第3話 豹変



 車に乗せてもらってからしばらく経って。

 気付けば辺りはすっかり暗くなり、サイドガラス越しから空を見上げてみると、たくさんの星々が散らばっていた。

 それだけなら「綺麗な星空だなあ」で終わっていたのだけれど、奇妙だったのは月の色の方だった。

 奇しくも今日は満月で、しかもスーパームーンだったのか妙に大きく見えていたのだけれど、なぜか見慣れた淡い白色ではなく、血のような赤黒だった。

「あれ? 今日って月食だったっけ……?」

「あー。今日は変な色だよなー」

 と。

 助手席で空を眺めながら独り言を呟いたぼくに、隣りで運転中のお兄さんが不意に言葉を返した。

「でも大気の影響で色も変わるらしいから、そのせいなんじゃない?」

「なるほど。月も出たばかりですし、そうかもしれませんね」

 なんの根拠もないけどなー、と苦笑しながら依然として林道を走るお兄さん。

 道自体はそれほど狭くはないけれど、相変わらず周りが木々ばかりで一向に民家は見えてこない。

 もしかして自分でも知らない内に、山の中にでも入ってしまっていたのだろうか?

「あのー、ちょっと聞きたい事があるんですが」

「うん。なんだい?」

「ここって一体どこなんでしょう? さっきから全然心当たりがなくて……」



「ここ? 比奈ひなってところだけど」



「比奈……?」

 首を傾げる。そんな地名、見た事も聞いた事もなかったからだ。

「比奈って町名ですか? だとしたら○○県のどの辺りになるんでしょうか?」

 自分が住んでいる県の名前を言って詳細を訊ねる。一度は寝過ごして変な駅(というより異界?)に来てしまったけれど、こうして無事現実世界に戻れたみたいだし、あとで両親やコーちゃんに連絡するためにも現在地を詳しく知っておこうと思ったのだ。

 しかしお兄さんは、さっきまでの柔和な対応が嘘のように無表情になり、なぜか一言も発しないようになってしまった。

「えっと…………あれ……?」

 困惑が言葉となって零れ出る。

 もしかして、ちょっと質問がくどかったかな? 運転中なわけだし、あんまり話しかけるのはよくなかったのかも。

 今後はなるべく声をかけないようにしておこう。気が散ったせいで事故で起きたら元も子もない。

 そんなわけでしばらく無言で流れる景色(言っても相変わらず林か草原しかないけれど)をぼんやりと眺めていると。

「…………ん?」

 あれ? なんか妙だ。

 さっきからずっと林道ばかりで、一向に町の光すら見えてこない。

 もうかれこれ一時間以上は走っているはずなのに。

 それだけ町から離れていた駅にいたという事なのかもしれないけれど──だとしてもこれは変だ。



 だって町に向かっているはずなのに、坂道を上り始めているのだから。



 普通町に向かっているのなら、平坦な道、もしくは下り坂を進むはずだ。

 それなのに、なぜか坂道を上っているという事実。

 これってつまり、意図的に山へ向かっているって事なんじゃあ……。

「あのー……さっきからだんだん山の方へ向かっているような気がするんですけど……」

 たまらず隣りのお兄さんにおそるおそる訊ねる。

 しかしながらお兄さんは、ぼくの話を聞いていなかったのか、というより端から聞く気がなかったのかのようにただ前方だけを見つめ、何やらぶつぶつと小さく独り言を呟いていた。

 しかも、その内容が──



「……なんで俺がこんな事をしなきゃいけないだ俺は頼まれただけなのにだいたい供物なんであいつらだけでも十分だろそれなのにまだ増やすなんてなに考えてんだどうせ俺には少ししか分けてくれないくせにそもそもこっちは村の中でもかなり働いている方なのにマジでふざけやがって今度会ったらぶっ殺してやろうかだいたいあいつらはいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも……」



 やばい……。

 なにがやばいって、不穏な内容もさる事ながら、焦点の合ってない目でずっと前だけを見つめているお兄さんの表情が幽鬼じみていて、初対面時の優しい雰囲気が完全に消え去っていた。

 まずい……このままだとどこへ連れて行かれるかわかったものじゃない。

 いやそれ以前に、道中で何をされるか──命の保証すら危うい。

 これはなんとしても逃げなくちゃ。こんなまともとは言えない状態の人のそばになんて、これ以上いられない。いたくない。

「あの、ここで下ろしてもらってもいいですか? あとは自分で帰るので……」

 まだ林道の最中ではあるけれど、それでもこのままお兄さんの車に乗せてもらうよりは断然マシだと思って降車を願い出る。

 でもお兄さんは依然としてぶつぶつと独り言を呟いたまま、一向にブレーキを踏む気配は見えない。

 いやむしろ、前よりアクセルを踏む足が深くなっている。現にアクセルメーターを確認すると、最初の時よりも三十キロ近くも早くなっていた。



 やばいやばいやばい! 本格的にやばい!



