さよなら人間
日本のアニメ的な意匠は、ネット時代に普遍的なスタイルなのだと、もう世界中が認めている。これはほんの10年前にはまだ違った。公共の場でアニメ絵が用いられることにまだ緊張感があったし、かわいい女の子のアニメ絵はあくまで日本国内の特異な現象だという認識があった。『RWBY』なんかのアニメ的表現はアバンギャルドとしての表現だったし、FPSゲームの世界なんかはアニメ的な意匠の侵入を頑なに拒んでいた。
今はもう違う。いわゆるバタくさい、ゴツい表象は基本的にもう無い。アメコミなんかを読んでも、オタク的心情を不自然に抑圧する自然主義指向はここ10年くらいでほぼほぼ衰退した。アメリカのプロレス団体『WWE』なんかでさえ、アニメ的な意匠を無視することは出来なくなっている。リアリプリーもビアンカベレアも、アニメキャラのような雰囲気を上手くプロレスの世界に取り込んでいる。
オンライン世界の表象は必然的にアニメ的になるということを、ほとんどの他国が認めたのだ。世界の常識になったんである。
ただここで皮肉な話があって、元来そのアニメ的表現の始祖であるはずの日本が、その大きな変容にあんまり気づいてないのである。これはちょっとよくない。ラノベにしてもマンガにしても、未だにトンチンカンな反骨精神を「純文学」に対して向けているようなフシがあって、このネジれは放っておけばのちのち大きな足かせになってしまうだろう。
もはや純文学に権威はない。これは私の洞察なんかじゃなくて、マジでもう無いのだ。個々の作家が残した大切な遺産がたくさんあるというのは真実だが、潮流としての純文学はもう完全に終わった。見たまんまを書く自然主義の表現は今や、オンライン世界を抑圧していると捉えられるのである。人間はもはや少数派なのだ。
『刀剣乱舞』のミュージカルとかを宝塚みたいなハイカルチャーが真剣にやり始めたとき、生半可な声優なんかが太刀打ち出来るのか、というようなことを広井王子が危惧していたが、私が言いたいのもコレにちょっと近い。カウンターカルチャーでは無くなったオタク文化は、ほんとは大急ぎで人生とかについてちゃんと語らないといけない。他国ではそういう動きがバリバリ起こっているのだが、かんじんの日本国内だけ、いまだサブカルチャーの"甘え"が抜けきれてないと見える。
このネジれを紐解くという重要な仕事が、日本国内のクリエイティブには求められている。そうでなければ、せっかくの大量の純文学の素材を無意味に抑圧したまま、スカスカのアニメ的戯画を繰り返す、時代遅れに空回りしたビンボウ臭い表現しか出来なくなってしまう。
国内の新しい動きに敏感に着目したい。
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