第11話

 真鈴と会うのは有希子の葬儀の日以来であった。


 あの日、ふたりにとっては大切な場所となる京阪電鉄の京橋駅で落ち合って、有希子の死をすんなり受けとめられずにもがいていた私を、大阪城公園のベンチで慰めてくれた真鈴。


「泣きたいときは泣いて。私が辛いとき、私の涙をいっぱい見てくれたじゃない」と、生意気なことを言っていた真鈴は、順調に自分の夢を実現するために進んでいる。

 K大学への合格を勝ち取ったことは、彼女の夢を実現するための第一歩なのだ。


 真鈴と知り合ってからまもなく二年になる、早いものだ。


 二年前の真鈴は父の居所が分からず、母も精神的に参ってしまったことから宗教団体へ入り浸っていて、私の事務所の向かいの部屋で、ほぼひとりで生きていた。

 高校生としては寂しく辛い日々だったことだろう。


 でも今は違う。私が苦しく辛いときは励ましてくれるこころの余裕さえあるのだ。


 父が戻って来て、母を含めた平穏な暮らしが戻ることで、人間とはこんなにも気持ちが復活しゆとりが生まれるのである。


 人間の幸福は金で買えるものではないと、つくづく私は思う。

 いくら金が手元にあって物欲が満たされても、身内との確執や離散があってはこころの幸せは得られない。


 私は金融業を営んで破綻した経験があるが、そのとき有希子が離れずにいてくれたことが大きなこころの支えになった。


 ところが、その強大な支えを彼女の両親が引き裂いてしまったのだ。

 今さらながら有希子の両親を憎む気持ちが、ときどき心の奥底から唸りをあげて襲ってくる。


 そんなとき私は安曇野を覗いて、あのあっけらかんとした女将さんの顔を見て癒されたり、アルコールの力を借りてこころの平安を取り戻すのである。



 約束の午後五時を僅かだけ過ぎたころ、大阪環状線の天満駅の改札口から真鈴が出てきた。

 相変わらず気の強さを身体全身から振りまきながら、券売機の横で立っている私に近づいてきた。


「おまたせ~、何処に連れて行ってくれるの?」


「イタメシって言うから、とっておきの場所を予約しておいたよ。まだ時間が早いからちょっと歩こう」


 私たちは堺筋を渡って扇町公園に入った。遠くに見える大阪駅前のビル群の向こうには、まだ夕陽がビルの上層階のあたりで踏ん張っており、三月になってから急に日が長くなったような気がした。


「頑張ったな。尊敬するよ」


「何よ、尊敬だなんて。光一のおかげだよ」


「何で僕のおかげなんだ?」


「光一がお父さんを捜してくれなかったら、きっと私、大学なんて受けてなかったと思うから」


 真鈴はうしろ手を組みながら少し下を向き加減に歩き、自分の言葉に頷くような感じで言った。


 確かに、私が真鈴と知り合って、というか尾行中に捕まって、それがきっかけで父親捜しに奔走していなかったら、彼女は今ごろ何をしていただろうかと想像も出来ない。


 私が真鈴に捕まったことは、父捜しのオープニングと思っていたが、今思い起こせば、本当にそれはあらかじめ決められたシナリオに沿ってことが運んでいく実感があった。


「大学は法学部だろ、将来は何を目指すんだったかな?」


「うん、まだはっきりと決めていないけど、困っている人を助けたいから、そういう職業に就きたいと思ってるの」


「例えば?」


「そうね、弁護士とかになれたらいいけど」


「真鈴なら大丈夫だよ。先々、僕が困ったときには弁護してくれよな」


「何だよ、それ。光一が何か悪いことでもするって言うの?」


 そんな会話をしながら、曾根崎東の交差点で泉の広場に下り、ウメ地下を歩いた。いつの間にか私の右手は真鈴の左手に握られていた。


 予約していた阪急グランドビルの二十七階のパパミラノに入ったころには、案内された夜景が見渡せる窓際席から、大阪駅前ビルやマルビルの谷間に微かに沈む夕陽が見えた。

 月曜日の早い時間ということもあって、店内は空いていて、予約していたコース料理は手際よく運ばれてきた。


「光一、無理したね」


「何が?」 


「この店、大阪市内の夜景が見渡せるし、高いんでしょ」


 真鈴は赤ワインのグラスを手に、眼下に見える黄昏どきの大阪を見渡しながら言った。


「学生が金の心配なんかしなくていいの」


「まだ学生じゃないもん。浪人生なんだから」


「もう浪人生じゃないだろ。乾杯しよう、あらためて合格おめでとう!」


 私と真鈴は笑いながらワイングラスを鳴らした。


 金融業を営んでいたころに何度かスポンサーの接待でここを利用したことがあるが、そのころは資金を出してもらっている側だったので、夜景などしみじみと眺めるこころの余裕などなかった。


 だが、今はこうして気遣いしない女性と一緒に眺めてみると、一日の終わりにさえも何か達成感のようなものを感じるのであった。


「今夜、抱いてくれるんでしょ」


 店が勧めてくれた赤ワインを一本だけ空けて、コース料理を堪能し、二時間近くが経ったときに真鈴がいきなり言った。


「光一の部屋に行きたい。それもお祝いのうちに入れてくれるんでしょ?今夜は反論しないで」


 浪人生活のこの一年、真鈴は本当によく頑張ったと思う。

 私は躊躇なく「いいよ」と返事した。約束は果たさなければならない。


 大学に合格したら抱いてやるって、有希子の葬儀のあと会ったときに、大阪城公園で約束を交わしていたのを、私ははっきりと記憶に残していたのであった。

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