10 スキンヘッドとドラグクイーン


 カヅヤはスポーツバーのカウンター席でグレープフルーツジュースを飲んでいる。追い駆けっこの喉の乾きがまだまだ癒えてなかったので、ハイボールに変えて改めて注文し直した。目の前にずらり並んだ液晶モニターでは誰もルールすら知らないクリケットの国際試合が流れている。

 船のオールのようなバットでボールを打った選手がなぜか正面のピッチャーに向かって走っていく。乱闘でも始めるのかと思ったが、これで正解らしい。カヅヤは思い出してジャケットから紙切れを取り出した。カサハラシゲルはもうここには帰ってこないだろう。それはもう仕方ない。あとでキチンと処理するだけだ。とにかくやっと〈占いババア〉の所で手に入れたメモを見ることが出来る。

〈占いババア〉ことシマダユキエは僕が来ることが分かっていたのだろうか? 僕がメモを見つけることが分かっていたのだろうか?

『かわいらしい探偵さんへ』

 メモに書かれた文字は、そんな言葉から始まっていた。そしてその下に大きくマザーファッカーのアルファベット、感嘆符までついている。いったいどこでそんな悪い言葉を覚えたんだか。

 グレープフルーツジュースを飲みきったカヅヤは店を出ることにした。〈占いババア〉のメモは役に立たなかったが、〈営業マン〉カサハラシゲルが教えてくれたことがある。

 スツールから立ち上がった時、トイレの方から何か騒がしい大きな音がした。何気なく視線を向け、カヅヤは驚いた。とっくに姿を消したと思っていたカサハラシゲルが戻ってきた。しかも女性と抱き合って。

 カサハラシゲルの表情は見えなかったが、女は彼に全体重をあずけるようにしなだれて肩に頭をもたれさせている。かなり濃密な感じだ。二人は自分たちだけの世界に入ったみたいにダンスしながら店の中をさまよいだした。

 どうやらカサハラシゲルは本当に酔っ払っていたようだ。戻ってきてもらったのに悪いが、その調子だとカヅヤが知りたいことを聞くまでに朝が来てしまう。それにせっかくパートナーを見つけたのに邪魔しちゃ悪い。

 カヅヤは店の出口に向けて歩き出し、しかしすぐに振り返った。

 ──何なんだ、いったい?

 女は甘えるようにカサハラシゲルの肩にもたれかかっている。ただもたれかかっているのではなく、大きく口を開け、その白い歯でカサハラシゲルの首筋に噛みついている。女の口の端からどろりと濁った赤い血が垂れている。

 カヅヤは視線を上げた女と目が合ってしまった。女はカサハラシゲルの肉をそのまま噛み千切ると、カヅヤに向けてさらに血と肉にまみれた歯を剥いた。本来ならこのまま倒れてもおかしくないカサハラシゲルも抉れた首筋から噴水のように血をまき散らしながら、それでも何もなかったように振り向いてカヅヤに歯を剥いた。

 店のどこかで誰かの悲鳴があがる。女は条件反射のようにカヅヤではなくその悲鳴に向けて獣のように飛びかかっていった。残ったカサハラシゲルがカヅヤに向けて一歩一歩近づいてきたが、あちこちで連鎖的にあがる悲鳴や怒声に落ち着きなく体を回し気を散らせている。今しかない、カヅヤは店を出た。

 デジャヴュという言葉がある。なるほどこれが「ゾンビ」なのか──カヅヤの頭の中では見たことのない映像が再生されていた──って、だから何なんだよ、いったい。

 表通りに出て少し安心できると思ったが、状況は急速に予想外すぎる方向に動いているようだ。カサハラシゲルと女だけでなく、ここから見える多くの〈街〉の人達もゾンビ化し、人をそして〈街〉を破壊していた。肉と血が飛び散り、商店は破壊され、車が燃えている。カヅヤは正面から襲ってきた片腕のないコスプレナース、コスプレナースゾンビを蹴り飛ばした。

〈先生〉に会いに行く理由がまた出来た。〈先生〉はこの街に住む人間なら一度は聞いたことのある存在だ。〈先生〉はこの街の本当のボス。〈先生〉がこの街を取り仕切り、動かしている。〈先生〉はこの街で起こったことを何でも知っている。しかしそんな〈先生〉は謎だらけ。決して表に出ず、顔や声、名前に性別すら分からない。そもそも実際に会ったという話も聞いたことがない。カヅヤは〈先生〉なんて本当は存在せず〈街〉の伝説のようなものだと思っていた。

 カヅヤは落ちていたパチンコ店の『新台入替』のノボリを拾って、スキンヘッドゾンビの横顔に叩きつけた。折れてしまったノボリのプラスティック棒をドラグクイーンゾンビの眼球に突き刺した。

 でも〈先生〉はどこにいる? どこへ行けばいい? こんなことならカサハラシゲルがゾンビになる前に暴力を使ってでも聞いておくべきだった。実力も〈探偵〉としてはまだまだだ。カヅヤは汚れた血飛沫を浴びながら舌打ちした。

 信号機に突き刺さった救急車を避けて通りを渡ったところで、女性が一人、整形ホストゾンビと格闘している姿が見えた。今まで意識することもなかったこの〈街〉の顔のない人々がゾンビになった瞬間に個性を持つのが面白い。そのゾンビに渾身のストレートパンチを外され今まさに噛みつかれようとしている女性は、この辺りをシマにしている〈売春婦〉だろうか?、体のラインを強調した超ミニの真っ赤なワンピースを着て、いかにも〈売春婦〉という感じだった。

「ねぇ、ぼんやり見てないで助けてよ!」

 ギリギリのところで整形ホストゾンビを押しとどめる女性はカヅヤを見つけ叫んだ。カヅヤは一瞬考えたあと、全力疾走した。全力疾走してゾンビの背中に飛び膝蹴りを叩き込んだ。倒れたゾンビの首を持ち上げ百八十度捻った。これ以上面倒が増えても困る。

「ありがとう、助かったわ」

 ゾンビと一緒に倒れた女性は体を起こすと履いていたヒールを脱いで、それをゾンビの頭に何度も叩きつけていた。

 それだけの元気があれば大丈夫だろう。カヅヤは回れ右をして歩き出した。

「ちょっと、ちょっと待ってよ、待ってってば」

 まるで痴話げんかのように元ホストに怒りをぶつけていた女性は素早く身を起こすと、もう片方のヒールも投げ捨てカズヤの後を追ってきた。

「悪いけど、僕には行かなくてはならないところがあるんだ」

 カズヤは足を止めずに言った。

「それは私が付いていっちゃいけないとこなの?」

「そう、君が行くようなところじゃない」

「一人じゃ、またゾンビにやられちゃうよぉ」

「その時はまた別の僕みたいな人物に助けてもらえばいい」

 あきらめたのだろうか、後ろからついてきていたペタペタという足音が止まった。

「〈先生〉ならそっちじゃないわよ」

 少し怒ったような声。

 思わずカヅヤは足を止め振り向いた。

「君は──知ってるのかい?」

 カヅヤは〈売春婦〉らしき女性の顔を見る。彼女は片眉を上げ、自信満々に微笑んで見せる。

「〈先生〉のところへあなたを連れて行ってあげる。でもその前に私にも行かなきゃならないところがあるの」

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