伯爵令嬢になった世界では、大切な人に囲まれ毎日が輝く
月乃くも
第1話 伯爵令嬢になった世界では初めてだらけ
「…様。アンリ様。お目覚めの時間ですよ」
どこからか誰かが呼んでいる。低すぎず、だからといって高すぎない丁度良いボイスのそれは私を再び眠りに誘う。
「アンリ様」
…?誰?さっきから私の名前を呼び続けている人は一体…。しかも私のことをアンリ様だなんて。
その人は私の名前を未だに呼び続けている。
本当はもうしばらく眠りたいという気持ちも頭の中にあるが、仕方なく目を開く。すると一瞬のうちに頭の中が真っ白になった。
目の前には人間離れしたような男が立っている。顔のパーツは一つ一つが整い、服装はアニメで言う執事が必ず着ているイメージの黒い衣装。そして黒に青が混ざったようなブルーブラックの髪色をし、その髪が寝癖なのか所々跳ねているにもかかわらず、それが様になっていて可愛らしくも見える。
しかも私がいるのは知らない部屋の知らないベッドの上。自分の部屋の四倍以上の広さはあって、ベッドは大きくて、しかも雲の上なのではと疑ってしまうほどフカフカしている。
「アンリ様、おはようございます。朝食の支度はすでに出来ております」
「…」
一体どうなっているのだろう。私は昨日の夜は自分の部屋の使い古して薄くなってしまった布団で眠りについたはず。それなのに何があって、こんな状況になっているのだろう。
「…君は誰?」
そう口にすると目の前に立ったブルーブラックの彼は驚いたように目を見開く。そしてほんの少し微笑んだあと、ゆったりとした口調で口を開く。
「なんのご冗談を。フレッドでございます。フレッド・バノフィーです」
「フレッド…?」
まるで当たり前のことを言うように話されても、やはり何かを掴めるわけでもない。
しかも今、彼の名乗った名前は明らかに日本人ではないだろう。おそらく外国…?
「ごめんなさい。私、あなたが思っているアンリという人ではないと思うんですけど…」
「何をおっしゃるのですか。アンリ様はアンリ様ですよ」
「でも、あなたのことも知らないし、この家だって私の家じゃないし…」
「…失礼ですがアンリ様、ご自分のお名前をフルネームで仰ることはできますか?」
そう聞くフレッドという人は、さっきまでの優しげな顔ではなく、心配そうな顔を向けてくる。
今の質問には私も答えられる。十八年間、ずっと名乗ってきた名。名前からして暗いイメージしか与えないそれは、私自身あまり好きではないのだけど。
「沢木暗璃(さわき あんり)です」
「沢木暗璃?申し訳ありません、アンリ様に口答えするのは気が引けるのですが、アンリ様の名はアンリ・オーリンです」
「アンリ・オーリン…?」
そんな名前、一度も聞いたことがない。一体どうなっているのだろう。ただでさえ朝は頭が回らないのに、余計に混乱してくる。
「記憶喪失…ですか?」
深刻そうにそう告げるものだから慌てて「違います!」と私には似合わない勢いで反論してしまう。
「だって私、ちゃんと自分のこと分かります。沢木暗璃、十八歳。大学に通っていて、モブのような特徴のない目鼻立ちで、友達もいないから輝いた人生なんかじゃなくて…」
なんて一気に告げる。自分にとっては好きでない部分ばかりだけど、他には私を説明する言葉なんて出てこなかったから仕方ない。
「そんな、そんな風にご自分を卑下なさらないでください。それにアンリ様が特徴のない目鼻立ちなんて滅相もありません。アンリ様は整った目鼻立ち、そしてこの辺りの地域では珍しい何色にも染められない長い黒髪。全てアンリ様しかお持ちになられていない特別なモノです」
…ん?何か話が噛み合わない。確かに私の髪は黒いけど、長髪ではなく肩に付くか付かないかのショートヘア。それに目だって一重で怖い印象だとよく言われていたし、顔だって日本人らしく平たい。
確かに髪の毛が布団の上に置かれた手に触れているような気もしてきたけど…。
まさか、こんなことがあり得るのか分からないけど、私が思っている姿とは違う姿が見えている?
「あの、鏡ってありますか?」
「手鏡でよろしいでしょうか」
「はい」
「それならばこちらの引き出しに入っています。…どうぞ、こちらになります」
受け取った手鏡はどう見ても高価な見た目。その中に写っている人を見ると、何となく想像は付いていたが、やはり別人が写っていた。
確かに目は二重でパッチリとしているし、癖毛で直すのが大変なはずの髪は綺麗なストレート。そして何より肌は白いし、視線を鏡から移して体を見ると全体的に細い。腕なんて気をつけないと簡単に折れてしまいそう。
「…可愛い」
「ですから申したではないですか」
「やっぱりこれ、私なんですか」
「そうですよ。…やはり先ほどから様子が変ですが大丈夫ですか?まさか体調がよろしくないとか」
「いえ、元気です。そうじゃなくておかしいんです」
「おかしいというのは」
「私は本来こんなに可愛い顔ではないですし、それに家だってもっと質素で狭いお部屋なんです」
「と言われましても…」
「そもそもこの顔立ち、日本人…ではないですよね」
「日本人?それは何です?」
本当に不思議そうな顔を向けてくるから私も戸惑ってしまう。だって日本は色々な面で案外メジャーな国だと思うから。
「日本を知らないんですか?」
「はい、申し訳ありません。おそらく周辺国ではありませんし、やはり聞いたことはありません」
「ここは一体…」
「ここはフェマリー国のジャンミリー領でございます」
フェマリー国…。なんて聞いたことがない。
もしかして、いや、まさかなのだけど異世界…?信じがたいことでも、そうやって言われれば私の見た目が変わっている理由や聞いたこともない国にいることも納得できそう…。
ただそれが本当なのかも分からないから、ひとまずはこの現状を説明して、色々な情報を聞き出す必要がある気がする。
「あの、今から言うことを信じてもらえますか?」
「もちろんでございます」
「すごい嘘みたいな話ですよ?」
「大丈夫です。私はアンリ様に仕えている身です。私がアンリ様の仰ることを信じないなんてあり得ません」
そうは言うけど、さっきは信じてもらえなかったような…。なんていうのは置いておくことにしよう。
「なんて言ったら良いのか分からないんですけど、多分私、異世界から来たんだと思うんです」
「異世界…ですか。それは先ほど仰られていた日本という?」
「はい。私はそこで沢木暗璃として過ごしていたはずなんです。そこでの私の見た目は今とは違っていますし、アンリ様だなんて言われるような人でもありませんでした。…信じないですよね」
「確かに信じがたい話ではありますが…、信じますよ。そう説明されれば先ほどからのご様子の説明が付きます」
「えっ、そんな簡単に信じてしまうんですか?」
確かに信じて欲しいとは思っていたけど、正直簡単には信じてもらえないだろうと思っていた。最悪の場合、理解を得られずに笑われ、説得することに苦労を要するだろうと思っていたのに。なんだか拍子抜けしてしまう。
「では私から、アンリ様に一つ。アンリ様は元の世界に戻りたいですか?」
そう聞かれると思い出すのは、灰色のような世界で過ごす日々。
友達がいない中で一人大学に通い、すれ違う男子からは揶揄われ、女子からは頭から足の先まで値踏みされ笑われる日々。家に帰ったところで私を慕ってくれるような姉妹がいたわけでも、優しくて愛情を注いでくれる家族がいたわけでもない。
「どうしても帰りたいわけではないです。…特に楽しい生活ではなかったので」
「それなら問題は何もないですね」
「まぁ確かに…。でもだからって、すぐに信じて良いんですか?」
「ここで信じなければ何も話が進みません。延々にお互いに違うと言い続けていても良いことはないでしょう?それに、前に本で異世界からの訪問者が過去にいたという言い伝えを読んだことがあります。ですから、もしかしたらありえることなのかもしれません」
そんな風に言われると一気に心を覆っていたモヤは薄くなる。確かにお互いに否定するより、受け入れて、それでどうしようかを考える方が断然良い。
それにあんなに苦しくて辛い世界から、何も知らない世界に来られたことを喜ぶべきだったのかもしれない。
「あの、色々と聞きたいんですけどフレッドさんは一体…」
「私はアンリ様のお世話をメインにしている執事でございます」
「執事…。本当にいるんだ」
「本来、使用人というのは担当ごとに細かく名前が付けられているんです。ですがオーリン家の使用人は少ないので、自分の担当という区分けがほとんどないんです。ですから執事やメイドといった簡単な言い方をしています」
