、詩織が部屋から眠そうに目をこすりながら出てきた。


「香織さんの元ダーの話を岡田さんにしているのよ」


「そうなんだ。そろそろ香織さんも起きてくる時間ですね」


「岡田さんったらね、香織さんの元ダーがヨリを戻したがっているって話をしたら、それはいい話じゃないかって言うのよ。どう思う?信じられないよね」


 沙織は少し口を尖らせて詩織に向かって言った。


「絶対だめだと思います。岡田さんだって香織さんが離婚した事情を知っているでしょ?そんなふうに簡単に言うのはおかしいと思います」


 詩織がメガネの縁を片手で持ちながら右横から言った。


「だめだよ、また同じことになるよ。私がそうだったんだから。ね、そう思うでしょ、岡田さん」


「香織さん、もう一度考えてみようかな、なんて言うんですよ。だから香織さんと会ったら岡田さんからもアドバイスしてあげてください」


 沙織と詩織が交互に私に迫った。


「でもイケメンなんだろ?」


「イケメンでも浮気性とDVじゃどうしようもないですよ。余計なことを香織さんに言っちゃだめですよ」


 詩織が私にダメ押しのように言った。


「分かったよ、心配ないって。でもな、戻ろうかなって思うってことは、香織さんはまだ元ダーリンさんのことを愛しているのかも知れないだろ」


 私は缶ビールを飲み干し、冷蔵庫からもう一缶取り出した。


「だめだよ、そんなことを言っちゃ。岡田さんも反対してくれないと。女性の大切な話をしているのに、朝からビールばかり飲んで軽く意見をするのは不謹慎だよ」


「そうですよ。DVだし浮気性の元ダーなんだから、そんなふうに簡単に、まだ愛しているかも知れないなんて、無責任過ぎます」


 私の軽はずみな意見に対し、ふたりとも少し眉を寄せた表情で、さらに物言いをしてきた。


「分かったからそんな大きな声で言うなよ。香織さんに聞こえるだろ。でもな、人間は変化するよ。香織さんの元ダーだって、深く反省して改心したかも知れないじゃないか」


 私は意見した。


「有り得ない」


「そう、人間って本質は変わらないのよ。私も有り得ないと思う。元ダーはDVはともかくとして、病的な浮気性らしいから」


 沙織と詩織が私の意見を全面否定した。


「DVはともかくとしてって、そっちのほうが問題なんじゃないか?浮気性は正すことができると思うけど、DVは病気だからな。暴力はいけないだろ」


「分かったよ、岡田さん。でも香織さんの元ダーは何度も浮気をやめるって言いながら治らなかったんだから、多分無理だよ」


 沙織がコーヒーカップを両手で持って、首をゆっくり左右に振りながら言った。


「男は一度惚れた女のことはなかなか忘れ去ることができないんじゃないかな。男と女は本質的に違うって言うけど、僕なんかは死んでしまった嫁さんのことをいつまでも未練たらしく思い続けているからね」


「えっ?岡田さんの奥さん、亡くなったんですか?」


 詩織が驚いた声で言った。


「別居してこっちに出てきたんじゃないの?」


 沙織も意外だという表情で訊いてきた。


「うん、今年の一月にね。去年癌を患って、あっという間だったよ」


 私の言葉に沙織と詩織は黙っていた。少しの沈黙が三人の空間に流れた。


 そこに綾香が帰って来た。「ただいま」と言って、彼女はリビングの私たちを一瞥しただけで部屋に入ってしまった。


 綾香の場合は仕事上の朝帰りであって、私の朝帰りとは事情が百八十度異なる。

 綾香はルームメイトの女性の中で、ひとりだけ少し浮いた存在になっていた。


「綾ちゃんが帰ってきたからオヒラキにしますか?」


 詩織が小さな声で言い、沙織もその意見に頷いた。


 私には綾香と彼女たちの仲が特に悪いふうには見えなかった。

 私が真夜中に帰ってきたとき、リビングで四人仲良くテレビを観ていたこともあったし、キッチンで沙織と一緒にカレーを作っている姿を見たこともある。


 ただ、香織と沙織と詩織は綾香に対して何か違和感を抱いているフシがあった。


 それはおそらく、三人にはDVや何かの暴力から逃れてここにたどり着いたという共通点があるが、綾香は特別な事情などなく入居してきて、毎日飄々と生きている雰囲気が窺えることにも起因しているように思えた。


 しばらくして、綾香が薄い黒のキャミソール一枚の姿で出てきてバスルームに入った。私は目のやり場に困ってしまった。


「綾ちゃんって、いつも遠慮なしなのよね。岡田さんがいるのに、何よ、あの格好。女の私でも恥ずかしい」


 沙織が呆れた顔で言った。


「ホントね、少しは恥じらいを持てばいいのに。ねえ岡田さん」


 詩織が私に同意を求めた。


「ああ、そう・・・だね。でも見ていないから」


「見ていないって、見えるよ、あんな格好で目の前を通るんだから」


「まあ、少しはね・・・」


 冷や汗が背中を流れた。


「じゃあ岡田さん、くれぐれも香織さんに軽はずみなこと言わないでね」


 沙織が念を押し、「分かったよ」と私は素直に頷いた。そして沙織と詩織は部屋に戻った。


 リビングに残された私は、綾香がバスルームから出てきたとき、誰もいなかったら嫌な気持ちになるだろうなと思って、そのあともリビングに残ってビールを飲んだ。


 いったいどれだけ身体を洗っているのだろうと不思議に思うくらい綾香のシャワー時間は長く、おそらくバスタブにお湯を張ってジェットバスではしゃいでいるのだろうと私は推測した。


 三十分以上経ってようやく出てきたと思ったら、今度は白のバスタオルを身体に巻いているだけの、両肩をもろに露出した姿でリビングに現れ、私は目玉が飛び出しそうになった。

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