第22話

 金曜日の午後四時半ごろに事務所に戻ると、律子さんが帰り自宅をはじめたところであった。


「あら、お早いお帰りですね」


「うん、すっかり疲れてしまったよ。すぐに寝る」


 私は仕事関係の書類や機材を机の上に放り投げるように置き、隣の部屋のベッドに倒れ込むように身体を横にした。


「熱は無いの?」


「うん、東京では微熱があったけど、今は下がっているはず」


 律子さんが薬か元気が出るドリンク剤を買って来ましょうかと言ってくれたが、私はもう一刻も早く眠りたかったので、せっかくだが断った。


「じゃあ、失礼しますね。月曜日にこの前お伝えした相談の件、お話してもいいですか?」


 私は了解した。そして律子さんは帰って行った。


 東京の案件は失敗ではない。

 C社の本社を訪ねて行っただけに終わったが、その突然の訪問が大きな効果があったようで、同社の技術系や設計関係の社員からなる依頼人たちの要望に応えることが出来たわけである。


 だから予定より早く帰っては来たが、仕事に関しては満足をしている。

 だが、何故か私は精神的にかなり憔悴状態に近かった。


 その原因についていろいろと考えてみたが、自分自身のことなのにサッパリ分からなかった。

 そしていつの間にか眠りに落ち、翌日の土曜日の昼すぎまでひたすら寝続けた。


 目が覚めたのは真鈴からの電話の音だった。

 頭の近くに置いていたスマホが、ブーブーとまるで文句を言っているかのように鳴り響いた。


「今どこなの?」


「ああ、今は自宅だよ。昨日夕方帰って来て、ずっと寝てたんだ」


「大阪に着いたら電話をくれるって言ってたのに」


「ごめん、疲れていたからね。帰ったらバタングーだったんだ」


「熱は下がったの?」


「うん、大丈夫。明日は花見に付き合えるよ」


 真鈴は無理しなくてもいいと言ったが、久しぶりに彼女の顔を見たかった。

 私たちは明日の午前十時に京阪電鉄京橋駅で会う約束を交わし、それから少しだけ世間話をして電話を切った。


 約二年前に、真鈴を尾行中に気づかれて捕まえられた因縁の駅である。


 夕方になって、散歩がてらに外に出た。

 このところT社からのオファーが途絶えている。


 調査業界も年々環境が厳しくなってきており、個人情報を過度に保護する法律が制定されてからは、聞き込みによる調査では判明しにくくなってきている。

 今後は尾行による調査の比重が大きくなっていくことだろう。


 銀行で残高を確認すると、昨日のうちにN社から報酬が振り込まれていた。

 実質的に僅か二日間の滞在、実調査は一日だけだったが、成功報酬と交通費を含めて二十万円近い金額が振り込まれていた。


 安曇野に顔を出すと、土曜日ということもあって先客は二人だけで、女将さんが暇そうに店のテレビを観ていた。


「あら岡田さん、お久しぶり」


「えっ、そんなに間が空きましたか?」


「どうなんでしょう?岡田さんはいつも久しぶりみたいな気がするのよね」


 女将さんが不思議そうな顔をして、それからケラケラと笑った。


 でも確かにそうなのだ。

 急に遠方の調査が入ると、現場を終えてから報告書を作成して完了するまで十日以上、案件によっては一か月近くもかかることがあって、その間は顔を出せない日が続くから、女将さんの印象はもっともである。


「そうそう、水曜日だったかしら、律っちゃんがひとりでフラッと来たわよ。岡田さんの事務所を手伝えるのもあと少しって言ってたけど、本当なの?」


「えっ?聞いてないですね」


「あら、そうなの」


 女将さんが天ぷらを揚げながら呟いた。


 律子さんの相談というのはそういうことなのか。

 私はてっきり兄を含めた家族のことかと思っていたが、彼女もそろそろキチンとしたところに就職したいのだろう。


 私はちょっと寂しさを覚えたが、月曜日は律子さんの話を聞いて、前に踏み出そうとしている彼女を祝福してやろうと思った。


 小一時間ほどで安曇野を出て事務所に帰った。

 デスクの上の電話は何の点滅もしていなかった。

 つい半年ほど前あたりは、土日関係がなくT社や京都のA社から留守番メッセージが入っていたが、ずいぶんと寂しくなったものである。


 だが、私はたったひとりで動く探偵である。

 事務所経費といっても、個人がマンションの一室に住んでいるのとあまり変わらない。

 これまで多忙だったころの蓄えもそこそこあるから、焦る必要は全くないのである。


 明日の天気予報は快晴だ。

 真鈴と岡崎公園辺りで花見をして、鴨川縁をブラブラと散歩してから寺町で食事でもしよう。


 ベッドに入ると、理由のない寂しさが一瞬だけ襲ってきたが、私はすぐに寝入っていた。

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