『逆さごと』

 ミサキは最近、苛々することが多い。

 兄が部屋から出て来なくなってからもう数年経つが、明らかに中の人が入れ替わったと感じてから、家の中全体が不気味で不気味で、誰も私のことなんか考えてくれてない、という思いが募って仕方なかった。

 誰も私のことを考えてくれてない、という実感に真実味はあったが、口にするのは嫌だった。私のことを考えてくれないなんていう女になりたくないミサキは、心の中で誰も自分のことを考えてくれていないことに不満を持っていることすら嫌だった。

 隣の部屋にいるのはもう兄じゃない。比喩でも言葉の綾でもなく本当に別人であることをミサキは知っている。

 父と見知らぬ男性が二人で兄の身体を運んでいるところを見たのは、兄が設定したという三回忌の直前だった。

 あの夜、風呂上りだった。深夜一時を回っていたと思う。バスタオルで髪の毛を拭きながら部屋に入ると、まだ明かりを点けていないミサキの部屋の、その窓越しに、外の明かりが灯るのが見えた。白熱電球の色で、すぐにガレージに取り付けられている人感センサー付きのライトだと分かった。誰か、こんな時間に出かけるのだろうか、と思って外を見る。こういう経緯で兄が運ばれているのが見えた。

 兄の身体はガレージの中へ運ばれて、父と見知らぬ男性だけが出てきた。冷凍庫に入れられたのだ、と分かった。この時点で、運ばれているのが兄だということは知っていたが、同時に分からないとも思っていた。保留状態の脳だった。知りながら知らない。分かりながら分からない。要するに不確定要素も謎も多く、いくらガレージのライトがはっきりと父を、そして兄の身体を少し照らしたからと言って、非現実的な光景には違いなかった。

 その後の晩御飯には冷凍焼けした魚が出る日が二日ほど続いた。まだ保留。兄を入れるために外に出した魚だ、と思えば美味しくはないが、母は美味しそうに食べているので水を差すのは嫌だった。

 そのうち、エビフライが出た。少し意外だった。魚料理が続いていたし、魚介類はわざわざ買う気がしないといつかスーパーで母が言っていたのを覚えている。父が釣って来てくれるから、魚介には困らない、と満足気に言いながら、釣りに行く日には弁当を作ったりなんだり、色々と世話をしなきゃならないことに腹を立てていたことも知っているから、どちらが母の本心なのか判断しかねていた。お父さんが釣りに行くのは嬉しいのだろうか、嫌なんだろうか。私は嬉しい。お魚が食べられるし、お母さんと二人になれる。釣ってくる魚が限られているから、食べられるお魚にも限りがあるのだが、母がその辺りをどう考えていたのかは分からない。

 いずれにせよ母があまり魚介類を買ってこないのは本当のことで、エビフライともなると下ごしらえも大変だから滅多に出さないのに、どうしたんだろう? とミサキは思った。まあ確かに、エビを釣って来ることはないし、食べたい気分だったんだろう、と思ったけれど、兄の部屋に持って行ったエビフライの尻尾が消えていたのを見ると、これは母の釣りだったのかもしれない、と思った。

 兄の皿を下げるのはいつも部屋が隣のミサキの仕事だったが、この日はわざわざ、「お兄ちゃん、キレイに食べたね」とコメントをつけて台所の母に渡した。

 母は綺麗に平らげられた皿を見て何も言わず、「エビフライ、美味しかった?」とやはり、いつもはあまり聞かないようなことを言うのもミサキには意味深に思えた。「うん、タルタルソース最高だった」と答えた。聞くタイミングがおかしくない? と思ったけれどそれはそれ、ミサキは兄の代わりに、といったつもりで答えた。

 兄が別人になっている、と思っただけでなく、今隣の部屋にいるのは兄の身体をガレージに運んでいた男だ、ということも知っていた。あの夜は咄嗟に「お父さんとお兄ちゃんが誰かの身体を運んでいる、と思った。なぜなら、運ばれている身体は坊主頭のようで、運んでいる男性の髪型が記憶にある兄のようだったからだ。しかし、時間が経っているとは言え、かつての兄のような髪型をしている男性が他人で、だらりとして生気を感じないからとは言え、運ばれている坊主頭が兄だと一目で見分けが付けられる程度には、脳というのは色々と細かな情報処理をしてくれているらしい。兄はいつの間にか髪の毛を短くして、今はあんなに痩せているのだ、と自然に思えたのは、兄が兄で、ミサキが妹であり、人生に比べればごく短い時間だったけれど、兄の様子をよく見ていた、という証だった。

 もうそろそろ五月になるがまだ寒い。兄が引きこもってからは多分一度も行っていないが、例年父が魚釣りに出かけるのは夏から秋にかけてだった。だから、その頃まで兄は凍らされたままで、釣りに出かけるフリをして父は、兄を海へ捨てに行くのだろう、とミサキは思った。これもやはり頭の中の、手が届かないところで、それだけ父を見ていたということなのかもしれない。父がやりそうなこと、というのが何故か、すぐに分かった。兄の身体を冷凍庫へしまうこと自体は見慣れないのに、父の浅はかさというものは今まで、嫌という程見てきたのだ。

 普段釣った魚を入れている冷凍庫の中で凍らされた兄は普段魚釣りに行く車に乗って、多分ずぶずぶに溶けて臭う頃、海の沖の方に放り投げられるんだろうとミサキは想像した。

 不意に悲しくなった。父が釣りに行くとき、兄も連れて行くというとき、兄は嬉しさを抑えきれない様子で、クスクス笑ったりして、ガレージの中へ入って行くのだ。ミサキはミサキで、母も何だか嬉しそうだし、母と二人で過ごせる時間が好きだったから嬉しい。兄も父と過ごせる時間が好きで、釣りにはたまにしか連れて行ってもらえないけれど、そのたまに、が溜まらなく好きなんだろう。帽子は? と父に言われて、慌てて家の中に駆け戻ってくる兄の顔を覚えている。早くしないと置いてくぞ、と父が言う。どうしてそんなに意地悪なことを言うんだろうとミサキは思った。母は兄を慰めるように、急ぐ必要なんてないんだよ、今日は泊まって、釣りは明日にするって、お父さん言ってたからね、でも明日、寝坊しないようにお父さんのお話よく聞いて、早く寝るんだよ?

 記憶の中の母の発言は、ひどく幼い子に対するもののようだった。言われてみれば兄は当時、多分小学二年生くらいで、今考えれば随分幼いのだけど、慌てて泣きそうになっている兄にミサキは、お兄ちゃん、大きいのに情けないなあ、と思ったのも覚えている。

 あんまりだとミサキは思った。最近は苛々することばかり、嫌なことばかりだけど、不思議と兄には苛立たない。隣の部屋に兄がいて、両親を困らせていると思えば、どうしてか、応援する気持ちにすらなる。

 考えるべきことはたくさんあったけれど、頭は今何を考えるべきかを知っていて、勉強していても携帯を弄っていても友達といても、同じことを考えてしまうのだった。同じこと。同じこと。夏が来る前にお兄ちゃんを隠そう。お兄ちゃんを隠そう。

 その前に、本当に兄がガレージの冷凍庫の中にいるのかを確認する必要がある、と考えられるほど、高校三年生のミサキは冷静だった。考えてみれば、全て思い違いということもある。説明はできないけれど、やはりあの夜見たのは、兄と父が男性を運んでいて、兄はまだ生きている、のかもしれない。

 それはそれで最悪だけど、兄が死んでいないかもしれない可能性について考えるのは、ある種の礼儀なような気がした。

 

 ドラマに出てくる犯罪者の中には、衝動的に人を殺してしまう人も多いものだ、とミサキは知っていた。現実の人間と違うのは、たいていの場合犯人は、その場をうまく切り抜ける作戦もとい、トリックを考えつく、ということだ。アリバイトリックにしろ、密室を作るアイディアにせよ、咄嗟の瞬発力で探偵を騙す方法を考えついて、ドラマにしてしまう。のみならず、自分は全くの無実、という顔をし続けるのだから肝が据わっている。

