『ダイラタンシー』

「そうだミサキ、こないだ言おうと思ってたんだけど」と桜大は、部屋に入り、上着を脱ぎきる前にそう言って、ミサキの緊張をあえて引き出すようなことをした、のかもしれない。桜大にも自覚はない。自覚はないが、そこにいるみんなには、ミサキは少し警戒したように見えた。

 そもそも兄の級友と桜大の大学の友人四人で女子高生の部屋へ押しかけるという事態が客観的に見ればなかなか異様である。その中の、桜大の大学の友人、という人物は特に付き合いが浅く、つい先日会ったばかりだった。トモが知らない人間がここいる、というのは、桜大含め、全員が不思議に思って当然の状況ではある。が、文脈を知れば特段の不思議はないことではないか。

 流れと、きっかけと、少しの意思に運ばれている人間たちが出会ったり離れたりするような出来事が、こんなに小さな田舎にも起きている。

 もちろん招かれた秋谷優は悪くない。桜大が巻き込んだ結果である。とは言え桜大も別に悪くない。大学生活でできた友人を地元に招き入れただけなのだから。その、招き入れた場所が、少し特異で、結果的に物騒だった、という点は残念である。

 では誰が悪い。誰も悪くない、というのは前提として、あえて言うなれば誰が悪い。トモが級友と家族の、町での生活を、かき回しているのが全て悪いのかもしれない。全部自業自得なのかもしれない。中学の頃、浅霧兄妹を無視し続けていたのが悪いのかもしれないし、それも元をただせば小学生の頃、少しの間だけクラスの仲間入りをした転校生の女の子を巡り、桜大との関係バランスが崩れてしまったのが悪いのかもしれない。転校生の父親が交番に勤務していたのが悪かったのかもしれないし、財布を拾って届けたのが悪かったのかもしれない。人形を埋めて、そのままにしたのが悪いのかもしれない。トモの父親が常習的にモラルハラスメントを働く性質を持っていたのが悪いのかもしれない。ミサキがそんな二人を見るともなく見ていたのが悪いのかもしれない。桜大が小説家を目指したことがあるのが悪かったのかもしれないし、それを浅霧兄妹が越して来るまで言わなかったのが悪かったのかもしれない。伯母が双子の父を唆し、迂遠な自殺法を授けたのが悪かったのかもしれない。スピリチュアル系の発信をしていることも何か悪い結果に繋がった要素の一つかもしれない。心のどこかで桜大も、翔も麻衣も、深雪伯母の言うこと、成すことが自分たちに強い影響を与えていて、トモがあんな風になったのはそのせいなんじゃないか、という観念がある。もちろん、そう思っても具体的に何がどう繋がっているのかを指し示すことができない。深雪伯母の発言の一つひとつを拾っても、例えばトモを狂言自殺に追い込むようなものがあったとは思えない。けれど、意味を意に介さない、作り話を真に受けない、と言った教えが、何か、今のこの事態を招いているのではないか、という疑念が拭えないし、だからと言って疑念を抱くことが悪いことだ、とも考えていないことにも、伯母の教えが浸透している実感がある。

 今が悪いと思えば、今が残念だと思えば、過去の全ては悪かったことなのかもしれない。元も子もない話だ。詮無い話だが、人の我というものは、あれやこれやを結び付けて、自分の命と示し合わせて楽しむ癖があると言う。起こったこと、身に降りかかったこと。全部意味なんてない。ただ目の前に現れただけで、観測する機会に見舞われただけ。

 今、ミサキの小さな部屋にいる五人は誰も悪くない。もちろん、今ミサキの部屋にいない誰かが悪いわけでもない。浜中先生は悪くないし、深雪伯母も悪くないし、天彦も悪くない。見様によっては悪いところなんてたくさんあったかもしれないが、誰もかれも、少し後先を考えなかったか、後先を考え過ぎただけだったのだろうと、桜大などは思う。待て、それは深雪伯母が言ったことだ。いつか。言ったことだ、と桜大が思うとき、翔と麻衣も同じように同じことを思う。いつも一歩だけ先を、いつも今のこの一歩を。その繰り返しに過ぎないよ人生は。一歩一歩足を動かす。そして今、この場に立つ。今手に届くところを掃いて、拭いて、撫でて、掴んで、捏ねる。そうするとどうしてか、少しずつ変容して行く物事とか、季節のように廻り替わる気持ちとか、考え方とかがいつの間にかそこに生じていることに気付く。

 そういうことそういうこと。トモが引きこもって死んだ設定になっていたことが、つい昨日今日、本当に死んだことになった。彼は緩やかに死んだんだって、優などは考える。緩やかな死は良いかもしれない。植物の死みたいで。リタイアがあって、忘れた頃に死んでしまう。そんな人生は、意外に望ましいものかもしれない。桜大も翔も麻衣も、それがあまりに緩やかだから、季節が巡るように死んだトモを、やっと肌感覚で失いつつある。夏が過ぎればいつの間にか夏の暑さも不快も忘れるように、少しずつ死ねば、劇的に泣くような必要はないらしい。

 翔も麻衣も優も、粛々と自分の上着を脱いで、折りたたんでいる。桜大のもったいぶった言い方に耳を澄ますともなく澄ませている虚の時間を何とかやりすごしている。

 不穏さが漂いかねない状況ではあるのだが、自分が「こないだ言おうと思ってたんだけど」と口火を切ったのは、関係値とか文脈とかでうやむやになる「よく考えてみれば不思議」な雰囲気を取り去って「要件」を持ち込むための方策、なのかもしれない、と、当の桜大は思う。

 自分が何故、部屋に招き入れられるや否やこんな風に話し始めたのかは、桜大自身あまり分かっていなかったが、同時に理由があるような気もしている。自分の言動が空気として機能する様子が見てとれる。

「こないだ」からミサキは、隣の部屋に兄がいないことを知っていた。知っていながら、兄の架空の三回忌に訪れた級友たちをもてなして、何も知らないフリをしながら雑談に興じていたのだ。彼女にとり隠し事をしていた「こないだ」のとき、桜大が「言おうと思ったこと」なんてたかが知れているはずなのに、それでも、傷が抉られそうな事態に身構えている。そのことが桜大には分かる。翔にも、麻衣にも、伝わっている。

 ミサキに後ろ暗いところがあることはもう間違いないのだ、というところまで、桜大も、翔と麻衣も、ついでに優も、分かっていた。彼らはみんな、先生の通夜の後、桜大の部屋に集まって、ほとんど明け方近く、眠気が薄明りに照らされて罪悪感に変わる瞬間まで懇々と会話をした。通夜の席での出来事を皮切りに、遠藤家での出来事へと回想を巡らし、トモの死体はどこにあるのかを話し合えば、夜明けを待たずに町を歩いて探したくもなる。

 結果的に、町を練り歩く必要はなさそうだった。

 桜大の本棚の下段から、浅霧兄妹が気まぐれに取り出したのは桜大の子ども時代のアルバムだった。「相変わらず小説いっぱい読んでるね」と言いつつアルバムを開いた兄妹は、「おいおい勝手にアルバム見るとか、どんな教育受けてんの?」と、強めの口調で笑われて、優は、本棚の小説のことが勝手にタブーだと思っていたから、少し驚いたみたいな顔をした。

「桜大とトモが浜中先生のお宅の納屋で遊んでいる場面」を切り取った写真を見た。正確には納屋の入り口をバックに、桜大とトモが前景に大きく、そしてやや後方、見切れそうな位置に先生の息子二人が小さく映り込んでいる写真。先生の息子とは通夜の日に会ったので、翔と麻衣もその写り込んでいる兄弟を先生の息子たちだと認めることができた。なるほど、先生の息子たち、先生の家、あの家の納屋。辛うじて見える納屋の入り口の奥の方に、冷凍庫が映っている。

 浅霧兄妹はその写真を見たあと、少々手早くアルバムをめくり、納屋の内部が映った写真を見つけ出す。たまたまあった、もっとはっきりと冷凍庫が見える写真をまじまじと見て、浜中先生の通夜の帰り際に見た冷凍庫と違う気がした二人は、それを指さして、トモの家の冷凍庫を確認すべきだと桜大に言った。

「トモの家のガレージにも冷凍庫あるんだよね?」

「あるけど、こんな冷凍庫、わりとこの辺じゃ珍しくないと思うけど」

 桜大には冷凍庫の違いは分からなかったし、違っていたとしても、この写真はもう十年程前のものなのだから、冷凍庫が代わっていてもおかしくない、と思った。桜大は、そう思ったからこそ、納屋の冷凍庫が少し新しく見えたことも疑問に思わず、ただ、当時は中に入っていたホームランバーやナポリタンのことで頭の容量を満たした。そこにトモが入っている予感というか妄想を抱いたことは誰にも言っていなかった。