「なるほど」
「ただ私は先ほども申し上げたとおり、アンリ様のお世話をメインとしているので、基本的にアンリ様と行動を共にしています」
「じゃあ、えっと私は?」
「アンリ様はオーリン伯爵のご令嬢です」
フレッドさんの話によると私はオーリンという伯爵家の一人娘で、オーリン家はジャンミリー領を治める二つの名家のうちの一つらしい。
そして屋敷には両親と執事、メイドやシェフが計10人以上が住んでいる。私からしたら大人数だが、普通の貴族の屋敷に比べるとかなり少数派らしい。
「申し訳ありません、アンリ様。色々とお話をしたいのは山々なのですが、本日は学校の登校日でございます。あとのお話は後ほどでもよろしいでしょうか」
「はい。…えっ、私って学校行くんですか?」
「えぇ、本日から学園に通われる予定になっております。なにより本日は入学式なので欠席するわけには…」
そう聞くと不安になってくるが、だからといって困らせるわけにはいかない。
「では早速お召し物をお着替えにならないといけませんね」
「着る服はどこに…」
「本日のお召し物はこちらにございます。私は廊下で待って居ますので、お着替えがお済みになりましたら声をかけていただけますか?」
「分かりました…」
フレッドさんは私の返事を聞くと部屋を出て行くときに、律儀に「失礼します」とお辞儀をして出て行った。
渡された服を広げるとワインレッドの丈が膝上までしかないワンピース。しかもウエスト部分は絞られていて、飾りも凝っているから可愛いのだけど、自分が着るのだと思うと恥ずかしい。
だからといって着替えないわけにはいかないし、廊下ではフレッドさんも待っている。
「お待たせしました…」
そう言ってドアを開けるとフレッドさんは姿勢良く待っていた。
想像よりも服の着方が難しくてかなり手こずってしまった。
やはり改めて自分を見てみるとほとんど足は出ているし、体のラインがくっきりと分かってしまう。今の私が着ているから良いものの、もし沢木暗璃としての私が、この服を着ていたら何かの犯罪に当たるかもしれない。なんて思っても不思議ではない。
フレッドさんを見ると、ジッとこちらを見つめている。やはり変だったのだろうか。
「あの…やっぱり似合わないですか」
「あっ、申し訳ありません。つい想像していたよりお似合いだったので見つめてしまいました。さぁ朝食の準備は整っておりますので食堂に参りましょう」
そうフレッドさんは咳払いをすると、私の歩幅に合わせるようにして歩きだす。
どうやら私の部屋があるのは二階だったようで、大小様々な扉が並ぶ絨毯の敷かれた廊下を歩く。
まさか自分がこんなお屋敷を歩く日が来るなんて思ってもいなかった。それに慣れるまでは気をつけていないと家の中で迷子になってしまいそう。
そんな風に思いながら階段を降り、しばらく歩くと両開きの扉の前に着いた。フレッドさんに開けてもらい中に入ると、大きな机が部屋を占領するように置かれ、八脚の椅子が置かれている。部屋に置かれている全ての家財道具に彫刻が彫られ、見た目が美しい。
「どうぞ」
椅子を引いてくれたため、その席に大人しく座る。こんな風にエスコートして貰う事なんて無いからソワソワとしてしまう。
机の上にはすでに一人分のオムレツなどのおかずが載せられた丸い皿と数種類のパンが入れられたカゴが置かれている。フレッドさんは隣の部屋からポットとカップを乗せたワゴンを運んでくると、丁寧に注いで私の前に置いた。
「本日の紅茶はセイロンとアッサムをブレンドしています。コクがあるため、パンと相性が良く、香りも楽しめると思います」
「ありがとうございます。あの、フレッドさんは?」
「私はアンリ様のお食事が終わるまで、こちらで待機しております」
そう言って私の座っている後ろの壁にもたれることなく立っている。執事というのがどんな仕事なのか、いまいち分かってはいないが、まさか本当にずっと立っているだけなのだろうか。
それはそれで食べづらい気もするし、それにこんなに大きい机で一人で食べるなんてなんだか寂しい。
「どうかなさいましたか?」
「あの、まだ朝食を食べていなければ一緒に食べませんか?」
「私がですか?」
「あっ、もう食べちゃってましたか?」
「はい、申し訳ありません。我々は基本的にアンリ様やご主人様達が目覚める前の時間に済ませてしまうのです」
「そうですか…」
「何かご都合が悪かったですか?」
「都合…と言いますか、一緒に食べたいなと思いまして」
「一緒にですか?」
「なんだかこの部屋で一人で食べるのは気が引けるというか、寂しいというか」
「そうでしたか」
「迷惑じゃなかったらですけど、良かったら次の食事の時から一緒に食べてくれませんか?」
「ですが、私のような身で食事をご一緒するなんて申し訳ないと言いますか、それに紅茶を入れなければなりませんし」
「申し訳ないなんてそんな。私が一緒に食べたいだけなんです。だからそんな風に言わないで欲しいです」
「…そうですね。ではこういうのはどうでしょうか。本日のようにアンリ様がお一人でお食事を召し上がる際には、私もご一緒させていただきます。ですがご主人様や奥様がご一緒にお食事を取られるときには私は別でいただきます。いかがでしょうか」
「はい!それが良いです」
「かしこまりました。では、次回からはそのように準備いたします」
「ありがとうございます」
「いえいえ。さぁお召し上がり下さい」
「はい、いただきます」
お皿に綺麗に並べられたモノを食べるのは勿体ないような気がするけど、でもこの美味しそうな食事を目の前にして食べないなんて選択肢はとれない。
手のひらに収まる小さめのサイズのパンは、触れただけでフワフワしているのが分かって、パンの甘くて良い匂いがする。ほんのりと温かさを感じて心がホッコリとしてくる。
一口、口に入れると一気にパン本来の甘さが口中に広がる。
「美味しい!これ今まで食べてきたパンの中で一番美味しいです」
「そうですか。それは良かったです」
他のメニューも一つずつ味わって食べた。調味料に頼り切った料理ばかりを食べてきたから、逆に新鮮に感じたけど、全てが食材本来の美味しさを引き出した調理がされていて、優しい味わいだった。
日本では技術が進歩してロボットが料理をしたり、冷凍食品が充実していて、もちろんそれも美味しかったけど、やっぱり手間がかけられて作られたモノだと美味しさが違う。
それに最近は食が細くなって、あまり朝食を食べていなかったのに、それでも美味しくて難なく完食していた。
「それではそろそろお時間ですので、馬車の準備をしてきます。紅茶のおかわりを入れておきますので、こちらのお部屋でゆっくりとお待ちください」
「分かりました」
フレッドさんは空いたカップに湯気が漂う紅茶を注ぐと、食堂をあとにした。
これまで紅茶をストレートで飲むことはなかったけど、渋みが少なくてお砂糖を入れるよりも美味しかった。
…それにしても馬車ってあの馬車だろうか。馬が引いていて、遊園地のメリーゴーランドのようなあの…。
ただ、何もかも準備して貰っていると罪悪感も生まれてくる。せめて自分が使った食器くらいは自分で片付けたい。
おそらくフレッドさんがワゴンを持ってきた扉の先が厨房なんだと思う。そう予想を付けて、私が使ったお皿を一つにまとめると、その扉に向かう。
扉を開けると、この屋敷を見た中で一番質素な四人がけのテーブルが二セット置かれている。おそらくフレッドさん達が使うスペースだろうか。
そのテーブルの奥はキッチンへとつながっていて、中にはコックコートを身にまとった男性が二人とメイド服を着た女性が二人いる。メイドさんはとても若い。
私が入ってきたことに気がつくと、どこか慌てたような雰囲気が漂う。そして、そのうち一人のベテラン感が漂うコックコートの男性が近づいてくる。
「おはようございます、お嬢様。このような場所にどのようなご用件でしょうか」
「あっ、えっと自分の使ったお皿を洗おうと思いまして」
「そんな、そのようなことはお嬢様がされなくて良いのですよ。ほら、君たちこれを」
「はい、かしこまりました」
私の有無を聞く前に、お皿は一人のメイドさんの手に渡っていた。
「あの、私が食べたんですから自分で片付けますよ」
「いえいえ。これは私どもの仕事ですので、何も気になさらなくて大丈夫ですよ」
「そうですか…」
「お嬢様、本日のお料理はお口に合いましたか?」
「はい、すっごく美味しかったです。特にパンが好きです」
「そうですか。それは何よりです。本日のパンはあちらにいる新人のルエが担当したんです。お嬢様はルエと顔を合わせるのは初めてですよね」