 創作の世界の話だと思っていたが、ミサキが兄の死体を確認したときにも同じことが起きた。「人間、追い込まれたらけっこうアイディアって思いつくんだ」と気の抜けたことを考えていた自分が可笑しかった。思いつくと、粗があることは自覚しつつも、この方法しかない、と思い詰めるようになる。そういう焦りのような高揚のような気分になると頭の片隅どころか図々しくも王座に腰を落ち着けようとする「粗」のヤツでさえ、大した問題ではないというか、事を進めれば勝手に解決するだろう、という気になる。

 行こう、行こう、すぐ行こうとミサキは思う。勢いを殺してはダメだ、と理性のどこかで言う。電話番号を調べて、すぐに電話をかけよう。時間なんて気にしてられない。明日になったらきっと怖気づいて私は何もしない。少し時間は遅いがこの方が、緊急事態という感じがして良いかもしれない。本当は時間なんて把握してなかった。実際電話をかけたのがいつだったのか、今は思い出せないし、通話記録は意識的に見ないようにしている。

 思いついたは良いけれど、一人でできることではなかった。それがトリックの粗ならば、そもそもトリックとして成立していないだろうと言われるだろうが、彼女にとってそれは、乗り越えられる粗という気がしていた。

 自分の家の冷凍庫と、浜中先生の家の冷凍庫を入れ換えるというトリックだった。一人ではできない、だけでなく、浜中先生の協力なくてはできないトリックなのだから、粗というより普通に考えれば無理な話なのだった。どうにか一人で遂行する方法はないかと一瞬だけ考えたけれど、ミサキは車の免許も持っていないし、免許を持っていて、トラックか何かを運転できたとしても、兄が入った冷凍庫をトラックの荷台へ持ち上げる力もない。何故かこの時点においても冷凍庫を入れ換えるというトリックに固執していたし、浜中先生を巻き込まない、という考えこそ非現実的だと思った。ミサキはこのときの心境を説明できない。浜中先生は協力してくれる。故に冷凍庫の入れ替えは成立する。問題があるとしたら、浜中先生の家にまだ、冷凍庫があるかどうか、壊れてしまっていないかという点だけだ、と彼女は思った。

 浜中先生の家へは行ったことがない。場所は知っている。そんなに遠くないはずだ。お兄ちゃんが自転車で行っていたのを知っているから。兄と桜大が何度も遊びに行っており、そのときの写真を何枚か持っている。ミサキが個人的に持っているものではなく、家族のアルバムの中にその写真が混ざっている。納屋をバックにして撮った写真で、二人と浜中先生の息子たちも揃って四人で、それぞれホームランバーを片手に持って、もう一方の手でカメラに向けピースサインを突き出している。背後にはうちにあるのと似ている業務用サイズの上蓋が開くタイプの冷凍庫がある。手前の、笑顔の兄が眩しい。横に並んでいる写真には、桜大と二人で、海をバックにしてピースサインを頭上に掲げている兄が写っている。一度か二度、兄だけでなく桜大も一緒に、海釣りへ行ったことがあると記憶している。たしか前日から桜大くんが家に泊まって、お風呂から出ても二人は遊んでいて、お父さんが不機嫌になったのだ。明日は早いと言っているのにバカなんじゃないかと言った。これはそのとき行った海で撮った写真だ、と思った。桜大は帽子をかぶっておらず、帽子を忘れると置いてくぞ、とまで言って脅したことがある父の声と噛み合わない現実にミサキは嫌な気持ちになる。桜大くん帽子かぶってないじゃん、じゃあなんでお兄ちゃんにはあんなに意地悪く、嫌味ったらしく帽子のことをネチネチ言ったんだろう、という遣る瀬無い気持ちになる。それとも、桜大くんはよその子で、帽子をかぶらずに体調を崩しても構わないから何も言わなかったのだろうか、前日に桜大くんが泊まりに来て、夜遅くまでお兄ちゃんと騒いで嫌な気分になったから、どうでも良いと思ったんだろうか、とか考えれば、兄の名誉は守られるが、今度は桜大くんが可哀想で、やはりミサキは嫌な気持ちになる。

 そういう複雑な気持ちも含めてミサキは、とても長い時間をかけて浜中先生と話をした。

 電話での会話が最初。第一ステップ。ミサキはどうしても浜中先生の家を訪れる必要があった。高校三年生の女の子が一人で家に押しかけてくるという事態をやんわり避けようとする浜中先生を説得する形でどうにか訪問にこぎ着けた。今思えば、訪問の約束をしたときにもうほとんどトリックが完成したような気になっていた。電話を切った時間は覚えている。午前零時。体感では十五分ほどの会話だったが、おそらくもう少し長い会話だっただろう。

 電話口の先生が言うことには、今ちょっとした病気にかかっており、しばらく入院していたのだが、ようやく自宅療養を許可されて、ようやく退院した矢先にミサキからの電話を受け取ったのだと言った。

 そういう話題がまずあったから、ミサキは最終的にお見舞いの名目でお宅にお邪魔するということにしたが、先生の方はきっと、そういうわけで体調が優れないから、来客に対応するのは少ししんどい、ということを伝えていたのに、ミサキは自分のことしか頭になく、先生の迷惑も体調も顧みなかった。先生の声はかつての教え子からの電話で嬉しそうだった。実際にそう言っていたのをミサキは真に受けた。先生は重い病気にかかっており、実のところ治癒の見込みがないから一時帰宅を許可されたに過ぎず、実際にほどなくして亡くなってしまうのだが、亡くなってしまってからミサキはようやく自分がしてしまった若くて身勝手な行動力を恥ずかしく思った。かと言って桜大や浅霧兄妹に伴って通夜やら葬儀やらに参加することはできず、恥の上塗りとはこのことだが、この恥ずかしさを知っているのは今も今後も一生、ミサキだけなのだった。しかしあの無鉄砲な行動力が無ければ、私は一生兄に顔向けができなかっただろう、とも思った。よくやった私。あのときの私は別人のようだった。私は私の意思で、人に迷惑をかけてでも、やり遂げたいことをやり遂げた。それが結果的に、巡り巡って、兄の心に届くなら良い。私が兄の墓に参る度に、もしくはその日の前の日々で、後ろめたい気持ちとか憂鬱な気持ちとかが芽生えなければ良い。お兄ちゃん、可愛い妹が来たよと図々しく居続けるために必要なことだったのだ。

 先生の家に足を踏み入れたのは初めてだったけれど、初めてという気がしなかった。中学時代の社会科の授業はそれほど記憶に残っていなかったが、当時からおじいちゃんみたいだった先生に進路相談をする生徒がたくさんいたことを知っている。さすがに恋愛相談をする友人はいなかったようだが、若い奥さんがいることが何人かに知られていたから、ときにはそういう話題も繰り広げられたのかもしれなかった。相談する生徒の多くは先生が顧問を受け持っているテニス部の連中だったが、所属も学年も問わず先生は、生徒と話し込むことがよくあった。先生は忙しくないと思われていた。忙しそうにしているところを誰も見たことがなかった。ミサキは一度も先生を頼ったことはなかったが、先生はミサキのことをよく覚えていた。それはミサキの担任をしたことがあることももちろん大きいが、兄がテニス部だったこととも関係があるらしい。兄も何か相談したことがあるのだろうか。ミサキが思うにきっと先生は、ミサキからの電話を取りながら、いくつかの卒業アルバムを繰って、必死に思い出したのだろうことが、先生の家に通されてから何となく分かった。通された応接間のような部屋には電話機があり、重々しい棚は食器棚のようだったのに、本棚のように書物が収められていて、下二段にはこれまで先生と関わった学年全ての分だろうと思しき量の卒業アルバムが収められていた。