 桜大が「こないだ言おうと思ってたんだけど」と発言した後の少しもったいぶるような間を嫌うみたいにこっちを向いたミサキの目はくりくりと丸く幼く、昔妹みたいだと思っていた頃の人懐こい顔つきで、桜大はまた、何かを思い出しながら「そこにある『まどマギ』さ、ちょっと借りて行って良い? 別に今読んでも良いんだけど」と言った。

「まどマギ? いいよ、持ってっちゃって」

 いつだったか、中学の初めくらいのときにトモがハマって見てて、この家には当時パソコンがなかったから、DVDをレンタルしたんだったかしてコツコツ見ていたはずの作品だ。桜大も付き合う程度に見てた。もちろん当時小学生だったミサキも見たがったんだけど、トモはミサキに構わず先を見て、自分が見たら返しちゃって、みたいなことをして、ミサキが酷く傷ついた過去があった。

 桜大は、コミックス版を買って自分の本棚に置いてあるというのは、まどマギが好きでコミックスまで揃えたいと思った、というよりは、あのとき阻害された経験を、別のもので補填するみたいなことなんだろうと思った。

 仕返しをしたいのならミサキはミサキの好きなものを自分だけのペースで楽しめば良いのに、トモが羨ましくなるような自分の世界を作れば良いのに、トモが当時好きだったまどマギの、コミックス版を自分のものにしてちらちら様子を伺うのは、あまりに卑屈な気がして、惨めに見えた。

 トモはきっと羨ましがらないよ、と口に出すまでもなく、ミサキもそんなこと分かっているのに、同時に幼い部分が、兄が私に貸してくれと頼みに来る気持ちよさを夢見ているのを桜大は知っていた。

 桜大はきっと、思うままに動かない兄の代わりをする癖があった。

 何を買っても羨ましがってくれないトモの代わりに羨ましがって、何を着ても可愛いと言ってくれないトモの代わりに可愛いと言って、いたずらに引っかからないトモの代わりに引っかかって、をしてきたと思う。だから妹みたいなもので、だからミサキの顔がやつれてしまうのも、怯えてしまう今の状況も、心からどうにかしたいと思うけれど、桜大には今日、どうしても追求しなければならないことがあった。

 優はコミックス版の『まどマギ』を持っていた。持っていたし、かつて優の部屋で桜大がそれを読んでいたことも知っている。だけど初めて見るような顔をしてミサキの漫画を手に取るのは、きっと何か意味があるんだろうと思って黙って見ている。

「あれ、その、下の段にあるのはもしかして」と翔が、桜大がかねてよりやろうとしてできていたのかどうか分からない、ワントーン声を上げて場面を切り替えるような発声を難なくこなしながら「アルバムじゃない?」と言う。

「僕たち最近アルバムに凝っててさ」と笑顔を振りまくとミサキも笑顔になって「アルバムに凝るってなんですか」と明るい声が出る。

「昨日桜大の家で桜大の小学生の頃のアルバム見てただけなんだけどさ」

 そう言ってアルバムをめくる。

「これはミサキちゃんの」と言って一度表紙や背の部分を眺める仕草をする。

「中学のときのです。こっちが小学生頃かな。こっちはあんま無いかも。お兄ちゃんの中学時代の写真とほとんど被ってるから」

「えー見せて見せて」と言いながら翔と麻衣は、浜中先生とミサキの面識が無い、という嘘を見破る素材を検索している。ミサキが小学生の頃のアルバムには、少しだけやってたピアノ発表会のときの写真や、学校行事で撮った写真が並んであり、確かにあまり、日常的な風景はなく、すぐ見終わってしまった。

 中学時代のものは打って変わって日常が多く、どうしてこんなのが残っているのか、学校のお昼休みに友達とはしゃぐミサキや、友達と海に行ったときのものらしい写真がある。海の写真は、珍しい。珍しいが、桜大はこの写真に見覚えがあるような気がした。これは、もしかして天彦がミサキと同級生のまひろちゃんを連れて行ったときのものではないか。

 桜大は海釣りに連れて行かれる道中、トモと二人で歩いて帰る相談をしたときの居た堪れなさを思い出した。桜大とトモが映った海釣りの写真は無い。写真を撮る雰囲気になんて一度もならなかった。彼女たちはあんな思いをしてなければ良いと思うけれど、写真の二人は楽しそうで、そんな心配はいらなそうだった。二人が映っているってことは撮影者は誰だろう。まさか天彦か? まあいい、そんなことは。翔と麻衣は何か口々に写真の感想を言ったり、ミサキに質問したりしている。可愛いとか、トモとあまり似てないよね、とか。これはどこの写真? とか、この子は何て言う子? とか。

「ああほら、見て見てミサキちゃん。やっぱりあった」と麻衣が必要な写真を見つけ出した。教室でのワンシーンだった。麻衣も着たセーラー服。ミサキと、さっき海で一緒に写っていたまひろちゃんと思しき少女が並んでいる。麻衣はその背景を指さす。

「これ、浜中先生の字だよね? 板書の字、先生すごく字が上手だったから、間違いないと思うけど」そう言って翔と桜大に同意を求める。動かぬ証拠、とばかりに写真を指差してミサキを詰るのは、桜大にも翔にもできそうになかった。女性的な容赦のなさを感じて、優は感心する。

「ミサキちゃん、浜中先生と面識ないって嘘だよね? がっつり授業受けてるじゃない」

「面識ないとは言ってません。あまり関わりがないってだけで」

「うそだよ。あのときミサキちゃん、いえ、私は面識ない先生だから。名前くらいは知ってるけど、って言ったよ」

「そうでしたっけ。よく覚えてますね。私は自分が何を言ったか、一言一句覚えてるわけじゃないんで」

 強張った返答が後ろめたさを押し隠しているようにしか見えず、男性陣は、憐れみからか、黙ってしまっている。後から麻衣に、情けない男たち、という評価をくだされないために何か言わなければと思ったものの、どう口を挟んで良いか誰も分からない。

「覚えてないにしてもさ、あのとき嘘をついていたわけだから、面識ないとまで言ったときの気持ちとか、覚えてないの? だって無意識に嘘ついたりしないでしょ? 名前くらいは知ってるけど、って、無意識で言うにはあまりにも過剰だと思わない?」

 麻衣は、自分の詰問口調が抑えられない事態に少し戸惑っている。責めたいわけじゃない。警察に突き出したいのでも、反省して欲しいのでもない。ましてや探偵ごっこなんてしたくもないのに、嘘を吐くミサキを追求する口調が強くなるのを抑えられない。

「だから、覚えてませんってそんなこと。どうしてそう責め立てるような言い方するんですか。突然押しかけて、アルバム漁って、言いたかったことがそれですか。それに麻衣さんの記憶が正しいとも限らないじゃないですか。そんなに先生のお通夜に行かなかったことが悪いんですか?」

「別にお通夜に行かなかったのが悪いって言ってるわけじゃないよ」と桜大が口を挟む。麻衣に見損なわれたくなかったから声をかけるタイミングを窺っていたけれど、今は麻衣とミサキのボルテージがどんどん上がって、二人が嫌い合ってしまいそうな心配が先に立った。

「お通夜に行くかどうかは自由だと思うけど、どうして嘘をついたのかな、ということがね、僕たちは気になっているんだよ」

「嘘? だから、別に嘘をついたつもりはないよ」

「でもどうして面識が無いなんて言っちゃったのかな? 名前くらいは知ってるって言っちゃったのかな? 嘘をついたつもりはないにしても、現実とかけ離れ過ぎているよ。授業は受けたことはあるけど、個人的に話したことはないとかさ、その程度がマイルドだと思うよ」ミサキが詰問を続ける。

「だから、その記憶が正しいかどうか分からないですよね? 録音してるわけでもないんでしょ? 私はそんなこと言った覚えがないし、みんなでなんか、私を責め立てようって盛り上がって、記憶作ってません?」

「そうだね、録音してるわけじゃない。それに、私の記憶違いってこともあるかもしれない。でも今はさ、言った言わないの話は止めようよ。水掛け論になっちゃうよ」

「いやいや、言った言わないの話を始めたのはそっちでしょう? 先生のことをはっきり知らないと言ったかどうかを問題にしてるんじゃないですか? だから私はそんなこと言った覚えないし、言った覚えがないことを責め立てられても、何も答えることなんかありませんって話なんですよ」