そう言って紹介されたのはもう一人のコックコートを着て、ずっと後ろを向いていた男の子。振り向いてくれたその顔は、想像より幼くて多分私と同じくらいの歳。髪はふんわりとしたマッシュで、前髪がギリギリ目にかかるかどうか。目が合うと会釈してくれる。
「申し訳ありません。ルエは無口なものでして、基本的にキッチンからも出ないんです」
そんなシェフさんの話を聞いていると、後ろから足音が聞こえてくる。
「アンリ様はいらっしゃいますか?」
そう言いながら部屋に入ってきたのは馬車の準備をすると言って出て行ったフレッドさん。私を見つけると安心したような表情になる。
「良かった。こちらにいらしたんですね。馬車の準備が出来ましたので、そろそろ参りましょう」
「はい」
キッチンに居る人たちにお辞儀をして去る。
フレッドさんに着いて歩くと一段と広々としたスペースに出る。二階の私の部屋よりも広くて、さっきまで絨毯が敷かれていた床と違い、綺麗に磨かれた大理石調のフローリング。
こんなに広いスペースがあるにもかかわらず家具が置かれていなくて、二階に続く豪華な階段があるくらい。
「ここは…?」
「こちらはホールになります。舞踏会を行なったり、お客様が来客されたときに一番に目にされる部屋はこちらですので、特に手を入れておられます」
「へぇ、素敵ですね」
「気に入ってもらえて良かったです」
「そういえば、さっきの人は…」
「あぁ、先ほどアンリ様がお話しになっていたのはシーズさんです」
「シーズさん」
「はい、このお屋敷の料理は彼ともう一人、ルエさんが全て作っています。ルエさんは人見知りが強いですが、お二人とも良い方ですよ」
二人で屋敷の全員分を作っているなんて…。それにルエさんの人見知りには親近感を感じていた。
ホールからエントランスに出ると大きな二枚扉があり、フレッドさんが開けてくれる。
扉の先は眩しくて一瞬目をつぶってしまう。それでも目を開くと綺麗にタイルが詰められた道は門までつながっていて、玄関から数段の階段を降りた先に、二頭の馬がつながれた黒色の馬車が止めてある。
馬車に乗り込むとフレッドさんが馬車を運転してくれるらしく、前の席に座っている。フレッドさんが手綱を引くと、初めはゆっくりと、それから段々とスピードを上げて動き出す。
外の風景も日本とは大違いで、レンガ造りの建物が多かったり、オシャレな街灯が等間隔に並んでいる。どちらかと言えば19世紀頃のイギリスをイメージした方が良いかもしれない。周りを歩く人たちはみんなシャツを着ていたり、女性はドレスを着ている人が多い。
どれくらい揺られていたか。しばらくすると馬車はゆっくりと静止した。
フレッドさんに手を引かれて馬車を降りると、目の前に大きな校門がある。その先の敷地は広くて、一目では敷地の端から端を見れない。さっきまでいた屋敷の数倍の大きさの建物があり、その周りを囲うようにして作られた庭。校舎のはずの建物はまるでお城のような見た目。
「大っきい」
「ふふ、そうですね。なんたってここは、この国の中で一番広く、そして難関の学園ですから」
「そんなにすごい場所なんですね」
「えぇ」
「あっ、でも私、頭はそこまで良くないんですけど大丈夫でしょうか」
「それはご心配なさらなくて大丈夫です。実のところ、ここの学園では家柄が配慮されている部分が大きいんです」
「家柄?」
「はい、そうです。階級制度というのはご存じですか?」
「ごめんなさい、分からないです」
「では簡単にご説明しますと、この国では大きく分けて二つの階級が存在します。一つはワーキングクラスと呼ばれる労働者階級、そしてもう一つがアッパークラスと呼ばれる上流階級です。上流階級と呼ばれるのが貴族の方々です。そして貴族の方の中でも序列が存在します」
「序列?」
「はい、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という順番です。公爵の方は他の特別な学校に通われるので、他の貴族の方がこちらの学園に通われることになります。そして入学試験では学力試験等もございますが、侯爵から順に優先して入学が許可されるのです」
「じゃあその爵位さえあれば良いって事ですか?」
「大声では言えませんが、そういうことです」
つまり生まれた家で、ある程度進む道が決まってしまうと言うこと。だからどんなに頑張っても、爵位がなかったら報われないこともある…。
「おい」
フレッドさんと話していると、一段と低い声が後ろから聞こえてくる。その声に反応したようにフレッドさんは一段と背筋を伸ばして、どこか緊張したような表情になる。
声のした方を振り向くと、少し遠くに黒色のローブを羽織った赤い髪色の男が立っている。
優しげな雰囲気を醸し出すフレッドさんとは違って、少し怖い印象。
「あの人は誰ですか?」
「あの方はクイニー・ソアラ様です。伯爵家のご子息でアンリ様のお父様とともにジャンミリー領を治められているお家です」
「では私と彼は知り合いですか?」
「はい、そうです。お二人は幼馴染みに当たります。…アンリ様、私はアンリ様のご事情を理解しております」
「それは私が異世界から来たということですよね」
「はい、そうです。ですが、周りの者に同じように説明し、理解を求めるのは難しいと思われます」
「まぁそうですよね」
未だにフレッドさんがあんな風にあっさりと信じてくれたことが不思議で仕方ない。普通なら異世界から来たのかもしれないと言われたら、信じられるわけがないし、場合によっては怖がられてもおかしくないと思う。何より私自身、まだ信じられていないのだから。
「ですから、このことは私とアンリ様の秘密です。学校内では色々と難しい部分もあると思われますが、私もできる限りのサポートは致しますので、どうにか隠し通してください」
「はい、分かりました」
「では私はお屋敷に戻ります。お帰りの時間に合わせて、こちらにまた迎えに参りますね」
フレッドさんが乗ってきた馬車で屋敷への道を戻っていくと、丁度後ろから歩いてきていた少し怖い印象の彼が横に来た。
赤髪のクイニー・ソアラと言われていた彼は一重で目がつり上がっていて、そして私やフレッドさんよりも身長が高い。だから威圧感を感じてしまう。
「おい、アンリ。俺が呼んでいるのに無視するのか?」
「あっ、えっと…あの…」
なんて思い切り人見知りが発動してしまう。ただでさえ初対面の相手と話すのは緊張するのに、相手はなんだか怖いし…。
「ん?お前どうした。体調でも悪いのか?」
と不思議そうに顔を覗き込んでくる。
そうだ。私からしたら初対面でも彼からしたら幼馴染みに話しかけているわけで…。あまり変な人見知りをここで発動させるわけにはいかない。
「いえ、大丈夫です。ごめんなさい。ちょっと話をしていたんです」
「話?あいつと?」
「そうですけど…」
「気に入らねぇ」
「何がですか?フレッドさんは私にとって大切な人なんですけど」
「は?あいつはワーキングクラスだぞ?」
「だからなんですか?」
「俺らとは格が違うんだよ」
「格って…。そんなの関係ないでしょう?それにクイニーさんの家にも執事さんはいるでしょう?」
「いるが、だからって特別に話すわけがない。そんなことよりお前、なんだその敬語。しかもクイニーさんって言ったか?」
「言いましたけど、何か?」
「止めろ。こないだまで呼び捨てで、タメ口だったくせに、いきなりそんな風に話されたら気味が悪い」
「あっ、ごめん」
そうだった、危ない。ただただ人見知りを発動させないことだけを考えていたら敬語になっていた。
でもクイニーのことは苦手。フレッドさんは私がここに来て、色々と教わったり、良くして貰った人なのに馬鹿にされているようで良い気持ちはしなかった。
それでもこれ以上、話をぶり返しても仕方ないのだろう。おそらく、クイニーは自分の意見を曲げるのが嫌いなタイプの人間だろうから。
「ほら、いくぞ」
「うん」
スタスタと一歩先を歩くクイニーの後ろを付いていく。彼は後ろを振り向くことなく自分のペースで歩いて行く。
当然私には彼と別に行くという選択肢もあるが、迷子になることが目に見えている。知らない場所で、しかも私はかなりの方向音痴。それを分かっている上で馬鹿なことはしない。
敷地の門をくぐると、私と同じワインレッドのミニスカートのワンピースを着た女子と、クイニーと同じ黒いローブを着た男子達が大勢いる。どうやら、この服は制服のような物なのだろう。
「おい、見ろよ。あれ、オーリン伯爵のところのアンリ様だろ?」
「えっあの人が?噂には聞いていたが、噂以上ではないか」