 ミサキは大人らしく体調などに触れながら、私はあのとき電話口で、自分がどの年の卒業生か名乗っただろうか、ということが心配になった。先生は記憶より痩せており、顔色がよくなかった。色々なことに気を取られてしまいながら目的を果たそうとしたが、私はあの日、きちんと何々中学の何年度卒の何々である、という風に名乗れただろうか、とばかり考えてしまった。そうでなければ先生がアルバムの私にたどり着くのは難しかったはずで、やり方としてはまず記憶にある兄を探し、苗字を確認してからようやく私の記憶にたどり着いたのではないか。憶測に過ぎないが間違ってないと思った。私は覚えられていなかったと思う。

 椅子に座ってコーヒーを勧められ、ようやく手土産やお見舞いの品を何も用意していなかったことに気付いた。高校生だからそこまで気を回さなくて良い、とは思わなかったはずなのに、今の今までそのことに気付いていなかった矛盾を自分で詰りながら、スティックタイプのグラニュー糖を二袋入れたコーヒーを口に運んだ。

 何を買ってくるべきだったんだろう、お見舞いの品はどんなものを用意するものなんだろう。それらを忘れたとき、どんな言い訳をすれば良いのだろう。

「ミサキが変に気をまわしてお茶菓子とか買って来なくて良かったよ」と先生は言った。ミサキの動揺が顔に出ていたから。

「甘いものはもうほとんど食べられないし、固いものもダメでね。というかほとんど食欲がないし、胃腸も機能を失いつつあるから、食べ物を貰っても困ってしまうんだよ。だからと言って花を貰ったりしてもやっぱり困るから、こうして会いに来てくれるのが一番だ。思い出話が僕の薬だよ」

「あの、でも先生、こうしてお邪魔するからにはやっぱり何か持ってくるのが礼儀、ですよね?」

「そうかもしれないけど、今回は本当に例外だよ。今後はそうすれば良いさ。それに、僕にそんな他人行儀な気の使い方しなくて良いんだ。教師なんて使い捨てだよ。生徒は必要なときに必要なものを掠め取って行くだけで良い。ああでも、どうだろう、僕が手土産について言及すればするほど、やっぱり持ってくるべきだったんだ、って思ってしまうかな」

「いえ、先生から言ってくれてよかったです。何も持っていない言い訳をどうしようか考えていたので」

 先生が快活に笑ったので、ミサキは事情を話すことができた。思い出話ではなかったが。

 先生が驚いたのは一度だけだった。兄が亡くなったらしいが、おそらく父が死体を隠しており、正当な葬儀と手続きの手順を踏んでいない、と言ったとき。驚いたがあれこれ詰問されるようなことはなく安心した。「僕より先に逝くなんておかしいじゃないか」と言って泣いたが、涙になる水分は残っていないようだった。乾いていて、ミサキは嬉しかった。先生はもちろん、死体を隠すのは罪だし、お兄さんのことやお父さんのことを思うのなら、すぐにでも通報してその身体を白日の下に晒すのが正しい行動ではないかと諭した。

 先生の言っていることが正しいことが分かったので、ミサキは兄のことを話した。ミサキの中で兄の死体を隠すことは決定事項だったので、正論を退けるには会話を逸らすしかなかったのだと思う。会話を逸らそうとしたわけではないけれど多分そういう思考回路が、兄のことを話すという行動に結びついた。

兄のことを話すことは、かなり桜大のことを話すことに近かった。兄と桜大はほとんど二人きりでいたからだった。複式学級を経験したことも、途中で転校生がやってきたこともあったけれど、兄と桜大は基本的にいつもセットでいるという感じで、周りに人がいても二人だったし、別の家で暮らしていることが不思議になることもあった。自分にとって桜大も兄のようなものだった、とは思わないけれど、桜大は兄がしてくれないことを自分にしてくれた、という話をした。

なぜそんな話をしたのか分からないし、気付けばほとんど桜大の話をしていたけれど、それは多分、兄が今日先生と話をするとしたら桜大の話をすると思ったからだった。

「先生、知ってる? 桜大くんって昔、小説家になりたかったんだって。もしかしたら今もなりたいのかもしれないけど」

 桜大が小説家になりたいという夢を語ったのは、浅霧兄妹の前でだった、ということに兄は、強いショックを受けたという話をミサキにしたことがあった、とミサキは語った。

「ん? 桜大は智大に小説家になりたいという夢を、そのときまで語らなかったのかい? そのことにショックを受けた?」と先生は、時系列も主述もこんがらがってしまったようだった。頭が少しぼやぼやしていて、と先生は言ったが、ミサキの伝え方が悪いのは明白だった。

「そのときまで語らなかったというか、そのときでさえ、お兄ちゃんに言ったわけじゃなかったのがショックだったみたいです」

「いつの話?」

「あれは、お兄ちゃんが中学二年生の頃かな。翔くんと麻衣さんが転校してきて半年ぐらい経ったとき。翔くんたちの家で、桜大くんが急に言い出したらしいです」

「ああ、あの頃」と先生は、何か思い出があるみたいに呟いた。

「あの頃って、なんかあったんですか?」

「いや、特になにもないけどね」

 ああ、もしかしたら兄は、こういう話を浜中先生にしたことがあるかもしれないと思った。浜中先生は桜大が小説家になりたいと思っているか、思っていたか、という点に驚いた様子は無かったし、浅霧兄妹の前でだけ夢を語り、兄にもおそらく長いこと、秘めていたのだ、という点にも驚いた様子はなかった。単純に、他人からすれば何も驚くに値しない話題だっただけかもしれないけれど、あの桜大くんが小説になりたかった、ということにミサキはすごく驚いた記憶があるし、夢を兄に教えなかったことも水臭く感じたのをよく覚えていた。意地悪なことをするな、と思った。兄に意地悪をするとしたらお父さんなのに、桜大くんにまで意地悪されて可哀想だな、と思った。私はお兄ちゃんに優しくしようと思った。

 桜大くんはわざわざ兄がいるときに、浅霧兄妹の前で、夢を語ったのだと言う。誰にも話したことがないんだけど、と前置きして言ったらしい。兄はその場にいたけれど、浅霧兄妹と兄の三人に向かって言ったというよりは、浅霧兄妹に向けて発したそれが、距離的にただ、聞こえただけ、という気がした、ということをミサキは兄から聞いていたのだった。

「将来の夢の話を聞いたって話をミサキは智久から聞いたんだね」と先生は笑う。

 ミサキは少し黙って、ここからは伝え方に気を付けようと考える。どこから話せば誤解がないか、どうすれば一番短い距離で先生に伝えられるか。

 結局、「好きとか、そういうことじゃないんですけど」と最初に断ったのが、正しいのかどうか分からないまま、そう切り出していた。実際ミサキは桜大のことを恋愛対象として見たことはなかったし、好きとか嫌いとか感じたこともなかったから、わざわざ自分から恋愛の要素を否定すること自体、つまり話題に上げること自体、微かな恋心の存在証明となってしまっている気がして不本意だった。しかし話し出したら止まらない。

「それから何故か、私が桜大くんの役に立ちたいという気持ちが出て来たんです。その気持ちに気付いたのは最近です。でもそれは、きっとお兄ちゃんが生前そう考えていたからだと思います。そうだ、私はお兄ちゃんの役に立ちたかったんです。お兄ちゃんは桜大くんの役に立ちたいといつも思っていて、それは口に出すようなことじゃなかったけど、そう思っていたはずなんです。ときどき桜大くんに対して卑屈に見えることがありました。桜大くんだけじゃなくて、お父さんとか、にも、お兄ちゃんは卑屈な態度を取ることがありました。ご機嫌取りっていうか、そういうところ。何か譲ったり、んー、なんだろう、例えば二人で一緒に何か食べてるとき、ゴミが出たらお兄ちゃん手を出して、桜大くんの分まで捨てようとするんです」

