第8話
のぞみ号は遅れもなく、午後一時四十五分ごろに京都駅に到着した。
相手女性はホームに降りてから、依頼人の夫が座っている窓のところまで戻り、列車が発車するまで手を振っていた。
遠目からその様子をデジカメで確実に撮影する。
完璧である。
相手女性は新幹線乗り場から在来線乗り場へ歩き、東海道本線下りホームへ降りた。
私とA調査員は少しだけ離れて追尾するが、もうここまで来たら余程のことがない限り失敗はしない。
「まだこの時間なのに、あっさりと別れてしまうんですね」
A調査員が呟いた。
「嫁さんからどこに寄ってたのかって訊かれると困るからじゃないかな。学会の用事での出張なんだから」
日曜日の京都駅はこの時間でもかなり混みあっていて、下りのホームは観光客などで溢れていた。
相手女性は快速や新快速電車ではなく、間もなく到着した普通車に乗り、少し疲れた表情で席に座った。
私は同じ車両に乗って女性とは少し離れたドア付近に立ち、A調査員は相手女性を挟んで反対側のドア付近に立った。
車両内は混雑していなかったが空席はなく、吊革を持って立っている乗客が多いこともあって、女性がわれわれを警戒している様子は全く窺えない。
各駅に到着するたびに相手女性の動向を確認するが、目を閉じて眠っている様子で動きはない。
京都駅を出て二十分ほどが経ち、列車は摂津富田駅に到着した。
すると相手女性は思い出したように立ち上がり、急ぎ足で列車から降りた。
私もA調査員も慌てて追尾する。
ホームに降りると女性はホッとしたようにゆっくりと歩き、階段を上って通路を反対側に渡って下り、北側の改札口から出て行った。
私たちも少し距離を明けて彼女に続く。
誰かが迎えに来ている様子もなく、タクシーに乗るかと思ったが乗り場を素通りして駐輪場の方向へ歩いた。
ここからは自転車で帰るようである。
「チャリですよ。どうしますか?」
「壊せるような鍵の自転車がないかな?」
「今のチャリはみんな輪っかですからね。難しいですよ」
駅まで尾行したものの、被調査人がそこから自転車で走行するケースは稀にある。
その場合は、やむなく目に入った自転車のうち、旧式の鍵を使ったものがあれば足でその鍵を蹴って壊し、少しだけ拝借したりすることもある。
つまり器物破損強盗となるのだが、見失わないためには仕方がない。
あとで元に戻して、壊れてしまった鍵に千円札を挟んで帰ったりすることもある。
「仕方がないな、走るか」
「任せてください!」
A調査員は駐輪場から相手女性が出てくるのを確認してから、小さなリュックを背にして走り始めた。
私はショルダーバッグをタスキ掛けにして二人に続いた。
摂津富田駅の駐輪場を出てから百メートルほどは線路沿いを大阪方面へ走って右折し、イオンの通りを北上して国道百七十一号線に出た。
この時点ですでに私は息があがり、相手女性の自転車が遥か遠くになってしまったが、A調査員が走っているうしろ姿は女性からあまり離れていないところに見えた。
年齢と体力の差をヒシヒシと感じたが、そんなことを感じている余裕はない。
A調査員にあとは託した。
国道百七十一号線を渡って宮田町の住宅街を軽く走っていると、A調査員からスマホに電話が入った。
「判明しましたよ、来てください。住所は・・・」
「了解、すぐに向かうよ」
私は戦場の敗残兵のような気持ちで、と言ってもどんな気持ちか分からないが、ともかく自分の体力の無さにガックリしながら、メモをした住所地へ着いた。
そこは二階建の一戸建てで、周辺は住宅区である。
A調査員は角の電柱のあたりに立っていた。
「お疲れさん。すごいね、よく見失わなかったね」
「これくらい大丈夫ですよ。若いから」
ともかくこんな住宅街に、普段見かけない男がふたりも立っているのは不審に思われて通報されてしまうこともあり得る。
私たちは相手女性の住居全景と表札を何枚か撮影し、早々に引き揚げた。
表札には「加藤」と書かれていた。
摂津富田駅から大阪駅まで出て、そこでA調査員と別れた。
明日はこの土日の調査報告書を作成して、午後からはT社へ出向いて撮影した写真と動画をパソコンへ移管しないといけない。
「報告書は僕が書いて、昼過ぎにはメールに添付して送っておくよ。写真とかは午後からそっちへ行ってから取り出すことにする」
「分かりました。お疲れ様でした」
A調査員は大阪環状線の桜ノ宮駅近くにひとりで住んでいる。
お疲れの食事とビールを誘ってもよかったのだが、無理に走ったため足が少し痛かったし、事務所ではまだ律子さんがいてくれているだろうから、そのまま帰ることにしたのである。
大阪駅から地下街へ向かう途中で土産物売り場が目に入り、日比谷公園に置き忘れたショルダーバッグを拾って届けてくれた昨日の女性のことを思い出した。
北前京子という女性の勤務先へ、何か大阪名物のお菓子でも送っておこうと思い、私は数ある名物品の中から大阪をイメージするであろう「タコ焼きクッキー」と「面白い恋人」のみたらし味を選んだ。
ウメ地下を通って泉の広場から上がり、事務所に着いたのが午後四時半を過ぎていたが、部屋に入ると律子さんがソファーで寝そべって欠伸をしていた。
「あら、お帰りなさい。ソファーで寝ていてごめんなさい。急に帰って来るんだもの」
「いいよ、留守番を頼んでいたんだから。どこからも電話はなかったよね?」
「なかったですよ。それでお土産は?」
「尾行の調査だから、お土産なんて買う時間がなかったよ」
「な~んだ。でもそれは?」
律子さんは私が手に持っていたお土産袋を見て言った。
「これはね、東京でショルダーバッグを拾ってくれた人に送るものなんだよ。大阪駅で買ったんだ」
「な~んだ、律子のことなんて気にしてくれていないんですね」
律子さんは不機嫌そうに言い、「じゃ、帰ります」と言って帰り支度をはじめた。
土日連勤してもらったのにちょっと悪かったかなと思って、「じゃあ安曇野に行くか」と私は誘った。
「うん、そうしよう。嬉しい~」
私はショルダーバッグと土産袋を事務所に置き、オーバーに喜ぶ律子さんを連れて外に出た。
土曜日の安曇野は、普段はサラリーマン客が多いことや、まだ午後五時過ぎということもあって私たちが最初の客だった。
「あら、土曜日に珍しいわね。律っちゃんも一緒なんて」と女将さんが少し驚いた様子で言った。
「昨日今日と東京出張で、さっき帰ってきたんですよ。律っちゃんが留守番をしてくれたんです。それでお礼に食事に寄りました」
律子さんは最初の生ビールをほぼ一気に飲んで、「岡田さんは私なんか全然気にしてくれないんですね。東京のお土産を期待してたんですけど、今日はガックリだわ」と、いつものとおり丁寧語とため口を混ぜて言った。
そしてこの日の夜は疲れもあってか、安曇野で思わず飲みすぎてしまい、真鈴へ連絡する約束を忘れてしまったのであった。
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