第19話

 ピピピピピっと鳴り続ける音に目が覚めた。

 身体に巻きついていた京子の細い腕をゆっくりと解いて身体を起こし、セットしていた目覚ましを止めた。


 京子も目を覚まし「何時ですかぁ」と眠気まなこをこすり、大きな欠伸をしながら言った。

 昨夜の出来事が本当にあったのかと思うくらいアッケラカンとしたふたりの目覚めの瞬間であった。


「七時だよ、起きないと」


「はーい」


「先にシャワーを浴びてきなさい」


「すみません」


 よろけるようにして京子はベッドから起き上がり、バスルームへ飛び込んだ。

 昨夜は分からなかったが、照明を明るくすると彼女の露出した肌は透き通るように真っ白だった。


 私はこの先の人生で二度と与えられないかも知れない貴重なチャンスを、理性と呼ばれる歯がゆいくらい気取ったこころのアイテムによって放棄してしまったことに気づき、深い悔恨の念に包まれた。


 紳士としてよくやったなどというお世辞は要らない。

 京子を抱けばよかったと、取り返しのつかないことを仕出かしてしまったたような気持ちになり、瞼を指で押さえて暫し落胆するのであった。


 SPホテルから出ると、雲ひとつない晴天が世の中を見下ろし、さっきまでの悔恨の念はそよ風とともにこころから消え去った。


 上野駅まで京子を送って行ってから、コーヒーショップにでも入って、N社からの案件について作戦を練ろうと思った。

 昨夜真鈴に言ったように、今日か明日に本社へ突撃取材しないと明後日の土曜日に大阪に帰れなくなる。


「岡田さん、駅まで手をつなぎません?」


 いきなり京子が言った。


 私がしばらく躊躇していると、「昨夜、あんなふうになるって、思いもしませんでした」と言い、彼女の方から手を取ってきた。


「でも、何もしていないからね。ちょっと抱き寄せて悪かったと思ってるよ」


「いいの、嬉しかったです。私、岡田さんを信用しました」


 私たちは手をつないだまま、上野駅の構内に入って行った。

 午前八時前の上野駅中央改札口近くは通勤客などで既にごった返していた。


「コーヒーでも飲んでから出勤したらいいのだろうけど、会社は九時からかな?」


「そうです」


「じゃあ、遅刻したらいけないからここで別れよう。またいつでも連絡してくれていいからね。

 それから、営業は大変だけどコツがあるんだ。僕も昔は金融関係の営業だったからね。用のある時だけ顧客先を訪れるんじゃなくて、何も用がなくても、こんちわ~ってフラッと立ち寄るんだよ。これが大事なんだ」


 京子は数秒間考えていたようだったが、「分かりました、そうしてみます。たこ焼きクッキー、ありがとうございました」と嬉しそうな表情で言い、じゃ、調査が上手くいくように祈っていますと言い残して、改札口の向こうに駆けて行き、彼女のまばゆい姿が消えた。


 私は駅構内の二階にあるコーヒーショップに入り、ホットコーヒーのLサイズを注文して席に着いた。

 ひと晩中、京子の首に手を回していた右腕が少し凝ったように痛んだが、それは心地良い痛みであった。


 さて、資料をバッグから取り出し、作戦を考え始めた。

 依頼人はC社の開発部や設計部などの社員数人とのこと、費用はすべて彼らが出し合ったらしい。


 依頼内容はC社の広報部に第三者として訪れること。

 そして、数か月前に発売した新型車のユーザーからの依頼で、エンジンの回転数を上げると異常音が出たり、発火する懸念があるとのうわさが出ているが、この車種でこれまで何かトラブルがないかの確認をすること。

 万が一何らかのトラブルや異常があったとすれば、リコールなどの今後の対応について訊きだすこと、などである。


 ともかく今日はアポイントなど取らずに、浜松町の本社をいきなり訪ねてみることにした。名刺は岡田探偵調査事務所で構わないだろう。


 相手が「いちいち応じられません」と高飛車に出てくるようだったら、「そのユーザーがマスコミにでも駆け込んだら大変な事態に発展しますよ」とハッタリでもかましてやろうと考えた。


 こういう突然取材は、一日の始業開始直後が適している。

 その日の業務が、まだ一段落も何もついていない時間帯に訪れるのである。

 アポも取らずに始業開始直後にいきなり訪ねることで、相手を戸惑わせるのだ。


 九時前になって店を出て、上野駅から山手線で浜松町駅へ向かった。

 途中、有楽町を過ぎたあたりでスマホが鳴った。見ると、律子さんからの着信であった。

 東京駅でいったん降りて、律子さんに電話をかけた。


「ごめんなさい、忙しいですか?」


「いいよ、どうしたの?そろそろ出勤してくれるのかな?」


「昨日から出勤しています。二日間休ませてもらいました。それで、お帰りになったら相談があるの。いつ帰るの?」


 律子さんは丁寧語とため口を混ぜて言った。

 こういう口調は、彼女が平静に戻っていることの証拠である。

 私は土曜日には大阪に戻ると言って電話を切った。

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