第2話 異世界での日々、そして迎える舞踏会

 まだ太陽も昇っていない夜明け前、スッと目が覚めた。悪い夢を見ていたとか、寝付きが悪かったとかではなく、本当に自然に心地良く目が開いた。


 ぼんやりと薄暗い部屋の中、目が慣れてくるとひとまずホッとした。もし、目が覚めて元の世界に戻っていたらと思うと不安だった。それでも見えてきたのは広い部屋とフカフカのベッドだったから。


 しばらくベッドの上に座り、体が完全に目覚めてきた頃、音が鳴らないようにして自室を出た。


 自室と書庫の間にあったバルコニーへ出るための通路を通り、ここでも細心の注意を払って、静かに外開きになっている大きなガラスを押すと心地よい風が足下を通っていく。


 外に出ると空は綺麗な濃い青色をしていて、丁度ブルーアワーと言われる空。


 昔から不思議と朝の空は見ていると心を落ち着けてくれる。まだ誰も動き出していない時間の空を独り占めし、少しずつ、でも刻々と姿を変えていく空はいくら見ていても飽きない。


 その後、太陽が昇り、空が完全に水色に変わるまでバルコニーで過ごした。


 自室に戻ると薄暗かった室内はすっかりと明るくなっていた。きっとフレッドが部屋に訪れるまで時間はあるだろう。それでも二度寝をするのは勿体ない気がして、壁に向かって設置されている机に向かった。


 机上には羽ペンやインクが綺麗に並べられ、引き出しを開けてみると便箋やらノート、細々とした文房具が綺麗に整頓されて入っている。


 なにをするわけでもなく、座っている。日本にいた頃は暇さえあればスマホで動画を見ていたけど、こんな風に何もせずに座っていることが贅沢な時間のような気がしてくる。 


 しばらくして、外から馬車の音も聞こえるようになってきた頃、部屋を控えめにノックする音が響いた。ドアを開いたフレッドは私がベッドではなく、机にいたことに驚いたような表情を一瞬、見せたがすぐに笑顔を見せる。


「おはようございます。今日はお早いお目覚めですね」

「おはよう。二度寝するのが勿体ないような気がして起きてたの」

「そうだったんですね。下ではすでに朝食の支度は整っていますよ。お着替えを済ませたら食堂にお一人で向かわれることは出来ますか?」

「うん、大丈夫だよ」

「では着替えはこちらに置いておきます。私は先に向かって紅茶の準備をしているので、お着替えができ次第、食堂にお越し下さい」

「うん、わかった」


 昨日と同じワインレッドの制服に腕を通す。やっぱりこのスカート丈にはまだ慣れないけど、いつか慣れたら良いな。


 着ていた服を畳んでベッドの上に置いておくと、食堂に向かった。


 今日は昨日と違い、八人掛けのテーブルには二人分の朝食が用意されていた。どうやら昨日の朝、私がお願いしていたからフレッドは先に食べずに待っていてくれたらしい。


「さぁどうぞ、席について下さい」

「ありがとう。私のお願いを聞いてくれて」

「良いんですよ。私も実のところを言うと、一人で朝食を食べるより、昨日アンリ様とアフタヌーンティをご一緒したときの方が楽しかったので。あっ、今言ったことは他の者には秘密ですよ?」

「ふふ、うん!じゃあ、いただきます」


 二人で向かい合って食べる朝食は美味しい上に、楽しかった。それに、昨日に比べてフレッドと打ち解けたのではないかと思うと嬉しい。


 学園前に馬車を停めてもらうと、門の前にはクイニー、ミンスくん、ザックくんが立っていた。


 辺りの人達は通り過ぎるたびに一度は振り向いて三人のことを見ている。そりゃあそうだ。顔面偏差値が高い三人がああして並んでいるのだから。


 ミンスくんはザックくんに絡んでいるようだけど、クイニーとはガッツリ目が合っているし、あれは私待ちと言うことで合っているのだろうか。


「では本日もこちらまでお迎えに参りますね」

「うん、ありがとう」


 そう言ってフレッドに笑いかけている間にもクイニーからの視線が背中に刺さっている気がする。


 うん、あれは完全に私待ちだ。


 早歩きで三人の元まで行くと第一声はそれぞれ全く違った。


「遅い」

「アンリちゃん、今日も可愛い~」

「おはようございます」


 クイニーの言ってきたことは無視するとして、とりあえず「おはよう」と返す。ミンスくんに関してはあなたの方が何倍も可愛いです、と思いながら。


「私のこと待ってたの?」

「そうだよ~」

「アンリ様が帰った後、ミンスが明日の待ち合わせしていないと騒ぎ出したので」

「だってこの学校大きいから、約束してなかったら見つけるの大変じゃん」

「ここに居れば、待ち伏せ出来るかと思いまして」

「そっか、ありがとう。待っててくれて」


 高校までなら自分の所属するクラスがあって、決められた教室があった。でもここでは授業ごとに教室が変わる上にクラスという枠組みもない。向こうの世界でならスマホを使えばすぐに連絡がついて便利だったけど、この世界では約束をしっかりとしていないと待ち合わせすら一苦労だろう。


「ほら、立ち話は良いからいくぞ」

「あぁそうだな」

「アンリちゃん、行こ~」


 私たちは自然と前にクイニーとザックくん、後ろに私とミンスくんの二列になって歩いていた。ミンスくんはずっと私の腕にくっついて歩いているけど、その姿が子犬のようで振り払うなんて事、絶対に出来ない。


