7 スポーツバーで大人のおもちゃの話

 

 どうして時間がないのにスポーツバーで酔っ払いと並んで座っているのか分からない。しかもこの酔っ払いは名刺まで出してきている。

「『笠原茂』さん?」

「そう」

「『株式会社満足科学』?」

 聞いたことのない名前の会社だった。

「そう、今はそこに勤めてる。前は空調の会社の営業で、今は大人のおもちゃの営業」

「──大人のおもちゃですか?」

 大人のおもちゃがどういうものかは知っている。だからそういう少し特殊な物だからというわけではなく、この男が扱っているのが土地でも株券でも車でもコロッケパンでも感想はない。そんな言葉しか返せない。

「そう、大人のおもちゃだよ。ローターからバイブレーター、ディルドにリングにホール、男が女に使うのも、女が男に使うのも、男が男に、女が女に、一人でも、複数でも」

「──はぁ」

「うちは業界でもトップの開発力で、全て天然素材、アレルギーテストも合格、血圧やコレステロール値まで測ってくれるものまであるんだぜ」

 普通は「スゴいですね」とでも褒めるのだろうか?

「業務用で個人には販売してないんだけど、特別にどう? バイブでも一本いらない? 彼女が喜ぶよ」

「いや、彼女はいないんです」

「それじゃ、彼氏とどうかな?」

 カヅヤは肩をすくめることでそれに答える。プライベートなことを聞かれるのは嫌いだ。

「最近、みんな好奇心がなくて困るんだ。今日もこのあたりの店を回ったけどさっぱりだよ。これじゃ人類は進歩しないよ。性の進歩こそ人類の進歩」

 そこまで言うとカサハラシゲルはスツールの上の体を捻ってカヅヤをジッと見た。そのまま首を傾げるので、カヅヤも首を傾げた。

「で、君は?」

 十秒ほどの沈黙の後にカサハラシゲルは言った。なるほどこっちの自己紹介を待っていたのだ。

「名刺の持ち合わせがなくてすいません。コジマカヅヤといいます。〈探偵〉をしています」

「へぇ、〈探偵〉なんだ。何か〈探偵〉らしくないね」

「よく言われます」

 もう慣れた。

「〈探偵〉っていってもドラマみたいな感じじゃないんでしょ? 意外に地味って聞くよ?浮気調査とかそういうのやるの?」

「まぁ、そうですね」

「こわいなぁこわいなぁ、実は同じ会社のチャコちゃんといい関係なんだけど、見逃してくれないかなぁ、お願いしますよぉ──って、私はまだ独身でした」

 カサハラシゲルは酔っ払いらしい大声で笑う。

「まぁ、それじゃぁ、乾杯といきますか」

 ハイボールで乾杯する。アルコールを飲む気分ではなかったが、ウーロン茶のオーダーを無理矢理変えられた。

「いやぁ、私が助けなかったら、君は危なかったよ」

 あんたが現れなかったら奴を捕まえられたかもしれない。代わりに俺があんたに捕まった。カヅヤはレインコートの男が消えた後、警察に通報するというこの男をどうにか説きふせた。交換条件は一緒に飲むことだった。贔屓のチームが勝ったので一緒に飲む相手が欲しかったらしい。

「あれは誰? どうしても浮気を奥さんに報告されたくない旦那に襲われたの?」

 カヅヤは曖昧に微笑む。

「そうだよね、分かるよ。探偵には守秘義務っていうんだっけ、そういうのがあるもんね。私だって開発途中のすっごいローターの話は出来ないもんなぁ、したいんだけどさぁ」

 表通りを緊急車両がサイレンを鳴らして通り過ぎる音が聞こえる。

「それにしても、最近は物騒だよね」

 カサハラシゲルはトールグラスのハイボールを一息で半分ほど飲んで言う。緊急車両の音に導かれるように、壁一面のスクリーンに投影されたプロジェクターの映像も、目の前にずらりと並んだ液晶モニターの画像も、さっきまでのヒーローインタビューからニュースに変わっていた。

 ぼんやりと見ていた画像の中に知っている顔が映る。その下には『金村哲夫さん』の文字。続いて数時間前に訪れた大衆食堂が中継される。立ち入り禁止の黄色いテープが張られた通りからリポーターがカナムラテツオの死体の状況について説明する。

「またやられたんだ、これで何人目だよ?」

 カサハラシゲルは魚のフライにたっぷりケチャップをつけながら言った。

「ん? どうしたの? これけっこういけるよ、食べなよ」

 カヅヤは差し出されたバスケットを見ながらチャーシューがたっぷりのったラーメンを思い出していた。あのラーメンがもう食べられないと思うと残念だ。

 連続殺人のニュースは事実関係を伝えるだけに終わり、〈街〉のはずれで起きた暴動のニュースに変わった。

「さっきも言ったけどさ、ほんと物騒だよね。いや、今夜が特に物騒なのかな?」

 カサハラシゲルはカヅヤの肩を叩くとグラスのハイボールを飲み干し、また大声で笑った。何が面白いのだろう?

