第17話
北前京子はぐっすりと寝入ってしまったようだった。
私はソファーに腰をおろし、バッグから資料を取り出して、明日か明後日に直接取材に訪れないといけない浜松町のC社の案件について、訪問の時間帯やアポの要否、取材する目的などについて作戦を練ってみた。
だが、目の前のベッドで微かに寝息を立てている二十二歳の若い女性の存在が、私の思考回路を切断し続け、作戦を考えるどころではなかった。
「とりあえず明日のうちにアポを取って、明後日突撃してみるか」
自分にそう言い聞かせて資料をバッグに戻し、シャワーを浴びることにした。
だが、フロントには少しの間だけ休ませてほしいと言ったが、このまま京子を朝まで寝かせても大丈夫だろうかと気になった。
ラブホテルじゃあるまいし、シングルルームにふたり寝るわけにはいかないと思い、フロントに電話をかけた。
「すみません、さっき連れを少し休ませてほしいと言ったんですけど、ちょっと疲れているようで寝てしまったんです。どうすればよいでしょう?」
私は京子を起こさないように気遣いながら、囁くような声で伝えた。
「お部屋はいちおうセミダブルベッドですから、明日のチェックアウトの時にもうおひとり様の料金、シングル料金の半額になりますけど、お支払いしていただければ大丈夫ですよ」
フロントの女性はそう説明した。
私は「ありがとう」と言って電話を切り、それからバスルームへ入った。
バスタブに湯をためながら身体を沈め、今日の出来事を振り返ってみた。
京子と会うのは今日が二回目である。
東京の仕事が再び入り、その依頼があったときに偶然にも、前回の案件で尾行の際に置き忘れたショルダーバッグを拾ってくれた京子から、たこ焼きそっくりクッキーのお礼の電話が入った。
そして彼女のリクエストのお土産を持って再会、食事くらいすることは予測できたが、このような展開はまったくのアクシデントである。
バスルームを出て部屋に用意されていたパジャマに着替えた。
シングルルームだから私の分だけである。
さて、京子が寝ているベッドに私も身体を横たえて良いものか、ベッド脇でしばらく考えた。
でもどう考えても彼女の横に寝るしかないんだと結論を出し、私はベッドに身体を滑らせた。
京子は身体を仰向けにして口を半開きにしたまま眠っているようだった。
明日も平日だから京子は仕事だろう。私はベッドの頭にある部屋のコントロールパネルを操作し、目覚まし時計を午前七時にセットした。
そして部屋の照明を少し薄暗く落とした。
同じベッドに親子に近い年齢差の京子とふたりでいるというのに、なぜか性欲というものが湧き出て来なかった。
ただ、嘔吐を繰り返した苦しみから解放された彼女の疲れ切った寝顔を見ているうちに、自然と片ほうの手が彼女の頭や頬へ動いてしまった。
そのとき京子のバッグの中のスマホが鳴った。
京子は目を開けてゆっくりと身体を起こし、ベッドの脇にあるバッグからスマホを取り出して電話に出た。
ぐっすりと眠っていたわけではなかったようだ。
「はい、ごめんなさい。ちょっと飲みすぎてしまったの。はい、分かってる」
最初はこうなった経緯を説明していたが、途中からの会話の内容がどうもおかしいのだ。
「大丈夫よ、おとなの紳士的な人なんだから。そんな言い方しないで、無理やりじゃないし、私が悪かったの。そんなに疑うんだったらもうあなたとは終わりにしてもいいよ」
京子は最初のダラダラした口調ではなく、ハッキリとした物の言い方で「終わりにしてもいい」などと相手に厳しく言っていた。
電話は家族からではなく彼氏からのようだった。
「すみません、電話に出てもらえませんか」
「どうしたの?」
「彼氏が疑うんです。替わって欲しいって言って聞かないんです」
やれやれ、どういう展開になるんだろうかとうんざりしながらも、京子が差し出したスマホを受け取った。
電話は無料アプリの電話からかかってきたものだった。
「はい、岡田ですが」
「すみません、迷惑をおかけしているようで。サカイといいます」
意外にも丁寧な応対であった。
「北前さんが酔いつぶれちゃったんでしょうか?」
「少しだけ食事をご一緒したつもりが、こんなことになってしまって・・・私がもっと気遣いをして早めに帰らせればよかったのですが、申し訳ありません。サカイさんは京子、いや北前さんの彼氏さんですか?」
「はい、まあそんな立場にあります。ともかくご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。すみません、もう一度北前さんと替わっていただけませんでしょうか?」
京子にスマホを戻した。受け取ると京子は私に背を向け、「だから大丈夫だって。お父さんみたいに歳が離れた人だよ」などと苛立ちながら話をしているのが聞こえた。
お父さんみたいに年齢差があると言っても私はまだまだ元気だし、さっき風呂に入ったことで酔いが醒めるにしたがって、隣にほぼ半裸で横たわっている京子に男としての感情がムックリと起き上がってくるのが分かった。
「じゃあね、おやすみ」
電話を切ってバッグに仕舞い、それから京子はこちらを向きなおして「ごめんなさい、ヤキモチ焼きなの」と言った。
「そりゃあ、どんな事情があるにしても、恋人がほかの男とホテルなんかにいたら誰だって心配するよ。僕ならそのホテルに駆けつけて、相手の男をボコボコにしてやるかもな」
京子は「フフフッ」と笑い、「探偵さんってそんなに情熱的なんですか~?」と笑った。
京子はようやく酔いが覚めて落ち着いてきたようで、今度は横目で私を見る目が歳の割には艶っぽく、その視線とキャミソール姿をあらためて見ると、心臓が急にバクバク踊りだした。
「探偵さんは奥さんいらっしゃるんでしょ?」
「いや、今年の一月に亡くなったんだ」
「そうなんですね。ごめんなさい」
「いや、大丈夫だよ。亡くなる半年ほど前には離婚していたし、二年ほど前には別居状態だったからね」
「プライベートなことを聞いてごめんなさい。それから今夜はたくさんご迷惑をかけてしまって恥ずかしいです」
京子はそう言ってからベッドから出て、部屋に設置されていた小さな冷蔵庫を開けて、ペットボトルのミネラルウォーターを飲みはじめた。
「探偵さんも飲みますか?」
「探偵さんっていうのはちょっとやめてほしいんだけど」
「あっ、そうですよね、ごめんなさい。私、今夜謝ってばかりいますね」
ペットボトルを置いてから、再びベッドに戻ってきた京子のキャミソールと布切れのようなショーツ姿を目にして、私はどうにも理性が抑えきれなくなりそうだった。
その感情を静めるために、私は部屋の照明をさらに暗く落としてから、「じゃ、寝ようか」と言った。
すると京子は「もう寝るんですか?まだ十時半ですよ。私、目が覚めちゃった」と言うのであった。
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