Chapter 5 滑稽な戦いは続く

 そう言って彼女がアルファベットを回すと、かちゃり、と軽快な音が室内に響いた。その音が私の拍動のリズムを乱す。勢いよくドリーさんの表情を伺うと、彼女の瞳孔が開いていた。


 ついにロックが外れたのね……。


 ドリーさんが親指でほかの指を抑えるように、金庫の扉の取っ手を握った。立ち上がった赤ちゃんの身長と変わらないくらいに小型の金庫だけれど、口元をゆがめた彼女の顔つきを見るに結構重みがあるらしい。こんな頑丈そうな物体にいったい何を保管しているのかしら。


 どんな未来でも受け入れると覚悟を決めた者に特有の鋭い目をして、彼女は取っ手を前に引いた──。


「……んっ?」


 私とドリーさんは同時にその声を発した。それは、奥行き三〇センチほどの中でたった一枚の便せんのみが置かれている奇妙さに対する「んっ?」だった。

 どことなくレトロなその便せんには、黒のインクで『後ろを見ろ』と書かれている。


 振り向いて目に飛び込んできたのは、開かれたドアの蝶番がついていないほうの縦枠に腕組みをしながらもたれかかる、格子柄のウエストコートを着た初老の男性だった。シルバーグレーのそれがこんなにも似合うなんて、日頃からお洒落に気を遣っていそうな方だわ。


 ……って、よく見たら店主のキャラハンさんじゃない。


 ドリーさんは狭い歩幅で彼に走り寄り、「お体の具合は大丈夫なんですか」と、不安でいっぱいなのが分かる声色で尋ねた。


「見ての通りの健康体さ。どうだい、あの息を荒げる演技は上手かっただろう」

「演技? ……まさか、今まで病気のふりをしていただけだったんですかっ」


 絶句するドリーさんとは対照的に、キャラハンさんは口を閉じたままふっふっふっと低く笑う。


「君の宝石の知識を確かめようとこの試練を与えたが、子どもに解答をほのめかしてもらっているようじゃあまだまだだな。まあ、もっと勉強することだ」


 ドリーさんは目を点にして立ちすくんだ。


 キャラハンさんの腕時計の針が進む音が聞こえるほど、場が静まり返る。彼女、全然身動きしないけれど魂を吸い取られたわけじゃないわよね。そう危惧し始めた頃、彼女はようやく言葉を絞り出した。


「……勉強しますよ……しますとも……でも……。……こんなに心配させなくたっていいじゃないですか! 失礼を承知で申し上げますけれど、もう店主は何があってもおかしくない年齢なんですからね! 冗談では済まされませんよ!」


 今日初めて、いや彼女と知り合って初めての怒りに燃える様子を目撃してしまい、私はちょっと恐れおののいた。でもキャラハンさんにとってはそんな彼女の姿は珍しくもなんともないみたいで、ひるむどころか彼女の反応を楽しむような目つきをした。


 なかなか溜飲が下がらなさそうな彼女の抗議が続く中、私はロッティとささやき合った。


「ドリーさんは彼とあまり打ち解けていないって言っていたけど、そんなふうには見えないわ」

「ね。少なくともキャラハンさんのほうは、ドリーさんとのあいだに壁なんか感じてないと思うよ。クリソベリル・キャッツアイを正解に選ぶくらいだもん」

「それがどうかしたの?」


 ロッティはさらに声を潜めて、「クリソベリル・キャッツアイの宝石言葉は『守護』『慈愛』なの」と話した。


「たぶんキャラハンさんはドリーさんの想像以上に、彼女を仕事仲間として大事に思っているんじゃないかな。試すような真似はしたけれど、あれがあの二人なりのコミュニケーションの取り方なんだよ。きっと」

「……そうね。じゃあロッティ、私たちも私たちなりのコミュニケーションを取らない? 私、あなたに言いたかったことがあるの」

「なぁに?」

「あなた、いつまで私の背中に乗り続けるつもりかしら」


 私は首をひねってロッティを見上げた。だいぶ前から腰を落としているというのに、彼女が照明を動かしたときからもうずっとこの状態なの。ロッティは私の髪を触りながら、「あと十分はここにいようかなー」と答えた。


 ああ、このままじゃ三戦目の格闘を始めてしまいそう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Ribbon chocolate 2 ~宝石店の壁~ 杏藤京子 @ap-cot

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