第23話
日曜日の午前十時、私と真鈴は京阪電鉄の京橋駅で約束通り会った。
改札口前とか売店前とか細かい約束をしていなかったが、ふたりとも自然と二階のへエスカレータ乗降口あたりを目指していた。
約二年前、依頼人の息子の尾行調査の過程で、彼が真鈴と会ってホテルへ飛び込んだことから彼女の尾行に切り替え、数日追っているうちに気づかれてしまい、この場所で私は真鈴に腕を掴まれて駅長室まで連れて行かれたのだ。
探偵としてのプライドを叩き壊された瞬間の場所、だが私は今、この場所を深い感慨と共に懐かしさを感じるのであった。
大阪環状線の天満駅から乗って京橋駅で下車し、京阪京橋駅に入り、一階から二階へエスカレータで上がると、すでに真鈴は私を捕まえた場所で待っていた。
ほぼ同時に私たちは気付いた。
「めずらしいな、真鈴が先に来ているなんて」
「嫌な言い方」
「でもそうだろ、これまで僕より早く約束の場所に来ていたことがあったかな?」
「特急に乗るよ。もうすぐ来るから、行こう、光一」
真鈴は私の言葉に答えずに上りのエスカレータに乗った。
「どこまで行くんだ?」
「出町柳だよ」
三階のホームに上がると間もなく特急電車が滑り込んできた。
好天の日曜日の午前の時間帯である。
空いている座席は無かったが、私たちはドアの近くに立ち、そして自然と手をつないだ。
「東京の想定外の出来事って何だったの?」
いきなり真鈴は訊いてきた。
「何も無いよ、ちょっと飲みすぎて酔っぱらっただけだから」
「フーン、でも分かるのよね、光一が嘘を言ってることが。何かあったんでしょ?」
「何も無いって」
そんな言葉を交わしながら外の景色を眺めていると、枚方市駅で席が空き、私たちは並んで座った。
「出町柳からどこへ行くんだ?」
「吉田神社ってあるのよ、大学の近くに。遅咲きの桜が綺麗なんだって」
「両親とは仲良くやってるのか?」
「大丈夫、お父さんは最近仕事が忙しくてね、帰りが遅いからお母さんが文句言ってるけど、それくらいかな、みんな穏やかだよ」
「よかったなあ、家族が仲良く暮らすことが一番だからな」
「でも光一は子供がいないんだから、そんなこと分からないでしょ。変な人」
「一般論で言ってるんだよ。ともかくひとりで暮らすことにロクなことはない」
実感として思った。
有希子と別居を余儀なくされたあとの私の暮らしは、考えてみればずっと落ち着かない。
探偵としてあちこちひとりで飛び回る仕事だから、落ち着かないのは当然かも知れないが、何事に対しても優柔不断で、決定打のようなものを放つことが出来ていなかった。
例えば、亡き妻の有希子との別居の件にしたって、義父母の言うことなど気にせず「私は私でやっているのだから口出ししないで欲しい」とビシッと反論していればずっとふたりの暮らしが続いたかもしれない。
そして、もしかすれば彼女の癌の発症も防げたかもしれないのだ。
そんなことを考えていると出町柳に着いた。
そこから吉田神社まではゆっくり歩いても十五分ほどで到着した。
広い境内の敷地内にはいくつかの小さな神社もあって、遅咲きの桜と言ってもかなり散り始めていたが、背後の吉田山が情緒的に写り、素晴らしい景観であった。
真鈴はこんな恵まれた環境の大学で学んでいるのだ。
「何黙ってるの?」
「いや、桜が綺麗だし、背景の山とのコントラストがいいなって思ってたんだ」
「節分祭が有名なんだって。すごい人らしいよ」
「いい大学に入ったな。君は凄いよ、ホントに」
「まあね」
私たちは手をつなぎながら吉田神社を出て、白川通りを横切って哲学の道を南へ歩いた。
さすがに満開の時期が過ぎていたので桜はほとんど散ってしまっていたが、南禅寺への小道は人々で溢れ、賑わっていた。
「湯豆腐でも食べるか?」
「いいよ、高いから。三条へ出てマックでもいいよ」
「京都に来てマックかよ」
私たちは蹴上から三条通りを西へ歩き、三条大橋を渡ってびっくりドンキーに飛び込んだ。
真鈴のお勧めであった。
「よく来るのか?」
「大学の同じ語学のクラスメートと二度ばかりね。真っ直ぐ帰っても、お母さんとふたりでご飯食べるのが嫌だから」
「なぜ?」
「だって、お父さんの愚痴ばっかり聞かされるんだから」
「じゃあ講義が終わったらバイトでもすればいいじゃないか」
「ダメなの。お父さんがバイトしなくていいから、お母さんの手伝いをしてくれって言うのよ」
真鈴はため息まじりに言った。
彼女なりに日常生活で悩みを抱えて生きているのだろう。
人は誰でも何らかの悩みを抱えて生きている。
それを当たり前のように受けとめて深く考えないことが大事であって、考え過ぎると病気になってしまうのだ。
ふたりともレギュラーバーグステーキの二百グラムを注文し、お互いに腹が減っていたのか、ほとんど会話もしないままに食べ終わり、食後のコーヒーを飲んだ。
そして真鈴が呟いた、「今日は抱いてくれるよね」と。
私は返事に困った。
彼女がK大学に合格したお祝いに、阪急グランドビルのイタリアンレストランで食事をしたあとホテルで抱いた。
一か月近く前のことだ。
真鈴と会うたびに男女の関係を繋いでいては、彼女がいないと生きていけなくなってしまうかも知れないのだ。
それほど真鈴は魅力的な女性になった。
程よい距離を置いて、彼女を遠くから見る感覚で付き合っていくのがベストだと私は思った。
「君をたびたび抱くと離したくなくなってしまうからね。そうなったら困るんだ」
「なぜ?何で困るの?」
私はどうすればよいか分からなくなってきたが、ひとつの決断をする準備は出来ていた。
有希子がいなくなってしまった大阪で暮らすことは、ときどき猛烈な淋しさに襲われることがあった。
そして、真鈴とはどの角度から考えても、先々この恋愛感情を躊躇なく高めていくことは困難だと思った。
さらに、律子さんや徳島の関さんもそれぞれの人生を前に向かって進んでいかないといけない。
私はそれらの邪魔をしたくないし出来ない。
そんなふうに考えていた。
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