 言いながら、ミサキの目には涙が溜まっている。

 涙が溢れそうなときの感情は、いくつも折り重なっていることをもう、桜大たちは知っている。悲しいだけ、痛いだけ、苦しいだけではないことがあるなんて、また言葉にすれば詮無いことだろうけど、ミサキは自分の涙に気が付かない様子でまだ、「お通夜行くって、たぶん相当お世話になったさ、担任の先生とか、部活の先生とかじゃないのかな。行かなくて良かったよね? 行かないのが正解だったよね?」とミサキは桜大に、もう縋るような声で弁解している。

「だから、だからねミサキちゃん、お通夜に行かなかったことを責めてるわけじゃないんだよ? 先生と関わりがないとか、面識がないとか、嘘ついちゃったのってさ」

「もう! だからそんなこと言ってないってば!」

 麻衣は驚いたように強く息を吸って、ミサキの顔を見つめている。

 二人は硬直していたが、ミサキがふっと力を抜いて言う。

「そか、言ってないんだね。なんか、言ってないような気がしてきたわ。はは」「それに言った言わないの話を始めたのってほんと、私だったわ。言われて気付いた」自分で自分がおかしいみたいに笑っている。

 その様子を見てミサキの態度もすぐに軟化して、ついに涙が零れる。どちらかというとたくさん笑った後みたいな顔だった。誰もがそれを見て見ぬふりして、かと言ってなにか声をかけるわけでもなく、ミサキから何か言ってくれるのを待つような時間が流れた。

「ミサキ、あのさ、ちょっと前にね、夜中に浜中先生が、棺を持って歩いてるところを見たって人がいるみたいなんだ。浜中先生の死神だったんじゃないかって噂になってる」

 待ちきれず、桜大が話しかけた。

「棺を持って歩く?」

 冷凍庫を棺と間違われたのか、ということはすぐに分かったけれど、まあその、棺を、フォークリフトに乗せて一緒に運んだミサキはむしろうまくその姿が想像できない。とは言え、あの冷凍庫をあの弱った先生が必死に担いで歩いているところを見られたのだとしたら、それは面白い光景なんだろう、とミサキは思った。

 ああ、お通夜、行くべきだったんだろうな。あんなにお世話になったんだから。あんなに病人らしい先生の身体を酷使したのは自分なんだから。先生はこのときのために体の調子が良くなった、みたいなことを言っていたけど、どうなんだろう。先生、本当はすごく苦しかったのではないだろうか。足の、冷凍庫落としたところ、大丈夫だったんだろうか。

 ミサキはいつの間にかそういう後悔めいたことを口に出しており、そこにいる四人は全部ちゃんと聞いている。どうしてだか自分がやったことがバレていることは明白だし、ここでいくらしらを切っても、先生の家の冷凍庫を検めに行くだけだろうし、何の意味もないことは確かなのだけど、先生のためにしらばっくれるのも礼儀、というような気がしていた。

「先生に事情を話したら、先生が、僕の家に隠そうって」

 何かあったらそう言うことになっていた。先生が思いついて、先生が先生の意思でかつての教え子を自宅に運んだ。自分は先が無い人間で、もうとっくに心の整理はついていたけれど、教え子が事故か、何か、判然としないけれども、亡くなったと聞いて、抑え込んでいたはずの心細い気持ちがむくむくと頭を擡げた。僕より先に死んでしまった、僕より若い、どころか、僕が教えていた生徒がいる、という事実が、自分の死に先駆けて現れた非常に心強い友、もしくは頼りになる先輩のように思えてならなかった。聞けば彼は海に捨てられるかもしれないと言う。根拠はないようだけれど彼の妹の話では、そうなる確率が高いという。僕にはどうしてそうなるのか分からないけれど、言葉では言い表すことができない事情、会話の積み重ね、行動の印象と言ったものを統合すると、そういう未来へ繋がっている、ということなんだろう。彼が海へ捨てられる蓋然性が高いと、他ならぬ彼の妹が言っているのだ、ということを、僕は重視したい。ほんとうはどちらでも良い気がした。私はただ教え子の死体が欲しい。彼女は兄の死体を隠したい。僕は彼の死体に傍にいてもらって、死など大したことはない、という気分にさせて欲しい。彼女は兄を隠したい。利害の一致だった。ろくでもない罪を犯すことは分かっているし、あまりに利己的な解釈なことも分かっているが、彼は僕のために死んだのかもしれないと思えば、心が安らいだ。彼の死体を家へ運ぶ道中は、もういつ死んでもおかしくない身体であるはずなのに、自分でも不思議なくらい体調が良かった。星空が僕らを祝福するように瞬いて、思えばこんなに澄み切った夜空は、幼少の頃を除いては見たことが無いような気がした。体力は衰えていたし、それなりの重労働だったから、汗をたくさんかいた。その汗がたちまち乾いていくような強い、ぬるい風が吹く夜で、でも不思議と、寒くなかった。一緒に彼を運んでいたミサキは寒かっただろうか。今思えば寒かったかもしれない。僕は作業に夢中で、ぬるい風が汗を乾かしていってくれるのが爽快で、全然そこまで気が回らなかった。ミサキが風邪なんか引いてなきゃいいけど、と思うものの、一方で、もしそういうことになったら、あの夜が瀕死の老人が見た夢などではないのだと思えるかもしれない。彼女があの風の強い夜のせいで体調を崩したのだとしたら、それは僕ら、一緒にいた証拠だろうって思う。死に瀕して突如舞い込んで来た兄妹との縁、というものに慄きながら、僕は恥も外聞も捨て去って、兄妹に甘えてしまったことを取り繕うつもりもない。僕は兄妹を利用して自分の心を穏やかにしようと画策した。二人はそういう意味で厳然たる被害者であり、心優しき僕の生徒でありました。

 そのような内容の手紙が、ミサキの元に届いていたというのでそれはもうみんな驚いた。ミサキの部屋の机の上にその便箋があったことはみんな知っていたのに、まさかそれが先生の手紙だと思っていなかったから、そういう証拠品的なものを差し置いてアルバムの話など挟んで問い詰めたこととか、『まどマギ』を借りたこととかが、なんだか間が抜けているような気がしてみんな笑った。

「これに気付けば一発だったじゃん」と言った桜大の発言は少し軽すぎるようだったし、「でもこれに気付くのは無理だって」と言った翔の発言も輪をかけて軽かったけれど、ミサキも実はそれを隠すでもなく無造作に置いてあって言及されずにいることに微かな勝利を感じていて、泳がせているところがあったみたいなことを言うのでなんて生意気なんだ、内心僕たちをおちょくっていたのかと拳を少し振り上げる動作を桜大はしたときにはもうなんだか和気藹々で、優などからしてみれば茶番めいていたがそうやって雰囲気を空調しようとする桜大のことが好きだったのですごく安心した。ミサキも大袈裟に両手を顔の前に出してやめてやめてと言うし、桜大を羽交い締めにする兄妹も笑っているし、もう正直、場の総意として、トモが実際に死んでしまったことは別に巨大な事件というわけでもないとみんな感じているのだった。

 元を正せば高校卒業の年に「死ぬ設定」を押し付けるという意味不明な動作があって、そこに共感も同情もしたことがないのだ。設定の強要というものがまずあって、トモはトモで、それでどんな未来が訪れると期待していたのかは知らないけれど、周りの迷惑を顧みず強行した以上、今こういう状況になっているのもちょっと大げさに言えばトモが望んだことなんじゃないか、みたいな雰囲気があった。だからまあ、もうそんな、深刻ぶらなくて良いんじゃないかって思っていたところにちょうどよく先生の手紙っていうミサキの罪を雪がんとする強いアイテムがあったし、ミサキも空気の緩みを察して生意気なことを言うし、もういいよね、という感覚で部屋が満たされた。

 先生は板書のチョーク文字だけでなく、紙に書きつけた文字も美しかった。文字を大きく書く人だった。あまり長い手紙ではないが、便箋三枚、びっしり鉛筆で書かれていた。そこにいた優以外、みんな先生の文字が綺麗なことを知っていたから、その手紙が紛れもなく先生の手で書かれたものだと認めることができた。