 昨日も思ったけどやはりこの学園、広い。これは、どこに何の部屋があるのか、覚えるのに相当な時間がかかりそう。


 そんな風に思っているにもかかわらず、前を歩く二人は迷う素振りすら見せずにスタスタとどこかへ歩いて行く。


「二人はよく道を覚えてるね。こんなに広いのに」


 そう言うと共感するように腕にくっついたミンスくんが頷く。


「だよね!僕もすごいなって思う」

「なんかすぐに迷子になっちゃいそうだよね」

「今日もし、一人だったらと思うと怖かった~」

「だよね。私もみんなが待っててくれて良かった」

「でもね、ザックがいれば絶対に大丈夫だよ」


 二人でそんな風に盛り上がっていると、前からは呆れたような溜息が聞こえてくる。


「ミンスは昔からそんなことばっかり言ってるから、すぐに迷子になるんだぞ」

「だって~、道を覚えるのって苦手なんだもん」

「アンリだって同じだからな」

「私は方向音痴なの。だから仕方ない、仕方ない」

「仕方なくない。はぁ、よりによってすぐに迷子になる二人が同じ科だなんて」

「ほんとだな。って事は今までと違ってミンスは私に付いてくることは出来ないと言うことか」

「えぇ、無理無理」

「無理って言ったって仕方ないだろう。別の科なんだから」

「え~、じゃあさ…」

「私はいちいちミンスを教室に送ってから、自分の教室に向かうなんて勘弁だからな」

「もう、なんで言おうと思ったことが分かったの」

「ミンスの考えてることなんてすぐに分かる」

「まぁせいぜい二人で頑張るんだな」


 そう言うクイニーはどこか面白そうに言う。


「アンリちゃん、どうしよう。僕たちやっていけるのかなぁ」

「うーん、なんとかなるんじゃないかな。それにほら、一人ではないんだし」

「確かに!アンリちゃんがいてくれれば怖くないや。なんだか僕、やっていける気がする」

「はぁ、どうなることやら…」


 二人は私たちを呆れたような目で見てくる。が、まぁきっとどうにかなるだろう。森に放たれた訳でもないし、聞こうと思えば教員や上級生に聞くことだって出来るんだし。


 今日はどちらの科も午前中は何かしらの授業に出席しないといけないことが分かり、次は昼休憩の時間に中央広場の噴水前に集合することになった。


 そして二人と別れてすぐ、私たちはいきなり迷い始めていた。


「うーん、僕はこっちだと思うな~」

「じゃあそっちに行ってみよう」


 そんな適当な勘で私たちが向かった方向は、目的地とは真逆だったことが分かり急いで正しい方向に向かった。想像以上に私たちの方向音痴はひどいのかもしれない。


 時間ギリギリに目的の教室に付くと、昨日見た顔がすでにほとんど揃っていた。私たちは一番前の席に座ることにするが、男女問わず、何人かに見られているような気がする。


 数分もするとチャイムが鳴り響き、先生らしき人が前の扉から入ってくる。私はミンスくんと話していた顔を前に向けると口がぽかーんとしてしまう。


 前に立っている先生は綺麗な茶髪に青い瞳、私のお母様だった。


 ん?一体どうなっているの?なんでここに?お母様なんて一番前に座る私に笑いかけているし…。


「…ちゃん、アンリちゃんってば」

「え?あっごめん。どうしたの?」

「あの先生ってアンリちゃんの」

「うん…」

「やっぱり、そうだよね」

「ミンスくんは私のお母様のことを知っていたの?」

「うん。前に社交の場でオーリン伯爵の側に居たのを見ていたから。こうして改めて見ると、本当に綺麗な方だよね」


 そうして私の動揺をよそに前に立つお母様、いや先生は話を始める。


「みなさん、初めまして。私はギフトという授業を担当するオーリンです。みなさんの中にはこの授業について疑問を持っている方が多いと思います。そこの窓側の一番前の方、ギフトと言われて想像するのはなんでしょうか」

「贈り物、でしょうか」

「そうです。そこでみなさんが贈り物と聞いて想像するのは、誕生日やイベントで貰うプレゼントだと思います。ですが贈り物には目に見えないものも含まれています。例えば相手を思いやる気持ちです。この授業ではそんな”思い”についてこれからの未来を担うみなさんに学んでもらいたいと思います」


 お母さんが説明する授業内容はいまいち掴めない。目に見ることが出来ない”思い”について学ぶだなんて。


 周りの人が今の説明でどんな風に感じているのか分からない。なんせ身分社会なのだから。この中にはクイニーのように下の人を良く思っていない人だってある程度いるだろう。


 でもだからこそ、この授業は大切なのかもしれない、とも思う。


「まず初めの授業では祈りについてお話しします。祈りと言っても宗教ではありません。誰しも自分の願望のままに、こうなって欲しいと思うことはあると思います。そういった願望や祈りというのは周りをも変える力を持っているんです。ただ、自分の欲望のままに何かを願っても良くない影響につながる可能性もあります。それでも誰かを想った祈りというのは、環境や相手、未来さえも変える力を持っているのです」


