第25話
北前京子の派遣会社からの紹介で勤めはじめた職場は、東京都港区の芝というところに所在する大手金融会社であった。ビルの窓からは間近に東京タワーが見えた。
仕事はカード支払いの決済がされなかった顧客への督促業務で、これまで従事したものに比べると子供騙しみたいなものだった。
つまり、口座引き落とし未決の顧客に対して、「早く金を払え」と礼節を持って丁寧な言葉で催促し、その応対内容を端末に記録として残すだけのものなのだ。
こんな仕事でもそれなりの収入を得ることが出来る世の中というものが、ある意味で子供騙しみたいな存在だと思った。
勤めはじめてから毎週金曜日だけ、私はその週の五日間で体内に滲み湧いた浮世の穢れをアルコールで消毒して帰ることにしていた。
それはひとつの厳粛な時間なので、ときどき職場のスタッフに「チョイと一杯、やって帰りましょうか」などと誘われることもあったが、その儀式のために百パーセント断っていた。
そんな私をやがては誰も誘わなくなった。
それはかえって好都合でもあった。
何故なら、大阪を去った後もT社から調査の依頼が一件入っていたし、京都のA社の社長からも「東京やその近隣県で調査依頼があればお願いね」と連絡をもらっていたから、平日の夜や土日は誰かと飲む時間などほとんど無かったからである。
真鈴との恋愛感情がお互いに本当のものなのか、いったん意識的に距離を置こうと結論を出して長年住み慣れた大阪を離れたのが五月末である。
そして六月は新たな仕事を覚えることと、多摩川の近くに所在する女性ばかりのシェアハウス暮しに少し戸惑っているうちに、あっという間に過ぎ去った。
その間、北前京子とは仕事の紹介を受けて、そのあとクライアントとの面接や職場見学などで二度ばかり会っていたが、個人的に食事をしたりすることはなかった。
ただ、金融会社に勤めはじめてひと月余り経った七月初旬の金曜日に、「今夜よければ晩御飯を」と誘いを受け、新橋の串焼き屋で飲んだ。
京子は真鈴より僅か一歳上という若さだったが、短大を中退して社会に出た女性と大学生になったばかりの女性との大きな違いが、何気ない仕草や言葉などに明らかに窺えた。
北前京子は串焼き屋で飲み始めると、バッグから煙草を取り出して慣れた仕草で吸いはじめた。
四月に想定外の事態に陥ったときにはそんな素振りは無かっただけに、私は意外に思った。
「煙草を吸うんだね」
「ダメですか?」
「いや、そうじゃなくて、ちょっと意外に思っただけだよ」
「飲んだときだけです。普段は吸いません」
「別に気を遣わなくていいよ。自由なんだから」
京子は私の派遣先での様子や困ったことがないかなどを訊いてきたが、特には無いと返答すると、次第に飲むピッチが早くなり、プライベートな話をはじめた。
生い立ちから現在の状況まで、生ビールを二杯飲みほす間にそれらを京子は語り終えた。
その間、私は彼女の意外な経歴や家庭環境に驚くばかりであった。
「両親は私が短大に入学して間もなく離婚してしまったんです。父は今どこで何をしているのか全然分かりません」
京子は煙草を灰皿で強くもみ消しながら言った。
「それで前に私のお父さんも捜してほしいって言ったんだね」
「そうです。でもいいです。母とはもう離婚しているし、母だってお店のお客さんと親しくなって、その男の人を毎週土曜日に家に泊めてるから、今更お父さんに会っても仕方がないですから」
京子の母は浅草の外れで小さな飲み屋を営んでいるらしく、そこの常連の男性が週末に一泊だけ泊まりに来るという。
その日だけ京子は友人のアパートに泊めてもらうか、家にいたとしても自分の部屋から出ないようにしているらしい。
「大変な暮らしだな、まったく」
この日の夜は居酒屋を出てから近くのアイリッシュパブで少し飲んで、十時頃に別れた。
別れ際に、「また飲もうよ」と言うと、「私、いつでも暇ですから」と言う。
「前にAPホテルで泊まったときに電話がかかってきた、何ていう人だったかな、サカイさんかな、彼氏とはどうなったの?」
「どうもなりません。彼氏じゃないし」
京子はそう言い残して私に背を向け、新橋駅の方向へ歩いて行った。
二十二歳の彼女は、外見では勿論わからない大きな苦悩を抱えて生きているのだろう。
私は少しふらつきながら御成門駅に向かった。
そして、この日の夜は京子の意外なプライベートな話だけに終わらず、さらに想定外なことが続いた。
北前京子と別れてゲストハウスに帰ると、午後十一時を過ぎていたので、すでにリビングの灯りは消されていた。
ここには私以外に香織と沙織と詩織という、まるで何かに仕組まれたような名前の女性たちと、もうひとり綾香という女の子の四人が住んでいた。
入居して数日が経つと、誰彼なくリビングに集まり、食事をするものやテレビを観ながらビールを飲むものもいて、帰宅すると「お帰りなさい~」とリビングから迎えてくれることに当初は戸惑ったが、次第にそれが嬉しく思うようになった。
シャワーを浴びてから、私も仲間に入れてもらってビールを飲みながら深夜まで歓談する日もあって、シェアハウス暮しも悪くないものだと思うのであった。
ルームメイトのなかでただひとりだけメガネをかけた詩織は、私が入居してから一か月余りの間に何度か深夜などに部屋をノックしてきたことがあった。
京子と別れてシェアハウスに帰った夜も、シャワーを浴びてしばらくしてから部屋がノックされた。
「どうしたの?」
「暑いし眠れないから、もし嫌でなければ少し散歩しませんか」
詩織は囁くような声で遠慮がちに言った。
「いいよ、ちょっと待ってて」
私たちはゲストハウスを出、すぐ近くの多摩川の土手を歩いた。
金曜日の深夜、河川敷では何組かの若者グループがたむろしており、ときおり聞こえる打ち上げ花火の音と彼らの歓声が夜の静寂をプツンと切った。
夏はまだはじまったばかりで梅雨も明けていないというのに、彼らが放つ打ち上げ花火は「ヒュー」と笛のような短い音を発したあと「パン!」と夜空に弾け散った。
これから日を追って暑さが増し、お盆が近づいてくると、あちこちで盛大な花火大会が催される。
そんな有名な打ち上げ花火とは比較にならない寂しい弾け方だったが、「ヒュールルルルル・・・パン!」という精一杯の音だけで、多摩川の近くに住む人々の寝苦しい夏の夜を少しだけ和ませていた。
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