第九話 訪問者

 ―――姉さん、姉さん。


 シャオは灰褐色の長い髪を揺らす後ろ姿に呼びかけていた。


 ―――姉さん、姉さん。


 返事はない。振り向いてもくれない。いや、できないのだとわかっていた。けれどもシャオは姉の後を追い続ける。

 

 ―――姉さん、どこ行くんだよ?


 ふいにリーシャの前方から人影が現れた。

 リーシャの細い腕を掴む指輪だらけの大きな手が、無理矢理に彼女を馬車の中へと引きずり込んで行く。


―――姉さん!!


 指輪だらけの大きな手がシャオの視界を塞いだ。

 たちまちそれが燃え盛る炎となり、巨大な龍の顎となってシャオに食らいつく。


 シャオは悲鳴を上げ―――悲鳴と共に目を覚ました。


 夢か。


 白い天井を見つめながら、言い聞かすようにもう一度心の内で繰り返す。


 喉は干上がり、声はまだ出ない。どくどくと早鐘のように鳴り響く心臓の音と呼応するように汗が噴き出してくる。


 そう、夢だ。あれは、ただの夢だ。


 夢の中でシャオは何度もあの龍に喰われかけた。何度ごうごうと燃える牙に切り裂かれたことか。たかが夢。けれど、それのおかげでシャオは何日もベッドから起き上がれずにいる。


「夢…なんの夢だっけ…?」


 懐かしいひとが出てきた気がするのに、思い出すのは自分を喰おうとする巨大な龍の顎ばかりだ。


 龍に殺される。


 そんな言葉が浮かんだ。誰かが言っていた言葉だ。誰だったろう?


 やっと声を出せるようになったシャオが呟きを漏らした時だった。部屋の扉が開いて、人の顔が覗いた。シャオは首を回らせそちらに顔を向けた。それだけの動作が酷く煩わしい。


 だが、恐らくこれがシャオがこの部屋に寝かされてからの初めての来訪者だ。そもそも扉が開いたこと自体が初めてといえるだろう。多少億劫でも顔を向けない訳にはいかなかった。


「おやおや、これはこれは」


 入って来たのは、丸い体の上に丸い顔を乗せた雪だるまに高価な衣服を着せたような男だった。


「なかなかお顔を見せに来ていただけないものですから、こちらからお伺いしてみればまだ御睡でいらっしゃったとは。さて、どうしたものか」

「……あんたは?」


 丸い男は片手を口元に当ててコホンともったいぶった咳払いをした。その太く短い指を埋め尽くすように嵌められた指輪が、不快感と共にシャオの目に飛び込んで来た。


「失礼。わたくしパイハール=ユグルと申します。どうぞお気軽にお呼びつけ下さい。身分は…」

「貴族だろ」


 ぶっきらぼうなシャオの物言いに、パイハールは肉に埋もれた目をぱしぱしと瞬かせて見せた。


「おっしゃる通り平民ではございません。貴族に名を連ねさせていただいております。しかし貴族といえど上から下に幅がございまして、一言で片づけてしまうのは少々大雑把すぎるかと」

「じゃあ上の方の偉い貴族なんだろ。平民を無理矢理に連れ去れるくらいには」

「シャオ様は風光明媚な西の山間にある小規模の町の御出身でいらっしゃいましたな。あの辺りは避暑地として王都の者にも親しまれてはおりますが、逆もまた然りとは言えないようで、残念なことです」


 パイハールは丸い顎を撫でながらベッドの上のシャオを舐めるように見回すと、扉の方へと戻り、そこで丸い体を大儀そうに折り曲げた。


「ふむ。御食事は滞りなくお済みのようですな」


 パイハールが腰を曲げて眺めているのは、シャオが昨夜平らげた夕食の食器だ。


 扉も開かれない、人もやって来ない日々の中で、扉の下に設けられた小さな開閉口を通して朝昼版と食事だけは供給されていた。


 シャオはずっと本能のままに食事を摂るか、夢にうなされるかの毎日を送っていたのだ。最も食べ物が喉を通るようになったのは、つい昨日のことだ。


「さて、それでは参りましょうか」


 揉み手をしながら再びベッド脇に戻って来たパイハールにシャオは尋ねる。


「参る、てどこに?」

「決まっているでしょう。王の御前にですよ」


 そう告げた本人は大きく胸を張ったが、シャオはぼんやりしたままだった。パイハールの丸い顔にありありと呆れた表情が浮かぶ。


「貴方は数多いた志願者たちを退け、見事最終試験を突破されたのですよ。おわかりですか?」

「試験?おれ何か受けたっけ?」

「ええ、貴方はこの世で最も難関な試験を受けられ、そして合格されたのです」


 ため息混じりにパイハールは言う。


「ドラゴンナイト・シャオ。それがどれほど身分の高い貴族よりも崇高な貴方の称号ですよ」

「ドラゴン…ナイト…」


 夢うつつの中を漂っていたシャオの意識がようやく現実を取り戻し始めた。

 

 小さな礼拝堂の中で炎に飲み込まれたことを思い出す。


「あれから…どれくらい経ったんだ?おれは…おれは無事なのか…?……生きてるのか……?」

「あれから、とはシャオ殿が最終試験を受けられた日でよろしいのでしょうか?それでしたら、今日でちょうど十四日目になります。それから、わたくしの見る限りシャオ殿は至って御無事の御様子。生きていなければお食事を召し上がることもできないと存じますが」

「十四日?十四日も経ってるのか?」

「ええ。ですから、そろそろベッドから起き上がっていただきたいのですがね」

「……で、あんた誰?」


 パイハールの呆れ顔はもはや笑顔にしか見えなかった。


「わたくしの卑名などどうでもよろしい。それより新たなドラゴンナイトの御登場を王が首を長くしてお待ちでございます。ささ、参りましょう」


 シャオに否応を言う暇はなかった。


 パイハールが両手を打つと部屋の外に控えていたのか、家人とおぼしき人間が五、六人どっと入って来た。あれよあれよという間にシャオは髪を撫でつけられ顔を拭かれ香水を吹き付けられ、今まで袖を通したこともないようなひらひらの礼装に着替えさせられていた。そして気付いたら馬車の中だった。


「…あんたやっぱり貴族だな」


 目を回しながらシャオは呻いた。


「仰る通りでございます。さ、着きましたぞ」

「は?」


 どうやらシャオが寝かされていたのは王城の近くだったらしく、乗ったと思った瞬間に降ろされた先は、すでに城内の中だった。


「ささ、こちらでございますぞ」


 先導して歩くパイハールは、十四日ぶりに外の空気を吸ったシャオと比べて遥かに颯爽としていた。シャオは何度か彼の歩みを止めなければならなかった。


 息を切らし切らし、ただただきらびやかな丸い背中を追ってどれだけ歩いただろうか。「着きましたぞ」との言葉に顔を上げたシャオの目に飛び込んで来たのは、牙を剥き出す巨大な龍の姿だった。



















































































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