 その後もお母様の講義はチャイムが鳴るまで続いた。お母様の一言一言には私たちに何かを訴えるような強さがあるように感じて、余計なことを考えている余裕はなかった。


 講義が終わるとそれぞれが教室を去って行く中、私はお母様の元に向かった。後ろにはミンスくんも付いてきている。


 さっきまで真剣だったその顔は、私が近づくことに気がつくと、パッと笑顔に変わった。それが無邪気な少女のようで、母親だというのに可愛いと思ったのは秘密。


「アンリ、どうだった?私の授業、ビックリした?」

「うん。まさかお母様が授業をするなんて思ってなかった」

「じゃあ作戦成功ね」

「作戦?」

「お父様とね、アンリをビックリさせようって話して秘密にしていたのよ」

「お父様と?」

「えぇ、お父様はここの学園の理事長なのよ」

「えぇ!!」


 まさかお母様が授業を持っているだけでなく、お父様がこの大学の理事長だったなんて…。どうりで今朝も朝早くに二人で馬車に乗って出かけていた訳か…。


「あら、そちらの子はアンリのお友達かしら」


 そう言ってお母様は私の後ろに立つミンスくんに視線を向けている。


「うん、ミンスくんって言うの」

「ミンス・シェパードです」

「シェパード子爵のお家の子ね。アンリをよろしくね」

「はい。僕では頼りないかもしれませんが、他にしっかり者の二人もいますので、ご心配無用です」

「あらあら、それは頼もしいわね。ぜひ今度、そのお友達も一緒に遊びに来てね」

「はい、ありがとうございます」


 さすがの二人はあっという間に打ち解けてしまった。私たちと会話するときはユルく、のんびりして可愛げの塊のミンスくんはさすが貴族と言うこともあって、お母様を前にすると紳士の顔を見せた。…と言っても可愛げもかなり残っているのだけど。


「あら?二人は次の時間は何も入っていないの?」

「あっ、次も確か入ってます」

「それなら急いだ方が良いわ」

「じゃあお母様、またね」

「気をつけるのよ」


 そして私たちは廊下を全力疾走し次の教室まで向かった。私たちが椅子に着いたタイミングで先生が入ってきて、私たちは無事に授業を受けることが出来た。


 二限は一番前の席ではなく、後ろの方に座っていたため先生が自己紹介をしている間、私たちはこっそりとお喋りをして授業について教えてもらった。


「この学園の授業って不思議な授業が多いの?」

「ううん。数学とか理科、歴史とか色々と授業らしいものもあるんだよ〜。さっきの授業みたいなのはいくつかあるんだけど、それはどんな科でも必修なの」

「いくつかって事は他にもあるの?」

「うん。確か観覧って言う授業は貴族階級の必修だったと思うよ」

「へー、そうなんだ」

「僕たちは必修の授業と科の授業に出れば良いんだよ」

「ちなみに私たちの科ってなんだっけ」

「忘れちゃったの?」

「あはは、うん」

「僕たちはアドバンスレベルだよ」

「アドバンス…、って事は上級クラスって事?」

「うん、一応そうなってるよ。でも、下のエントリーレベルは労働者階級くらいだし、ベーシックレベルは両方の階級が混ざってるらしいよ~」

「じゃあ勉強はそこまで難しくないかな」


 さすがに日本とでは歴史も数学もかなり変わってくることが多いだろう。あまり難しいところに入れられていると、困る。


「うん、大丈夫だと思うよ。それに僕たちがアドバンスレベルでも、それよりも難しい科が一つあるからね」

「そうなの?」

「ほら、僕たちの科は大抵の科目を広く浅く学ぶって感じでしょ?だけどその科は一つの学問を究めていくの。その中でも一番難しいって言われているのが数学科だよ」

「数学…」

「ほら、ザックとクイニーが入ってる科だよ」

「え!」

「アンリちゃん、声大きい」

「ごめん」


 授業中だと言うことも忘れて驚いてしまった。幸いこちらを気にしている人はいないからセーフ。


 ただ、あの二人がそんなに頭が良かったなんて知らなかった。まぁザックくんは頭が良さそうだけど、クイニーが勉強できる側の人間だったなんて…。


 私が驚いている間に前に立っていた先生は自己紹介と授業についての軽い説明を終えていたようで、今日はガイダンスのみで終えると言って教室を出て行った。


 ちなみに何も聞いていなかったのは言うまでもない。


 2限目が終わると長い休憩時間が始まるため、一気に教室内は騒がしくなった。


 私たちは朝の約束通り、中央広場の噴水前に向かうことにした。二人であっちではないか、こっちではないかと言いながら歩いていると、いつの間にか二限の授業が終わる時間になったらしく、廊下も騒がしくなっていた。


 なんとか無事に約束の中央広場に到着できた。中央広場は本館の建物に囲まれるような形で出来ている。今の時間はちょうど日陰になっていて、ベンチや丸い机が置かれているため、ある程度人もいる。


 そこで過ごす女学生達はチラチラと噴水の方を見ているのが分かる。


 それでも見られている本人達は何も気にしていないのか、話し込んでいた。昨日も二人はかなり話し込んでいたし、ソリが合うのだろう。


「ねぇねぇアンリちゃん」

「ん?なに?」

「さっき思ったんだけど、アンリちゃんのお母様ってすごい優しい人だったね」

「うん、私もそう思う。優しくて温かい」

「アンリちゃんが優しいのはお母様譲りなのかもしれないね。あっ、でもオーリン伯爵も優しい方だから、アンリちゃんは二人の優しい部分をたくさん受け継いだんだね」

「ありがとう」


 そんな風に言われるととても嬉しかったから、私は自然と笑顔になっていた。


 噴水の前で立つ二人の元に向かうと、とりあえず私たちがたどり着けたことに安心したのか、ザックくんは眼鏡の奥の瞳を細めた。


「ちゃんとたどり着けたようで良かった」

「ほらね、僕たち二人でも大丈夫だって言ったでしょ~」


 そうミンスくんが堂々と言うと、横やりが入ってくる。


「でも一限と二限の間の時間、全力疾走してただろ。あれって迷ってたからじゃねぇの」

「見てたの?」

「見てたというより、二人が俺たちの教室前を駆けていったんだろ」

「確かに走ったけど、でも違うもん。別に迷ってたわけじゃないもん」

「さぁどうだかな」

「まぁまぁ、良いじゃないか。二人ともこうして、ここまでたどり着けたわけだし」


 そんなこんなで私たちの昼休憩が始まった。噴水前に集まった私たちは特にお腹も空いていなかったため、カフェテリアやラウンジという場所には行かず、このままここで過ごすことにした。