「あぁ、お近づきになりたいものだな」
このときの私には、入学というソワソワ感に包まれて一段と賑やかになっているのだと思って、周りがそんな風に言っていたなんて想像もしていなかった。
その後、クイニーについて行くまま、入学式が行なわれる会場に着いた。多くの人が入っていく正面の扉ではなく、なぜか階段を上った。そして何度も目を疑った。
全学生が入ることが出来るほどの大講堂。そこはまるでヨーロッパのオペラハウスのよう。一階は椅子が綺麗に敷き詰められているが、周りの壁を百八十度、囲うように個室が付けられている。それが二階と三階にそれぞれある。
そして私はなぜかクイニーと二階の個室の一室にいた。
「あの、クイニー」
「ん?なんだ」
クイニーのその一言で、さっきの一件を特に気にしていないことが分かりホッとする。おそらく根に持たないタイプなんだろうか。
「どうして私たちは一階席じゃないの?」
「そんなことか。伯爵家の俺らがここに座らずに、どこに座るんだよ」
「だから一階に座れば良いじゃない」
「はぁ、お前には伯爵家っていう自覚はあるのか?」
そんな風に言われても、今日この世界にやって来て今まで階級制度なんて存在しない世界で生きてきた人間に言われても分からないと言いそうになるが、口をつぐむ。
「いいか、一階は主に子爵と男爵、それから後ろの方に座っているのがワーキングクラスの奴だ。そしてここのロイヤルボックスは伯爵と侯爵の家の奴が座る席だ」
「それ、わざわざ分ける必要あるの?」
「はぁ、めんどくせぇな。とりあえず当たり前のことなんだ。いちいち説明するようなことじゃない。金がなければパンや服は買えない、それと同じで当たり前なんだ」
「ふぅーん」
入学式はこんなにも豪華な場所でやっているから、何か特別なことでもあるのかと思っていたが何も特別なことはなく日本での入学式とほとんど変わらなかった。学園長の話があり、校内の説明、そして生徒会長からの話くらい。
そんな入学式だったから、階級制度を除けば異世界だからといって、あまり変わりはないのかもしれないと思って安心していた。
入学式後は、それぞれ教室に向かうことになる。その教室の分け方は、科ごとに分かれているようで案内された教室に入り適当な席に座るとすぐにスタッフの方が話を始めた。
ちなみにクイニーとは違う科だったらしく、自然と分かれて違う場所に向かった。
スタッフさんの話は様々な手続きや配布物、そして学園についての決まりが詳しく話された。そこで言われたことは主に三つ。一つは学園に通う一人として、そして貴族として家を背負っているという自覚を持つこと。二つ目は殺人や密売、法を犯すことはしないこと。
ここまではまぁ普通のこと。
でも疑問は最後の一つ。それは、上流階級の身分の者には特に制限区域はないが、労働者階級には最上階フロアと別館の立ち入りの禁止が言い渡された。なぜなのか疑問に思っても、おそらくクイニーの言っていた通り、この世界では当たり前の事なんだろう。
…私はもしかしたら天涯孤独の身なのかもしれない。なんて馬鹿げたことを考えたのは、全ての話が終わり、解散が言い渡されたあと。
スタッフさんが「ではお疲れ様でした」といって教室を出て行った。その途端、さっきまで静かに座っていたのが嘘のように周りはガヤガヤと賑やかになった。
初め教室に入ったとき、すでに何人かの学生が歓談していて元からの知り合いなのだろうと、あまり気にしていなかった。
そのはずが、今は私を含め数人以外は男女問わずに話している。
確かに私は今日、こっちの世界に来たというハンデはある。だからといってこの教室にいるほとんどの人が、元から知り合いが同じ講義室にいるなんてあり得るのだろうか。
いや、でもさっきから後ろから「初めまして」なんて挨拶している声も聞こえてくる…。
もしかして社交界で生きているとコミュニケーション能力が高いとか…?
何が何でも私が遅れていることは確かだ。きっとこのままでは異世界に来ても日本で過ごしていたときのように独りぼっちで過ごすことになってしまう。向こうに居たときは正直どうでも良かったが、せっかく異世界に来たのに何も変われないなんて嫌だ。
さっきから、どこからか視線は感じているがあまり良い視線には感じられない。それにもし、私が誰かに話しかけて話が合わなかったらどうしようと思うと不安だ。クイニーの時はなんとかなったが、それでも全員が全員そう上手くいくとは限らない。そう思うと中々動けないし、心臓が変な音を立てている。
「トントン、お嬢さん」
そう優しく肩を叩かれる。内心では心臓が飛び出してしまいそうだけど、顔には出さないように振り返る。そこには随分と可愛らしい男の子が立っていた。
「私…ですか?」
「はい。良かったら僕と少しお話ししませんか?」
「えっ、あの私なんかで良いのならぜひ」
「良かったです。僕はミンス・シェパードと言います」
「シェパードさん…」
「ミンスで良いですよ。あなたの名前もお伺いしても良いですか?」
ミンスさんの声は他の男子より高く、威圧感も与えることなく聞いていて安心できる。ミンスさんの髪は黄色で、マッシュヘアなのだろうか。目はクリクリとしていて、身長は私とほとんど同じため周りより幼く見える。
「アンリ・オーリンです」
「!!あなたがオーリン伯爵のところの…。噂には聞いていましたが、とっても可愛い方ですね」
「私を知っているんですか?」
「はい、ですが実際にお目にかかるのは初めてです。オーリン伯爵は社交界で有名な方ですが、不思議とご令嬢の方のお顔を見たことがある人がいなかったんです。だから色々と噂が飛んでいたんですけど」
「噂?」
「はい。髪は綺麗な黒で、その髪をより際立たせるようなブルーの瞳。そしてその瞳に捕まった男は、二度と引き返せないと」
「そんな噂がされていたんですか…」
「まぁ人というのは、話を盛ることが好きですから。例え真実が分からなくても、自分たちの都合で話を作り上げたいんですよ。噂もあってか、先ほどから周りの男達はアンリ様の話で持ちきりですよ」
「そうなんですか。気がつかなかったです」
「こうして話しかけている僕が言うのも変かもしれませんが、気をつけてくださいね」
「?はい」
そう言われても正直、何に気をつけたら良いのかなんて私には分からなかった。
「あの」
「なんですか?」
「アンリ様さえ良ければ敬語やめませんか?僕たち同い年なのに敬語で話していると違和感があるし、壁を感じちゃうから」
「うん、もちろん」
「ほんと?良かった~」
「じゃあミンスくんって呼んでも良い?」
「うん!じゃあ僕もアンリちゃんって呼んで良い?」
「うん、そっちの方が話しやすいよ」
「やったー。これからよろしくね、アンリちゃん」
「こちらこそよろしくね、ミンスくん」
こうして私はこの世界に来て初めての友達が出来たのだった。しかも、ミンスくんとは初めからあまり戸惑うことがなく、普通に話せていたと思う。
そうして私たちはしばらく世間話をした。お喋りが苦手な私でも、ミンスくんの愛嬌の良さからすぐに打ち解けることが出来た。
「あのね、一つ聞いても良い?」
「なぁに?」
「ミンスくんはどうして私なんかに話しかけてくれたの?」
「んー、なんだか前の席で一人、座っている背中が寂しそうで放って置けなかったんだよね」
「そうだったんだ」
「うん。でも話しかけて良かった!アンリちゃんと話していると、すっごく楽しいよ」
「ありがとう!私も楽しい」
「それなら良かった~」
「ミンスくんが一番初めに出来たお友達で良かった!」
「へへ、そんな風に言ってもらえると照れちゃう」
そんな風に言って頭をかくミンスくんはとても可愛らしくて、一瞬にして周りのチラチラとこちらの様子を眺めていた女の子達からうっとりしたような声が聞こえてきそう。
「あっ、そうだ!」
「どうしたの?」
「アンリちゃんってまだ時間大丈夫?」
「うん、お迎えが来てくれるまで時間はあるから大丈夫だよ」
フレッドさんがお迎えに来てくれるのは余裕を持った昼過ぎ。各部屋には時計があるから、時間を忘れる心配も無いだろう。
「良かった〜。あのね、アンリちゃんに紹介したい僕の幼馴染みがいるんだけど」
「幼馴染み?」
「うん、僕と性格は全然違うんだけど、でもきっと仲良くなれると思うんだ。どうかな」
「会ってみたい」
「ほんと?じゃあ早速会いに行こう」
これまでの私は友達の友達は、ただの他人という考えだった。それでも異世界に来て、一から始めるんだもん。私らしい行動を取らなくても良い、新しい自分になれるチャンスだ、なんて考えが大きかった。だからミンスくんの提案を嬉しく受け入れることが出来た。