 このままだとどこかに連れて行かれる前に事故っちゃう! ただでさえ山道に入っているのに、崖にでも落ちたら一大事どころの話じゃ済まない!

 けど、一体どうしたらいい?

 幸いな事に車のロックはかかっていないみたいだけど、走行中に助手席のドアを開けて脱出しようものなら大怪我は必死だ。

 つまり怪我なく車から出るには、まずスピードを緩める必要がある。けれど強引にこっちからブレーキを踏んだら、スリップ事故を起こしかねない。

 いやそれ以前に、お兄さんに抵抗される可能性もあるわけで、そうなったらハンドル操作を誤って林の中に突っ込んでしまう──確実に怪我だけじゃ済まされない。

 でも、このままじゃあどのみち助かる保証はない。どうにかして車を止めないと!

「けどどうしたら……! ああもう、こんな時スマホさえ繋がったら……!」

 焦燥と共にスマホを取り出すも、依然としてずっと圏外のまま。これじゃあ通報どころか助けすら呼べない。

 しかもこうしている間にも、どんどんスピードは上がっていく。まるで自ら死地に向かうかのように。

「くうっ! 全然良い案が思い付かない!」

 もうダメなのか? このまま危険な場所に連れて行かれるか、事故ってしまうしかないのか──?

「コーちゃん……!」

 無意識下にコーちゃんの名を呟いていた。

 こんなどことも知れない山中にいるはずのない恋人の名を。

 と。

 ここに来て自分の死を覚悟し始めた、その時──



 どこからか、バイクの走行音のようなが聞こえたような気がした。

 それも、後ろの方から。



 すぐにハッと直感めいたものが働いて、そばにあるサイドミラーを見た。

 ジクサー150。

 元々は東南アジア向けで開発されたもので、細身な車体でありながらかなりタフな設計がなされており、燃費もさる事ながらスピード感なども抜群で、ツーリングファンにも人気なバイク。

 そしてそれに跨がるは、黒のライダースーツを身に付けたスレンダーな女性。

 それより何より、あの黒のフルフェイスヘルメットから靡く、あの特徴的な栗色の長髪は──



「──コーちゃん!!」



 間違いない! あれはコーちゃんだ!

「でも、どうやってぼくの居場所を……?」

 いや、今はそれはどうでもいい。

 今はどうやってコーちゃんとコンタクトを取ればいいかに集中しなくては。

「そうだ。助手席の窓……!」

 ついドアをロックされていたせいで失念していたけれど、窓ならぼくでも開けられる。

 もちろん、車が走っている間に窓から脱出なんて到底不可能だけど、ちょっとなら会話も──当然お兄さんに妨害される危険性もあるけれど、それでもコーちゃんなら何かしら対応策を考えてくれているかもしれない。

 さっそく善は急げと窓を開けたいところではあるけれど、その前に横にいるお兄さんの様子をチラチラ窺う。

 お兄さんは前のまんまというか、コーちゃんが現れたあとも眼中に無しと言わんばかりにハンドルを握ったままブツクサと意味不明な独り言を呟いていたまま、前方だけを睨むように見据えている。

 もしかして、精神に異常をきたしているとかで、周りが見えていないとか?

 それはそれで恐怖だけれど、この時に限って言えば逆にありがたい。

 そんな風にお兄さんの様子を気にしつつ、スイッチを押して窓を開ける。

 するとコーちゃんもこっちの行動に気が付いたみたいで、エンジンをさらに吹かせてぼくの横に張り付いた。

「コーちゃん! 助けに来てくれたんだ! ありがとう!」

 本当は危険な行為なのだけれど、コーちゃんがそばに来てくれた安堵感からか、つい窓に身を乗り出すように顔を出す。

 直接、コーちゃんは無言て腰に巻き付けしてあったミニバッグからスマホを取り出し、ハンドルを片手で操作しつつ──それも爆走したまま──指抜きグローブの手で何やら画面をいじり始めた。

 そんな器用な真似をするコーちゃんに少しの間だけ面食らっていると、ややあって、とある文章をぼくに見せてくれた。

「えっ──?」

 その文章を読んで、思わず目を疑った。

 これを、今からコーちゃんとぼくが? いやでも、本当にそんな事で上手くいくの……?