 ちなみにラウンジは貴族階級だけが出入りが許されている最上階にあるらしい。そして事前に申請すれば貸し切りにすることも可能だとか…。


「お疲れ様です、アンリ様」


 その後、午後の予定が済んだ頃、お迎えに来てくれた馬車に乗ってお屋敷へと帰った。フレッドとともに屋敷に入るとなんだか甘い匂いが漂っている気がする。香水とかの匂いではなく、焼きたてのお菓子のような…。


「良い匂いがするね」

「今、キッチンではシーズさんとルエさんが舞踏会で提供する軽食の試作をしているようですよ」

「そうなんだ。舞踏会って軽食も出すんだね」

「えぇ、さすがにずっと踊っているとお腹が空きますからね。このホールは当日、踊る場として使いますが、隣の温室では軽食を取ったり、ゆっくりと会話を楽しむことが出来るように開放する予定です」

「私もダンスの練習、頑張らないとだね」

「そうですね。では一度、お部屋でお着替えをしてから練習と言うことにしましょうか。練習が終わりましたら、昨日同様にアフタヌーンティと言うことで」

「うん!」


 私は急いで自室に戻るとベッドの上に用意されていたワンピースに着替えてダンスの練習部屋に向かった。すでにフレッドは中にいて、蓄音機の調整をしていた。


「お待たせ」

「早かったですね。では、そうですね…今日は昨日の動きを一度確認して、その後に音楽を流してみましょうか」

「昨日の今日で音楽に合わせられるかな」

「大丈夫です。とりあえずは足のみ練習していきますから」

「分かった」

「では一度目は、昨日と同じように私の言うテンポに合わせて下さいね」

「うん」

「ではいきますね。ワン、ツー、スリー、ワン、ツー、スリー…」


 流れるように動いていくフレッドに合わせ、私もタイミングを合わせながら動いていく。


 昨日は一歩一歩考えながら動いていたから体もガチガチになっていたけど、一晩経ったからなのか今日は昨日の練習を頭が覚えていてくれて、時々分からなくなることもあるけど、それでもかなり自然に動かせている気がする。


 鏡越しにフレッドと目が合うと、カウントをしながらも笑いかけてくれる。


「昨日よりも自然と動けていましたし、良かったと思いますよ」

「ほんと?」

「えぇ、これなら音楽を流してテンポが少し速くなったとしても大丈夫だと思います」

「そっかぁ。良かった」

「では音楽を流してみましょうか。音楽を流したときのカウントはワン、ツー、スリーと少しペースアップします。初めは出来なくて構いませんので、やってみましょうか」

「うん」


 グランドピアノの側に置かれている蓄音機にフレッドが向かい、音楽を流すと私の横に戻ってきてワン、ツー、スリーと足を動かし始めた。私もそれを真似しようとしたが、音楽なしでやっていた練習に比べると明らかにテンポが速い。どうしても何テンポも遅れてしまう。


 踊り終わった頃には、私の立ち位置はフレッドとかなりズレていた。


 さっきまである程度出来るようになって浮かれていた気持ちはすっかり萎んでしまっていた。


「そんなに落ち込まなくて大丈夫ですよ」

「でも…」

「今初めてやったのですから、出来なくて当たり前ですよ。それに遅れたとしても次に足をどう動かすのか、しっかりと覚えていたじゃないですか。きっと練習すれば大丈夫です」

「ありがとう」


 その日の練習を終えると、フレッドには自室で待っているように言われていたけど、私は強引に食堂までついて行く。


 フレッドの後ろについて厨房に入ると厨房内では言われていたコックコートを着た二人が動き回っていた。


 シーズさんがフレッドの存在に気がつくと、その次に私にも気がつく。


「フレッドさんにお嬢様。どうなさいましたか」

「私はアフタヌーンティ用に紅茶を入れに来たのですが、アンリ様は厨房にどうしても来たかったようです」


 邪魔になるかもしれない。それは分かっていた。それでも初めて会ったあの日以降、彼とどうしても話してみたかったのだ。


「あの…、ルエさんとお話ししてみたくて」

「ルエとですか?」

「やっぱり迷惑でしたか?」

「いえいえ、そんなことは」


 そう言って微笑むとシーズさんは優しく「ルエ」と呼ぶ。呼ばれた本人は振り向くと、どうしたら良いのか分からないといった表情をしていた。


「お嬢様がお話ししたいそうだ。行っておいで」

「でも仕事は…」

「今はパンが焼けるのを待っているところだったろう?少し休憩しておいで」

「はい…」


 小さな声で頷くと恐る恐るといった感じで近づいてくる。フレッドはそんな様子を見ていると、お湯を沸かして紅茶が出来るまで時間がかかるから、それまで隣の部屋で話してると良いと言ってくれた。