それにミンスくんと仲良くなれたことで、少し自信が持てたのかもしれない。
ミンスくんとともに教室から廊下に出る。廊下にも学生達がいて、雰囲気だけを見れば高校の放課後みたい。
階段を上り一つ上の階に着くと、造りは下の階と同じ。そして階段のすぐ目の前の教室にミンスくんは入っていく。私も後ろについて入ると、ここでも友達の輪がすでに出来て数人ずつの塊が出来ている。
その中に一人、私よりも背が高く赤髪の見知った横顔があった。なんとミンスくんが入った教室はクイニーの科の教室だったらしい。
ミンスくんはスタスタとクイニーに向かって歩いて行く。
クイニーは誰かと話していたのにもかかわらず、私の存在に気がつくと一瞬眉を上げた。そんな不思議そうな顔で見られても、私だって驚いているところだ。
ミンスくんはやはりクイニーの元で止まった。でも、どうやら用事があるのはクイニーが話していた緑色の髪をした大人しそうな黒縁眼鏡の男の人だった。
「ザック、ちょっと良い?」
「ん?あぁミンスか。何?」
「あのね、僕に新しくできた友達を紹介したくて」
「本当にミンスはいつもいつも、わざわざ報告に来なくて良いんだぞ?」
「でもでも、アンリちゃんもザックに会ってみたいって言ってたもん」
その言葉とともにミンスくんがザックと呼んでいた人が私に向く。彼はクイニーとほとんど身長が変わらないくらいでミンスくんと並んでいると兄弟のようにも見える。
そして彼は何かに気がついたような顔をする。
「あなたはもしかして、オーリン伯爵のところの…?」
「あっはい、アンリ・オーリンです」
「やはりそうでしたか。私はザック・レジスと申します。ミンスの連れてきた方がまさかあなただったなんて」
「あなたも私のことをご存じだったんですね」
「えぇ、もちろんです」
やはり何かとオーリン家、そして令嬢である私の存在はこの世界では有名らしい。
「もぉ」
「どうした、ミンス」
「二人とも堅いよ。アンリちゃんは僕と話す時みたいにザックと話して良いんだよ?ザックも、ね?」
「ミンス、お前という奴は…。そもそも、オーリン様は伯爵家なんだぞ」
「あっ、良いんです。ミンスくんとはお互いに敬語を使わないと決めたので」
「そうでしたか…。オーリン様がそう言うなら、まぁ良いでしょう」
「えっとレジスさん、改めてよろしくお願いします」
「ザックで構いませんよ。こちらこそよろしくお願いします」
「じゃあ私のこともアンリで」
「分かりました。アンリ様」
「おい、談話中に悪いが、俺のこと忘れてねぇか?」
「悪い。すっかり忘れていた。アンリ様、こちらはクイニーです。口と性格はあまり良くありませんが、悪い奴ではありません」
「あっ、知ってます。一応、幼馴染みなので」
「俺とアンリの親は俺らがガキの頃から同じ領土を治めているんだ。お互いの事なんて、昔から知ってる」
「あぁ、そうだったな」
「お前、そんなことより俺のことを口と性格はあまり良くない、なんて言ったよな」
「いや、何のことだ?」
「とぼけるんじゃねぇ」
「はぁ、だって仕方ないだろう?本当のことなのだから」
「おい」
「ははは、クイニーが怒った~」
こうして異世界での生活初日にして、一気に友達と呼べる人が三人も出来てしまった。
なんやかんやありながら、四人でその後も話をしていると、一つ気になる会話があった。
「そういえば、一週間後ってオーリン伯爵の家で舞踏会あったよね~」
そんなミンスくんの一言から始まった。もちろん私はそんな予定を知るわけもなく、舞踏会自体なにをする場なのか知らない。ただ、舞踏会ってなに?なんて質問を出来るわけもなく、ただ話を合わせることに徹し、早く話題が変わることを祈り続けた。
とりあえず、あとでフレッドさんに聞いてみようと心に決めて…。
すっかり会話に夢中になっていて、一段落したときにはかなり時間が経っていた。時計を見るとフレッドさんとの約束を10分も過ぎてしまっていた。
「ごめん!私、帰らないと!」
「すっかり話し込んでいましたね」
「ごめんね、アンリちゃん。僕が夢中になってた」
「ううん、気にしないで。じゃあ、また明日ね」
私は三人に早口で別れを告げると、走って教室を出た。さっきまで賑わっていた廊下は、嘘のように静か。階段を急いで降りて、校舎を出ると外ではクラブの勧誘や体験が行なわれている。そんな中を走り抜けて校門まで向かう。
途中、全力疾走している私を不思議そうに周りは見ている様な気がしたが、そんなの気にしていられなかった。
約束の時間より15分過ぎて校門をくぐると、今朝と同じ場所に黒い馬車は停まっていて、フレッドさんが立っている。
「ごめんなさい!私すっかり話し込んじゃってて」
「構いませんよ。お気になさらずに、もうしばらくごゆっくりされていても良かったんですよ?」
「いえ、今日はもう大丈夫です」
「そうですか。ではお屋敷に戻りましょうか」
馬車に揺られ、今朝通った道を戻るように進んでいく。お昼過ぎだからか、街にある飲食店と思われるお店には人が集まり、自然豊かな公園には小さな子ども達が遊んでいるのが見える。
「あの、お願いがあるんですけど」
「お願いですか?なんでしょう」
「色々とこの世界のこととか聞きたくて」
「えぇ、構いませんよ。馬を厩舎に連れて行くので、少々お待ちください」
馬車が屋敷に到着し、フレッドさんが手を引いて馬車を下ろしてくれたタイミングでそう声をかけた。やはり、色々と聞くなら事情を知っているフレッドさんが一番良いと思ったから。
フレッドさんは嫌な顔一つせず、了承すると馬車に繋がれていた馬を厩舎に連れて行っている。その手つきは、やはり慣れているようで手際が良い。本当は手伝いたい気持ちはあるが、さすがに今は出来ることはないだろう。むしろ下手なことをしたら邪魔になってしまう。
「お待たせ致しました。ではそうですね、書庫でお話ししましょうか」
「書庫?」
玄関をフレッドさんが開けてくれて、ホールからあの装飾が凝らされた豪華な階段を上って二階に上がる。
外観を見て分かったことだが、このお屋敷はほぼ正方形の形をしている。二階は中心に階段があり、階段を囲うように部屋が配置されている。ただ、一つ一つの部屋が大きいため、一面ずつにある部屋の数は少なく見える。
どうやら書庫は私の部屋のバルコニーへ出るための通路を挟んだ横にあるらしく、二枚扉を開けて貰った先は、背の高い本棚がたくさん並べられている。
書庫と言えば暗いイメージを想像するが、ここは太陽の光をまとった温かい空間に感じる。
部屋の中には一人用から数人で利用できるものまで、いくつかテーブルが配置されている。私は言われるがままに中央に置かれた木製テーブルの椅子に腰をかけると、フレッドさんは正面の椅子に腰をかけた。
「それで、聞きたいことと言うのは…?」
「えっと、今日友達が出来たんです」
「そうですか。それは良かったですね」
そう言ってくれるフレッドさんは、まるで自分のことのように頬を緩め微笑んでくれる。
「それで、どうしても気になったことがあって」
「気になったこと、ですか」
「どうしてこの世界では身分、と言うか爵位なんてものが重要視されるんでしょうか」
「そうですね…。まずそれはいつ疑問に思いましたか?」
「クイニーには労働者階級の方を馬鹿にしている素振りがあって、それが当たり前だと言われました。他の友達は私は伯爵のご令嬢だから、と何かと気にしていたり…」
「なるほど。まず初めに申しますとフェマリー国ではクイニー様の仰ったとおり、それが普通という考えなんです。ワーキングクラスにとってアッパークラスは絶対の越えられない壁であり、そして逆らえない存在です。アッパークラスだったとしても今朝申した通りランクが存在します。ですから貴族様だとしても上下の差があるのです」
「じゃあ私は子爵や男爵よりは上、それでも公爵や侯爵よりは下って言うことですよね」
「そうです。ちなみに新しくできたお友達のお名前をお伺いしても良いですか?」
「ミンスくんとザックくんです。確かミンス・シェパードとザック・レジスです」
「私の記憶が正しければシェパード家とレジス家は共に子爵家です。ですから伯爵家であるアンリ様のことを敬っていたのだと思いますよ。特にレジス家はそういった規律を重んじる一族ですから」
「なんか変ですね。同じ人間のはずなのに、家で偉さ、のようなものが変わって、同い年でも上下関係があるなんて」
「アンリ様の居た場所ではそういったものは無かったんですね」
「はい。確かに年上の人には敬語を使いますけど、でも家柄で何かが決まるわけではありませんでした」