 ミサキは家族のアルバムの中の兄と桜大と先生の息子たちがそれぞれ、ホームランバーを片手に持っている例の写真を思い出していた。あの包み紙を兄が桜大から受け取る様子をミサキはありありと想像できた。先生の息子たちのゴミも集めて捨てに行ったかもしれない。

「それはただの親切なのかもしれないけど、親切だけではきっとなくて、気が利く奴になりたかったんだと思うんですよ兄は」

「実際ミサキのお兄ちゃんは親切な子だっただろ? 優しい子だったよね」

「そうだけど、優しいだけじゃありませんでした」

「それが普通だろう」

「お兄ちゃんが死んで、死体も見ましたが、泣けませんでした。まだ泣いていません」

 先生は黙る。黙ってミサキの目を見て、確かに涙が溜まる様子すらないことを確認した。悲しみをこらえている様子も、既に涙が枯れ尽くしたという様子もない。もちろん、見ただけでは分からないが、少なくとも兄の死に関して、きっと本当に悲しくないのだろうし、泣いてもいないのだろう。

「これも、お兄ちゃんの悪い癖のせいなんじゃないかと思うことがあります。お兄ちゃんは高校を卒業するタイミングで引きこもりを始めました。しかも本人は引きこもるのではなくて、死んだことにする、という設定を作りました。実際私たちは兄を死人のように扱っていて、もうすぐ三回忌を行うそうです。三回忌の案内を当時のこの町の同級生にだけ送るのは私がやりました。はがきが兄の部屋のドア下に挟まっていて、メモには具体的に何をどうして欲しいかが書かれていました」

「智久が亡くなったのはいつ頃なのか分かる?」

「はい、あの、本当に死んだ日ですか?」

「そう」

「分かりません。死体を運ぶのを見たのが大体二週間前です。案内を出したのが更にその二週間前です。どうしてそんなこと聞くんですか?」

 話を遮った先生を責めるような目をしている。

「いや申し訳ない。少し気になっただけだよ」

 ミサキが続きを話そうとしたとき「その、智大を死人のように扱っているというのは、具体的に、どう扱っているんだい?」と先生は、ミサキの顔から表情が失われていることに気付いてはいるけれど、といった控えめな声で言った。機嫌の悪い母に晩御飯の献立を聞く少年のような卑屈な目で、先生はミサキを見つめた。

「毎日二回、食事を持っていきますが、ご飯にお箸を差して置きます。母がお米をよそって、私が兄の箸を差します」

「そうか、ごめん」

 先生は急いで言った。

「何がごめんなんですか?」

「聞いちゃいけないことを聞いた気がしたからね」

「大丈夫ですよ。他に聞きたいことはありますか?」

「今の段階ではないよ」

「先生は私や私の家族のことを変に思うかもしれませんが、兄が自殺した、ということにしてからもう三年経つので、今改めて本当に死んだことが分かっても、あまり悲しくありません。これまでは、何だかんだ生きてることが分かっていたとは言え、直接話をしたりはありませんでしたし、トイレのために部屋を出入りすることはありましたが、基本的に家族と鉢合わせしないよう気を付けていたようですし、私たちもわざと兄が出てきやすい隙を作りました。あまりリビングで夜更かしをしないようにしたり、私も、ドアの開け閉めは少し大げさにしていました。隣の部屋の、私の動きが分かりやすいようにです。なんかね、先生。分かりますか。兄が普通に生きていたときよりも、部屋から出て来なくなってからの方が、母も父も、兄を尊重しているようでした。死者とはそういうものかもしれないって思いました。生きている人よりも、死人の方が何だか丁寧に扱われたりって、ありますよね? 日本の宗教観ですか? 世界的にそうなんですか?」 

 ミサキは質問をしたようだが、先生に答えを教えてもらおうとしているわけではなさそうだった。先生は曖昧な声を出して、どうだろうね、と言えば、すぐにミサキは続きを話す。

「兄が感じるよりきっと、私の方がそのことに満足していました。父は意地悪で、兄はよく言葉でいじめられていました。父がやっていたのはモラハラというやつだったと思います。父という立場を振りかざしていたとしたら、パワハラと呼んでも良かったかもしれないです。多分その二つです」

 ミサキは兄が意地悪する父親の機嫌を取ろうとする姿が不思議だった。嫌えば簡単なのに、と思うし、自分は多分兄の姿を見て父を、一般的な十代の女性のレベルでではあるが父を嫌い、距離を保つことに成功したのだから、兄もそうすれば良かった。好かれようとしたり嫌われないように振舞うのは惨めで、それならいっそのこと、自分の方から嫌う。ミサキに限らずきっと多くの人がこの方法を使っている。

「去年か、もっと前か、一回父がやっぱり二階にもトイレを作れば良かっただろうか、と呟きました。私も母もそれは聞こえないフリをしましたが、私は何だか複雑な気分になりました。嬉しかったような、苛立つような、父にはいつもすんなり一つの感情が出てくることはないのですが、このときは今でもはっきり覚えているくらい、水と油みたいな感情が湧いてきました」

「それはどんな? どういう感情なの?」

「先生、もしかして体調があまり良くないですか?」

「いや、大丈夫だよ。自分でも不思議なくらい元気だよ」

「興味が出てきましたか?」

「そうかもしれない」

「どんな感情かって言われると、正直、説明が長くなってしまうかもしれませんが、なんだろ、まず今更何言ってんの? とは思いましたよね。それは思いますよね。もう二十年近く前に建てた家ですよ? やっぱり二階にもトイレをって今更言う意味なんて全くありませんよね? リフォームとかやればできるのかもしれないけど、しませんよね。まさか引きこもっている兄がトイレを使いやすいようになんて理由で。それでまず、独り言とは言え絶対父は、いつも私とか母に聞いて欲しくて言ってるんですよ。人の話はまともに聞かないくせに、自分の発言は聞かれていて当然と思ってるんです。だからいつも渋々お母さんが、母が、短く返事をしたりしますけど、そのときは母ですら何も言いませんでした。でも私は、少し兄のことを考えたんだろうか、と思うと嬉しいというか、スッとするものがありました。兄に対する気遣いめいた考えが少しでも父にあったのだ、と思うとね、兄は喜ぶだろうなと思ったからです」

「あの」先生は生徒のように手を上げた。

「何ですか?」

「智久が引きこもって、死んだことにするって決めたことと、お父さんには何か関係があるのかな? お父さんとの関係に関係があるのかな?」

「分かりません。特にないと思います。無いことはないかもしれませんが、絶対真ん中ではないと思います。こう言っちゃあれですけど、お父さんの嫌さなんて別に普通じゃないですか?」

 先生は少ししょんぼりした顔をする。

「あ、先生のことを言ってるわけじゃないですよ? すみません先生。普通父親は嫌われてるって言ってるわけじゃないんです。言いたかったのは、うちのお父さんは別に世間から非難される程の悪い父親でもないですけど、家族からは多少煙たがれるっていう、まあ普通の? よくいる昔ながらのオヤジってことです。私は父のこと、苦手ですけど、どうせ今後結婚とかしたらね、結婚式でお手紙とか読んじゃうんですよ。不慣れな手つきで作ってくれた少しかたいホットケーキが美味しかったとか、私がわがまま言って月に三度も遊園地に連れて行ってくれたとか、そういうエピソードを引っ張り出して、大切に育ててくれてありがとうとか、そういう手紙を書いて読んじゃうんですよ」