 ええい! 考えたって仕方がない!

 他でもないコーちゃんが言っているんだ──だったらぼくは愚直に信じるまでだ!

 そうして、ぼくが了承の意味を込めて頷くと、コーちゃんも意図を組んでくれたのか、こくりと頷いたあとに突然スピードを緩めた。

 それからいったん車の背後に付いたのち、またすぐエンジンを吹かせて運転席側に回った。

 その行動にさすがのお兄さんも気付いたのか、血走った目を横を並走するコーちゃんに向ける。

 そして、お兄さんが車を寄せてバイクに当てようとハンドルを切る直前──



 コーちゃんが、小振りのハンマーのような物を使って、運転席側の窓を突如として打ち割った。



 飛び散る窓の破片に「ぐうっ!」と獣が怯んだような声を発して上体を横に逸らした。

 この時、ぼくは事前に窓が割れる事を知っていたので頭を抱えながら顔を伏せていた。先ほどのコーちゃんの指示──スマホで『今から運転席側の窓を割るから、その時は顔を横に伏せて』という文章を見せられて、その通りに従ったのだ。

 そして、コーちゃんの指示にはまだ続きがあった。

 それを実行するには、今しかない!

 剛毅果断ごうきかだん──コーちゃんを信じて突き進め!


 

「うわあああああああああ!!」



 大声と共にお兄さんを押し倒すようにのしかかり、ブレーキへと片足を伸ばす。急ブレーキをかけないよう、慎重にブレーキペダルに足を乗せる。

 その間、完全手放し状態になっているハンドルを、コーちゃんが割れて開け放たれた運転席側の窓から手を伸ばしてハンドルを握っていた。車が林の中に突っ込まないように。

 そしてこの間にも、ずっとバイクを運転しながら。

 かなり危険な行為なのは言うまでもないけれど、ぼくを助けるために命すら張ってくれているんだ──ぼくも臆してなんかいられない。

 ヴェアとかオァガとかよくわからない奇声を発しながら抵抗するお兄さんを必死に上から押さえつけながら、ぼくはゆっくりブレーキペダルを踏んだ。

 徐々に落ちていくスピード。それから一分と立たず車は道のど真ん中で停止した。

 よし! 今なら助手席の窓からでも逃げられる!

 そう判断して、すぐさまお兄さんから離れようとした途端、



「きなよぁさらわたまはらわさあさやまなさらまあかはぁはぃなははらきぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

「うわぁ!?」



 お兄さんに腕を掴まれた!

 しかも、めちゃくちゃ力が強い! まるで万力で締められているみたいに痛い! もはや人間の力じゃない! なんなんだこれ!?



「伏せて!!」



 突如放たれたコーちゃんの言葉に、ぼくはほとんど反射的に顔を伏せた。

 直後、何やらプシューというスプレーのような音が鳴ったあと、お兄さんが「あああ!?」と怯んだような声を上げてぼくから離れた。

 その隙を狙って、すかさず助手席の窓から頭を出して車から脱した。さながらダイブするように。

「大丈夫!? どこも怪我はないかい!?」

 いつの間にこっちへ来ていたのだろう──気付いた時にはすぐそばにいたコーちゃんが、地面に転がったままのぼくを抱きかかえるように起こしてくれた。

「だ、大丈夫。窓から出た時にちょっとだけ肘を擦り剥いちゃったけれど……」

「そ、そうかい。それはよかった……」

 ヘルメットのシールド部分を上げて、心底安堵したように口許を綻ばせるコーちゃん。

「ありがとう、コーちゃん。こんなところにまで助けに来てくれて……」

「お礼ならあとで聞くよ。それよりも今は、あいつが催涙スプレーで目が開けられない内にここから離れよう」

 言われて、車の中に未だ残っているお兄さんを見てみると、確かに目を抑えながら悶えていた。

 あの時伏せろと言ったのは、催涙スプレーからぼくを守るためだったのか。

「ほら、早く」

 終始唖然とするぼくに、コーちゃんがゆっくり手を差し伸べる。

 その手を、ぼくは微笑と共に手に取った。


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