『取り返しのつかない要素』

 あれじゃいじめだったと思う。

 桜大とトモはいつも二人で、上下の学年はもう少し人がいるのに、桜大たちのクラスだけ二人だった。小学生六年生の頃、そこへ転校してきた女の子がいた。駐在の娘で、いずれいなくなる子だった。どうせいなくなる子だった。

 桜大と、当時唯一の同級生だったトモは、ぽかんと口を開けて言うべきことも言えないまま顔を見合わせたり転校生を上から下まで嘗め回すように見たりして、実に不器用で失礼な態度を取った。

 それまで、学年も男女も関係なく年上の女の子はざっくりお姉ちゃんの一人だったし、年下の男の子はざっくり弟だった彼らにとり、異性として意識できる女の子を初めて見た瞬間だった。転校生は独立した生き物だった。この町と紐づいていなかった。

 転校生にとってもたった二人しか同級生がいない教室というのは相当珍しかっただろう。少子化に悩まされる地域は珍しくないとは言え、たった二人の小学六年生が揃って阿保みたいに起動する様子もなく席に座っている光景はさぞ珍妙だったに違いない。ここの小学生はあまりに田舎過ぎるが故にまだ言葉を知らないのかと思われても文句は言えなかった

 その子は細身だが、胸が少し膨らみ始めているのが、まだ春で、少し肌寒かったのに薄手のティーシャツを着ていたので分かった。三年生と五年生の頃は複式学級を経験していたから、同じ教室に女の子がいたことがないというわけではなかった。故に、女の子の身体の成長も知らないわけではなかったが、意識したのは初めてだった。

 何が一番見慣れていないのか自分たちでも分からなかったが存在全体が見慣れない輝きを放っていた。輝いているように見えたからと言って好意を持っていたとは限らない。当時のことを思い出しても、桜大は転校生を好意的に受け入れようとしていたのか、警戒していたのか、嫌悪感を持っていたのか、思い出せない。輝いているとは思った。存在が新鮮。スカートを履いているのが珍しかったのかもしれない。周りの女の子はジャージとかジーパンとかズボンを履いている子が多かった。走り回るから。スカートで登校させないのは親の視点から見れば常識なのかもしれなかった。スカートを履くことで生まれるトラブルは多い。で、転校生の子はスカートを履いていた。初日だからおしゃれをしたかったのかもしれない、と桜大は今なら考える。下心は無かったが、スカートを履いてる女の子って可愛いな、くらいのことは思ったかもしれない。今の感覚で言えば、スカートが似合う女の子は好きだ。中が短パンのようになっていて、捲れてもパンツが見えるようになっていないヤツがあることを桜大は大学生になってから知った。何となくだけど、麻衣はこういうものは履かなそうだなと思った。

 当時、町で知らない人に会うことは滅多になかった。あったとしても職業や役割を背負っていた。給食センターの誰かとか、市役所の人とか、なんとか交流でわが校を訪れた教師を目指すフィリピンの学生の人とか。だから転校生も転校生という立場で了解すれば良かったものの、それは明らかに一過性のものであるのだから動揺したのだと思う。

 給食センターの誰々さんは桜大にとり、一生「給食センターの誰々さん」で構わないけれど、転校生は「名」を名乗り、それから「クラスメイト」になって、「友達」になるかもしれない、というか、先生とか親とか自分たちでさえも、そんな変化を当然のものとして見做しており、その流れに疑問を持っていなかった。そういう期待が全部悪い。

 自然にそうなることというのは世の中に確かにある。太陽が昇って沈む、を繰り返して、少しずつ地球と太陽に対する自分の立ち位置が変わって、季節が巡る。それくらいの確かさが、人間関係にもあるのだろうか? 話せば仲良くなれる、同じ教室で勉強すれば友達になれる。同じ時間を過ごせば仲間になれる。同じ町、同じ学校にいればイベントも一緒に出なきゃならなくて、そういう、「設定されたイレギュラー」で少しずつ互いのことを知る。桜大は、トモとそんな風に仲良くなったんだろうか? と思う。もっと自然で、当たりまえのものだったんじゃないか。こんな風に無理やりじゃなくて、道筋や流れが期待されるようなものじゃなくて、言うなればもっと運命的な噛み合いがあったのではないか。

