13 最後の願い

 三時一七分


 解離性同一性障害、かつては多重人格障害と呼ばれていたもの。限界を超える苦痛や心理的負荷がかかった時、人は防衛的適応として自分の感情や記憶を自ら切り離すことがある。その感情や記憶が自己増殖を繰り返し成長、それ自体が個別の人格となり、一時的、または長期的に現れる。

 ただ俺は教科書の内容を丸暗記していただけだ。俺をここに呼んだ辰美だって知っていること。ただこんなレアな症例を扱うにはギャンブルと女に狂ってその世界からドロップアウトした俺には荷が重い。そう、彼女のクソな父親と変わらないクソな俺には無理な相談だ。いくら治療しなくていい、犯人を聞き出すだけだと言われても、それだってただのインタヴューではない。でもやらなければヤクザから借りた億の金を溶かした俺に待っているのはとてもシンプルな結末。

 とりあえず今まで出てきた人格について整理してみる。

〈弁護士〉〈売春婦〉〈客引き〉〈営業マン〉〈メイド〉〈銀行員〉〈探偵〉〈情報屋〉

 想像だが、彼女の中に存在する人格はこの倍、もしかすると十倍はあるかもしれない。多重人格者がよく語るのが人格が集合する部屋だが、彼女の場合はそれが街なのだ。そう〈街〉だ、遙かに広大な領域を持つ。

 そのいずれも、彼女が生き残るために必要な人格だったのだろう。〈売春婦〉は金を稼ぐため、〈銀行員〉はそれを管理するため、〈弁護士〉は騙されないため、〈メイド〉は生活のタスクを遂行するため、〈探偵〉や〈情報屋〉は生き残る上での危険を察知するためだろうか。

「それで君は誰なんだい?」

 今度の人格はここに現れるなり、俺は死んだとか、ここは地獄だとか、お前も俺を食うのか、とか喚くばかりで話に要領を得ない。ただその横柄な話し方から中年のそれなりの地位につく男性ではないかと想像する。

「誰だと思う?」

 彼女から発せられる声のトーンが変わった。トーンだけじゃない、まるっきり違うイントネーション、リズム。人格が切り替わったのだ。これまでは人格交代までいくらかのインターバルがあったが、こんな短時間でスイッチが切り替わるように交代したのは初めてだった。

「ただいま」

 俺はこの声に記憶があった。その話し方を知っている。やっと──やっと〈探偵〉が帰ってきたのだ。

「おかえり」

 言いながら俺は心の底から安堵する。夜明けまで間もなくだった。〈探偵〉が帰ってきたということはきっと俺に伝えるべき何かがあるはずだ。

「──一人?」

〈探偵〉のカヅヤが狭いカラオケルームを見回して言った。

「さっきまで組長付きだったシンジ君がいたけど、自分の仕事に戻っていったよ」

「そうなんだ」

 カヅヤはなぜか少し寂しそうな口ぶりで言った。それから急に思い出したように自分の額に手を当てる。

「頭が痛い。それに熱もある」

「あぁ、何時間か前から君達はその状態なんだ。とりあえず解熱剤は飲ませたが効果はあまりない」

 カヅヤは額に手を当てたまま考えている。

「──もしかしてこのせいでゾンビが?」

「みんなゾンビって言ってるが何なんだ? 君達の〈街〉で何が起こってる?」

 そう、ゾンビだ。ここ数時間に現れた人格の全てが言っている。それはちょうど彼女が熱を出して体調をおかしくしたのと時を同じにしている。彼女の中で一体何が起こっているんだ?

「僕だって色々と分からない。気づいたらそうなっていたんだ。突然、〈街〉にいる普通の人達が理性をなくして周りの人を襲い始めたんだよ。まるでそれが生まれ持った本能みたいに噛み殺そうとしてくる。襲われて噛まれた人もゾンビになっていく。そう、誰かがそれをゾンビだと言ったんだ。顔が青白くて動きが緩慢で、見たことはないけどあの映画のゾンビのようなんだ。今では街中がゾンビだらけだよ、ゾンビに占領されている」

 俺は向こうで起こっていることと現実の彼女の状況を合わせて考えてみた。しかし今の俺ではどんな判断を下すことも難しい。どんなに考えても、中身のないもっともらしい仮説を口に出すことしか出来ない。