「〈探偵〉さんとしては、最近のK町の事件はどう考えてるの? 専門家の意見を聞かせてよ」

「いや、ああいう深刻な刑事事件と僕みたいな浮気調査の探偵業は全く違うから意見も何もないですよ」

「いやいや、K町を仕事場にしてるなら何か色々と知ってるんでしょ? まさかこの事件でも守秘義務があるとか? ひょっとして関係者?」

 これ以上余計なことを勘ぐられてもいけないので当たり障りのないことを答えておく。

「そんなことあるわけないじゃないですか。あくまで噂でいいなら、警察は違法薬物の常用者を中心に捜査をしているらしいですよ。あれだけ残酷な殺しを連続してできるのは、やはりまともな神経ではないですからね。それに事件現場の付近で宇宙だの神だのと叫んでいる男が目撃された情報もあるらしいんです。目を血走らせ、涎を垂らして、見るからにヤバそうな奴が。そういう奴は常識が通用しないから、カサハラさんもK町を歩くときは十分注意したほうがいいですよ」

 カサハラシゲルはカヅヤに向かって何度も肯いた。

「そうそう、クスリと言えば知ってるかい? かなりやばいクスリが出回ってるらしいじゃない」

「やばいクスリ?」

「そうだよ、そう、やばいクスリだよ。何か閃いちゃったよ、私にも。もしかして〈探偵〉の才能があるかもしれないな。それってK町の殺人鬼も同じクスリとか?」

 K町のような歓楽街ではその気になればどんな違法薬物でも手に入れることかできる。最近では以前からある化学系の違法薬物、アンフェタミンやメタンフェタミン、LSDやMDMAの組成を一部変えて、グレーゾーン化したものまで流通している。その中には予想を超えて服用者に異常反応を起こすものも少なくない。以上は〈探偵〉の知識だ。カサハラシゲルの言うクスリはその一種だろうか?

「人をゾンビみたいにしてしまうクスリなんだってさ」

「ん──ゾンビって?」

 カサハラシゲルはその質問には答えない。そしてまるでその言葉が常識であるように続ける。

「そいつに襲われたら自分もそうなってしまうらしいぜ。だからあのゾンビといっしょだよ。分かるだろ? お互いに気をつけよーぜ」

 カサハラシゲルがそこでまたカヅヤの肩を叩く。それから大声でローラースケートのウェイトレスを呼んでハイボールのおかわりをする。そのハイボールが来るまで鼻唄を歌いながら目の前の液晶モニターに映ったスポーツニュースをぼんやり見ている。贔屓にしているチームが勝ったから嬉しいと言っていたのに、そのチームの試合になっても特に反応は示さない。むしろ興味なさそうに見える。

「で、何を話をしてたっけ?」

 数分前に置かれたハイボールにカサハラシゲルはやっと気づく。

「ゾンビになるってクスリの話ですよ」

「そうだそうだ、そのクスリだ。でもその前にもう一度乾杯しよう。我が愛するチームの勝利に」

 カサハラシゲルはほとんど手をつけずにテーブルに置かれたカヅヤのグラスに自分のグラスを当てる。

「そう、それでクスリなんだけど──いや、人をあんな風に変えるんだから毒だな、うん、そうだ。その毒はね──」

 カサハラシゲルは首を動かし周囲を確認すると、顔を近づけ口に手を当ててカヅヤの耳元にささやいた。

「大きい声では言えないけどね、全部陰謀らしいよ。政府が人体実験をしてるんだってさ、秘密のクスリで人がどう変わるか実験してる。無敵兵士を作るんだってさ、どんなことがあっても大丈夫な死なない兵士」

 カサハラシゲルはカヅヤの目を見て芝居がかって大げさに肯いた。

 カヅヤは露骨に顔をしかめる。

「やっぱり嘘だってわかる?」

 嘘というより酔っ払いの戯言にしか聞こえない。カサハラシゲルはまたまた大声で笑っている。酔っ払いそのものだ。そろそろここを離れることを考えなくてはならない。

「分かるかい? 現実はとてもデリケートなんだよ。わずかなことで結果は著しく変化する。だから私は私が正しいと思うんだ。君は君が正しいと思ってるんだろ? そうだろ?」

 カサハラシゲルは今度もハイボールを一気に飲み干すと、カヅヤの顔に視線を戻した。面倒な説教でも始めようとしているんだろうか? 

「何か疲れた顔をしてるよ?」

 ここ数日は疲れることしかしていない。

「よく寝てる?」

 寝る時間があれば動き続けなければならない。

「マスターベーションするとよく眠れるよ」

 真面目な顔をしてカサハラシゲルは言う。カヅヤはもうどういう顔を返していいか分からない。

「やっぱりエアコン買わない? いや、それはこの前までか。そうだ、そう、今は大人のおもちゃだった。いいオナホールがあるんだよ、どうかな?」

 結局、〈営業マン〉は営業しているものを売りつけたいだけのようだ。このまま帰してくれるなら一つぐらい買ってもよかったが、やはりモノがモノだけに断った。

「スイマセン。今はあまりそういう気になれないんです」

「健康は大事だよ。健康には本当に気をつけなくてはいけない。健康じゃないとやりたいことがやれない。自分を守れない。ゾンビがやってくる。ゾンビになってしまう」

 ここまで言うとカサハラシゲルは急に表情を変えた。酔っ払ってだらしなかった顔が締まる。姿勢を正し、改めてカヅヤの目を射るような視線で見る。

「本当に気をつけなよ。これ以上無茶をすると、君の安全は保証できない。〈先生〉は平和的にこの件を解決したいんだ」

 〈営業マン〉は声のトーンを一段落としてカヅヤに言った。さっきまでの酔っ払いのカサハラシゲルではなかった。

「あーまた、飲み過ぎたかな。ほんの三十分前に反省したばかりなのに。また吐きそうだよ。やっぱり無理できる年齢ではないんだよね。忘れちゃうよね。ごめんね、ちょっとトイレ行ってくる」

 カサハラシゲルがカサハラシゲルでなくなったのはわずかな間のことだった。再びただの酔っ払いに戻る。カサハラシゲルはこみあげる吐瀉物に口を押さえると慌ててスツールから立ち上がって、ふらつく足で店の奥に急いだ。カヅヤはまだ『ゾンビ』というのが何なのか分からなかったが、聞き返すタイミングを逃してしまった。

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