OFFLINE MAN: LEGACY



前々回の『OFFLINE MAN』の文章で書いた、《ラブロマンス》と《メタバース》が対立する、という話はやや唐突だったのでここで補足したい。


《ラブロマンス》というのは、人が人を好きになる奇蹟あるいは夢を書くものだから、どうやったって、人間は人間のままで素晴らしいんだということを主張せざるを得ない。ファンタジー小説として理想世界を書くというわけでは無い。とわいえ私小説のように近場のことをそのまんまただ書くということでも無い。ラブロマンスは、近場がそのまんまで天国だ、と言うんである。


となると当然その反対で、ドストエフスキーとか『WATCHMEN』とか『新世紀エヴァンゲリオン』とか『ニーアオートマタ』とか『チェンソーマン』とかみたいな、むしろ人間ってファックな連中なんじゃないか、世界ってゴミなんじゃないか、みたいなアンチテーゼがふつふつと準備されてくる。だからといってここで、そういったアンチテーゼを唱える考え方のほうが"偉い"というふうには考えなくていいと思う。どう見ても、ラブロマンスが用意した前提の方が異様である。日常生活が満ち足りているのならそれで良いじゃない、という目からウロコの提案に対して、「自分は苦しんでる!」と言ってみても根本的な反撃にはなっていない。その場合苦しみを減らすことが先決だからである。ラブロマンスはハナからそれをやっている。リチャード・ローティも「苦痛の減少が抑圧の償いになる」というふうなことを言っている。人間の汚さをただ描いて論破した気になっているようでは恥ずかしい。




人が人であるだけでもうサイコーであると、なんとしても主張しないといけないのが《ラブロマンス》の書き手達なんである。恋愛とか性愛とかはこの点では二次的なことだ。人間へと全幅の信頼を置くラブロマンスの世界、そしてそれとは別に苦痛の減少を徹底する、人間へ一塵の居場所も与えず全てをパソコンの異世界に託すメタバース世界。この二極はどこまでいっても対立せざるを得ないんではないか、ということが言いたかったのだ。

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