第十三話 囁きの森
食事だけが運ばれる、窓のない狭い部屋で寝起きを始めてからのシャオの日常は、悪夢を見るか食事を摂るかのどちらかだけだった。
しかし、次の日はその常ではなかった。
寝覚めの悪さは相変わらずだったが、それを振り切る原動力がシャオにはあった。
ベッドから下り、食事を済ませたシャオは、部屋から飛び出した。
天高く聳える四つの尖塔に囲われた王城の位置は、どこに居ようとすぐわかる。
城の方へと歩きながらシャオはリーシャの白くほっそりとした手と、その細い指にはめられていた指輪を思い出していた。
シャオの記憶の中にある姉の手は、いつもひび割れ、あかぎれていた。当然そこには昨日の彼女の指にあったような高価なアクセサリーはない。
シャオの思い出の中に父はいなかった。母の姿も薄い。
シャオが生まれる前に父と別れたという母は、シャオがまだ幼い時に子供たちを置いてどこかへ行ってしまった。それ以後、姉のリーシャがシャオの母親代わりとなったのだ。
五つ年下の弟の面倒を看ながら、母の残した借金も返済しなければならなくなったリーシャに余計な装飾品にかける余裕はなかっただろう。
幼かったシャオは、それに思い至らなかった。けれど、今は違う。
「囁きの森、か」
リーシャが帰った後も忘れないように何度も口にした場所の名をもう一度繰り返す。
姉のリーシャは昔から控え目で、大仰に感情を露にはしないが、それでも昨日の様子から彼女が失くしたというイヤリングを今も惜しんでいるだろうことは伝わってきた。
もしかしたら、贅沢品に一切の縁がなかった姉が初めて手にしたものだったのかもしれない。
そんな事をシャオは思い、そして決心した。
身動きのとり難い姉に代わって、自分がそのイヤリングを見つけ出す。
それが出来たらリーシャも喜んでくれるだろうし、今までの免罪符にもなるかもしれない。
そう、免罪符に……。
王城は高い壁に囲まれていた。
シャオの目で確認できるのは、城壁の上から頭を出す城の一部と、その東西南北に据えられた四つの塔の先端だけで、城内の様子などは窺い知れない。
囁きの森は城内の一角にあると言っていた。つまり、この壁の向こうにそれはあるということだ。
辺りを見回すも入口らしきものは見当たらない。
この塀を伝って行けばいつかはそれらしいものに辿り着くのだろうが、それも面倒だ。
石造りの壁は石が重なっている部分に窪みがあり、そこに手や足を引っ掻ければよじ登ることも可能だろう。昨日まではその動作もしんどいものだったが、今日のシャオにはそれほど難しいことではなかった。
城壁の向こうに降り立ってみると、そこは塀に囲われた石畳が続くだけの何もないところだった。森どころか、木の一つも見当たらない。
シャオは右を見て、それから左を見て頭を掻いた。
どっちに行けば囁きの森があるのかさっぱりわからない。せめて番兵の一人でも立っていてくれれば尋ねられるのに。
そう思っていた時だった。
「探し物かい?」
と、突然に声をかけられた。
びっくりして首を回らせると、そこに一人の男が立っていた。
男はシャオと目が合うと、にっこり微笑んだ。
鼻の上にうっすらと浮かぶそばかすと相俟って人好きされそうな笑みだったが、突き刺すような色彩のスカーフを額に巻き、腰には包丁片手に不気味な笑みで迫って来る骸骨が、やはり毒々しい色合いで描かれた前掛けをしていて、シャオを一瞬ひるませた。
だからそのことに気付くのが遅れた。
ついさっきまで誰もいなかったはずなのに。
首を捻るシャオに骸骨の前掛けの男は笑みを浮かべたまま問いかけてくる。
「それとも迷子かな?ここは王城内で、関係者以外は立ち入り禁止だよ」
そう言う彼は格好からして明らかに城詰めの兵でも宮仕えの人間でもなさそうだ。前掛けはよほど軽い素材なのか、風もないのにひらひらと僅かにはためいて骸骨を躍動させている。
「え…と、囁きの森がどこか知ってますか?」
何にせよ誰かに道を尋ねたいと思っていたところだ。些細な疑問よりもせっかくの機会を掴む方を選ぶことにした。
「囁きの森?」
意外な問いだったのか、男は不思議そうな顔をした。
「そこにどんな用事があるのかな?好んで人が集まるようなとこではないよ」
「はあ。落とし物を探しに行きたいんです」
「ふーん」
男は少し考えるような様子を見せてから、左の方を指差した。
「そっちに行くと道が二股に分かれる。細い方を進んで行けばその内に囁きの森に着くよ」
「ありがとうございます」
シャオは礼を言うと、小走りに男が指差した方へと駆け出した。特に急ぐ必要はなかったのだが、男がさらに詮索を続けてきそうだったので面倒だったのだ。
言われた通り道が二股に分かれた。
一方は石畳が続く道で、もう一方は雑草が生い茂る小道になっていた。シャオは雑草を踏み締め先に進んだ。
少し我に返ったのか、小走りを止め歩きながら思う。
勢い込んで来たのはいいが、果たして木々が生い茂る森の中で小さなイヤリングを見つけ出せるのだろうか?