 先生の手紙が乗っていたミサキの部屋の勉強机は、一般的なツルツルの安全な学習机を嫌ったミサキが新潟に住んでいるという母方の祖母に貰ったものだった。写真を見て一目ぼれしたミサキは無理を言ってその古い、古いけど高価なものだったという机を送料のみの支払いで引き取った。もちろん負担したのは母であり、粗大ごみの処理を体よく引き受けた形になったことには内心不快な思いだったらしいが、ミサキは現品が届くと思っていたよりずっとその佇まいに引き込まれて、生成りの質感を気に入って、中学一年の頃よりずっと学習が捗ったようなので良しとした。良しとしたというか、素直に受け止めれば非常に良い結果であり、母は自分の母に感謝しても良いくらいであったのだが、そんなに簡単な話ではないようだった。むしろ娘が机を気に入り、勉強に精を出せば出すほどむくむくと不快がこみ上げてくるようで、母はミサキが部屋に籠って勉強することをあまり好まなかった。好まなかったというか、自室で勉強しているミサキのその時間を、故意に無視するようなところがあった。これはこれで、ミサキがあまり上手に言葉にできない母の習性だったし、母にそういう傾向を言葉で突き詰めても認めないどころかなんのこっちゃ、という顔をされるだろうけど、ミサキははっきりと、その机が無いものとして母に扱われていることを知ったいた。

 古く、傷のある、量販店では見られない質感の机で、引き出しの金属の取っ手が錆が生じる一歩手前、と言った状態のままくすんでいる。父には使う前にあちこち磨いたらどうだとか、傷を埋めたらどうだとか言われたが、機嫌を損ねない程度に受け流して自室に運んだ。あのときはそう言えば、兄が運ぶのを手伝ってくれた、と思い出した。

 みんなで先生の家の納屋にある冷凍庫を検めると、凍ったトモがいた。

 桜大は、数日前にこの想像をした気がした。想像通り両手両足が小さく折りたたまれていて、顔もうずくまるようにされていて、懐かしいというような気はしなかった。頭部に裂傷を負っているようで、一部が割れ、中の意外に分厚い頭皮の層が見えた。生々しいはずの傷だが冷凍されているせいで冷凍焼けした鶏の肉を思わせ、傷からはほとんど痛みを感じない。微かにだが血液が流れた痕がある。しかし拭われた痕もあり、これは天彦がやったことなのだろうかと思うとその雑さに苛立った。酷く痩せていて、これは死んだからというより、生前から痩せていたんだろうなと思った。髪の毛は意外に短くて、イメージしていたような引きこもりの姿とは全然違った。垣間見える横顔は想像していた通りの成長というか、少し、学生の頃とは違う疲れのようなものが浮かんだ顔に見えた。

 納屋の中を何かが走る音がして、動物でもいるのかなと思うと、翔がアライグマか何かだろうか、と呟いた。トモの死体に視線を注いだままそんなことを言って、麻衣は麻衣で、キツネじゃないかと言って、桜大は二人が、トモの死体を見ても悲しまないことを不思議に思いながら振り返ると、二人は暗闇に乗じてちゃんと泣いていて、二人それぞれ、両手を組んで祈るみたいにした手をだらんと下げて、何か、我慢しているような仕草に見えた。優は痛ましい顔をするだけで泣かないが、後ろでミサキが泣いていた。それはそうだ、と桜大は思った。


 後日、事件が明るみになって捜査が入り遠藤家は離散したと聞いたが、桜大と、桜大から又聞きの形で成り行きを聞いた優にとってそれはもう、都市伝説や怪談の類のように変質していた。そもそも、電車に乗って札幌に戻るそのたった二時間程度の時間と、地元から離れていくその距離に比例するように、起こった出来事の嘘くささが指数関数的に増していくようだったから、札幌の、一人暮らしの部屋にたどり着く頃にはもう、自分の町で、自分の幼馴染に起こった出来事に関する記憶と実感が不思議なほど薄れていた。自分も取り調べを受けたのにも関わらず、その記憶さえ、もう現実感がなかった。他人の視線を借りて経験したような、厚い壁の存在を感じた。

 実家にいたせいか一人暮らしの部屋の冷蔵庫の中身が乏しく感じて買い出しに行こうという気になったり、地元には毛ほども無かった文化的な空気に身を晒したくなったりして、スーパーや書店に足を運ぶべきとは思いつつ、ぐだぐだと夜遅くなるまで身動きを取る気にはならず、結局近くのコンビニで弁当など物色する体たらくを発揮した。

 もちろん、実感が薄れていると言っても何が起こったのかを思い出せないわけではなかった。場所を移すだけでこれほどまでに人の脳というものは関心をオフにするのだ、というのは、桜大にとり新鮮な驚きだった。新鮮な驚き? 少し違うかもしれない。桜大はこの感覚を知っていた。更地に元々何が建っていたかを一切思い出せないことを、浅霧兄妹に詰られたのも今回の帰省時の出来事だ。観測できないものへの関心も実感も記憶も、急速に薄れてしまうことを知っている。

 だから二か月程経って遠藤家のその後の話を母伝いに聞いたとき、優はともかく桜大は半ば当事者であるにも関わらず、それが他所の町の、見知らぬ家族に起きた出来事のように思えて仕方なかった。ミサキの部屋でミサキの自白に近い言動の一部始終を見ていたのに、浜中先生の家の納屋にある冷凍庫を開けてトモの死体を発見したのに、実感を伴わない海外ドラマか何かのワンシーンのように、微かな好奇心をくすぐっただけで、実生活には影響しそうにない。

 そう言えば、ミサキから借りた『まどマギ』は、まだ実家の部屋に置いてある、ということをこのタイミングで桜大は思い出した。

 母から聞いた事件の概要を搔い摘むと以下のようになる。

・遠藤家族はそれぞれ個別に長時間の取り調べを受けた。

・父は息子を鍾乳洞で見つけたと証言した。

・鍾乳洞の探窟を息子と山崎という青年に依頼していたのだが、その途中で起きた事故であると証言した。

・母は引きこもりの長男の将来を案じるあまり食事に不凍液を少しずつ混ぜる習慣ができたと証言した。

・長女はたまたま兄の死体をガレージから発見し死体隠避に及んだと証言した。

・地域に鍾乳洞の存在は認められなかった。

・山崎という青年を知る人物は地域に複数人いた。現在消息不明。

・二か所ほど洞窟様の空間はあったものの、事故が起きたような形跡も事故が起きうるスペースも認められなかった。

・母親が毒殺を仄めかしていることもあり司法解剖が進められたが、死後冷凍状態にあり、その後急速に解凍されたことで正確には遺体に病変があったかどうかを判断することはできなかった。

・死因は頭部の損傷によるものということになった。

・死体を教師の家に運ぶに至った明快な論理は証言から見いだせなかった。

・教師の直筆の手紙も事件の全容を掴むような捜査の足しにはならなかった。

・第三者の存在として、兄の代わりに兄の部屋にいたと長女が証言した人物が浮上したが行方は分からない。これが山崎だとして、また、事件に関わっているとして目下捜索中。

・長男の部屋にいた人物について、両親は口を揃えてまったく心当たりがないと証言した。

・長男の部屋に他人がいた形跡はなかった。


「ちょっと待って、あの遠藤のおじさん、鍾乳洞の探窟って言ったの?」

「ん? 鍾乳洞の探窟? なんかおかしい?」

「いや探窟ってさ、『メイドインアビス』に出てくる造語だよ?」

 桜大が浜中先生の通夜に赴いている間、桜大の部屋で流し見ていたアニメが『メイドインアビス』だったらしい。優はこの作品のファンだった。

「あー、そうかも。え、普通には無い言葉?」

「ありそうだけど無いんだよ。探窟」

「僕が咄嗟に言っちゃっただけかも。前さ、一緒にちょっと見たじゃん。母親が言ってたかどうか分からないし、天彦がそう言ったかも分からない」

「でも言ってたとしたら?」

「え? 言ってたとしたらって?」

「別になんもないか」

「別になんもないと思うけど。天彦が『メイドインアビス』を見てると思えないし、うちの母親も。なんか造語って言っても変な言葉じゃないし、偶然じゃないか?」

「そうかなあ」

「アレなんかで途中で見るの止めちゃってるんだよね。三話くらいまでしか見てないわ。見なきゃ」

 そんな会話があった。何かの足しになるかは分からなかったが、優はやけに天彦が「探窟」という言葉を使ったのではないかと気にしていた。


 地元で起こった事件は優以外の大学の友人やバイト先の連中に話す気にはなれなかった。全国に報道されるような事件でもなかったようで、幸い誰かに嗅ぎ付けられる心配もなかった。優はペラペラ話す人間でもないし、自分が黙っていればトモの事は永遠に実感が希薄なまま、薄気味悪い臭気をまとって胸の中にしまっておける。