「本当にそういうことがあったの?」

「ないんですよこれが。そりゃ場合によっては父が何か食べ物を作ってくれたことはあると思いますし、私のわがままに付き合ってくれたこともあると思いますけど、些細なこと過ぎて全然覚えてません。たまに作る料理がすごく上手だったりしたら覚えてると思いますけど、普通にあんまり美味しくない程度のものだったんじゃないですかね。毎日の母の食事の方がずっと心に残ってますよ。高校からは毎日お弁当も作ってくれてますし。土日の部活のときは食費をくれます。千円ずつです。父がそれを見て、一日千円は高級すぎるんじゃないかって母と話してるのを見たことがあります。土日それぞれ、一日千円で、一月にすると八千円くらいかかるでしょう。それとは別にお小遣いも五千円ありますから、私に一月一万三千円くらい渡してるんです。そんなに使うか? と父が言うんです。私にではなく母に。確かに、土日のお昼代で千円も使いません。それでも適当な食事と飲み物を買おうとすれば五百円では足りません。余るお金のことを考えても八百円くらいだと思うんです。後から確かに千円も使わないよと母に言うと、それでも五百円じゃ足りないだろうし、八百円くらいで良いと言ってもいちいちそんな半端なお金を用意するのも面倒だし、足りるかどうか考えてお昼のお買い物するのも嫌でしょう、と言ってくれました。お昼には多くてもお金が余ってしょうがないってことはないだろうし、上手にやりくりしてね、と。確かにそうだ、と思ったし、千円使い切らないとは言っても不思議と余るわけじゃありません。やっぱり飲み物を買ったり、細々としたものを買えば、余ったお金なんてすぐに使い切ります。それにうち、機種代は別にして、毎月の携帯代を自分で払っているんです。格安シムを使って一月で通話をしなければ二千円いかないくらいです。仮にお弁当代が週に四百円余るとして、一月で千六百円くらいですから、うまくやりくりすればお小遣いに手は付けないで携帯代をほとんど払えることに気付いてからは、八百円以内でお昼を済ませるようにしました。飲み物も買わないで、それこそ家で作ったお茶を持っていけばさらに余裕です。最近はコンビニのものも高いからそれでも五百円では足りないんですけど、母に言われた通りやりくりしたら随分楽になるんです。このエピソード一つとっても、父は文句を言っただけで、私のことを考えてくれたわけじゃありません。それも、私に直接言うならまだしも、母に文句を言うんです。母が私を甘やかしてるみたいに。確かにわがままを聞いてくれた回数も母の方が多いですけどね。それは私と母のやり取りというか駆け引きというか、親子のアレじゃないですか。ただ、こういう感じなので、私は父に直接意地悪をされたことはありません。それこそ些細な意地悪とか、からかわれたりとかはあるかもしれませんけど、兄がされていたような意地悪をされたことはありません」

「智大はどんな意地悪をされていたの?」

「いちいち意地が悪いんです。嫌味って言うか。私にお弁当代一日千円は渡しすぎだって言うくらいですから、まあケチなんですけど、兄にはもっと、陰険っていうか、言い方が脅迫してるみたいなんです」

「脅迫? ミサキは、智大が虐待されていたと思う?」

「分かりません。広い意味では虐待なのかもしれませんけど、暴力とかはありませんでした」

「暴力はなくても、家庭内暴力とか虐待っていうのは例えば食事を与えないとか、無視をするとかも含まれるんじゃないかな」

「知ってますよそんなこと」少し語気が鋭くなってしまい「すみません」と声を落としてから「身体だろうが心だろうが、親が子を傷つけたら虐待です。でも、いずれも程度問題でしょう」と続ける。

 自分でも「程度問題」という言葉が少し大人びているような気がする。検索して出て来た記事の文言をそのまま口に出したのがバレたような気がして、ミサキは少し居心地が悪くなる。虐待とは何か、家庭内暴力とは何かを検索したことは自分だけが知っている。それら取りまとめた事実が後ろめたさになる。

「兄が怪我をするような暴力を父がふるったことはないし、泣いたり精神的に追い詰められてりするほど暴言を吐かれたこともないと思います。兄は父のことを慕っていたし、証拠に、よく一緒に海釣りに行ってました」

 よく一緒に行った、というのは嘘で、ミサキはつい、先生の前で父と兄の関係を粉飾しようとしてしまった。また後ろめたさに餌をやるようなことをしてしまう。悪い親子仲ではなかった。父は兄に対して少し意地悪な物言いをすることはあったけれど、愛情が無いわけではなかった、と思わせたい。この頃にはもう、先生が間もなく死んでしまうことが分かっていたし、そうでなくとも、今ここで話している内容を他言するような先生でないことは分かっているのに、なぜ細かな嘘をついてしまうのだろう。

 一方で兄と父の親子関係に対する認識に偽りはない、とも思う。ミサキは本当に二人の仲はそれほど悪いわけではないと思っていた。人に自慢できるほどの仲良し親子ではなかったとしても、これくらいは普通でしょう、と思っていた。父親が多少扱いにくいことも、兄に対して意地悪な物言いをすることも、ありふれたことだと思う。映画や小説で題材になるような過激なものではないし、他所の家庭の親子関係も似たり寄ったりで、父親と話なんかしない、と言う同級生のことを何人か名指しできる。ありふれている。父は一般的な範疇にいる家庭内の障壁に過ぎず、自分は過大にも過小にも父親を見ていない。

 しかしこれを口に出せば、それ自体が意味となってしまうのではないか。先生は誤解してしまうだろう、とミサキは思った。自分が必死に父の凡庸な嫌われ具合と、虐待には届かない程度の意地悪とを説明しようとすればするほど、意に反して、父と兄の関係が現状を招いたのではないかと勘繰られてしまうのではないか、という予感がある。

 だからミサキは話を逸らして、というか戻して「でね先生、私が今あまり悲しくないのは、兄がゆっくり死んでくれたからだと思うんです。狙ってこうなったとは思わないですよ。でも兄が、あの意味分かんない、自殺したことにして、死人のフリをして部屋に引きこもるっていう生活を始めてから、やっぱりちょっとずつ変わって行ったんですよねうちの家庭は。良い方になのか悪い方になのか分からないけど、少なくとも父の影が薄れた気がしました。だから、兄がいなくなってからの方が兄はずっと惨めじゃなかったと思うんです。それで私が少し満足っていうか、溜飲が下がる? みたいな気持ちになって、うちはこのままでも良いんじゃないかとか思った。でも同時にね、私が大学に進学して、家を出たらどうなるんだろう? とも思ったんです。また何か変わるんだろうか? 変わるんだろうな。どんな風にかは分からないけど。お金のかかる死人が一人増えるようなものじゃないですか。でね、私、何の話がしたかったのかっていうと、家の話じゃないんです。自分の家のことなんてわりとどうでも良くて、というか、聞いてほしいのは別の話で、兄がバカなことをしてる影響で、例えば桜大くんにも変化があったんだと思うんです。どんな変化かは分からないけど、絶対に何かあるでしょ? 風が吹けば桶屋が儲かる? あれみたいな感じで、風が吹いただけだけど、結果がなんかすごい、きっかけからは想像できない事態を招くことがあると思うんです。そういうことをね、漠然と想像していたとき、いや、もうずっと長い間そういうことは考えてたと思うんだけど、考え過ぎて当たり前になってしまっていたことに、兄が運ばれているのを見たとき気付きました。父と、見知らぬ男性と二人で、脱力した兄を運んでいるのを見ました。それから少し経って、私は一人で兄の遺体を確認しました。父が海にこの遺体を捨てることが想像できました。兄は父が海釣りに連れて行ってくれる僅かなチャンスをすごく楽しみにしていました。本当に気まぐれに、年に一回か二回だけ、父は兄を連れて海釣りに行きました。多分次の秋頃に、父は久しぶりに釣りに行くと言って、兄の身体を海に捨てると思います。兄が可哀想だと思いました。どうしよう、どうしよう、と思っていると、思いついたのが冷凍庫の入れ替えでした。先生の家の、あの納屋の冷凍庫、まだ使えますか?」

 冷凍庫は使えるようだった。今は電源を入れていない。中身は空っぽ。好都合だった。ミサキはやっぱり、この計画は成功しつつある、と思った。どうしてか分からないけれど、おそらくこの後快諾されるだろうことが分かっていた。人生でときたま起こる、確信に満ちた出来事だった。ミサキはまだ話したりないことがあった。