 そんな言葉に甘えるように普段はメイドさんやフレッドが食事を取っているテーブルに座る。席は向かい合う形ではなく、横に座った。ルエはずっと自分の拳を見つめている。


「あの…、一体何のご用でしょうか…」

「えっとね、これと言って用事があったわけじゃないんだけど、お話ししてみたかったの」

「僕なんかで良いんですか…」

「ルエさんだからだよ。あのね、あなたが作ってくれたパン、今まで食べた中で一番美味しかったの。あとスコーンも美味しかった!」

「ほんとですか」

「うん!今まであんまりパンの美味しさが分からなかったんだけど、ルエさんが焼いてくれたパンは甘くて優しい味だった」

「嬉しいです、そう言ってもらえて」


 そうして初めてちゃんとルエの顔を見れたような気がした。照れたように頬を染めて、口の端を少し上げて笑う顔は可愛らしかった。


「ルエさんって綺麗な瞳しているんだね」

「そんなじっくり見ないで下さいよ…。あとルエって呼び捨てで良いです」

「ほんと?じゃあこれからはルエって呼ぶ!ねぇ、またこうしてお話ししに来ても良い?」

「…はい。僕なんかで良いなら」

「やったぁ」


 こうしてルエと初めてお話しすることが出来た。きっとまだ警戒されているだろうけど、ゆっくりお話しできるようになったら良いなと思う。


 それからの毎日は学園に通いながら、お屋敷に帰ってダンスの練習をするという日を繰り返した。初めて音楽を流した時は全くついていくことが出来なかったテンポにもようやく慣れてきたと思う。


 今日は舞踏会前日で学校も授業がないためお休み。今日はフレッドに無理を言って午前中からずっと練習に付き合ってもらっていた。


「今回はかなり良かったと思いますよ」

「だよね。私も今回は間違えずに出来たと思うんだ」

「では次はちょっと内容の仕方を変えてみましょうか」

「練習の内容?今から?」

「はい。本番の舞踏会は今までのようの一人で踊るわけではないですから。本来、一緒に踊るパートナーがいて、その方と踊るものです」

「あっ、そっか」


 今までずっとこうして練習してきたからすっかり忘れていたけど、私は誰かと一緒に踊らないといけなかった。…でも今からの練習で明日の本番に間に合うのだろうか…。


 そんな心配に気がついたのか、フレッドは私に笑いかけてくれる。


「心配はいりませんよ。一緒に踊るからと言って何か特別な動作が増えるわけではありません。口で説明するより実際にやった方が早いですね。ではまずこうして向かい合うように立ちます。このときお互いの距離が三歩ほどです」


 そう言って私の目の前に移動してくる。三歩分の距離があるとは言え、かなり近い。


「右手は手を繋ぐようにして肩より少し上に上げます。左手はお互い残しに添えるようにします。やってみますか?」

「うん」


 フレッドは優しく私の右手を握ると、もう一方の手は遠慮気味に腰に触れている。それがなんだかくすぐったいし、さっきよりもかなり近い距離で少しでも動いたら体がくっついてしまいそう。


 不思議と心臓の鼓動が早くなっている気がする。


 私も恐る恐る腰に手を当てるとフレッドはおかしそうに笑っている。


「アンリ様、ガチガチですよ。緊張しているのですか?」

「そりゃあ緊張するよ。私、こうやって男の子と触れたことないし」

「そうだったんですね。ではまずリラックスして下さい」

「リラックスなんて出来ないよ。ねぇ、踊るときもこの距離なんだよね?」

「はい、そうですよ」

「もし足を踏んじゃったらどうしよう」

「ふふ、心配なさらなくて大丈夫ですよ。アンリ様は最近踊り始めましたが、基本的に貴族の方は幼い頃から練習してきています。ですからきっとアンリ様の相手をする方もリードして下さると思います。それに練習で私の足を踏む分には全く問題はないですから」

「ダメだよ。絶対に踏まないもん。フレッドが私のせいで怪我をしたら嫌だ」

「アンリ様はお優しいですね。さぁ、練習の続きをしましょうか」


 そして舞踏会当日の朝、私はいつものようにまだ日が昇っていない時間に目覚め、静かに自室を抜け出すとバルコニーに来ていた。あの最初の日以降、ここで朝焼けを見るのがすっかり日課のようになっていた。


