17 四六〇〇キロ離れた街で

 

 女が立ち上がって窓を開けた。スコールは止んだみたいで、腐った川の匂いのする風が吹き込んできていた。俺はベッドで横になってた体をずらした。サイドテーブルの上でラインにしたクスリを左の鼻の穴から吸い込む。これで少しはマシな気分になるだろう。

 K町から四六〇〇キロ離れた街まで俺は逃げてきた。ここから見える看板はミミズがのたうったようなシャム文字ばかりだ。

 女が戻ってきて俺の隣にその浅黒い裸を重ねる。

「コノキズ、ナニ?」

 女が俺の脇腹の銃創を見つけて言う。彼女は俺がいた国で働いたこともあるらしい。日常会話ぐらいなら不自由なくこなせる。

「センソウ、ナノカ?」

 俺は少し考えてから肯く。そう、あれはもう戦争みたいなものだ。初めは少し派手なヤクザの抗争だったが、今では自衛隊が治安出動する事態にまでなっている。

「アナタノクニタイヘンネェ」

 女が言ったタイミングで、緊急車両のサイレンが通りを走り抜け、ジェット戦闘機がこの売春宿を震わせる。

「コノアタリモ、サイキン、ブッソウネェ」

 女が高い声で陽気に笑う。つられて俺も笑う。俺はもう一ライン吸ってから、女の体にむしゃぶりつこうとする。女はそんな俺を両手で押しとどめる。どうして? さっきまであんなにサイコーだって言ってくれたじゃないか?

「オニイサン、アセクサイネ」

 俺は鼻をひくつかせる。鼻毛に絡んでいたクスリを吸い込むだけでよくわからない。ただ体がべたついていることは確かだ。

「レストラン、ツレテイッテクレルデショ?」

 そう言えばそんな約束をしていたっけ。

「シャワーアビナヨ」

「それじゃ一緒に浴びようか?」

「ワタシ、サッキアビタヨ。ホラ、イイニオイ」

「そうだったっけ?」

「オニイサン、クスリヤリスギヨ。コワイユメミテモ、ネルコトダイジ」

 俺は女にせっつかれるようにしてバスルームに立った。足がもつれたが、どうにか転けずに頑張った。カビだらけのシャワーカーテンを引いてノズルを捻る。俺の残りの人生の全ての幸運を使ったようにまともなお湯が出た。しかもちょうどいい湯加減だ。俺はレンガほどの大きさもある巨大な石鹸で頭の天辺から洗いながら、気がつくと手を止めてまた同じ事を考えている。考えないようにしても、考えている。一人になるといつもそうだ。俺は頭をタイルに打ちつける。やけに染みる石鹸が目に入る。

 あの夏の夜もこの国の夜と同じように蒸し暑かった。

 始まりはやはりあの夜だったのか?

 俺は彼女を病院に連れて行き、命が助かった後に疑問を持った。彼女がリシンなんて毒物を知っているのが不思議だった。彼女に聞いても〈先生〉が教えてくれたとしか言わなかった。この国で毒物を使った事件は時々起きているが、俺はリシンなんて言っちゃあ悪いが毒性の割にマイナーなものを使った事件を知らなかった。そこで俺は調べてみた。ヒットした事件のほとんどが海外でのテロだったが、数少ない国内事例のうち一つが彼女の両親の殺害事件だった。直接の死因は刺殺による失血死だが、二人はその前に食事に混入されたリシンを摂取している。俺はC4でバラバラになって死ぬ前の辰美にも聞いてみた。シンジが彼女に飲ませたリシンは事が露見した時に自ら命を絶つため彼女が自ら用意したものらしい。

 カヅヤは嘘つきだったが、嘘はついていなかったのではないか、〈殺し屋〉はいたんじゃないか。ただその役割は殺すことではなく、殺させること。自分ではなく、他人に殺させるように仕向けること。そもそも当時あきらかに体格が劣っている小学生の少女一人が、大人二人を相手にその命を奪うというのはとても難しいこと。よほどうまくやらなければ、逆襲され自分の命が危なくなる。それなら人格なんていう内向きの力に頼らないで、現実に存在する自分の外にある力に頼ればいい。〈殺し屋〉はその天才ではなかったのか。それはもう〈殺し屋〉ではなく別の名前を与えるなら〈扇動者〉ではないのか。

 そうだとして──あのK町で彼女に何があったのだろう?

 いや──あの国で彼女に何があったのだろう?

 本当の始まりはあの夜のずっと前かもしれない。

 シャワーカーテンの向こうで人の気配がした。振り向くと女のシルエットが見えた。化粧でもしに来たのだろうか。



 俺はシャワーを浴び終わって部屋に戻った。テレビが大音量でついていて、流し目ハンサムなこっちのタレントがやけにポップな曲を歌っている。女がこの男のファンなのかもしれない。俺は女を呼ぶが女は買い物にでも行ったのか返事はない。

 俺は長く湯を浴び続けていたせいか少し疲れていてベッドに座り込んだ。俺の隣に俺の鞄があって中身が全部ベッドの上にぶちまけられている。やれやれと腰に手を当てると真っ赤な血が付いていた。またあの時の傷口が開いたんだろう。床には同じような色の液体が付いたナイフが落ちているが偶然だ。拾ってベッドのシーツで指紋を拭き取っておいた。これで大丈夫だ。

 やけに寒気がしてくる。窓がまた閉まっているので女が気をきかせてエアコンでもつけてくれたのだろう。優しい女だ。でも少し寒すぎる。

 俺は力を振り絞ってベッドから立ち上がり窓を開けに行った。

 空を見上げると流れ星が見えた。いや、あれはそんないいものじゃないだろう。きっとどこかの独裁国家のICBMでも落ちたきたんだ…………クソッ。

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KILLING ME SOFTLY 環F @daylight216bis

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