9 ルルかパブロン
〇時三三分
「急にこんなところに連れてきてどうするつもりなんですか?」
彼女は俺のいるカラオケルーム17号室の中を不安な視線でキョロキョロと見回す。
「何もしないよ、少し話がしたいだけさ」
「男の人がそう言う時って絶対に何かしようとする時だってテレビで言ってましたよ」
「本当に話がしたいだけなんだよ」
「もしかして、私をレイプしようと思ってます? 私はそういう女じゃありませんよ。エッチなことは何も知らない女なんです」
彼女は俺に襲われないように両手を交差して自分の体をしっかりと抱いている。やれやれ、俺は頬を掻く。俺は彼女を安心させるために自己紹介した。少し嘘を混ぜたが仕方ないだろう。
「それじゃ、お医者さんなんですか?」
俺は肯いた。彼女が腕にこめた力が少し和らぐのが分かる。
「本当に俺は何もしない。話を聞きたいだけだよ。誓ってもいい」
「本当に?」
俺は微笑みながらさっきより大げさに肯いた。
「名前を聞いていいかな?」
「──マエダチハルです」
彼女が小声で答える。
「それじゃ、チハルさんって呼んでいいかな?」
そして小さく肯く。オーケー、わずかでも心を開いてくれればそれでいい。俺は前置きなしに必要なことを聞く。
「それじゃチハルさん、聞きたいことは一つだけなんだ」
「一つだけ?」
「そう一つだけ」
俺は姿勢を正し、マエダチハルの目をしっかり見る。
「分かりました。どうぞ質問してください」
彼女も俺の真似をするように背筋を伸ばす。
「R組の組長が殺されたんだ。何か知らないかい?」
「R組って?」
彼女は初めて聞いた言葉のように首を傾げた。
「K町を取り仕切っている暴力団、いわゆるヤクザだよ」
「──ん? ヤクザ? ヤクザってそんなの知るわけないじゃないですか、私は普通の銀行員ですよ。誰が誰を殺したなんて恐ろしいこと知りません」
彼女は俺の質問を聞いたことすら否定するように何度も首を横に振った。俺の前に座るマエダチハルが嘘を吐いたり何かを隠している様子はない。期待はしていなかったが彼女もハズレのようだ。
「それより、ここは大丈夫なんですか?」
彼女は突然何かを思い出したように、表情を変えて聞く。
「大丈夫って? どういうこと?」
「ここが襲われても大丈夫かってことですよ、決まってるじゃないですか」
「そりゃヤクザだから、日々物騒なことがあるだろうけど、ここは大丈夫だよ。ここは秘密の場所だし、武器を持った組員が何人もここを守っている」
そんな奴らがいるから俺が逃げたくても逃げられないのだ。
「その──ヤクザって強いんですか?」
「他の組はよく知らないけど、このR組は武闘派で知られた組だからね。荒っぽいことは得意だよ」
「それなら大丈夫かも。うん、大丈夫かも」
マエダチハルは独り言のようにそう言うと崩れるようにソファにもたれた。溜息を一つ吐き、右手の人差し指で目と目の間を押す動作をした。
「あれっ? 眼鏡がない? 私、眼鏡をかけてないですか?」
彼女はこのカラオケルームに来てからずっと何もかけてない。
「逃げなきゃって焦ってたから、オフィスに置いてきちゃったのかも。困ったなぁ、どうしよう。私、すごく近視なんですよ」
マエダチハルは急に目を細め、ぼやけた視点にピントを合わせようとする。俺はそんな彼女を面白く眺めながら、彼女の言葉に引っかかりを覚える。
「逃げなきゃ?──オフィスから逃げなきゃって? 何があったんだい?」
彼女はずっとヤクザの抗争のことを言っているのだと思っていた。でもそれは違ったようだ。マエダチハルが彼女のオフィスから逃げなくてはならないほどの事態が〈街〉で起きているようだ。
「何があったか知らないんですかぁ? 人を滅多刺しにする殺人鬼が出たと思ったら、今度は〈街〉がゾンビだらけなんですよ」
「ゾンビ? ゾンビってあのゾンビ?」
そう言えば、彼女の前に話した〈営業マン〉のカサハラシゲルもそんなことを言っていた。〈街〉がゾンビだらけってどういうことだ?
「私は直接に映画を見てないので正確にそれが正しいかどうか分かりませんが、あれはゾンビというものだと思います。うん、ゾンビです。私が襲われそうになったのは何か顔色がとっても悪くって、ううん、顔だけじゃないな、まるで体に血が流れてないみたいな肌の色をした死人みたいなゾンビです。でも目は血走ってて、変なギクシャクした動きで大きな口を開けて噛みつこうとするんです。それで噛みついて人を殺して、その肉を食べて、それでそれで殺されたらその人も蘇って同じようになるんです。それってゾンビですよね?」
そうだ、それは俺が知っているゾンビと同じだった。いったい〈街〉で何が起こっているんだろう? こうやって彼女や彼達とこのカラオケルームで会っているだけで軽く俺のキャパシティーを超えた事なのに、ゾンビまで出てきていったいどうしろと?
「だから正直言って、ここに呼んでもらって助かったんです。一人だったら私もそんなゾンビになってましたから」
マエダチハルは再び体を強く抱いた。しかしさっきとは少し様子が違う。その顔には恐怖と共に苦痛のようなものが現れていた。
「大丈夫かい?」
彼女は一度肯いてから、首を小さく横に振った。
「なんか、急に熱っぽくなってきて、風邪でもひいたのかな? こんな時にタイミング悪いですよね」
「ちょっといいかな?」
俺はこれでも医者崩れだから彼女に近づき額に手を当てた。彼女は拒まなかった。
「何か薬くれませんか? 薬といっても怪しい薬じゃないですよ、パブロンとかルルとかなんでもいいですから。でもできれば漢方がいいです。体に優しいんですよ。葛根湯とかお願いできませんか?」
確かに彼女は熱があった。それもかなりの高熱、発汗もすごい。単純な風邪ではないかもしれない。様子を見て、本物の医者に受診させたほうがいいかもしれない。
「でも、本当にどうなっちゃったんだろう、これまで風邪なんてほとんどひいたこともなかったんですよ。『カトリーヌシマダの今週の運勢』では何も言ってなかったのになぁ。何か変なことばかり起こってる。殺人鬼やゾンビはもちろんだけど、その他にも色々あって、いくら計算しても会社のお金が合わないんです。私、疑われてるんですよぉ、信じられないですよね。私ほどキチンとしている人いないのに。使途不明金、私的流用、何を言ってるのって感じです」
彼女は熱にうかされたように一気に話す。
「きっとまた、誰かが恋人に貢いでるか何かしてるんですよ。私も浮いた話の一つや二つが欲しいです。私はずっとお金の計算ばっかり」
「そういう噂があるの? もし、よければその噂を教えてほしいんだけど」
「さっき質問は一つと言いましたが?」
俺は苦笑いする。
「その前に私の質問に答えてください。お医者さんなんですよね、恋人はいますか?」
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