「もしかすると人格の統合が始まっているのかもしれないな。彼女が病気になったことで、自己防衛本能が働きだしたんだ。免疫などの生存に関する情報の混乱を避けるため一人の彼女として対処する必要ができた。そのため意思の統一、人格の統一が成されようとしている。それが急激な変化なので少々乱暴な形で表現されたのかもしれない」

「もしくは?」

 意味ありげにカヅヤが聞く。

「今の俺に考えつくのはこれぐらいだよ。そもそもここじゃ、その熱の原因だって分からないんだ。高熱には違いないけど最近では真夏にインフルエンザが流行ったりもするからね」

 異常な高熱に発汗、縮瞳にチアノーゼも起こしかけている。これはインフルエンザなんかじゃない。ゾンビの原因は分からないがもしくは──もしくは脳に実際的な障害が起きているのかもしれない。

「大丈夫だよ、これが終われば病院に連れて行ってやれる」

 俺は微笑すら浮かべてこんなことを言っている。冷たい男だ。

 カヅヤな彼女、彼女なカヅヤはまるで他人事のように手を広げ肩をすくめた。それからペットボトルの水を手に取ると四分の一ほど残っていたそれを不味そうに飲み干した。

 俺は聞く。

「それで何か分かったかい?」

〈探偵〉のカヅヤが肯いた。

「何となく初めから分かってたけど、やっぱりそうだったよ」

「やっぱりとは?」

「〈殺し屋〉がいたんだ。そいつが殺った。組長を殺したんだ」

「殺し屋というのは〈殺し屋〉という人格かい?」

「もちろん。僕らのお仲間さ」

「〈殺し屋〉か──一度も会ったことはないが、そんな奴がいたんだな」

「どうしたの? 驚かないね」

 俺はさっきシンジから聞いた彼女の過去についてカヅヤに話した。俺はその話を聞いてから、もしかすると彼女を守るために殺人という汚れ仕事を請け負う人格が存在する可能性を考えていた。その人格は虐待する両親から彼女を守るために生まれた。

「知っていたかい?」

「僕等は互いのことを知らない。知っていたらたぶん僕は僕ではないよ」

「そいつはまだ向こうにいるのかい?」

 俺は彼女=カヅヤの手に繋がれた手錠を見た。いざとなったらこんなものだけで動きを封じることができるだろうか?

「たぶんゾンビに食われたんじゃないかな。あっちにはもうほとんどまともな人格は残ってない」

 そう言うとカヅヤは苦しそうに咳き込んだ。症状は明らかに悪化している。咳が止むとカヅヤはおどけたように眉を上げてみせる。

「それで、彼女──つまり僕はこれからどうなるのかな?」

 果たしてこれで事件は解決したのだろうか? 俺は自分の考えにまだ自信が持てない。

 俺とカヅヤの間に沈黙が下りる。天井の空調の音に混じって、また別の部屋から拷問の叫び声が聞こえてくる

「そうだよね、彼らはヤクザだもんね、お涙ちょうだいの昔話なんかで許してくれるわけないよね」

 俺はカヅヤを見るだけで何も答えられない。

「せめてなるべく痛くない方法で殺してくれるように頼んでくれないかな。キリングミーソフトリーなんてね。あれ、それってどこかで聞いたな?」

 カヅヤは力なく笑う。

「それにしても苦しいな。もう少し水が飲みたい。彼に持ってきてもらってよ、シンジ君にさ。最後のお願いだから」

「分かったよ、彼に持ってきてもらおう。でもその前に一つだけ聞きたいことがあるんだ」

 俺は聞いた。

「何だい? こうして話すのも苦しいんだ。出来れば手短にお願いするよ」

 俺は肯き、カヅヤの目を見て聞く。

「嘘つきは誰なんだい?」

「嘘つき? 嘘つきって何のことだい?」

「君の助手の〈情報屋〉、キーボーから聞いたんだ。『身近な嘘つき』が組長を殺したって君が言ってるって」

 カヅヤは強い頭痛に襲われたのか、それとも俺の言ったことが分からなかったのか、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。

「あぁ、そのことなら、さっき言ったことと同じだよ。嘘つきは僕たちさ。僕たちはみんなで〈殺し屋〉を隠してたんだから」

「ありがとう。助かったよ」

 俺はテーブルの上に転がっていたマイクを手に取ってカヅヤを、いや彼女の頬を思いっきり殴った。俺が女を殴ったのはこれが初めてだ。本当だ、信用してくれ。俺は女には優しいんだ。だから怒らないで許して欲しい。


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