 胸の内に秘めて忘れる、という努力をしたいわけではない。むしろ桜大は考え続けることになる。

 当事者である自分でさえ非現実的に思える事件である。離れたところから眺めるにつけオカルティックな雰囲気が増していくようではあるが、あれは温度も湿度も例年並みな五月に起きた現実で、少なくともあの場にいた感覚としても超常的な何かに呑まれていた気はしない。

 それにしても、今となっては遠藤家の人物全員、気が触れているとしか思えない証言をしているらしいのは気になった。自分が知っていることだけを繋ぎ合わせても真相にはたどり着ける気はしないが、少なくともあのとき、遠藤家の人間たちが精神を喪失しているようには見えなかった。しかし母から聞く現状はどうだ。彼らはまったくの異常者で、家族揃って目が合う人間が一人もいないように感じる。二か月前、家族が団結しているようには見えなかったが、少なくとも一人ひとりはきちんと自我を持ち、欲を持ち、良くも悪くも生活を取り繕おうとしていたと思う。

 思い出したい。細部とか、深部を言葉にしたい。文字を並べて少しずつ、自分の手に取れる形にすれば、きっと全てが丸く現実になるだろう。

 桜大の性質の奥底にはそういう欲求が常にあって、それが中学当時、小説家になりたいという夢を見させたのだと思うが、そのときの感覚とはまた少し違ったソリッドな質感の、書き残したい気持ちが芽生えてくる。

 不意に思い出したのは、トモに関する細部ではなく、あの浅霧兄妹の伯母のことだった。小説家になりたい、と言ったとき、深雪伯母は確かにこう言ったのだった。

「そのうち書くことになると思うよ。桜大くんがただ小説家になりたいのではなくて、小説を書きたいのであれば、嫌でも書くべきことが、向こうからやってくるはず。書かなきゃ気が済まないこと。小説家になるとかならないとかじゃなくて、残さなきゃ、思い出さなきゃ、探らなきゃって思う出来事が絶対にやってくる。そのときが来たら分かるはずだから、今はそのときのために、たくさん本を読んだり、何か思いついたら書いてみたりしたら良いと思うよ。そのほか、努力らしい努力をする必要はないからね。自分を追い詰めたり責めたりしないでね。気持ちがむくむくと湧き上がって、そうしなきゃいれらない感覚の中にいるんだよ。もし今言ったことを忘れなければ、桜大くんは小説を書く未来を自分で引き寄せることになるよ」

 今思い出したのは、今書くべきだと思ったからだ。小説を書くために引き寄せた現実がこれなのか、と思えば、いかにも馬鹿々々しい考えだと思う。どうして自分が小説を書くためだけに幼馴染の家族を離散させる必要がある。桜大の、小説家になりたいという夢は、よその家族や人生をめちゃくちゃにする程強いものではない。自分が小説を書くためにこんな出来事が観測可能範囲で起きた、というのは、あまりに身勝手で、傲慢な考え方だ、と思った。本来桜大はオカルトにもスピリチュアルにも中立的な考えをしているが、今は少し、スピリチュアルを忌避する人の気持ちが分かるようだった。

 しかし頭のどこかで、あの深雪伯母は、浅霧兄妹と束の間生活するためだけに自分の妹も、母親も差し出したのだ、という過去があることを無視できない。

 願いの大きさにも強さにも関係がない。望めば、適した出来事が観測できるようになっている。深雪伯母はこの類のことをよく言っていたことも、町で起きた出来事を書き移すための細部の一部。

 

 実家の自分の部屋によく似ている一人暮らしの部屋の窓からは、人形が埋まっている山は見えない。見えないがあの人形が埋まっている山があると知っていることはそれだけで少し不幸だ。

 夏も盛りとなれば怖い話を披露し合う場面がそれなりの回数生じる。たまたま近くにいる人がホラーや怪談を好む傾向にあれば、その頻度は当然増す。桜大と優の周りには怪談フリークと呼べるような友人はいなかったが、嗜みとして、怪談に花を咲かせる機会がないでもなかった。

 そんなとき、故郷で起きた話をすれば、きっと興味を持ってくれるだろう、とは思う。何故かこの年は怖い話を披露し合う機会が多かった。当てつけみたいにこの年は、何か怖い話を知らないか、と聞いて来る者が多かった。その度に、話したいわけではなかったがトモのことを思い出すことになる。トモに何が起きたのか。あの家族に何が起きたのか。考えてもトモの身に起きたことをどのように話せばホラーとして成り立つのか、桜大には分からなかったし、仮に成り立ったとしても、やはり優を除いて、あの出来事を正確に共有できる人がいるとは思えなかった。だからこそ書かなきゃならないと思ったし、書くまでは、誰にも話せない、と思った。自分の中で筋道が立っていない。筋道が立たないことはほとんど夢と一緒だ。そう思うことがより一層、書くことを希求させたし、少しずつ使命感みたいなものに変容していく感覚もあった。傲慢な考えだ、といつも自分の思考を押さえつけていたけれど、書くべし、と思えば思うほど、それはトモのためでもあるとか、むしろトモが望んでいることなのではないか、と思うこともあった。あいつはあいつなりに、僕の夢を応援してくれた、ということなのではないか。

「怖い話ってほどじゃないけど、地元にさ、呪いの人形を埋めたことがあって」

 呪いの人形、と話し出せばたいてい喜んでくれる。

 呪いの人形って? 捨てても帰ってくるとか?

 絶対にそう聞かれる。絶対と言っても、まだ披露したのは三度だけだが、三度とも判で押したように同じリアクションを取る人物がいるので、今度語ることがあればこう答えよう、という想定問答集が頭の中に出来てきて、その、一問一答形式の怪談をの在り方を想像することは桜大にとって愉快な趣味となった。発言をコピー&ペーストして楽しむ趣味と並んで陰気な趣味だった。

 桜大は、トモの死を経て、それまでタブーとしていた呪いの人形の話や、小学校時代に少しだけクラスメイトだった女の子の話を披露できるようになった。彼女の話も、呪いの人形の話も、誰かに伝える自信がなく胸の内に秘めていたが、今はトモの事件に蓋をするための隠れ蓑用のエピソードとして積極的に差し出している。

 呪いの人形とは言っても、蓋を開けてみれば怪談ではないのだった。桜大にとって呪いの人形の話は、そういうものだった。あの女の子は確かにあまり幸福にはならなかったかもしれないが、あれも現実に起きたことだった。常識的な気温の中で、生きてるそばから忘れていくような時間の連続の中で起きた、言うなれば誰の身にでも起こり得るひとつの青春だった。桜大にとっては怖い話でも不気味な話でもなかったけれど、怖い話はないかと聞かれたらあの人形のことしか話すことはなかった。

 何より、呪いの人形について何か話すことで、どうしてだかトモの身に起こった事件を語り始めているような感覚があった。あの小学生時代の、女の子に関する細部を語ることが執筆の準備に役立っているような気がした。しかし桜大は過去を他人に語れば語るほど、あの、今では顔もうまく思い出せない女の子の美しかった細部の方から脆く変質していくようで、自分から出てくる形容描写のことごとくが心細く頼りなく、気が咎めた。語ろうとすればするほどあの子は不気味になった。記憶の空白を埋めようとすれば実際以上に筋道だった物語になってしまうし、他者の気持ちを推測すれば偏見を土台に話を作っていることにも気づく。

 人物の人物たる部分は語れば語るほど脆く聞こえ、物語の曖昧なところは語れば語るほど意図しない形に固まってしまう。扱いにくい素材を持っている、と思えば、桜大は作家としての自分の一部分を感じることもできて満更でもない。

 同じとき、同じ場所にいた人間がもう一人でもいれば、と考えることもあった。あの子のことを知っている人がもう一人でもいたら。桜大、それは違うよ。あいつはそんなこと言ってないよ。あのときは先生が先に手を出したんだよ。そんな風にアシストしてくれれば。それができるのはトモしかいないのだが、そのトモでさえもう過去の記憶の住人であり、語られるのを待っている側の存在だった。語らねば、と思うが、分からないことが多すぎる。憶測で語るには、材料が足りなすぎる。

 トモの事件に関して、優の他にはもちろん、浅霧兄妹とも話は共有できる。浅霧兄妹とも、というか、本来であればこちらの二人こそ、桜大に次ぐ当事者である。しかし、桜大は札幌で浅霧兄妹に会ったことがなかった。同じ札幌にいることは分かっているのだから、どこかで示し合わせて集合しても良さそうなものなのに、どうしてだか今まで一度も彼らを誘ったことがなかったし、彼らからも何か誘いの連絡が来たこともなかった。