「やはりそうなんですね」
私たちが学生の間で敬語を使う相手と言えば、先生や先輩、それくらいだった。同い年で敬語を使っていると変な目で見られることもあった。
やっぱり日本とフェマリー国では根本的な考え方が変わってくる。そうなってくると文化やマナー、色々な事で弊害が生まれてきてしまうだろう。
「あの、良かったらこの世界のことを色々と教えて欲しいんです」
「そうですね。ある程度、こちらのことを知っていた方がこれからのことを考えると良いでしょうね。では、私からも一つ、交換条件と言うことでよろしいですか?」
「交換条件?」
「難しいことではありません。ただアンリ様が私に対して敬語を使わずに話すようにしてくだされば良いです」
「それならフレッドさんだって私に敬語を使わずに…」
「いいえ、そういうわけにはいきません。私はあくまでオーリン家に仕えている身です。この世界では先ほども言ったとおり身分が全てです」
「でも…」
「本来であれば、アンリ様が私に敬語を使うなんてあり得ないことなんです。もしも私と話している場面を目撃され、その際にアンリ様が敬語を使っていればオーリン家が馬鹿にされる、なんてことが起きるかもしれません。ですからご自分を守るためだと思って、これだけは分かってください」
「うん。わかった」
「では私のことは呼び捨てで構いませんので」
「…フレッド」
「はい」
本当はやっぱりおかしいと思う。それでもいくら言っても困らせるだけだろうし、まずそんな風な考え方になっているのは身分制度があるから。フレッドが悪いわけではない。
でも、いつかそんなことを気にせずに話すことが出来る未来が来れば良いのにと思う。
「ではこの世界についてお話ししますね。まずはどこから話したら良いのでしょうか。そうですね…、折角ですしフェマリー国の階級制度の起源をお話ししましょう。少々お待ちください」
椅子から立ち上がったフレッドは一直線に本棚に近づくと、迷う素振りも見せずに一段と分厚い本を抱えて戻ってくる。
机に本を広げると初めの方のページに一枚の絵が載せられている。それは見ていて気持ちが良いものではなく、泣いている人、叫んでいる人、血を流し倒れている人が描かれ、彼らを襲うように描かれたのは鎧を着た兵士だった。
「この国は昔、今のような身分制度はなく、誰もが自由に暮らしていたそうです。ですがある日、隣国の今は無き国から、フェマリー国を手中に入れようと兵士達が押し寄せました」
「それがこの絵…」
「国民達は無惨にも殺されていき、無抵抗の赤ん坊でさえ亡くなりました」
「戦わなかったの?」
「もちろんこの時代の我が国にも兵士と呼ばれる方がいたそうです。ですが、その年は天災に見舞われほとんどの兵士が各地に分散していました。そのため少数では戦うことが出来ず、国が滅びる寸前までいきました。そんな中、恐怖にも負けずに立ち上がった方がいたそうです。その方々は力で対抗するのではなく、あくまでこれ以上誰一人傷つかない方法を持って兵士を帰したそうです」
「傷つかない方法…?でも武器を持った相手にどうやって…」
「それは今でも分かっていないんです。一説ではこの時代には魔法が存在した、とあれば裏取引といった事が行なわれたのではと囁かれたこともあります。何せ、この時代の文書はほとんど残されていないんです」
「だからって魔法なんて…」
「それをアンリ様が言いますか?一応、アンリ様も異世界から来たんですよね?それはもう魔法と同じ、いえそれ以上の領域では?」
「あはは、確かに」
異世界から来た、そんな事実があれば魔法が存在したと言われてもおかしくないか。
「話を戻しますが、その方達はその後負傷者の看病や、街への支援も行なったそうです。そのおかげもあって、国の難を乗り越えたんです」
「じゃあその色々としていた人達が今の貴族の子孫って事?」
「そういうことです。その当時は助けられたお礼にと爵位制度を作ったそうですが、今の貴族の方でこのお話を知っている方は少ないです」
「なんか嫌な話だね。昔の人はただ助けたいと思っていただけで、見返りなんて求めていなかったはずなのに」
「歴史とは忘れられていくものです。それは仕方ないことなんですよ」
一瞬の沈黙が漂う。今の階級制度、身分制度をフレッドがどう思っているのかは分からない。それに私自身、まだ一面でしか見ていない。だから仕方ないと言われてしまえば、それ以上を勝手に決めつけることは出来ないような気がする。
「あっ!!」
「どうされましたか?」
「そういえばさっき言われたの。舞踏会があるとか…」
「はい、ございますよ。一週間後、ですかね」
「それって私も出席するの?」
「はい、そのように伺っております」
「無理無理!」
「何か問題がございますか?」
「問題…問題と言うより大問題だよ。もちろん私も舞踏会って言う名前自体は聞いたことはあるよ?けど何をやるのかとか詳しく知らないし、そもそも私踊れないよ?」
「そうだったんですか!あっでも、あと一週間もありますから」
なんて言っているフレッドの顔が、出会って初めて焦っているように見えたのは気のせいじゃ無いと思う。
「えっとですね…。では軽くご説明します。まず舞踏会というのは、独身の男女がダンスをする場であり、お見合いという意味合いも込められています」
「お見合い…」
正直、意外だ。舞踏会って踊っているイメージはあったけど、イメージと言えばそれしかなかったし、そこにお見合いの意味も兼ねていたなんて。
「一曲目がスタートすると招待客の方で最も地位の高い男性と女主人が踊り始めます。その後、他の招待客の方も踊り、夜中男女が語り合うんです」
「じゃあ最悪の場合、私は踊らなくても済む?」
「いいえ、残念ながらそうはいかないんです。実は今回の一曲目は女主人である奥様ではなく、アンリ様が踊ると言うことになっているんです」
「え!!どうして私なの?」
「アンリ様はこれまで社交界に出されることは一切無かったんです。しかし学園入学とともに社交界デビューと言うことで、それまで社交界から遠ざけていた分、その解禁という意味合いも込められているそうです」
「なにそれ…、そんなタイミング悪い事なんてある?どうしよう、私運動なんて苦手だよ?」
いきなり人前で踊れ、なんて無理に決まってる。これまで体育では五段階評価で2しか取れなかった私が踊れるわけが無い。それこそ、幼稚園生のお遊戯会状態になってしまうのが目に見えている。
「大丈夫ですよ。あと一週間もあります。それに踊りは基本的に同じ動作の繰り返しです。ですからきっと大丈夫です」
そうは言ってくれるけど、フレッドさんは知らないんだ。私の運動音痴を。
自分で言うのもどうかと思うけど、私ほどの運動音痴をこれまでの人生で見たことがない。
キャッチボールをしようとしても相手まで届かず毎回『ごめんなさい』と謝り、持久走があれば毎回倒れて車椅子で保健室まで運ばれる。球技のチーム戦があれば隠れようとする私に、先生は最後のバレーでボールを触らせるために特別ルールとして『沢木がボールに触れたら1点』という謎ルールすら発動した。それは別の意味で恥をかいたのだけど。
「本日はまだ時間がありますし、これから練習してみますか?」
「うん…」
ひとまず、ここで駄々をこねても何も変わらない。とりあえず練習して、ダメだと言うことが分かればどうにかしてくれるかもしれない。
書庫を出ると今度は階段を上ってきたときに正面にあった扉を開け、中に入る。中は四面の壁のうち一面が鏡になっていて自分たちが踊っている姿を見られるような本格的なダンススタジオのよう。部屋の端にはグランドピアノなども置かれているがそれでも十分に余裕があるほど広い。
「今回は音楽を流さずにステップだけ練習してみましょう」
「ステップ…?」
「とりあえずアンリ様が絶対に踊らなければならないのはワルツです。ですからその練習をメインに考えていきましょう」
「うん。フレッドが教えてくれるの?」
「はい、私が教えます。まずはイメージを掴めるように私が一度踊るので、見ていてください」
グランドピアノの横に置かれていた蓄音機をセットし戻ってくると、そのまま腕を肩くらいまで上げると音楽の開始とともに踊り出す。手は動いていないが、足は一歩一歩右に出したり、前に向かったりと複雑。何かのアニメで踊っているのを見たことがあるような気がするけど、それでも実際にこうしてみるのとでは違う。フレッドは堂々と踊っていて、一人で踊っているはずなのにまるで誰かと踊っているみたい。
自分が踊るなんて事を途中からは忘れて、ただただ見つめてしまっていた私は音楽が鳴り止むとともに思わず小さく拍手をした。