 今の空は淡い紫色から少しずつピンク色にグラデーションになっている。


 そんな空を見ていると後ろからガチャリと音がする。振り向くと身支度をすでに終えたフレッドが立っていた。


「おはようございます」

「おはよう。えっと…、どうしたの?」

「いえ、特に理由があったわけではありません。ただ毎朝のように眺められている景色を私も見たくなったんです」

「私が毎朝ここにいたこと、知ってたんだ」

「はい」


 そんな会話を境に自然と私たちの間の音は消えていった。ただ二人とも空を見つめ、ピンク色からオレンジ色へと変化しているのを眺める。


 一番眩しく見える瞬間を過ぎると、空の上の方は淡い水色になってきている。


 空全体の変化が落ち着き始めた頃、それまで無言だった空間にようやく声が響く。


「アンリ様は、緊張していますか?」

「ううん。なぜか落ち着いてるの」


 ここ数日は毎日緊張していた。昨日の夜なんてホットミルクを用意してもらって、それでようやく眠れたくらい。


 それなのに、今朝起きるとそれまで胸の中で渦巻いていた緊張が嘘のように消えていた。今はどちらかと言うと、私の心は澄んでいると思う。


「そうですか。良かったです」


 そう言っているフレッドの声がどこか震えている気がする。不思議に思って訪ねようとするが、その必要もなく自分から教えてくれる。


「不思議なんです。今朝から私の方が緊張してしまって」

「緊張?」

「はい。あっ、別にアンリ様が失敗しないか不安で緊張しているというわけではありませんよ。ただ、なんでしょうね。私にも分からないんです」

「フレッドでもそんな風に緊張する事ってあるんだね」

「ダメですね。私がこんなのでは」


 そう言いながら頭をかいて苦笑いするフレッドが自分を責めているように見えて、少し苦しくなった。だからなのか、気がつくと私はフレッドの手を握っていた。


 その手は昨日握ったときは温かかったのに、すっかり冷え切って、微かに震えている。


 私の突然の行動に驚いたフレッドは目を見開いている。


「大丈夫、大丈夫」

「アンリ様?」

「フレッドに私の元気をあげる。ね?だから、私が踊ってるところ、ちゃんと見ててね」

「…ありがとうございます。もちろん、ちゃんと見ていますよ」

「フレッドが見てくれてたら、私頑張れる」

「ふふ、昨日は私と手を握ってあんなにも緊張していたのに、今は自分からそんな風に手を握ってくるなんて。不思議です」

「確かに、不思議だね」


 フレッドの震えて冷たかった手は段々と温かさを取り戻してくれた。


 その後、お屋敷では夕方からの舞踏会に向けて総出で準備が進められていた。


 キッチンではシーズさんとルエを中心に様々な料理が作られ、執事長であるジーヤさんを中心にフレッドやメイドさん達がメイン会場であるホールと温室の準備を進めている。床は綺麗に磨かれ、装飾の上にも一切の埃がない。お母様とお父様は招待客の確認をすると言って、部屋に戻ってしまった。


 昼過ぎになると大きな楽器を持った人達が到着した。フレッドの話では舞踏会は大抵、生演奏で行なわれるらしい。

 

 その人達へ挨拶を済ませると、何か出来ることはないかと屋敷中を歩き回った。だが、どこに顔を出しても「夜に向けて今は休んで下さい」と言われてしまった。そのため今朝からずっと、暇。


 この一週間、お屋敷で過ごしていて分かったのは、このお屋敷にいる人はみんな優しいと言うこと。


 お父様とお母様、フレッドはもちろんのこと。ジーヤさんやディルベーネさんも話してみると心優しい人だった。


 あの日以降、ルエやシーズさんのいる厨房にはよく顔を出すようになり、ルエは初めよりも日を追うごとに会話をしてくれるようになって、大抵コッソリと試作品を試食させてくれる。他のメイドさん達も、みんなとても優しかった。


 だからこそ、なにも手伝っていないと罪悪感が出てきてしまうのだけど…。


 ひとまず、何かやることが欲しくてダンスの練習をすることにした。


 いつもは二人の練習部屋に今日は一人。それでも昨日の練習を思い出して一人で踊った。この一週間、かなり練習してきた。だから目をつぶればフレッドの姿が浮かんでくる。


 何度か練習した頃、コンコンとノックをする音が響いた。


「はーい」

「お嬢様、今よろしいですか?」


 そうひょっこりと現れたのは、さっきまでフレッドと温室の準備を進めていたメイドさんの一人だった。


「そろそろお嬢様の身支度を整えたいのですが、まだ取り込み中でしょうか」

「いえ、もう平気よ」

「ではすでに他のメイドがドレスルームで待機しているので、いきましょうか」

「分かった」


 そのままメイドさんと部屋を出ると、ダンス練習部屋からほど近い部屋に案内された。室内にはたくさんのドレスが綺麗に並べられ、奥の化粧台では見たこともないような数の化粧品が並べられていた。


 室内にはすでに二人のメイドさんが待機していて、すっかり準備万端の様子。


「ではお着替えの前に、お化粧をしてしまいましょう。お嬢様、こちらに座って下さい」


 言われるがままに椅子に座ると、すでに担当を決めていたのか、一人がメイク、もう一人がヘアセット、そしてここまで私を案内したメイドさんが二人の介助をするらしい。


「あの、私今まで化粧なんてしたことがないんだけど大丈夫?」

「お嬢様は肌がとても綺麗ですからね」

「本当に、羨ましいです」

「えぇ、このお肌なら厚化粧よりも、あえて薄めの化粧にして瞳のブルーを際立たせた方が良いんじゃないかしら」

「そうね、そうしましょう」

「…全てお任せで、お願い」


 三人の手によって、私はどんどん変身していく。顔には今まで塗ったことがないクリームやパウダー類が載せられていき、普段とは違った色味がついてくる。


 そして髪は綺麗に二つの三つ編みが作られ、それを逆側にそれぞれ持っていき、たくさんのピンで留められる。いつもはそのまま下ろしっぱなしの髪が上げられているからか、首元がスースーしている。そして、しっかりと髪を固定するとドライフラワーが丁寧に付けられていく。


 三人は本当に手際が良く、あっという間に完成した。鏡に映る私は別人で、不思議と胸が高鳴った。


「次はドレスを着ましょう」

「それって私一人で着るの?」

「いえいえ、そんなご冗談を」

「ドレスを一人で着るなんて、いくら何でも難しいですよ」

「私たちが着付けをしますので、ご安心下さい」


 そう言って私を立たせると、それまで着ていたものを手際よく脱がせ、されるがまま状態でドレスが着せられていった。


「出来ましたよ」

「まぁ、とっても素敵!」


 私が着たのはフリル生地で膝丈ほどのドレス。本来はくるぶしまで隠れてしまうほどのドレスが一般的らしいが、メイドさん達は舞踏会で初めて踊る私を気遣い、ドレスの裾で足がもつれないようにと、この丈のものを選んでくれたらしい。