 どうして気安く誘えないのかはよく分からなかった。桜大は心のどこかで、浅霧兄妹の方から誘ってくれるだろうと思い続けていたからかもしれない。それはきっと、桜大が自分の家に二人を上げるより、兄妹が暮らすあの巨大な家に赴く頻度の方が圧倒的に多かったからだろう。兄妹に招かれて深雪伯母が住まうあの家には何度も泊まったし、何回も深雪伯母から現実認識に関する哲学を聞いた。現実と自分たちが思い込んでいるものは、実のところ非常に曖昧な形をしているのだ、ということを、手を変え品を変え、何度も示してくれたと思う。兄妹だけでなく、桜大もトモも、深雪伯母の影響を受けた。表だって影響を受けている、と言うわけではないけれども、それぞれ確実に深雪伯母の世界認識を利用して生きている自分を知っている。彼女から影響を受けている人間は世の中に何万人かいる。動画配信を通して、彼女は現実認識の現実は自分のものであり、自分が観測しているもの以外は全て曖昧なものだった。それがどれだけ痛いものでも、心地よいものでも、目の前に現れるのは必ず内面だった。観測するから固まり、目に見え、手に取れるものばかり、ということを知っていた。だから桜大たちは互いに曖昧な存在だった。地元を離れて違う生活圏で暮らせば、たちまちその実在が疑わしくなるような存在だった。

 だから、トモが突然部屋に籠ってしまった理由が、分からないまでも、分からないわけではなかった。桜大だけでなく、きっと翔も、麻衣も同じだった。こんなことを言えば誰も自分がまともにモノを考えて発言しているとは思わないだろうことが分かるから決して口にしないが、トモの行動に現実的な解釈や意味付けをすることになんの意味もないことを知っている、という点で、彼の死には、桜大はじめ、トモの家族、浅霧兄妹、その他諸々それぞれの現実が反映されるだけなのだから、結局、トモのことを考えることは自分のことを考えることでしかない、という達観を抱いているのが、桜大と、浅霧兄妹だった。

 桜大の中で、浅霧兄妹の二人を誘うためには、それなりの大義名分が必要だった。大学生活を営む札幌ではどうしてか、彼らを誘うに足る理由が何もないような気がして、有体に言えば、そもそも生まれも育ちもほとんど札幌だという二人に引け目を感じて、勝手に卑屈さを発揮した桜大は二人を誘えなかった。

 今なら、トモの事件に関する話題で集まれるかもしれない。優も誘って、四人で語れば、何か新しい事実が浮かび上がってくるかもしれない。

 反対に言えば、優がいなければ、自分たちはもうトモの話など一切しないかもしれない、という暗い予感があった。トモの狂言自殺も、実際の死も、あの死んで凍ったトモの姿も、離散したトモの家族も、何もかもただの現象に過ぎず、意味付けすることに何の意味もないが、それでもそもそも小説家になりたいなんて考えている桜大なのだ。意味付けだけを躍起になってやる職業に興味を持っている桜大なのだ。トモのことを考えたい。友人の目とか頭とかを借りて、少しずつそれぞれの現実を持ち寄って、無意味でも何でも、囚われていたい。そう言ったら浅霧兄妹は笑うだろうか。笑わないだろう、と桜大は思う。だけど、同じ気持ちにはなってくれないとも思う。彼らは優しい言葉をいつもかけてくれる。しかしそれは言葉の上だけの本心で、彼らの現実認識はそうやって振る舞わないことを知っている。

 実際は目の前にいない存在は不確かな幻影として扱うことに抵抗がない。桜大は彼らの前で都度構築されて、生まれなおす。会って初めて生じて、触れて初めて固まる。話しをして初めて聞こえて、思い出したときに初めて記憶になる。

 互いにそういう存在なんだ、と桜大は優に言ってみる。

「どういうこと?」と彼は当然言う。

「どういうことも何も、これは、感覚的な話で」

「多いよな、感覚的な話(笑)」

「そうかな」

 優は「探窟」という言葉に引っかかったままで、「呪い」の見方も少し違うようだった。

『メイドインアビス』において呪いとは、上昇負荷のことだと優は言った。

 人間には見えない力場が、アビスと呼ばれる巨大な縦穴の中に偏在しており、その性質は霧のようであり、幾重にも折り重なったベールのようでもあり、また中心へと強く引き込む方向へ流れている、という謎の力だという。下るときには無害だが、上るときにはこの力場により強大な抵抗力が加わる。入れるけれど出られない。

「逆止弁構造ってこと?」

「ああ、桜大ってなんか微妙に色々なことよく知ってるよね」

「いや、知ってるっていうほどは知らない」

 しかし、逆止弁構造的な要素はありつつも、それだけでは説明できないのが『メイドインアビス』におけるアビス内の力場らしい。アビス内は七層に分けられるらしいが、下層に行けば行くほど上昇負荷は強くなり、第五層、第六層以降からの生還は困難を極める、という。また、症状も上層では高山病に似ており、下層に行けば行くほど人体の崩壊度はいや増して行く。つまり、逆止弁と聞いて想像する仕掛けというよりは、超高高度で受ける影響や深海で受ける影響に似ていながら、下り続ける以上は無害、という性質を合わせると謎の力と言う他ない、らしい。

「困難を極めるっていうか、普通は死ぬわけ。六層とかまで降りたら終わり。帰ってこようとしたら死ぬ」

「それって聞いても良いやつ? まだ僕三話までしか見てないけど、ネタバレだったりしない?」

「アビスの呪いとか力場ってのは前提の話だから全然大丈夫。呪いの正体がその力場で、力場が比較的薄いところがあるよ、みたいな説明がされるのはもっと後だけど、それもやっぱりストーリー上の前提でしかない。そういう世界観があった上で、黎明卿ボンボルドが何をしたか、みたいなところよ重要なのは。ナナチとは何なのかとかさ」

「そこまで話したら本当にネタバレだろ分かんないけど。そのうちちゃんと全部見るからちょっと待って」

「見て見て、おれの一、二を争うお気に入り作品だから」

「で、それがどうしたの?」

 何か話そうとした優はハッとした表情で口を噤んで、なんでもない、ちょっと思い出しただけ、と言う。

「え、なんだよ、なんでもないってことないでしょ」

「いやいや、ごめん、ほんとごめん。おれなんか変なこと考えたわ。どうしてだろう。最低だおれほんと。最低なこと考えた」

「そういうこと言われたら気になるだろうがよ。大丈夫だよ、言ってくれよ」

「ほんとうにろくでもないことだぞ?」と念押しをしてから優が語ったのは「あのね、遠藤さんが言ってた鍾乳洞がアビスだとして、トモくんは上昇負荷に耐えられずにあの姿になったと考えると、どうかなって」

「どうかなって?」

「漫画とかアニメとかもね、世界観自体が何らかの比喩だったりするかもしれないじゃん? 作者はそのつもりなくても、少なくともそういう風に見ることはできるでしょ? 進んだら戻って来られないとかさ。そういう、社会にある穴、危険と分かっていても探らなきゃ気が済まないことっていう普遍的な感情とかってまで概念を薄めて考えて、そういう感情が遠藤さんとか、トモくんとかにもあったとして、無事に戻って来られなかった姿っていうのがあの冷凍庫の中のトモくんなんじゃないかって思うんだよ。桜大が最近よくしてる呪いの人形の話とかもさ、なんか見えない関わりがあるんじゃないかなって」

 確かに、最低と言わないまでも、面白可笑しく話すようなことではないと桜大も思う。画面越しに見るニュースならまだしも、まったくの他人ならまだしも、友人の同級生の死を、好きな作品とこじつけて考察するなんて言うのは、失礼なことなのかもしれない。

 しかし桜大は、不思議なほど何も感じない。どころか、やはり幼馴染の身に起きたことだというのに、どこか知らないところで起きた怪談や都市伝説を聞いているような感覚があったので、優の考察をただ考察として聞いていて、むしろなるほどな、とか思っていたりして、自らの人間性を疑いこそすれ、優を責める気にはならない。当事者たる自分でさえそうなのだから、優にしてみれば本当にただの、知らない土地で起きた事件に過ぎないだろう。一緒にトモの死体を見たという現実感はあるにしても、トモと一度も話したことはないわけだし、声だって知らない。