「ありがとうございます」
「でもこれを私がやるんだよね…。本当に出来るのかな…」
「そんなに心配なさらなくても、きっと大丈夫ですよ」
「うん…。でもダンスってどうやって練習するの?」
「練習の仕方は色々とあります。ですが踊りを覚えられたとしても、それで体を動かせるかは結局の所、別問題です。ですからとりあえず動いてみましょう。私がアンリ様の横で足を動かすので、同じように動かしてみてください」
「わかった」
二人で並んでいる姿を鏡を通してみると違和感が拭えない。これまでと違う顔の自分、そしてその横には綺麗な顔のフレッド。ほんと人生、何があるか分からない。
「ではいきますよ。ワルツは基本的に3カウントです」
「3カウント?」
「はい。ですから私はワン、ツー、スリーと言いながら足を動かしていきます。説明よりも、やってみましょうか」
フレッドは「ワン、ツー、スリー、ワン、ツー、スリー」と声に出しながら、さっき見たよりもかなりのローペースで足を動かしていく。私はそんなフレッドにワンテンポほど遅れて足を見様見真似で真似ていく。
それでも見ているのと、実際に動かすのでは上手くいかない部分があって、途中からは追いつくのに必死。
ようやく最後まで終えたときには不安だけが残っていた。本当に一週間で覚えられるのだろうか。
「大丈夫ですよ、アンリ様。そうですね、ではカウントをまずは身に染みこませてしまいましょう。それから、あまり正しいステップを踏もうと意気込まなくてよろしいですよ」
「でも…」
「まず形さえ覚えてしまえば自ずと正しいステップへとなっていきます。何よりステップは行きたいポジションに向かうための手段でしかありません」
「ポジションへ行くための手段?」
「そうです。もしダンスホールで向かいたい場所があったとして、周りが踊っている最中に一人、スタスタと歩いていたら目立ってしまいますよね。ですからステップを使うことで目立つことなく、かつ目的の場所へ行くことが出来るんです。舞踏会では主に次に踊る方を迎えに行く方法でもありますね」
「そっか。そうやって言われると気が楽かもしれない」
「良かったです」
そう言って安堵するフレッドさんを見ると、私が変に落ち込まないように元気づけようとしてくれたんだと思う。
「ではもう一度やってみましょうか。今度は実際に声には出さずに、心の中で私の声に合わせてカウントを呟いてみてください」
すぐに始まった2回目は完成度で言ったらまだまだ、それでも一度目に比べたら良かったと思う。フレッドのおかげである程度落ち着いて出来たことが大きいと思う。
「先ほどよりも良くなりましたね。この調子で頑張っていきましょう」
「ありがとう。よろしくお願いします」
「はい、どういたしまして」
「もう一度するの?」
「それでも良いのですが、ダンス以外もある程度のことは確認しておいた方が良いでしょう。ひとまず時間も時間ですから、アフタヌーンティにしましょうか」
「じゃあ今日はダンスの練習は終わり?」
たった二度しかやらずに、今日の練習を終えてしまって良いのだろうか。そんな不安が私の胸には生まれていた。フレッドもその不安に気がついたように落ち着いた声で話す。
「一度に何度も同じ事をしていると、脳が逆に混乱してしまいます。ですから休んで頭の中を整理させてあげる時間も大切ですよ」
「そっか、わかった」
「では一度お部屋に戻りましょうか」
自室の前まで戻ると、フレッドは紅茶等を取りに行くと言った。私にはその間に着替えているように言い、白色の膝下まで丈があるワンピースを渡してきた。長袖になっている袖の部分はゆったりとしていて、全体的にレース生地で触り心地がとても良い。
それまで着ていたワインレッドのワンピースを脱ぐと白いワンピースを上から被るようにして着る。それは制服のようにボディラインが見えるくらいに締め付けられるわけではなく、だからといってブカブカでもなく本当に丁度良いし、落ち着く。
脱いだ服を畳むと、一人がけの丸っこいソファーに座ってフレッドを待つことにする。ベッドと言い、このソファーと言い本当に体へのフィット感が丁度良い。しばらくはここから動きたくない。
しばらく座っていると廊下からノックが聞こえてくる。
「アンリ様、よろしいでしょうか」
「うん、大丈夫だよ」
「では失礼します」
ドアを開けて入ってくるフレッドはワゴンを押している。ワゴンには朝見たものと柄が違うポットやティーカップが置かれ、お皿に盛られたスコーンも載せられている。
フレッドは私が座っている方に近づいてくると、膝の高さ程のローテーブルにスコーンを置き、紅茶を丁寧に注ぐと湯気の上るティーカップを並べてくれる。
それでもやっぱりローテーブルには一人分しか置かれない。
「やっぱりフレッドは一緒にしないの?」
「えぇ。あっ、邪魔でしたら出て行きましょうか?」
「全然邪魔じゃないよ。そうじゃなくて一人で食べたり飲んだりしても楽しくないような気がするの」
「つまり私もご一緒に、と言うことですか?」
「うん。ダメかな」
「それはとても嬉しいことなのですが、万が一他の者に見られても困りますし…。そうですねぇ」
フレッドはやはり身分というものを気にしているようだけど、私はただお友達と一緒にお茶を飲みながらゆったりとしていたいだけなんだけど。
「ではこういうのはどうでしょうか。私がアンリ様に様々なマナーや紅茶の頂き方をお話ししながらご一緒するんです。そうすれば、かなり不思議な光景ではありますが説明は付きます。それにアンリ様はこちらの文化に慣れていらっしゃらないので、そのようなマナー等を知っていて損はないかと思われます」
「確かに私って何も知らないかも。紅茶とかあまり飲んでこなかったし」
「それならばこれからの様々な社交の際のためにも練習しておいた方が良いでしょうね」
「社交の場…」
「社交の場と言わず、この後のご夕食の際はご主人様や奥様とご一緒にお召し上がりになるので、その際から早速役立つと思いますよ」
「ご主人様と奥様って私の両親?」
「はい、そうですよ。あぁそうですね、お二人についてもお話ししておいた方がよろしいかもしれませんね」
そう言うとフレッドは自分用にも紅茶を注ぐと私の向かいの席に座る。
「本日の紅茶はアッサムです。アッサムはまろやかで、しっかりとコクもあるためスコーンの邪魔をせずに、口をリセットすることも出来ます」
「やっぱり紅茶によって味とか変わってくる?」
「はい、かなり変わってきますよ。これから飲む機会は多いのでいずれ分かると思います。ではまず、紅茶の頂き方からお話ししますね。基本的に利き手の親指と人差し指で挟むようにして中指を添えます」
言われたようにサイドテーブルからカップを持ってみる。いつものようにガッシリ持っているわけではないから、気を抜いたりしたらすぐに落としてしまいそう。それでもなんとか様になっていると思う。
「これであってるかな?」
「そうです。そして次に食堂のようなダイニングテーブルの際は、そのままカップのみを持てば完璧です。ですが、今回のようなローテーブルの際にはソーサーごと持ち上げます」
「ソーサー?」
「カップの下に置かれているお皿のことです」
「なるほど」
ローテーブルの上に置かれたままのソーサーに一度カップを戻すと、ソーサーごと持ち上げカップを教えられたとおりに持ってみる。
向かいを見るとフレッドも同じように持ち直している。
「おぉ、確かにこっちの方が良いかも」
こう持っていると上品な感じがして、向かいのフレッドは様になって見える。これでも私ってお嬢様なんだ。
私が感動したように声を出すとフレッドは優しく微笑む。
「ふふ、それが出来れば完璧ですよ。最後に余談として、時々カップの持ち手部分が利き手とは逆側にあることがあります。その時は時計回りにカップを回して向きを合わせてから持ち上げてください」
フレッドは一度持っていたカップを置くと、わざとカップの持ち手を逆に向ける。そしてくるりと半周させて利き手側に戻して見せた。
「それすっごいカッコいい」
「この屋敷では持ち手が逆にならないように気をつけるようにしているので、あまり気になさらなくて大丈夫ですよ」
「そっか、じゃあ外で機会があればやってみる」
「はい、ぜひやってみてください。次に今回はスコーンが用意されているので、スコーンの召し上がり方についてお話ししますね。スコーンは手で一口サイズに割って食べてもらえれば大丈夫です。ただし、ジャムやクリームはナイフを使って塗るようにしてください」
「わかった」