 そんな気遣いが嬉しくて、少しくすぐったくも感じた。


 そんなドレスは私が動くたび少し遅れてなびき、それがまた可愛い。肩口もふんわりとしていて、ウエストは普通の服よりも締め付けられている感じはあっても、着ていられないほどではない。


 初めはどうなるんだろうかと思っていた部分もあったが、三人に任せて正解だった。


「ありがとう。とっても素敵」

「いえいえ、こちらこそ。こんな風にお嬢様を変身させられて私たちも幸せです」


 三人にお礼を済ませると、私は早歩きでお屋敷中を回った。


 ホールに温室にキッチン、どこを見ても姿がない。キッチンに入ったときにルエに声をかけたが、分からないと言われてしまった。中庭にいるのかもしれないと思ったが、外を覗いても誰かがいるようには思えなかった。


 仕方ない、諦めよう。そう思って自室に向かう。そしてドアノブを握ったとき、ふと手を止めた。


 何となくバルコニーに向かうと、ガラス越しに背中が見える。


 私はなぜだか分からないが、静かに扉を開けた。それでも微かな音が聞こえていたようで、振り向いたフレッドは私を見ると驚いたように目を見張っている。


「とてもお似合いですね。素敵です」

「ありがとう」

「でも、なぜ少し息切れしているんです?」


 そう言って小さく笑っている。


 確かにおかしな話しだ。ドレスを着て、おめかしをして綺麗にしてもらったのに、早歩きとは言え、さっきまで屋敷中を歩き回っていたのだから、息は切れているし、足はもつれている。


「探していたの」

「それは、すいませんでした。何かご用でしたか?」

「用って言うか、一番に見て欲しかったから」

「私にですか?」

「うん。ほら、私ってこうしてドレスを着たり、お化粧したのも初めてだったから。それにこうして堂々と着ていられるのはフレッドのおかげだもん」

「私のおかげですか?」

「この一週間、色々と教えてくれたでしょう?だからこうして自信を持っていられる。だから着たばかりで、まだ着崩していない姿を見てもらおうと思ったんだけど…」

「ありがとうございます。その気持ち、とても嬉しいです」

「あっ、でもさっきルエと会ったから、フレッドが一番に見た相手じゃ無くなっちゃった」

「ふふ、ルエさんに負けてしまいましたか」

「だって、こんな所にいるとは思わないから」

「それはすいません。さぁ、早く手直しをしないといけませんよ。そろそろお客様方がお見えになりますし」

「わぁ大変。どうしよう、さすがにメイドさん達も準備に戻っちゃったよね」

「それくらいの手直しなら私がしましょうか?」

「本当?嬉しい」


 自室に戻り、フレッドの手によって元の綺麗な姿に戻った私はホールに行くために階段に向かった。


 階段上からでもすでに何人かの人が来ているのが分かり、老若男女様々な人が集まっているのが分かる。


 あの人達の前でこれから踊るのだと思うと、今になって心臓が嫌な音を立てる。


 ホールまで降りきると、一斉に私に注目が集まる。男子のなめ回すような視線や女子のつま先から頭のてっぺんまでチェックする目、そして少し歳のいった方からの品定めするような目。


 沢木暗璃の姿ならば、この後は笑われる、もしくは悪口が囁かれていただろう。それでも今の私に向けられているのは、息をのむ音や言葉を失った表情。ある程度、活気があったホール内は一瞬のうちに静まりかえった。


「あの、これは一体…」

「アンリ様、一度あちらに行きましょう」


 フレッドに連れられ、ホールの階段裏にある扉から食堂前の廊下に出た。ホールとつながった扉を閉める直前、静まりかえっていたホール内が一気に騒がしくなっていたが、ギリギリなにを話しているのかまでは聞き取れなかった。


 そのまま食堂に入ると、ルエが丁度焼き上がった食パンを運んでいるところで、私たちが入ってきたことに驚いたような、不思議そうな顔を向けた。


「どうしたんですか?」

「いえ、ちょっと避難を」

「避難?とりあえず何か紅茶でもお入れしましょうか?」

「いえ、ルエさんはお忙しいところでしょう。私が入れてきます」


 そう言ってフレッドはキッチンの方に入っていった。


「あの」

「うん、なに?」

「キッチンや隣の部屋のテーブルはすでに料理がたくさん置いてあるので、ここで調理をしようと思ったんですけど、良いですか?」

「うん、もちろん」


 私がそう言うとルエは手際よく食パンを切っていく。切るたびに甘いパンの香りが漂ってきて、その匂いがなんだか落ち着く。


 材料から見て、サンドイッチだろうか。


「それってこの間、食べさせてくれたサンドイッチにするの?」

「そうです。それと一緒にアンリ様の仰っていたフルーツサンドというものも作ってみようかと思います」


 と言うのも、数日前。キッチンに遊びに行くとルエが舞踏会用にサンドイッチの試作をしていた。その時に、味見をさせてもらい、ついでに好きな具材はあるかと聞かれ、食べたことはないがフルーツサンドが食べてみたいと話した。どうやらこの世界ではフルーツサンドと言われるものはなかったらしいが、説明すると何となく理解してくれたらしかった。