 優は考えを口に出しつつも不謹慎を恥じるように俯いている。

「大丈夫だよ優、考察は自由じゃんか。トモの事件はフリー素材で良いと思う。

「フリー素材(笑)」

「僕らは比較的事件の近くにいたから、素材に触れる権利ができたんだよ。なんか分かんないけど、トモも多分そんなくらいにしか考えてないと思うんだよな。なんか思うところあって引きこもったっていうか自殺設定を押し付けたわけで、それはさ、小説とかだったら手紙とか日記でトモの真意が明かされたりするんだろうけど、現実には謎のままなわけで。っていうことは、僕はこれからずっとトモのことを考え続けることになるんだよね。トモと、僕たちの過去と、あの地域のことを考えるともなく考え続けることになるわけだよね。なんか分かんないけど、トモが僕に望んだのってそういうことで、言うなればこれこそが呪いだと思うんだよ。ずっと囚われていろ、というか、ずっと肌身離さず持っていろ、みたいな形の。あいつは頭にけがして死んで、凍った人形になって、色々な思い出を引き連れたまま謎になったんだよ。骨になって埋まってさ、僕のトラウマが一つ増えておしまいだよ。そのうちさ、山崎さんがどこかから出てくるかもしれないし、天彦があるって言い張ってた鍾乳洞が見つかるかもしれないし、トモの家族の証言が何か増えたり、変わったりするかもしれない。その度にさ、現実が少し固まるわけじゃないか。今でこそああじゃないかこうじゃないかって色々考えられるけど、辻褄が合ってしまったらゆで卵みたいに固まっちゃうんだよね。でも幸い、幸い? 今は銘々証言がちぐはぐしてて、考察しがいがある感じになってるわけ。未来と同じように、過去にも何通りもある状態で、あらゆる可能性が散らばってるわけ。そうじゃない? それってさ、ある種希望なんだと思うんだよ。これは深雪伯母もよく言ってたんだけどさ、僕ら現実を変えることはいつでもできて、その気になれば希望通りの未来へ簡単に移動できるらしいんだ。何言ってんだって感じだけど、まあ確かに過去は一通りしかないけど、未来はまだ幾通りかある。僕ら選ぶ余地がある。トモとトモの家族に関してはさ、もう過去だけど、まだ幾通りかの可能性があるんだよ」

 桜大はきっとトモとその家族、そして町に起きたことを小説にするのだろうが、そのときにはきっと、何か結論めいたものを書かなければならないのかな、と思っている。過去に起きた出来事を一本に絞って、誰でも納得できるように筋道を立てなきゃいけないのかな。そう思っているが一方で、バラバラに散らばった出来事が畳まれて物語として成り立ってしまうことにいつも物足りなさを感じている。すべての要素がかみ合って、謎が解けて、罰せられる者が罰せられて、報われるべき者が報われる。物語としてあるべき姿のように思えるけれど、桜大は物語が畳まれて行くにつれ、それが矮小なものへと変容していく、と感じることがある。そういうとき、要素が独り歩きしたまま放散していくような物語が好きだ、と思ったりする。だからできれば、トモにまつわる物語も、畳まないままで、思い出しては首を捻るような事柄のままで保存できれば、と思う。考察を加え、ああでもないこうでもないを話して、いつまでもわだかまっていられるような場所を作れたら良い。思い出し、考え続けることで絶えず今が、今が、今こそが、変化していくような、そういう出来事だったんじゃないかと思った。そのためにはメイドインアビスを見るし、優の考察も思考に取り入れるし、勇気を出して浅霧兄妹を誘ったりもする。

「まあ、そういうことならあんま気にしないけど、やっぱり不謹慎だったよ。ごめん」と優は言った。それから、「でもさ、あの事件、全然報道もされないし、どっちにしてもおれたち、もっとやることあるんじゃないか? 桜大、見つかってないっていう山崎って人のこと、本当に知らないの? 地元の人にはよく知られてる人なんでしょ? それにおれたち、トモくんの部屋のドア越しに男の人と話したじゃん。あれがつまり、山崎さんだったってことだよね? 更にまったくの別人だった可能性ある? いや待てよ、あの時点ではトモくんがまだ生きていたっていう可能性はないか? ミサキちゃんが遠藤さんと冷凍庫運んでる男を見たとも言ってるわけでしょ? その男も普通に考えれば山崎という人なんだろうけど、その光景がもし、トモくんと遠藤さんによるものだったら? あ、なあ、実は山崎という男が殺されているっていう可能性はない? あの冷凍庫に入ってたのって本当にトモくんだった? だって桜大、もう何年も会ってないんだろ? 容姿が多少変わってて、その上凍ってたりしたら、ちゃんと確認できていないんじゃないか? って、そんなわけないか。そんな、小説みたいな話。ごめんおれ、またちょっと興奮してた」

「はは、そうだね、ちょっと落ち着けって。さっきも言ったけど、別にどんな考察をしても良いよ。僕は今更不謹慎だなんて思わない。ちゃんと時間かけて整理しよう」

 本来であれば優は噂話やゴシップの類に興味を示さない男なのだ、と桜大は知っていた。だからこれほど友人の友人が死んだというセンシティブな出来事に対して無頓着に自説を述べるのは、優らしくないと言えばらしくない。しかし一方で、映画やドラマの考察に関して饒舌になるのは珍しくないということを考えれば、つまり優にとっても桜大の故郷で起きた出来事は非現実的な、実感の伴わない現象として認識しているのではないか、と思った。

 いや、もしかしたらこれは優の変化なのかもしれない。桜大は常々思っていた。物事は常に微動し、変化し続けている。桜大が自分の力で気付いたことではない。『平家物語』の冒頭を習ったのは中学一年の頃だった。ずっと昔からみんな知ってることだった。しかし人が変化を実感できるのは、いくつもの目に映らない微動が積み重なって、コップの水があふれる瞬間、その閾値に達したときなのだ。

 優の言動は、もしかしたらその瞬間を表しているのかもしれない、と思えば、そういう姿を見せてくれる友人が殊更愛しく感じるた。

 桜大は確かに山崎という人に心当たりがあることを優に話した。実のところ浜中先生の通夜の帰り道で見た空き地、あそこが山崎さんが営んでいた小さい個人スーパーを営んでいた場所だと知っていた。山崎ストアという店で、そこの長男が自身の祖母を殴り殺す事件(限りなく事故に近い事件だった)を起こしたのをきっかけに廃業、しばらく放置され廃墟となっていたが、最近ようやく取り壊しが済んだ、という経緯があり、桜大はそのことを全部、きちんと覚えていたけれど、浅霧兄妹に聞かれたとき咄嗟に、話さなかった、ということを優に話した。

 優はその辺りを追求することなく飲み込んで、「じゃあ、その辺も含めて、改めて話してみたら?」と提案してくれる。確かにあの場面で嘘をついてしまったことを少し気に病んでいたので、その機会が与えられるのは助かる、かもしれない。

「なんだったら思い出したってことにしてさ」

「うん、その方が話しやすいかも。なんであのとき言えなかったんだろう。でも、それが何か関係あるのかな、今回のトモの身に起きたことに」

「分かんないけど、意味があるかどうかが分かるなら、そもそも謎なんてないと思うんだ。思わぬところに根があったりするもんでしょ。それに、まあ正直桜大の友人が亡くなってしまった事件をそんな根掘り葉掘りしたいわけじゃなくてさ、単純におれもあの二人にまた会いたいし、誘ってみてほしいんだ。何なら話す内容は何でも良い」

 そう言われてみれば、これ以上の大義名分はないような気がする。故郷で仲良くなった優がまた二人に会いたがっている。しかしそのように伝えたら、二人は優に会いに来る。きっとあの二人は喜んでくれる。しかし桜大は少し胸がちくりとする。ああもし、優が麻衣のことを好きになってしまったら、と思う。翔と仲良くなってしまったら、と思う。子どもらしい嫉妬心が他ならぬ優に湧いてしまうとき、どうしてだか呪いの人形のことを思い出す。あの女の子が来て、トモがあの子のことを少し好きになり始めていると知って、自分は不快に思ったのではなかったか。邪魔だと思ったのではなかったか。邪魔だと思うとあの子はすぐにいなくなった、という感覚があった。あの子は自分のためにいなくなった。

 中学に入って、二年次に転校してきたのが浅霧兄妹だ。

 小学校のときとは違い、今度は桜大が、転校してきた女の子のことを好きになっていった。二人は双子で、いつも一緒で、兄のことも一緒に好きになった。異性に対する最大の好きを麻衣に、同性に対する最大の好きを翔に感じた。

