第29話
上野駅に着くと、とっくに終電は出てしまっており、仮に田原町から銀座線に乗っていたとしても、新丸子まで帰りつくのは不可だった。
タクシーで帰るとおそらく一万円ほどが飛ぶだろうし、どうしたものか私はしばらく考えたが、考えてみてもどうにもなるはずはなく、上野公園のベンチで一夜を明かすことにした。
公園内にはホームレスの方々が殆どのベンチを占めていて、いわば彼らのねぐらとなるわけで、新参者の遠慮がちな感覚をもちながら空いているベンチに座った。
時刻は午前一時半過ぎ、あと三時間もすれば始発電車が動くだろう。
何とか寝ないで夜を明かしたいと思い、周りのホームレスの寝姿をひとりひとり見回しながら時間の経過を待った。
だが、酔いはすっかり醒めていたのに睡魔と疲れからか、いつのまにか私は寝てしまっていた。
フッと目が覚めると空はかなり明るくなっており、腕時計を見るとすでに午前五時半、片からたすき掛けにしていたバッグと胸ポケットの財布が無事なことを確認してベンチを立ち上野公園を出た。
上野駅から山手線で目黒駅へ出て東急目黒線に乗り換え、新丸子駅に着いた時刻は午前七時ごろ、土曜日の早朝、新丸子駅前には平日のような緊張感はなく、緩んだ雰囲気が漂っていた。
私はゲストハウスへ向かって歩きながら、昨夜から夜明けまでの数時間の出来事が、実際は酔っ払った挙句、上野公園の粗末なベンチで寝込んでしまったうちに見た夢だったのかもしれないとも思ったが、左手には京子とつないだ手の感触がはっきりと残っていた。
「私、夜中にときどき隅田川までスカイツリーを観に来るの」って、そんな危ないことはやめなさいと言ったら、「お父さんみたいなこと言わないで」って言っていた。
「お父さん?でも今どこに住んでいるか分からないし、捜してほしいって言っていたような気がするな」
私は声に出して呟いた。
真鈴の父を捜し出して二年近くが経つ。そして今度は京子のお父さんを捜すのか?
そんなことを取りとめもなく考えていると、いつの間にかゲストハウスにたどり着き、暗証番号を打ってドアを開けた。
「あら、お帰りなさい。岡田さん、朝帰りなの?」
ルームメイトの沙織が笑いながら言った。
彼女は三十歳になったばかり、アロマのエステサロンに勤めている。
ちょうど私が帰ったときにトイレから出たところだった。
「終電を逃したんだよ」
「珍しいね、岡田さんが朝帰りなんて。どこで時間をつぶしていたの?」
「上野公園でホームレスさんたちと一緒に寝ていたんだ」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
「変な岡田さん」
沙織が不思議そうな顔をした。
「昨日の夜、三人で香織さんの元ダーの話で議論していたの」
沙織はパジャマ姿のままリビングの椅子に座って言った。
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、沙織の対面に座ってゆっくりと飲んだ。
沙織はいつも私に遠慮のない喋り方で、屈託がなくあっけらかんとしているので悪い気はしないが、脈絡のない話をいきなり言い出すときがあって、そのたびに私は戸惑う。
「元ダーって?」
「だから香織さんの別れた旦那さんのことだよ。ヨリを戻したがっているんだって」
「へー、それはいい話じゃないか」
「だめだよ、そんなこと言っちゃ。DVと女狂いの元ダーだよ」
「酷い言い方だな」
香織は三十代後半、ゲストハウスの四人の女性たちの中では最年長で、都内に美容師として勤めている。
あまり自身のことを多く語ろうとせず、私が知っているのは、別れた夫は腕利きのカリスマ的美容師らしいのだが病的な浮気性で、加えて暴力を振るうことも多く、実家の兄に間に入ってもらって離婚したのが三年ほど前、という程度だ。
夫婦間に子供がいなかったこともあって、別れてからすぐにこのゲストハウスに入居したと言っていた。
「酷い言い方って岡田さん言うけど、香織さんの元ダー、本当に酷いことしたんだから」
沙織は食器棚から自分のコーヒーカップを取り出し、ポットの湯を注いでインスタントコーヒーを作った。
沙織の向こうに見えるリビングの壁に掛かった丸時計は朝の八時を示していた。
考えてみれば、私は上野公園のベンチで少しだけウトウトしたが、もう二十四時間以上も起きたままなのだ。
だが、眠気は全然襲ってこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます