第27話

「やっぱり岡田さんに少し愚痴を聞いてもらおうかな」


 詩織は帰り道にようやく今抱えている悩みを打ち明けようとした。


「家を飛び出して東京に出てきて、最初は三鷹市というところに住んだんです。仕事は病院の医療事務補助でした。

 派遣会社が社会保険に加入すると言うので三鷹市に住民登録をしたら、二週間ほど経って叔母がいきなり訪ねて来ました。私、もう恐ろしくて・・・」


「それでどうしたの?」


「翌日、荷物をすべて実家に送らされて、不動産屋さんに叔母が連絡して、すぐに退去の手続きをされてしまったんです。

 そういうことにはすごく機転が利いて、することが強引で早いの。髪の毛こそ引っ張り回されなかったけど、そんな感じで実家に連れ戻されて、地元の飲食店で働かされました。言うことを聞かないと恐ろしいんです」


「酷い叔母さんだね」


「三度目に逃げ出したときから住所を実家に置いたままにしています。

 派遣会社には事情を説明して、社会保険の加入なしでお願いしているから私の居所は分からないの。

 でも、私は身体が弱くて、やっぱり国民保険に入ろうと思うんですけど、手続きをするには住民登録が必要でしょ。

 北上の住所で申請しても保険証をここには送ってくれないから、実家に受け取りに戻らないといけないんです。そうなると絶対に帰してくれないからどうにもできないんです」


「国民年金と保険の手続きは必要だから、いつまでも今の状態じゃ困るね」


「私、ちょっと精神的な病気なんです。だけど、保険がないから、どうしても辛いときだけ診てもらうのですけど、すごく高くって・・・困ってるんです」


 私は正直言って彼女がこころの病を患っているふうには見えなかった。

 親の暴力から逃げているとは聞いていたが、女性たちの中では最も普通に思っていただけに、こころの病気だと今夜打ち明けられたことが意外だった。


「なんていう病気なの?」


「それは・・・多分話しても理解してもらえないと思うの」


「無理には聞かないけど、でも詩織ちゃん、社会保険は手続きしないといけないよ。住民登録が必要だけど、叔母さんが追いかけてくるなら架空の住所に登録して、そこで手続きすればいい」


「どういうことですか?」


「つまり、いろいろ事情があって住民登録ができない人たちに代わって、僕の知り合いが代行登録できる住所を持っているんだ。そこで手続きして、役所などからの郵便物はその住所に届くから、彼が定期的に確認して郵便物を実際住んでいるところへ転送してくれる」


「住民登録をどこでするんですか?」


「大阪だよ。ちゃんとマンション名と部屋番号もあるんだ。ひとつの部屋番号に何十人も住所登録しているんだけど、役所はいちいち調べないからね。

 そこに登録して、国民保険や年金の登録をするんだ。役所から証書や書類が届けば、僕の知り合いがここに転送してくれるし、万が一、君の叔母さんが大阪のその場所を訪ねて行ったとしても部屋には誰もいない。

 そこは僕の友人が建物ごと借りているから、叔母さんが彼に問い合わせをしても知らないと言ってくれるんだ。

 手数料として毎月少しお金が必要だけど、多額の負債や夫などの暴力や何らかの事情で逃げていて、住民登録が出来ない人たちが利用しているよ。もちろん正業じゃなく闇の世界なんだけど」


「闇・・・ですか?」


「まあ、そんなこともできるということだよ。ゆっくり考えればいいから」


「岡田さんって、いったいどういう人なんですか?」


「どう仕様もないクソ野郎だよ」


 私たちは再び多摩川の土手を歩いた。

 

 河川敷にはさっきの若者グループの姿はなかった。

 暗闇の向こうに多摩川の流れが薄っすらと見えはじめ、河口方面に目をやると夜空と川との境が微かに明るく、もうあと一時間もしないうちに夜が明けそうだった。


 沈んだ夕陽は翌日必ず夜明けとともに朝陽となって昇るが、ゲストハウスの彼女たちの夜明けはいつ訪れるのだろう。


 でも物事には必ず終わりがあるように、今の暮らしもいずれ次の生活に移っていく日がやって来る。


「岡田さん、今夜はありがとう」


「いや、いつでも僕は付き合うよ。でも詩織ちゃん、もっとゆっくり、たくさん寝ないといけないな」


 ゲストハウスは寝静まっていた。大きな悩みを抱えて生きてきた詩織を、私は一瞬抱きしめてやりたくなった。


 でも彼女のような生真面目な女性に対してそういう行為には踏み切れなかった。

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