ところが、シャオの懸念を他所にいつまで経っても囁きの森に辿り着かなかった。それどころか木の一本も見えてこない。
奇抜な格好の男に嘘を教えられたのかと疑い始めたところで、道が途切れた。
小道の先は、ただただ雑草が地面から顔を覗かせるだけの空き地だった。
やはり嘘を教えられたのだと来た道を引き返そうした時だった。
シャオの耳を誰かが引っ張った。
慌てて辺りを見回すが、誰もいない。首を傾げているとまた耳の辺りで何かが動く気配を感じる。それらが物理的な圧力ではないと悟ったのは、不可解な音を耳が捉え始めたからだった。
耳元で誰かが囁いている。けれど周囲には誰もいない。
不思議な状況に躊躇している内に、音はどんどんと大きくなっていく。
耳を引っ張られるような感覚どころではない。頭痛と共にシャオの視界は回り始め、終には立っていられなくなった。頭に反響する得体の知れない音から逃げようとした時にはもう遅く、シャオの指は土を削っていた。
そしてその腕を誰かが掴んだ。
「こっちへ!」
声の主に腕を引っ張られ、シャオは小道に引き戻された。途端にあれほど騒がしかった音たちも消え、眩暈も治まった。
どうにか両脚で立てるようになったシャオの前には、先程の派手なスカーフと骸骨の前掛けをした若い男が立っていた。
「危なかったねー、大丈夫?」
ついさっきと変わらない愛想のよい笑みがシャオの顔を覗き込む。
シャオは事態が飲み込めず、ただ呆然と男を見つめ返す。 「おや?」と男の眉が上がった。
「あれれ?ひょっとして手遅れになっちゃったかな?おーい、大丈夫かーい?」
ぱんッとシャオの眼前で手が打ち鳴らされ、それに反応してシャオの身体がびくりと動く。男がホッと息を吐いた。
「ああ良かった。聞こえるんだね。口は動くかな?」
「は、はい。え…と、さっきの…」
なにが起きたかよくわからないままだったが、シャオは聞かれた通り口を動かしてみる。
「そうそう。さっき会ったね。記憶も大丈夫なようだ」
「はあ。なんでここに?」
「それはもちろん、君のことが心配だったからだよ」
さらりと答えが返ってくる。
「心配?」
「ところで落とし物は見つけられたのかい?」
「え?」
男はシャオの背後を指差し、言った。
「君は囁きの森に落とし物を探しに行ったんだろう?もう見つけられたならいいけど、まだなら諦めることをお勧めするよ。特に、君はね」
指が示す先を目で追えば、そこはやはりさっきまでシャオが居た空き地だった。
「…ここが囁きの森?草しかないただの空き地じゃないか」
「あー、それは通称だからね。実際の森を指してる訳じゃないよ。けど、囁きの森といえば、ここしかない」
シャオはもう一度振り返る。やはり何の変哲もない空き地にしか見えないが…。
「…気のせいかもしれないけど、ここに入った途端に変な音が聞こえたんだ。何を言ってるのかはわからなかったけど、耳元で誰かが喚いてるような。うるさすぎて頭が割れそうになって、それで…」
「それが囁きの森だからね」
さも当然のように男は言う。
「ここは土地が特殊なんだ。気を付けないと頭を壊され、心身不随に陥ってしまう。あまり長く居ていい場所じゃないよ。感度のいい子は特にね」
「心身不随…」
ぶるりとシャオは震える。男の言っていることがただの出任せではないのは、すでに体験済みだ。彼に腕を引かれなければ、今頃は……。
「まあ、無事でよかったよ。どっか変なとこはない?」
「はい。ありがとうございます」
「いいんだよー。それより、君はもうここには立ち入らない方がいい。いいね?」
「はあ…」
シャオは男から視線を外し、空き地に目を遣った。ここから見るだけなら、ただの空き地でしかないのに。
囁きの森から目を離そうとしないシャオに、男は頭を掻きながら尋ねてくる。
「一体なにを落としたんだい?」
「イヤリング。花の形をした珍しいやつ」
「ふーん。君も、それを落とした本人も諦めることだね」
行くよ、と肩を叩き、男はシャオを促す。確かにこのままここに立ち続けていてもどうしようもない。シャオは促されるまま男の後に付いて囁きの森を後にした。
「王城内にはね、ああいう
「はあ」
どうやら彼には王城内への侵入経路を見られていたらしい。そう言う本人は一体何なのかと首を傾げながら来た道を引き返し、元の位置まで戻る。
今さっき注意されたばかりだが、ここから再び城壁を乗り越え王城外に出るのが迷わず帰れる最短のルートだろう。そのつもりでシャオが足を止めると、男は、
「こっちだよ」
とシャオを手招いてくる。
城門から出ろということなのだろう。面倒だが仕方なく後に付いて行くと、やがて石畳が緩やかなスロープを描き始めた。明らかに城外ではなく内に向かっている。
シャオが問いかける前に男が口を開いた。
「本当はさ、君は自主的に隔離室から出てはいけなかったんだよ。パイハールが僕らに無断で君を連れ出したから勘違いしちゃったかもしれないけど、君は迎えが来るのを待つべき身だったんだ」
「え?」
「おかげで僕は空っぽの部屋から君を探索しなければならなくなった。ベルメザから君の風貌を聞いておいてよかったよ。まあ、僕らが兄弟を見誤るなんてこと無いけどね」
「ベルメザ…」
なぜ彼の口からパイハールやベルメザの名が出て来るんだ?城詰めでもない人間が、なぜ?
「ま、それは別にいいんだけどね。良くないのは、時間に遅れそうだってとこなんだ」
懐から取り出した懐中時計を見ながら、男はため息を吐く。それから、何かに気付いたように「ああ」と呟き、シャオを振り返った。
「そういえばまだ名乗ってなかったかな?僕はハーラン。君と同じドラゴンナイトの三兄で、君が隔離室で待つべきだったのが僕なんだよ。末弟のシャオくん」
骸骨が風にはためいて、愉快そうに笑ってシャオを見ていた。
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