8 キョウコリターン

 

 キョウコはさした傘の下で大きく息を吸った。

 あの陰気なカラオケルームからやっと〈街〉に戻ってきた。やはり私の生きる場所はここだった。

 さて、これからどうしよう? 〈客引き〉のヨシノ君から何の連絡もないから、今日は客をとらなくていいのだろう。自由とはいいものだ。

 キョウコが表通りに出た時、目の前をサイレンを鳴らしたパトカーが猛スピードで走っていった。それも一台じゃなく、三台も連続で。キョウコは反射的に立て看板に身を隠した。おっぱいパブの看板の後ろで息を止めた。

 サイレンの音が遠ざかってそこから出ると、〈街〉の様子が少し変わっていることに気づいた。見かけは何も変わらない。あるべきところにあるべきものがある、あるべき人がいる。いつもと同じように見える。ただ、何かが決定的に違っていた。キョウコのいない間に何かが起こっていた。キョウコはやっと気づいた。

 キョウコは急に不安になった。組長の死体を見た時でさえこんな気持ちにならなかったのに、じっとしていると体が震えてくる。キョウコは〈占いババア〉に会いに行くことにした。ここで何が起きているのか知りたかった。

 キョウコはこの〈街〉に集まるたくさんの顔のない人達をかきわけ〈占いババア〉の『占いの館』に向かう。この人達は何も感じていないのだろうか?

 リサイクル店の前に並べられたテレビで食堂の店主が殺されたニュースをしていた。その店にはキョウコも食べに行ったことがあった。ラーメンとオムライスがとても美味しかった。野菜不足だからってコールスローサラダをおまけしてもらったこともある。キョウコは画面に向かって手を合わせた。またパトカーが通り過ぎた。

 キョウコは一階のタバコ屋脇の目立たない入り口からエレベーターで五階まで上がった。五階の一番奥が『占いの館』だ。

 扉には営業中を示す黒いバラのリースがかけられていた。キョウコはホッと息を吐く

 キョウコはいつものようにインターホンを押す。少し待ってみるが反応はない。もう一度押してみる。それでも反応はない。さっき安心したのもつかの間、ずっと不安になってきた。キョウコはドアノブを手に持って捻ってみた。鍵はかかっていなかった。

「もしもーし、〈占いババア〉さん、キョウコちゃんが来ましたよぉ、もしもーし?」

 声をかけながら部屋の中に入っていったが、返答はない。誰もいない。テーブルの上と部屋の隅のロウソクは火がついたままになっている。キョウコはテーブルの水晶玉に近づいて覗いてみる。〈占いババア〉に占ってもらいながら、そこに何が見えるのかずっと気になっていたのだ。でもそこに見えたのは逆さになって小っちゃくなったこの部屋だけだった。キョウコの将来の姿なんかは全然見えなかった。ラッキーアイテムが浮かび上がることもなかった。もし〈占いババア〉がいたらこの〈街〉のこととは別に、彼氏について占って欲しかったのに。どうすれば彼氏ができるか知りたかったのに。

〈占いババア〉はどこにいったのだろう? さっきからの不安がさらに増してキョウコは息苦しくなってくる。

〈占いババア〉がいないのなら、〈先生〉に会いにいくしかない。いつものようにお説教されるのは嫌だけど、何でも知ってる〈先生〉なら〈街〉がどうなってしまったのか知ってるはずだ。〈占いババア〉と仲が悪いのは知ってるけど、それでも〈占いババア〉がどこに行ったのかも知ってるはずだ。

 そうと決まれば一刻も早く〈先生〉に会わなくてはならない。キョウコは駆け足で部屋を出てビルも出た。そう言えばあのカラオケルームの朝比奈という男も先生と呼ばれていた。世の中にはいろんな先生がいるものだ。

 キョウコは再び雨の降る〈街〉を歩いた。さっきから誰かに後を尾けられているような気がする。そいつが今にも襲ってきそうな気がする。そういうカンは結構当たる。

 まさかあいつ? 〈占いババア〉はあいつが目覚めたと言っていた。でも〈占いババア〉が言っていたあいつがあいつなら私を襲うわけがない。あいつが襲うのは私達ではない別の世界の誰かだ。

 キョウコは後ろを向いて確かめたかったが、向いた瞬間に悪い想像が本当になりそうでそのまま歩き続けた。早く〈先生〉のところに辿り着きたかったが、まだまだ距離はある。自然に歩くペースは早まり、もう小走りになっている。表通りから路地に入って追ってくる相手をまいてしまおうかとも思ったが、なんとなくそれはまずい気がして止めておいた。迷路のような路地にキョウコのほうが迷ってしまってあいつに追いつかれ暗闇の中で刺し殺される、そんな映像がなぜか頭に浮かんでくる。

 キョウコはもう傘を投げ出して走っている。頭も体も雨に濡れるが気にしている場合ではない。かなり早く走って、何度もそいつを振り切っているつもりだが、なぜかその不気味な気配はキョウコから離れなかった。

 キョウコは道を歩く名もない人の肩に触れ、声をかけた。

「助けてください! 誰かが私を襲おうとするんです!」

 キョウコに振り向いたその誰でもない誰かは、もう顔のない誰かではなかった。なぜか目を血走らせ、片方の鼻の穴から血を垂らし、口をだらしなく開け、病気の犬のように涎を垂らしている。

「大丈夫ですかぁ?」

 一瞬、キョウコは自分に迫っている危険を忘れ、その声をかけた人物の心配をしてしまった。その人物は答える代わりに大きく口を広げ、そのままキョウコの首筋に噛みつこうとする。

 キョウコは大きな悲鳴を上げた。その誰かを両手で思い切り突き飛ばした。

 倒れたそいつは体にまるで力が入っていないかのようなのろのろした動作で立ち上がると再びキョウコに向かってくる。キョウコはそんな誰かをどこかで見た気がする。そいつから逃げながらがんばって思い出して──そうだった、お客さんと一緒にホテルのテレビで見たんだった。怖い映画だった。お客さんは確かゾンビとか言っていた。

 キョウコはその名前を思い出してあらためて周りを見てみた。映画と同じようなゾンビがキョウコに向かって集まりはじめている。手や口を真っ赤な血で染めたゾンビがいる。誰かの千切れた体の一部を持つゾンビもいる。

 何が起こっているのか本当に分からない。〈街〉のあちこちでキョウコと同じような悲鳴を上げる人がたくさんいる。そしてそれ以上にゾンビになった人達がもっとたくさんいる。

 とにかく一刻も早く〈先生〉に会いにいかなくてはならない──ううん、その前にあの子を助けに行かなくっちゃ。こんな風になってしまったら、あの子を助けられるのは私しかいない。

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