第26話

 ※この小説は、暴風雨ガール~続・暴風雨ガールの続編です。


 私と詩織は金曜日の深夜の多摩川土手を河口側へ向かってブラブラと歩いた。


 河川敷では若者たちやカップルが暑気避けのためか、散歩したり川べりで佇んでいた。


「ようやく夏がスタートした感じだね」


「えっ?」


「梅雨明け宣言がまだだけど、全然雨が降らないからね。もう夏が梅雨明けを待てなくなったんだよ」


「あっ、そういう意味だったんですね。そうですね」


 詩織は右手で黒縁メガネの片方の縁を持ちながら同意した。


 何か相談したいことがあるのだろうと思って言葉を待っていたが、彼女は私と肩を並べてゆっくりと歩くだけで、土手を下りて住宅街に戻ってからも、何か話をしたそうな素振りは窺えなかった。


「詩織ちゃん、何か僕に相談があったんじゃなかったの?」


「えっ、どうしてですか?」


「夜中に急に散歩しませんかって声をかけられたら、何かあったのかなって思うよ」


「いえ、特に何もないですよ。外で涼みたかったんですけど、私ひとりじゃ怖いから、岡田さんなら安心だし・・・。ごめんなさい、いきなり誘って」


「いや、僕は全然かまわないんだよ、明日も明後日も休みだから。でも僕だって決して安心な男じゃないよ。ときには狼や猛獣にだってなるんだから」


「ええっ?」 


 詩織はジョークを分からず黒縁メガネのレンズの奥で目を白黒させていた。


「ジョークだって、詩織ちゃん」


「そうですよね」


 詩織がホッとした表情に変わった。


 私たちは土手を降りて駅の方向へ歩き、明け方まで営業しているスープカレーが美味しいという店に入った。


 詩織はあまりお腹が空いていないというので野菜スープカレーとポテトフライを注文してふたりで分け、私はビールを、詩織はアイスコーヒーを飲みながらいろいろと話をした。


「実は腹ペコなんだ」


「何も食べていないんですか?」


「仕事帰りに派遣会社の人と串焼き屋とパブに寄ったんだけど、飲んでばっかりであんまり食べてなかったから」


「毎日食事はどうしているんですか?岡田さんがキッチンで何か料理しているところを見たことがないから」


「料理は苦手なんだ。苦手と言うより何も作れない」 


「外食ですか?」


「昼は社員食堂というのがあってね、食事らしい食事をするよ。それ以外は外食も滅多にしないし、部屋で菓子パンを食べる程度かな。でも金曜日だけは酒を飲みながらつまみのような物を食べるよ」


「そんなじゃだめですよ。ちゃんと栄養のあるものを食べないと。今度私が作ったものを岡田さんの分だけ取っておきますから」


 まるで母親みたいな詩織の言葉は嬉しかったが、そういうわけにはいかない。


「いいよ、詩織ちゃん。僕はあまり食べるものに関心がないんだ。それより暑いから眠れないって言ってたけど、エアコンをつければいいのに。家賃は共益費込みなんだから」


「そうなんですけど、本当は暑さじゃないの。なかなか寝付けないんです」


「不眠症なの?」


「小さいころからそうなんです。眠りも浅いし、おかしいんです」


「病院で相談すれば?」


「かかりつけの病院はあるんですよ。睡眠薬も処方してもらってるし。でもめったに飲まないんです」


「めったにって、たまに飲むってことだね。大丈夫なの?」


「大丈夫ですよ、ちゃんと精神安定剤を飲んでるから」


「ええっ?」


「いいんです、岡田さん、私ずっとこうだから」


 私は入居してこの一か月あまり、詩織や他のルームメイトたちと意識的に仲良くしようと気を遣ってきたわけではないが、なんとなくうまくいっている気がしていた。


 入居してすぐに彼女たちは遠慮なく私に話しかけて来たし、ときには世間話だけに終わらず、プライベートな部分に触れることもあって、急速に親しくなっていた。


 私がリビングでテレビを見ているとき、沙織が突然部屋から出てきて、「別れたダンナってさあ、すごい暴力を振るうんだよ。先に寝てただけで、仕事から帰ってきたらいきなり蹴るんだよ。おかしくない?」などと、何の脈絡もなく自分の過去を語りはじめることもあった。


