第5話

 律子さんの問いかけに私は、「どこって、今は有楽町の辺りにいるけど、どうしたの?何かあったのかな?」と逆に訊いた。


「実はさっき警察から電話があって、岡田さんのショルダーバッグが交番に届いているって言うんです」


「えっ?」


 私は自分の右肩に何も引っ掛けていないことに気づいて「あ~っ!」と思わず大きな声をあげてしまい、律子さんは「大丈夫ですか!」とスマホの向こう側で叫び、A調査員も「どないしましたん?」と驚いてこちらを見た。


「ショルダーが無い」


「あっ、ホントですね、どこに忘れたんですか?」


「分からないけど、誰かが交番に届けてくれているらしい」


 スマホの向こうで律子さんがモシモシモシモシと叫ぶ、「ゴメン、それでどこの交番?」と、私はようやく我に返り律子さんに訊いた。


「内幸町交番って言ってました。今さっき届けられたそうですよ。すぐに行ってみて!」


 律子さんは相変わらず丁寧語とため口を交えて私に命令口調で言った。


「分かった、すぐ行くよ。ありがとう」


 電話を切って、A調査員に日比谷公園の新橋側の角にある交番にショルダーバッグが届けられているらしいから、今すぐ取りに行くと伝えた。


「大丈夫ですよ。本人たちはライブが終わるまで出てくることはないでしょうから、行ってきてください」


「まったく恥ずかしい限りだけど、ちょっと頼むね」


 私は日比谷通りを急ぎ足で戻りながら、いったいどこでどのタイミングでショルダーバッグを忘れてしまったのか考えた。


 おそらく依頼人の夫が日比谷公園に入ったのを確認し、最初に私が腰をおろしたベンチに置き忘れたと思われた。

 目の前に日比谷公会堂があるあたりである。


 そのあと夫が公園内の大きな花壇に移動した際、少し慌ててあとを追ったのでベンチに忘れてしまったに違いなかった。


 内幸町交番に着いて氏名を述べると、ちょうど拾得してくれた若い女性が関係書類に記入しているところで、警察官が「拾得ホヤホヤのショルダーバッグですよ。良い人に拾ってもらってよかったですね」と言った。


 バッグの中には一眼レフのデジカメと着替えの下着、そして名刺と免許証などが入った小さなケースを入れていただけで、財布やクレジットカードやスマホは常にスーツのポケットに携行している。

 だから、もし失くしたとしても致命的なことにはならなかったが、いずれにしても拾得後すぐに届けてくれたことには感謝しなければならない。


「拾われた北前さんという方です」


 少し年配のもうひとりの警察官が、机の前に座って記入を終えた女性を指して言った。

 女性は濃紺のリクルートスーツ姿で、まだ二十代前半に見えた。


「岡田と言います。どうもありがとうございます。ショルダーをベンチに置き忘れたようで、まったく気がつきませんでした」


「いえ、私の職場がすぐそこなのですよ。営業から戻って来て、日比谷公園を横切って出ようとしたら、ベンチにこのバッグが置かれていたものですから、すぐにこちらに届けました。

 中にお名刺が入っていたので、大阪の事務所に警察の方から連絡してもらったのです。よかった、すぐに落とし主の方がお見えになって」


 北前さんは若いのにしっかりとした丁寧な口調で言った。

 営業職に就いているから、このような対応には慣れているのだろう。


 受け取ったショルダーバッグの中に入れていた小さなケースから免許証を取り出し、ふたりの警察官に免許証の写真と私とが一致していることを確認してもらい、そのあと拾得物受領書にサインをした。


「では私はこれで失礼します。社に戻ります」と北前さんは言った。


「すみません、もし差支えがなければお名刺をいただけませんか。大切なものを拾っていただいて、何もお礼をしない訳にはいきません。大阪に帰ったら、何か名物でも送らせてください」


 交番から出ようとする彼女を引き留めて、手を顔の前で拝むようにしながら私は言った。


「いえ、偶然気づいただけですから、お気になさらないでください」


「そんなわけにはいきません。たいしたお礼は勿論できませんが、このままでは私の気がすみません」


 年配の警察官が、「名刺だけでもお渡しになられたらいかがですか」と助言してくれ、北前さんは「分かりました」と言い、スーツの内ポケットからグレーの名刺入れを取り出して、一枚を私に手渡してくれた。


 そして彼女は「失礼します」と丁寧に腰を折って交番を出て行った。


 北前京子との出会いは、私の迂闊なショルダーバッグのベンチへの置き忘れがきっかけであった。


 この時もまだ、彼女との先々の再会や東京への移転のきっかけになろうとは、まったく空想すらしなかった。

 人生とは何が縁で移り変わっていくものか分からない。


 帝国劇場の方へ戻ると、A調査員が退屈そうに張り込んでいた。

 そしてこの二時間ほどあとに、一気に出てくる大勢の客の中から依頼人の夫と相手女性を確認しなければならないのだ。


 私はもう三月だというのに、武者震いのように身体を震わせた。

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