「兄はトリックになるんです。私、桜大くんが何を書きたいのか、書きたかったのかは知らないけど、兄の死体の失踪をきっかけに何か書くことになると思うんです。そうでしょう? こんなこと、書かなきゃいけないじゃないですか。ほとんど二人きりのかつてのクラスメイトですよ。幼馴染ですよ。それが、意味分かんない引きこもりになって、気付いたら本当に死んじゃってて、死体が消失するのは、探さなきゃでしょ? 死体探しって、先生、小説に書かないでいられるような題材じゃないですよね。私こういうこと考えてたらね、あの冷凍庫に入ってる兄と、普段あそこに入ってる魚がダブって見えるっていうか、面白くなってきちゃったんです。魚って、身を食べられて、骨や頭で出汁まで取られて、本当にしゃぶり尽くされるんですよ。それが魚にとって供養になるとか何とか、都合の良い話だなと思うんですけど、私は兄の死体を使ってね、父を生きた心地しないってくらいまで追い込みたい気持ちがあるし、死体消失トリックを実際にやったらね、桜大くんはきっと、うまくいけば、兄を探して町中を歩き回ってくれると思うんですよ。小説を書くかどうかは分かりませんけど、少なくとも探してくれるでしょう? 兄の死体一つで私、あれもできるこれもできるって考えちゃって、全然悲しくないのは、やっぱり兄がゆっくり死んでくれたからだと思うんですよ。あれ、私ちゃんと喋れてます? 意味分かります? 伝わってますか?」

 先生は小さく何度か頷いて、ミサキの話を聞いていたのかどうか分からないような話しを始めた。それはミサキの担任をしていた頃にクラスで起きたことだとか、ミサキの同級生の動向だとか、自分の息子の話だとかだった。兄の話もしたし、桜大の話もした。二人が中学二年生に上がる頃に転校生がやってきて、そう、双子の浅霧翔と麻衣だよ。だから、僕はあの二人が二人っきりという印象はあまりなかったんだけど、というような。

 喉が渇くのか、頻繁に湯飲みに手をやって、しかし急にたくさんは飲めない様子で、一度にせいぜい唇を湿らせる程度のことをして、傍から見れば緊張しているようにさえ見えるのだけど、一息ついて続く発言を聞くとミサキは、先生は本当に、これを言うために緊張していたのではないかと思えてならなかった。

「いいかいミサキ、本当は大人としてこんなこと、絶対言っちゃだめなんだけど、大人としても教師としても男としても、こんなこと絶対に言うべきじゃないのは分かってるんだけど、君の罪は僕が背負うよ。いいかいミサキ、いいよ、僕は、もう、実は、先が長くないんだよ。病気で、余命宣告を受けて、もうとっくに宣告された時期は過ぎてるんだ。一度すごく大変な頃があって、それから、医者が言うには奇跡的に回復してね、いつ死んでも良いと思って先生と相談して最期は家で過ごすことにしたんだよ。一時帰宅というかね、まあできるなら、このまま静かに自分の家の布団で死にたいと思ってるんだよ。家には家族がいるから面倒を見てくれる人はいるって嘘をついたね。嘘、ついたよ。ペラペラと、まるで自分が家族から愛されてるみたいに言ったよ。見栄を張ってしまうんだね、もうどんな風に見られても構わない、人生の最後に少しお世話になってお医者さんに対してでさえ。

 いやどうなんだろうね。別に嫌われていないと思うけど、ミサキの話を聞いていたら少しだけ自信がなくなってしまった。はは、大丈夫だよ、責めてるわけじゃない。こんな風に父親としての自分を振り返る機会を与えられたことにも本当に、偽善者みたいなことを言うけど、感謝してるんだよ。僕は二人の息子とどんな風に接してたかなって、ミサキの話を聞きながら、どこかで考えてたんだ。さて実際ね、何があったかと言うと、息子たちに家に帰ることにすると話したらしばらくは一緒に住むと言うから、僕は少し不機嫌になってしまってね。瀕死の年寄りなのに情けない限りだが、どうしてか、しばらく、という言葉に過剰に反応してしまったんだね。しばらくって、つまり僕が死ぬまでの間のことで、息子たちはその時間はそれほど長いわけじゃないって分かってたから、しばらく、一緒に住むなんて言えたんだよ。そうだろ。そりゃ一時は死地から生還したけど、病気が治ったわけじゃない。僕は依然余命宣告を受けた老人のままで、なんというかね、歯磨き粉の最後みたいなものだよ。もう出ないと思ってもしばらく出る。意外に出る。なんだかんだ出る。そんな感じで生きてるに過ぎないんだよ。はは、おいおいミサキ、笑うなよ、僕は真剣に話してるんだぞ。

 まあそれでね、お前たち、僕があと五年生きるとしても同じことが言えるのかって、つい詰ってしまった。するとあの子たちはね、特に怯むでもなく、五年生きてられそうだったらまた適当に距離を保つし、やんわり自分たちの生活を優先していくよ、って言うんだよ。冷たいことを言うなと思ったけど、考えるまでもなく、それが普通だよな。息子たちは冷たいのではなく冷静で、僕は少し自棄になっていたんだ」

 先生が長く話をするのはミサキにとって喜ばしいことだった。部屋の中はかつての教室の中に空気が似通っていた。先生の話し方は眠気を誘う。授業が退屈なわけじゃないけど、プールの後、スキーの後の社会科の授業は地獄だったことを思い出す。

「不思議と今はまったく身体が辛くないんだが、考えてみたらこれも、何かの導きかもしれないなって思うんだ。だってこんなこと、人生で起こるなんて思わないじゃないか。かつての教え子が家に来て、兄の死体を隠したいと言う。先生の家の冷凍庫とうちの冷凍庫を交換してくれっていう。先生が元気で若くて先がある人間なら聞かなかったことにして門前払いしていたところだけど、僕は今、このめぐりあわせが面白いと思ってしまっている。最後にこんないたずら、しても良いんじゃないかって思ってるんだよ。いいかいミサキ、だからこれは、私がやりたくてやることで、私が一人でやることだよ。ミサキ、君のお兄さんが見つかる頃、私は多分もうこの世にいないよ。分かるんだよ。この仕事が終わったら私は間もなく死ぬと思う。変なことを言っていると思うかもしれないけど、本当にそうだと思うんだ。身体が辛くないと言ったけど、もうろくにごはんも食べられないんだよ。食べる気がしないっていうかな。だからこんなこと言っても、じいさん、何を言ってるんだってミサキは思うかもしれないけどね、家に帰ってくるまで、病院では辛くて辛くて仕方なかったんだよ。でも今はバカみたいに調子が良い。このまま治るんじゃないかって思ってた矢先に君から電話が来た。電話ではよそよそしくなって済まなかったね。そのときにはまだ、気付いてなかったんだ。ミサキが僕に最後の仕事を運んでくれる天使さまだったとは。

 今日のために私は生かされていたんだと思うんだ。本当にバカみたいだと思われるかもしれないけれど、ミサキのことが今は死神にも、仏様にも見えるんだよ。ああ、さっきは天使と言った癖にって? 本当かい? はは、そうそう、天使。だけど君は間違いなくミサキだ。僕がよく知っている真面目で優しい女の子のままだ。お兄ちゃんのことが大好きなミサキだ。僕はね、教え子の夢を叶えるために生きてたと思うんだよ。それが間違った方法でも、生徒の糧になるのなら私は幸せだって思ってしまうんだよ。分かったかい? いいかい? そういうことにしようね? いいね?」と先生は、反対にミサキを説得するようなことを言って、さっそくその夜、仕事に取り掛かる。

 