 そして今夜のようにコツコツとドアを叩く音に気づいて開けてみると、「駅前のラーメン屋、行きませんか?」と詩織がいきなり幽霊のような声で誘って来たり、そんなとき彼女たちは少しずつ、本当にひと欠片ずつ過去の辛かった思いを私に打ち明けた。


 四人の女性の中では最年長の香織でさえ、普段は自身のことを語ることなどほとんどないのに、ある夜私が仕事から帰るとリビングでひとり酒を飲んでいたことがあり、「岡田さんだって大阪で奥さんに酷いことをしてきたんでしょ。私には分かる」と、何度か絡んできた。


 いつもあっけらかんとしている彼女たちだが、このゲストハウスにたどり着くまでの経緯を語るときは、普段は見せない暗い翳と苦悩の表情が垣間見えた。


 断片的な話ではあっても、彼女たちから聞いた話を繋ぎ合わせてみると、香織や沙織や詩織がなぜこんなシェアハウスで暮らすに至ったかが凡そ分かった。


 香織は夫の暴力と浮気が原因で離婚してここに移って来たし、沙織は夫から繰り返し暴力を振るわれ、挙句は追い出された経緯があり、詩織は実家から逃げるように飛び出し、あちこちをさ迷い続けた挙句ここにたどり着いていた。


 彼女たちがいきなり愚痴や悩みを吐き出したとき、私は鬱陶しがらずに、逆に真面目な態度で相槌を打ち、ときにはほんの少しだけ意見をしてきたから、これまでのところうまくいっているのではないかと思っていた。


 入居後、たった一か月あまりしか経っていないが、シェアハウスには同じ屋根の下に生活しているという独特の仲間意識のようなものが存在し、まるで家族と暮らしている錯覚に陥ることもときにはあった。


「小さいころから父に暴力を振るわれ続けたんです。働き出したら、父だけじゃなく叔母まで私を殴るようになりました。

 お給料を家に入れないと殴られるから、もう我慢できなくて飛び出すんですけど、毎回住所が分かってしまって、叔母が連れ戻しに来るんです。

 信じないかもしれませんけど、妹ふたりへの見せしめのようにボコボコにされるんですよ。そんなことがしばらく続いたから、私、精神的に不安定なんです」


 詩織は以前、少し興奮気味に身内への憎悪を表情にむき出しにして語ったことがある。


 彼女の実家は岩手県の北上市にあり、両親はともに視覚障害者で、特に父は重度の視覚障害のため、詩織が物心ついたころから旅館やホテルなどのマッサージ師として働いていたらしい。


 母の障害は軽度だったが、年齢とともに視力が悪化して、最近ではひとりで外を歩くこともおぼつかない状態になってしまったという。

 そういう事情があるので、これまでずっと父方の叔母がいろいろと両親の手助けをし、彼女たちにもお金の面で援助してきたとのことだった。


「お金を入れないから殴られたの?」


「家が貧乏で、叔母がかなり面倒をみてくれたんです。私たち女ばかり三人姉妹なんですけど、まとまったお金が必要なときは叔母が助けてくれました。

 だから恩返しをしないといけないんですけど、私だって家を離れる権利があると思うんです。

 高校卒業後は地元のスーパーに就職したのですけど、収入の大半を叔母と父に取られて、何だか馬鹿馬鹿しくなって、それで家を飛び出したの。

 妹たちが心配なんですけど、私よりずっとしっかりしていて叔母に負けないくらい気が強いから、多分暴力は振るわれていないはず。

 私がおとなしいから、叔母は暴力のターゲットを私に向けたのだと思います。実家には絶対に帰りたくない」


 そういうふうに詩織は以前私に説明したことがあった。


 午前三時ごろになってもスープカレー屋はほとんどの席が埋まっているくらいの繁盛振りだった。


「やっぱり金曜日だね」


「えっ、何がですか?」


「金曜日だから、こんな時間でもお客さんがたくさんいるねってことだよ」


「ああ、そういう意味だったんですね。本当にそうですね」


 詩織は再び片側のメガネの縁を指で持ち上げながら店内を見渡して言った。

 私たちは店を出て、ゲストハウスに戻る道を遠回りして歩いた。

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