「とりあえず説明はこんなものですかね」
「ありがとう」
「いえいえ、さぁ冷めてしまいますよ。お召し上がりになってください」
「うん」
「ここまでお話ししましたが本来、アフタヌーンティは楽しんで行なうものです。私の前ではあまりマナーを細かいところまで気になさらなくて構いません。それにそういったものは、自然と身についてくるものですから」
「分かった。色々とありがとう。…ん!この紅茶も美味しいね。今まで特別なことがない限りは紅茶なんて飲まなかったけど、勿体ないことしてたなぁ」
「ふふ、ぜひスコーンも食べてみてください。ルエさんの自信作だそうですよ」
「いただきます。…うん!おいしい」
その後、二人で紅茶を飲んだり、スコーンを食べながら色々とオーリン家についても聞いた。
フレッドの話では、両親はとても優しく、仲も良いらしい。出かけるときは大抵二人一緒なのだそう。
そして優しさという過保護のあまり、私をこれまで社交界に出すことを拒み続けていたらしく、自分の好きなことを出来るようにと育ててくれていたらしい。
オーリン家はかなり他の屋敷と違うことが多いらしい。もちろん、私を社交界に出さなかったというのもその一つ。
そしてもう一つは、かなり従者への扱いが違うらしい。オーリン家では家族同然のように受け入れ、無理強いはせず、自分で出来ることは自分でやるようにして、なるべく雑用も少なくするようにお父様達はしているらしい。
他の家に比べ従者が少ないのは、一人一人との縁を大切にしたいという気持ちがあるからと言うことだった。
そして両親は出かけるときには執事長であるジーヤさんと、お母様が長年付き添っているメイドのディルベーネさんを連れているらしい。
今は二人とも、数日前から別邸に行っているらしく夜には帰ってくるらしい。
数時間後、外から馬車の蹄の音が聞こえ、ホールまで降りると両親が入ってきたところだった。
階段を降りる私に気がつくと二人は笑って「アンリ、ただいま」と言ってくれた。
両親の外見は私の想像以上で、どこをどう見ても美男美女だと思う。特にお母様は長い綺麗な茶髪で私と同じ青い瞳。化粧も濃くはないのに、一つ一つのパーツが際立って若々しく見える。
後ろに付いてきていたフレッドにも「フレッドもただいま」と声をかけている。それにフレッドは「お帰りなさいませ」と言って迎えている。
私が階段を降りきるとお母様は私に抱きついてくる。その髪からは甘い香りが漂って、温かい。
「会いたかったわ、アンリ」
「お帰りなさい、お母様」
「本当はあなたのことも連れていきたかったのだけど、今日から学校だったでしょう?だからお留守番を任せてしまったけど大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だったよ」
「そう、ならよかったわ」
お母様とは当たり前のことながら今日初めて話したのに、まるで元から親子の関係だったかのように会話が出来るし、こうして会話をしていることが心地良い。お父様の優しく見守るように立って、私と丁度目が合うと笑いかけてくれた。
沢木暗璃として暮らしていた頃、家族と過ごしていてこんなにポカポカした気持ちになったことはあっただろうか…。
「ねぇアンリ、私お腹ペコペコなのだけれど、アンリはどう?」
「私もお腹空いた」
「夕食の支度は整っていますよ。いつでもお召し上がりになっていただけます」
「あらフレッド、ありがとう。じゃあこのまま向かいましょうか」
その声に頷くとお母様とお父様、フレッドと一緒に食堂まで向かう。髭が似合う銀髪のジーヤさんは馬車から両親の荷物を運び、ディルベーネさんはお母様のお洋服を整えに向かうらしい。
フレッドの言ったとおり、食堂にはすでに三人分の夕食の用意がされていて、サラダやカトラリーが並んでいた。
「ただいまお料理をお持ちしますね」
少しするとジーヤさんもやって来て奥の厨房に入っていった。
厨房から出てきたジーヤさんは紅茶のセットを、フレッドや朝に会ったメイドさん達は料理を運んで来てくれる。
朝と同様に一皿一皿、丁寧に作られているのが一目で分かり、今なら料理は芸術だと言っている人の気持ちが分かる気がする。
「さぁ食べましょう」
「うん、いただきます」
メインディッシュの横に置かれたスープを飲むことに決めて、右側に置かれていた丸くなったスープスプーンを取る。
フレッドには夕食前に、夕食の時はカトラリーがたくさん並べられているが気にせずに自由に食べて良いと言われていた。でも私は紅茶の飲み方やダンスの仕方が分からなくても、テーブルマナーだけは高校の家庭科の授業で教わったのをしっかりと覚えていた。
いつか高級レストランで使おうと夢見ていたが、こんなに早くにテーブルマナーを生かせるときが来たのだと思うと、顔には出さないが内心ではとても嬉しい。
「美味しい!」
「ふふ、そうね。美味しいわ」
しばらく食事をしていると、それまで黙っていたお父様が私に向かって口を開いた。
「そういえばアンリ、学校はどうだった?」
「あのね、とても広くてまるでお城みたいで素敵だったの。それにお友達もたくさん出来たの」
「おぉそうか!それは良かった」
「そのお友達は男の子?」
「うん、みんな男の子だよ。最初は一人でいたんだけど、ミンスくんって言う子が話しかけてくれたの」
「それは良かった。お父さん達はアンリに友達が出来るか心配していたが、無駄な心配だったな」
「もし何か必要なものがあったら遠慮なく言うのよ」
「うん、ありがとう」
その後も二人と話し、しばらくすると入浴をして部屋に戻った。言うまでもなく、浴槽は大きく一人ではいるのが勿体ないほどだった。
部屋ではフレッドが水を用意して待っていてくれた。
「随分とご主人様達と打ち解けていらっしゃいましたね」
「うん、私もビックリしてる」
「でも良かったです」
「私ね、正直二人に会うまで両親と会うのが怖かったの」
「それはどうしてです?」
本当はこんな話、しなくて良いんだと思う。それでもどこかで聞いて欲しいと思っている私もいた。
「私ね、元の世界で暮らしていた頃、今日みたいに両親と楽しく話していた記憶がないの」
「そうなんですか」
「うん、ここからは愚痴なんだけどいい?」
「えぇ、もちろんですよ」
「私には妹がいたんだけど、かなりわがままで自分勝手だったの。だからこそ、私は迷惑をかけないようにしてた。それでもやっぱり手がかかる方が可愛いらしくて、いつからか私は見てもらえなくなった。何を話しても返事が返ってこないのが当たり前。返事が返ってくるのは私の話に反対するか、怒りをぶつけるときだけ。だから今まで家族というものが好きじゃなかった」
「そうだったんですか…」
「でもね、だからこそすっごく嬉しかったの。お母様もお父様も私の話を嬉しそうに聞いてくれて、お母様は私を抱きしめてくれた。今まで心の奥底で諦めて、そして羨んでいたものをくれたから」
「そう思ってくださったのなら、良かったです」
「でもね、フレッドもだよ」
「私もですか?」
「フレッドは私がこの世界に来て初めて話した人で、何も知らない私に呆れずに色々と教えようとしてくれる。それにとっても優しい。だからありがとう」
「そんな、お礼を言われるようなことはしてませんよ。ただ当たり前の事をしただけで」
「その当たり前が私には特別だったんだよ?」
「そんな風に言われると嬉しいものですね。良ければこれからもアンリ様のお話を聞かせてくださいね。アンリ様がこちらの世界を知らないように、私もアンリ様の世界やアンリ様のこれまでを知りません。私もアンリ様のいた世界というものを知りたいです。だからといって無理にとは言いませんし、愚痴のはけ口としてでも構いませんので」
「うん、ありがとう」
フレッドの申し出は私の心をより温かくしてくれた。
「さぁ、そろそろお休みになりましょう。明日も学校です、しっかりと体を休めてあげてください」
「うん。おやすみなさい」
布団に入り込むと、フワフワでさっきまで眠気なんてなかったのに、一気に私を眠りの世界へと連れて行こうとする。
今日は思い出すだけでも色々な事があった。気づいたら知らない世界で、お友達もたくさん出来て、フレッドとダンスの練習をして、お母様とお父様からは今まで欲しいと思っていた温かさをもらえた。
明日も良い日になると良いなぁ。
そんな風に思っていると自然と幸せな気持ちになって、自分でも気がつかない間に深い眠りへと落ちていた。
「おやすみなさい。良い夢を見てくださいね」
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