 冷凍庫を運ぶために先生が使ったのは、小型のフォークリフトだった。年季の入った黄色い車体はところどころ色あせて錆び付き、汚れと疲れがこびり付いていても毎日が楽しくて仕方ない顔をしていて陽気な空気を漂わせていた。黄色いせいだろうか、正面から見た車体の顔が楽しそうに見えたからだろうか、久しぶりに回されたエンジンはこらえきれないクスクス笑いのようだったし、リフトの稼働は子どもの腕関節のように滑らかだった。見るからに古いフォークリフトは年老いていても子どものようで、仕事をするのに問題はない。しかし扱う人間の方は全然相応しくなかった。乗せてしまえば簡単だったけれど、フォークリフトの薄い爪に乗せるだけでも大変な作業だった。病身の老人と少女の二人では、力を合わせても大人の男一人分くらいの馬力にしかならなかった。先生の家の冷凍庫はそうでもなかったが、トモが入っている方の冷凍庫は重くて重くて、とにかく大変だった。兄が力を抜いてそこに横たわっていることを感じられる重さだった。一度先生の足の甲に冷凍庫を落としてしまって、先生は何故か慌てて靴と靴下を脱ぐと、見る間にどす黒い痣となってミサキを驚かせた。歳を取ると血管が脆くなるからね、と先生は言っていたが、これなら確かに、脳卒中や心筋梗塞で亡くなる人が多いわけだ、世の中には、と思った。

 昼間。とはいえ夕方頃。

 ミサキはガレージ前のライトが人感センサーで自動点灯することが邪魔だと思っていたので、先生の家からは明るいうちに一度帰り、両親の目を盗んでライトのスイッチを切っておいた。両親の目を盗むというのが意外に骨の折れる作業だったが、ほんの一瞬の隙をついて実行できた。念のためソーラーパネルとライトを繋ぐコードもはずしておく余裕まであった。これで夜まで無事に、両親に見つからなければ良いと思いつつ、母には知られているような気がした。母親の目は置いておくにしても、フォークリフトで往復している間に二度、軽トラックとすれ違った。夜中の作業とは言え、多少異質に映ったかもしれないから、あっけなく二人の犯行が露呈することも考えたけれど、先生は死ぬことができたし、ミサキも桜大と浅霧兄妹に兄の身体が見つかるまで、誰にも一切言及されずに済んだ。

 夜、約束の時間にまた先生の家へ出向いたとき、こんな時間に出歩く危険はないのか、と先生がいまさらのようなことを言った。

 夜も九時を過ぎれば家の人間はほとんど自室から出てこないから大丈夫だと答えた。兄のせいで。いや兄のおかげだ。夜は兄が出てきやすいよう、いつの間にか残った家族が鳴りを潜める習慣になっていた。

 想像するときと、実際に行動するときの差異というか齟齬というか、そういうものを見て、自分は頭の中で本当に色々なことを省略して生きているんだな、と冷凍庫を動かしながら思った。先生の家の納屋にある冷凍庫、を頭に思い描いていたときは、あんなの運ぶのは簡単だ、と思ったけれど、いざその場に臨むと、臨場すると、冷凍庫が設置してある近くの扉は完全に人が出入りする用で、フォークリフトを運び入れることはできないことがまず分かったし、思ったより奥にあることも分かった。そして自分の非力さも少し冷蔵庫を持ってみてすぐに分かったし、先生の弱り具合も分かった。設置当時は男の人が二人もいれば難なく設置できただろう。つまり先生と、配達のお兄さんでもいれば。しかしこの日は瀕死の老人と女子高生だけだったので作業はそれなりに難航した。ミサキは力の入れ方がよく分からない。先生はとにかく息が切れた。途中で、足の甲に冷凍庫を落としたりして悶絶した時間があった。悶絶する先生を見てミサキも悶絶した。痛みが伝わってくるようだった。冷や汗と、作業の汗と、夜露が混ざったようなにおいが立ち込めた。夜露をさらに嗅ぎ分けると草とか水とかカエルとか、そういう湿ったにおいが混ざってるみたいだった。フォークリフトの錆のにおい、納屋の木材、肥料が入っていた袋、カビみたいなにおい。自分が美少女になったような感覚に襲われた。自分は今、ハイライトの中にいる。写真に撮られるとしたら今で、映像にして絵になるとしたら今。これから毎度の夏に思い出すとしたら今。歌の一部。短いけどきっとたくさんの人が思い出す夜を表した歌の中にいる。

 ああ、一生記憶に残るんだろうな、とミサキは思った。

 そう言うと先生は、まあ僕はもうすぐ死にますからね、本当に一生の思い出になりますよ、と笑って良いのかどうか分からないことを言った。先生は今の今、少し「先生」から離れた、とミサキは思った。息を切らしながら、納屋の段差を乗り越え、柱を避けるために冷凍庫を傾けたりして、そういう作業のいちいちが、自分たちでも笑ってしまうほど大変で、先生が死んでしまうと何度も思うから、ミサキは焦って仕方なかった。ミサキは心配だからと言って声をかけることはなかったけれど、気遣っている様子はうかがえたのか先生は、暖かい季節だから大丈夫だとか何だかよく分からないことを言うのだった。私も死ぬ間際くらいになったら先生の言ってることが分かるだろうかと思いながら、確かに、意外に大丈夫そうな先生の様子を見つつ、頼りがいのある先生という印象は変わらないままに、何も入っていない軽いはずの冷凍庫をフォークリフトの爪にやっと乗せる。乗せたらヒモで固定し、ミサキは運転席の横のただの空間に中腰で、しがみつくような、座り込むような、微妙な姿勢で出発を待つ。フォークリフトはゆっくり動きだす。軋む音も空回る音もなく、機械だけは難なく仕事をする。納屋から、道路までは緩やかな坂になっており、道も真直ぐではないことにミサキはこのときようやく気付く。車道に出るまで自分が乗ってる必要はなかったな、と思った。こういう面でも不器用と要領の悪さを発揮して恥ずかしい。

 

 先生の家の納屋の空っぽの冷凍庫を運ぶだけでも骨が折れたのだから、自分の家のガレージの兄が入った冷凍庫を運ぶのはもっと骨が折れるのは目に見えていた。先生の家からフォークリフトに乗って、冷凍庫がガタガタ運ばれて行くのを今まで生きてきて多分体験したことのない絶妙な高さから見下ろしながら眺めている間ずっと、これから兄入り冷凍庫をこっちに運んで来るのか、と考えていた。もちろん憂鬱な気分だった。それは兄の遺体を運ぶことに感傷的になっているわけではなくて、単純に作業の負荷に対する憂鬱だった。できれば今日はもうお風呂に入ってゆっくり寝て、また明日の夜に集合したい。この作業を一日どころか数時間でこなすのは慣用句的な意味ではなく実際に骨が折れる可能性がある。ミサキのではなく先生のだ。いや、先生の足の甲はもしかしたらもう折れてしまっているかもしれない。アクセルとブレーキペダルを踏む足が左足なのだ。普通右足で踏み込むものではないのかとミサキは思ったけれど、普通自動車の免許も持っていないし、フォークリフトのことなんて尚更分からないのだから口に出すのは憚られたけれど、先生は絶対に右足を庇っているのだ。先生はというとしかし、見るからにクタクタな様子ではあったもののやる気は萎えないようで、ミサキの家までとても饒舌だった。話す内容は専らこの夜の犯罪行為の計画であって、どの時点でライトを消すのが良いだろうかとか、ガレージまでの動線はどうなっているかだとか、まるでその筋何十年の銀行強盗の親分が今日のターゲットを前にしているときみたいなワクワクの声でミサキに話しかけるのだ。濃紺の夜の道路にフォークリフトの頼りないヘッドライトが前方三メートルを照らすのを漫然と見ていると、単純な疲労による憂鬱の底の方に、先生が見ているようなワクワクの感情があることも分かる。兄の死体が消える。魔法みたいに、心霊現象みたいに、質の悪いいたずらみたいに消える。父は夢か何かだと思うだろうか、それとも誰かの悪意に晒されていると感じるだろうか。こういうとき、その人の精神性というのが分かるのだろうけど、父の精神を深掘っていくモチベーションはまったくない。どう感じても良い。表面的にただ困って、慌ててしまえば良い。