「わーい、楽しみ。後で無くなる前に食べに行くね」

「良ければ今、食べますか?」

「いいの?」

「折角のアンリ様からのリクエストですし。僕は一番に食べてもらいたいです」

「じゃあ食べる!」


 私が勢いよくそう言うと、今切っていた食パンを二枚、別のまな板の上に乗せる。


 テーブルの上には色々な食材が用意されていて、その中からボールに準備された生クリームとイチゴ、みかんのスライスを取ると食パンの上に大量の生クリームを乗せ、フルーツのスライスもたくさん乗せてくれた。その上に再び生クリームを乗せると、食パンで挟み綺麗に四等分に切る。するとあっという間にお店に並べられそうなレベルのフルーツサンドができあがった。


 まさか口頭でイメージを聞いて、ここまでのモノを作れるなんて…ルエは天才。


「すごい、私ずっと食べてみたかったんだ」

「それにしても、面白いサンドイッチですよね。よく思いつきましたね」


 その言葉には笑い返すことしか出来なかった。いくら、日本であんなに流行っていても、そんなこと口には出来ない。


 ルエはできあがったそれをお皿に載せて私の前に置いてくれた。丁度そのタイミングで紅茶のセットを持ったフレッドも戻って来る。


「二人も一緒に食べようよ」

「え?でも僕なんかが…」

「えぇ、ご一緒しましょう。ルエさんも時間があるようなら、ご一緒にどうです?」


 そうやってフレッドが言ってくれたおかげで、渋々という感じもあったがルエも一緒に食べることになった。


 フレッドは私が一人でご飯を食べることが好きじゃないと言うことを分かっているから、初めの頃は戸惑っている様子もあったけど、最近は快く受け入れてくれるようになった。


 そうして三人でお茶やサンドイッチを楽しんでいると、いつの間にか舞踏会の開催の時間になっていた。


 ルエに感謝を伝え、食堂を後にすると目の前のホールにつながった扉を開いた。


 さっきよりもかなり人が集まっているようで、フレッドの後を歩いて階段前まで向かうとお母様とお父様が誰かと楽しげに話していた。その相手は後ろを向いていて顔は見えないが、赤い髪をしている。


「あら、アンリ。来たわね。そのドレス、とっても素敵よ」

「丁度良かった。そろそろ始めるからな」

「アンリのダンス、楽しみにしているわ」


 そこまで言われてようやく気がついた。そういえば、私って一体誰と踊るんだろう、と。もしも全く知らない人と踊ることになっていたら、どうしよう。


「お父様、私が一緒に踊る相手って…」

「あぁ、言っていなかったか。クイニーくんだよ」

「え!」


 そうして今まで背を向けていた赤髪の人が振り返ると予想通りクイニーだった。


 でもまさか、一緒に踊る相手がクイニーだったなんて。彼からも一切そんな話はされていなかった。


 そんな彼はと言うと今日は燕尾服に身を包み、髪もまとめ落ち着いた雰囲気だった。それでも私のあまりの驚き具合に眉をひそめている。


「何か不満か?」

「不満とかじゃなくて、予想外って言うか…。でもクイニーが相手って言うなら気楽かも」

「それ、どういう意味だ」

「別に悪い意味じゃないよ」


 そんな風に言葉を交わしていると、お父様は私たちの背中にトンと触れた後、来客に向けて話を始めた。


 いつの間にか、私の横にいたはずのフレッドは居ない。


「本日は当家の舞踏会にお越しいただきありがとうございます。今宵はコンサバトリーにてキッチン自慢の軽食もご用意しております。時間が許す限り、ぜひお楽しみ下さい。そして今宵のファーストダンスは娘のアンリが社交界デビューを兼ねまして、ソアラ伯爵のご子息、クイニーくんと披露致します」


 お父様によって挨拶が行なわれる中、辺りには聞こえないほどの大きさで「行くぞ」と声がかけられ私はホールの中心に向かっていた。私たちが歩いていくと、自然と周りにいた人達は避け、ホールの中心には円状の空間が出来た。


 先ほどフレッドにされた話ではお父様のお話が終わり次第、演奏者さん達のカウントによって演奏が始まり、それに私たちは合わせて踊り始めれば良いそう。


 やることは今までの練習と同じ。そう何度も言い聞かせるが、どうしても視界の端にドレスや燕尾服を身にまとった人が入ってきてしまう。


 落ち着け、落ち着け。私なら大丈夫。


 そう深呼吸するが、心臓がドクドクと変な音を立ててくる。そして一度、気になってしまえば色々な不安が浮かび上がってきてしまう。


 もし失敗なんてしてしまったらどうしよう。大勢の前で転んだり、頭が真っ白になってしまったら…?


 次から次に溢れ出す不安によって、それまで笑顔を心がけていた頬がピクピクと震え出す。一度目をつぶってみる。どうにかして、この緊張をなくさないと。


 不安とともに焦りがわいてきたとき、正面から小さな、けれどはっきりとした声が聞こえてくる。


「アンリ、堂々と踊れ。俺がアンリに会わせるから」


 そんな声に落としていた瞼を開くと普段はあまり笑っている姿を見せないクイニーが微笑んでいた。


 そんな表情を見ると、不思議とそれまでの緊張や焦りはどこかに薄らいでいった。


「うん、わかった。ありがとう」


 そう言ったのと同時にカウントが始まり、それに合わせ演奏も始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る