 麻衣に対する感情は別にして、同性に対するその感情は、トモに向けられていたものではなかったか。

 結局トモに感じていた友情や信頼は「近くにこいつしかいなかった」というだけの話だったのではないか。当てつけのようにトモは二人とコミュニケーションを取ろうとしない。桜大が浅霧兄妹との仲を深めていくことを好ましく思わないことを、トモは隠そうともしなかった。有体に言って、同性の自分に女みたいな嫉妬心を抱いて、不機嫌な態度を取るトモのことを気持ち悪いと思った。かつて自分も同じような感情を持ったことがあるのに、持ったことがあるからこそ、気持ち悪いと思った。

 天彦がいつか言った。

「お前らどっちかでも女だったら良かったのにな」

 どっちかが女だったらどうだったのだろう。どっちかが女だったら、自分たちはお互い、友情とは違う感情を湧いていたのだろうか。そしてこんなに小さな町で、お互いろくに他の人間を知らないまま、家庭を築いたりして、それを天彦は良いことだ、と思ったのだろうか。悪気はなかったんだろう。しかし桜大は、そして多分トモも、天彦の発言の攻撃的な印象を言葉以上に覚えていて、それは空気の匂いのように時間を経ても薄れなかった。それはいつかの魚釣りの日、釣れたら重くなる分どちらか歩けと言われた日と繋がっていた。それこそ空気の匂いで繋がっていた。もう今はどの発言が後か先か、その順序はもう覚えていないけど、とにかく天彦はそういう風に折に触れて「お前じゃなくて良い」と伝え続けた。

 それは言わば裏の言葉で、解釈であり、深雪伯母に会ってからは言外を受け取る必要などないことを桜大は教わっていたから、言葉は言葉でしかないと思い定めて、特になんとも思っていなかったのに、それでも天彦の発言は季節に乗って、折に触れて思い出された。ときには自分たちから、どっちかが女だったら良かったのにな、というようなことを言ってしまうこともあった。自分の傷跡を確かめるみたいに、優ともそんな話をしたことがあった。

 思えばそのときから優はトモの代わりだった。その度に胸の辺りを過る痛み、もしくは不安を感じていたが、それは「代替可能」と刷り込まれた過去の小さなショックによるものなのか、大学でできた友人をトモの代わりにしてしまったことによるものなのか、分からなかった。

 桜大にとって重要なのは、天彦に「お前らどっちかでも女だったら」と言われたことが、いくら気にしないように努めても、ゆっくり自分を蝕んで、少しずつトモを男のくせに気持ち悪いやつだとか、狂言自殺などして気を引いて周りに迷惑をかけるメンヘラ野郎とまで心の中で罵りながら、帰省のとき、彼の部屋の窓を外から仰ぎ見た自分が、トモのことを憎々しく、邪魔くさく思っていたという事実を、自分だけが知っている、ということだった。

 優に言ってしまいたかった。僕はトモが女々しい言動を取る度に、自殺をしているように見えた、ということ。

 邪魔だと思ったからトモがいなくなった、と言っても、誰もまともに取り合ってくれないだろうけど、桜大の認識と実感においてその感覚は確かなものだった。

 全部思い通りになる。現実は曖昧で、観測者の意識と感情が、不完全なままにせよ、現実と思しき出来事を推し固めている。物事は論理や想像を超えて、ときには偶然の形をして、奇跡の形をして、もしくは怪奇的な装いで目の前に現れる。

 深雪伯母は繰り返し教えてくれた。現実に意味などない。そこに意味を見出そうとする自我があるだけだ。桜大が自分自身だと思っているそれは、何度も何度も見たものに意味付けをし、誰かの言葉を真に受けては取り入れて、お前は何者なのかと問うてくる。しかしそれは全て意味のないことで、言わば趣味の領域であり、やってもやらなくても良いことなのだ。全ての出来事は桜大を傷つけるためにあるのではない。

 

 後日、勇気を出して浅霧兄妹に連絡した。

「どうして勇気を出す必要があるんだよ。あんなに仲良さそうだったのに」と優に言われた。

「なんか、地元で会うときと札幌にいるときの二人は別人なような気がするんだよ」と言うと意外なことに理解を示してくれたから、優が友人でいてくれることに深い安堵を覚えた。

「当然と言うか何というか、二人は相変わらずだったんだけど、今も偶然、地元に帰ってるんだって。なんか帰省だけじゃなく、今度は深雪さんに仕事も頼まれたとかで。だからさ優、また一緒に行かないか? 僕の町に」

 二つ返事で快諾してくれた優を連れてもう一度帰省することになった。桜大は地元へ着く前に、麻衣のことが好きだと優に伝えようと考える。少し卑怯だろうか? そう伝えておけば、優が彼女を恋愛対象にすることはないと見越して牽制している、ということが伝わってしまうだろうか?

 道中でまた勇気を出して桜大の恋心を伝えると、優はまた強い共感と理解を示し、「心配しなくても横恋慕なんてしないよ」と言って笑った。

「横恋慕って久しぶりに聞いた」と言って桜大も笑い、今度の帰省は前回とは少し違って、大学生らしいものになりそうだ、などと盛り上がった。

「でもあの子、あの兄妹、恋愛とかに全く興味ないみたいだったよね? だから二人で暮らしてても困らないし、むしろお互いがいることでそういうことが入り込んでこないことに満足してる、みたいなこと言ってたよな」

「うん、だから僕も悠長に片思いしてるとこあるし、何だかんだ、僕が二人の傍に居続けることができれば、いつかチャンスが巡ってくるかなって思ってるんだ」

 電車の中で二人は横並びになって、まるで恋愛映画の考察をするときのように楽しく話しをした。乗車する前に買ったハンバーガーのセットが思ったより強いにおいを発していて、二人は誰かを不快にさせる前に急いで食べた。早々に食べるものが無くなって物足りなかったけれど、話題が尽きることはなかった。トモとその家族に起きたことは、意識的に避けて話した。前回の帰省では凄惨な思い出を作ったはずの桜大の町へ、こんな風にいままでと変わらずついて来てくれる優に感謝の気持ちでいっぱいになった。

 桜大の故郷に着き、今度は桜大の母にも、その再婚相手にもきちんと挨拶ができたことを優は喜んだ。どこに出しても恥ずかしくない友達を、桜大は誇らしげに親へ紹介し、浅霧兄妹の住むあの巨大な家へ行くと言って家を出た。

 何だか今回のこの帰省こそが正しい姿なような気がする、と思ったがそれは口に出さなかった。トモのこともその家族のことも忘れたようになって、罪悪感は少しあるけれど、気分は悪くない。いっそ、取り壊された建物のように忘れてしまおうか。ここに何かあった気がする。何かあったのは覚えてるけど何だったか思い出せない。もう既に忘れかけているあの男を、そんな存在にしてしまおうかと本気で思う。その方が楽なはずだ。引きずるようなことでもないはずだ。ごめんトモ。すみません。また話したかったけど、もう忘れてしまうよ。お墓にはいつか行くよ。ごめんねトモ。思い出せたら行くよ。僕たちは仲が良かったはずだ。一番の友達だった。だって中学までは唯一のクラスメイトだったから。だけど忘れるね。ごめんねトモ。その方が楽なんだ。お墓参りには行くよ。思い出せたら。

 忘れようとすればするほど思い出す色々は、あとで文字にしよう。書くのだ。書く傍から忘れるのだ。そうだったそうだった。大事なことを忘れていた。忘れちゃいけない方を忘れていた。考え続けようとしてたのだった。トモとその家族に起きたことを思い出す度に不気味で不思議で首を捻ることになって、そのせいで今、ここが変質していくような作用を、文字にして残すのだ。トモは、僕の小説になるのだ。

 そう思えばやはり、どこまでもトモは自分のために居なくなったのかもしれない、と思えてならない。なんだよ。苛々する。世の中全てに阿って生きてたみたいなあいつに苛々するし、ありがとうと言わなきゃ気が済まない自分にも苛々する。嫌いなのか好きなのか分からない。たまたま同じ町で同じ年に生まれただけの人でしかない。きっと別の場所で会っていたら、僕たちは友達になっていない。だけど思い出の全部、好きも嫌いもなく、トモはトモで、肯定も否定もない。ただその存在があることを知っていて、それが全て。感情は別にして、利害は脇に置いておいて、いるのが当たり前だった。深雪伯母に言わせれば、それが「愛」だとか言うかもしれない。それはそれで分かるけど、桜大には少し、大仰に思える。愛なんてない。ただ知っているだけ。いるのが当たり前だっただけ。いるのと同じくらい、いないことにもトモらしさを感じるだけ。

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連作短編(推敲) @0rihara5050

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