 家にたどり着いてみると、当然兄入りの冷凍庫の方が重いし、深夜だがわりと住宅街なので先生の家よりミサキの家の方がずっと人目に付く可能性が高い。先生の家の方では気にならなかったフォークリフトの動作音や自分たちが立てる作業音がやけに気になる。自分で電源を切った癖に、いつも適度な侵入具合で点灯する明かりが点かないのが不便に感じた。手元も足元も見えないことはないけれど、田舎の夜中、敷地内は嫌味ったらしいほど暗く、あてつけがましい沈黙に覆われている。 不意に思い出した。父が兄の作業を見守っている。見守っているのではないな。監視している。監視? 監視も少し違う気がする。この夜みたいに、あてつけがましい沈黙で以て、兄を威嚇している。脅迫ち言っても良いかもしれない。兄は作業を根本から間違い続けている。最初に少し口を出せば済むところを、父は何故か、取り返しのつかないところまでじっと見つめるだけで、何も言わない。後から答え合わせとでも言わんばかりに兄の間違いを指摘し懲らしめる。懲らしめてやろう、という気持ちが全部に溢れている。全部というのは、声とか、目とか、表情とかに。そういうことが、よくあったと思う。

 兄はクロスカントリースキーの選手で、その日も早朝から板にワックスを塗っていた。ミサキはこの日初めて兄と父に着いていった。奇跡的に朝起きられたからだし、奇跡的について行って良いと言われたから。こんなに早いと寒いのよ、雪遊びする時間とは比べ物にならないくらい寒いのよ、と言って母が、完全防備の重装備を整えてくれたのでミサキは暑くて暑くて、顔が火照って仕方なかった。おまけに歩きにくく、息苦しい。しかし外で跪いて、細い板にワックスを塗り込む兄と、何も言わずにただ見ている父の傍にいるのは何となく難しくて、ミサキは言われた通り、ポータブルの灯油ストーブがガンガンに焚かれたプレハブの中で待っていた。雪遊びをしようと思っていたわけではなかったけれど、期待外れでつまらなかった。兄も父もミサキなんていないみたいに過ごしていて、ミサキは何も言われていないのに怒られているような気分になった。

 換気のためか窓が少し開いていて、そこからついに父の声が聞こえてくる。低くて小さな声だった。「それでお前が良いと思うんなら良いんだ」とか「この時間を練習に当てられたらどれだけ違うと思う」とか言う。言っている意味は分からなかったけれど嫌味に聞こえたのは覚えている。

「気温をしっかり確かめないからそうなるんだよな。寝る前に予報を見て、朝の天気と温度計をちゃんと自分で見て、手で雪に触ってっていう習慣をつければ、ワックス選びなんて文字通り朝飯前なんだよ。適当にやってるのか? お父さんがやると思ったか? ここに来れば俺がこのワックスを塗れって渡してくれると思ったか?」

 父が怒っているのかどうか、ミサキには分からなかったし、今も分からない。当時の言葉を思い出してみても、不当な叱責というわけでもなさそうだが、スキー板の横に立ち膝で固まっている兄の姿は惨めだった。兄がクロカンをやっていたのは確か小学四年生くらいまでだったと思う。この記憶はいつくらいの頃だったか分からないけれど、そう言えば、兄と一緒にクロカンの練習をしていたのが、先生の息子たちだったのではないか、とミサキは思い出してちょっと現在の時間に戻ってくる。死んだ兄を運ぶ現在に戻って、その兄弟の親である先生と一緒に作業をしている不思議を感じた。そうだ、桜大くんはクロカンをやっていなくて、兄だけがやっていた。何でも一緒のイメージが強かったから、珍しいことだと思った。桜大くんと違う、桜大くんより背の高い男の人が二人いる、というのが、ミサキには当時何となく怖くて、話しかけられても困ってしまった。今思えば、優しい人たちだったんだろうと思う。この先生の息子なんだから。

 それから思い出したのはついさっきと言っても昼過ぎの、先生の家、応接間のような部屋のこと。そう言えばあの本棚には、アルバムがあって、いくつか申し訳程度に文学全集みたいな本があって、その他のスペースには賞状とトロフィーが飾ってあった。トロフィーは本棚に収まらないものもあるらしく、窓際のスペースにもいくつか並んでいた。先生の息子たちは兄と違って、優秀なクロカンの選手だったんだろう。

 冷凍庫の中身は、一応改めて見た。ミサキが見るためというよりも、先生に見せるためだった。先生も実際に兄の死体を見なければ結局ミサキの狂言ということも考えられるだろうし、かつての教え子の姿を見る権利は当然あるだろうと考えた。先生は、手を合わせることができて良かった。重ね重ね、こういう機会を作ってくれてありがとうと、兄の死体入り冷凍庫を運ぶというイベントには勿体ない挨拶をした。先生らしいなと思ったけれど、先生らしさなんて知らなかった、とも思った。

 身体を畳んだ状態で凍らされている兄は、さっき思い出したばかりだからか、あの日のクロスカントリーコースの麓にあるプレハブ小屋の前で父の発言に打ちのめされて立ち上がれないまま、そのまま、横たわってしまったみたいに見えた。

 先生のためにライトで兄の顔を照らしたとき、頭部が酷く傷ついていることに気付いた。ちょっと蓋を開けた程度では分かりにくい、頭頂部に近い側頭部に、相当大きな傷があった。丁寧に傷口は拭われて、血が流れているようには見えなかったけれど、だからこそ頭部の潰れ具合がよく見えた。

「智大、どうして死んでしまったんだい?」と先生が言った。それを見て言った。

 ミサキも知らなかった。そう言えば考えたこともなかった。兄の死体がずっと目と鼻の先にあったのに、兄がどうして死んだのかを考えたことがなかった。兄が死んでいるのは、ある意味当たりまえのことだったのだ、と思った。

 作業が全て終わって、二人の配置は再び先生の家の納屋の前だった。心配がないわけではなかった。軽トラ二台とすれ違ったし(一台が対向車で一台に抜かれたので同じ軽トラだった可能性がある)、先生の冷凍庫とミサキの家の冷凍庫は暗がりならほとんど違いが分からないが、蓋の取っ手のデザインが違うから絶対に分からないとは言えない。サイズもメーカーも一緒なのがミサキの計画を後押しするようで成功を確信していたが、作業が全て終わって落ち着くと、真夜中だったので寒いこと、フォークリフトのエンジンを切ってしまったこと、先生が疲れている様子だったこと、帰り道が一人なこと、先生の冷凍庫があった同じところに兄入り冷凍庫を置くと、どう見ても冷凍庫が入れ替わっているようにしか見えなかったことなどが全部不安に繋がって、背中に変な汗が流れた。もしかしたら風邪を引いたかもしれない。先生が風邪を引いたら死んでしまうだろうと思った。早く家に入って、休んでくださいときちんと言えたのが、個人的にはすごくよかった。言い方もスマートだった気がする。帰り道、しかし、ありがとうを言っていなかったことに気付いて泣きそうになった。お礼を言わなきゃいけなかったのに。泣くくらいなら引き返してちゃんとお礼を言おうと思った。迷惑だろうか? もう倒れたように休んでいるかもしれない。本当に倒れているかもしれない。お風呂に入っているとか。ああそう言えば足は大丈夫だろうか? 葛藤はあったが総合的に考えて引き返した方がよさそうだった。先生にも助けが必要に違いない。ああでも、倒れていても救急車呼べないんじゃないかな私。こんな夜中に、女子高生がかつての中学教師の家にいるなんて、絶対におかしいから。

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