 転校生のことを嫌いになんてならなかったし、仲良くやろうと思った。たった二人のクラスが、たった三人のクラスに変わった。一人増えただけで随分違う。違うけど、良い変化に違いない。実際仲良くできたと思う。桜大もトモも転校生のことは嫌いじゃなかった。クラスに同い年の女の子がいることが嬉しかった。顔はそれといった特徴のない、普通の子だったけど細身で声が明るくて良い奴だったし、親は交番の駐在さんだった。青空教室の内容には真新しいものは無くて退屈だったと言わざるを得ないけれど、優しそうな人だと思った。贅肉がなさそうで、若く見えた。短い髪が似合っていて爽やかだった。

 転校生が転校してきて間もないある日曜日、道で五百円玉がぎっしり入った財布を見つけたことがあって、それをトモと二人で交番に届けたけれど、そのとき交番の駐在さんであり転校生の父親であるその人は痛く感動した様子で手続きをしてくれたことを覚えている。今思えば、娘の同級生の二人が真っ当な倫理観を持っている純粋な少年だったことを嬉しく思っていたのだと思う。自分の仕事の都合で転勤して来たド田舎の娘のクラスには、男のクラスメイトが二人いるきりだと知ったときは不安に思っただろう。二人の男の子にいじめられたらどうしよう、仲間外れにされたら、話が合わなかったら、性的な関心の餌食になるかもしれない。いろんなことを考えただろう。もし娘が学校やクラスメイトと合わなかった仕事を変えて住む場所も変えよう、とかまで考えたかもしれない。

 転校生の父親の心配は杞憂だった。桜大とトモは転校生を受け入れるつもりだったし、胸のふくらみとか、スカートから伸びる足とかに関心を持ってしまったところは否めないけれど、それはもうしょうがいない。だからと言ってスカート捲りなんて幼稚なことをしたことはないし、身体をジロジロみたり、何か理由をつけて身体に触ろうとしたこともない。二人とも根っから紳士を貫いており、話しかけられれば最初の方は、他の年上とか年下の友人より少し優しく受け答えするようにしていた。それがよそよそしくならない程度に、丁寧な会話を心がけた。二人とも、転校生が不安に思っていることを理解していたから。だから名実共に、転校生の父親の駐在さんは安心して良かった。落とし物と届けたことで、そのことが強い説得力を持って証明されたのがこの届け物をした日曜日だった。

 拾った場所などわりと詳しく聞かれた。小学六年生の二人の手のひらにすっぽり収まるくらいの小さな財布、というか巾着? がま口が付いた、やけに派手な布製のそれの中は、ぱっと見五百円玉だけが集められていたように見えたが、駐在さんと一緒に中を検めると本当に五百円玉だけで、小さい財布なのに一万二千五百円が入ってた。三か月間落とし主が現れなければ、このお財布の所有権は君たちのものになる、と転校生のお父さんは言った。桜大は内心期待した。落とし主が現れなければ良いと思った。でも、あのお金はきっと、金額以上に五百円玉のみを集めたものである、という点が落とし主にとって大きなものだったのではないか、と考えることもできた。五百円玉貯金は桜大もしたことがあるけれど、全然できなかった。お金を入れる穴だけあって、缶詰のようになっており容易に開けられないタイプのよくあるやつで、いっぱいまで五百円玉だけで溜めることが出来れば十万円に達するというものだった。一年くらいコツコツ頑張ったけれど重さとか音で分かる感覚で多分八枚くらいしか溜まってなくて、それじゃあまだ四千円くらいかと頭で素早く計算した結果、すごく空しくなった。毎月千円のお小遣いの中からやり繰り、というか何か買っておつりの中にたまたま五百円が含まれていたらできるだけ貯金箱に入れるというやり方で貯金をしていたので、八枚というのはまあ妥当。一年で八枚、十二か月のうち、千円を使い切らず、五百円以下の買い物に留めて貯金できた回数が八回と考えると、よくやった方なんじゃないかと桜大は考えた。それに加え、お年玉で買い物したときに生じた五百円玉を三枚貯金したことを思い出した。だから八枚より多いかもしれない。お年玉のうち二万円はお母さんが銀行に預けてくれたからそれは別として、お年玉を目の前にしても桜大は理性を働かせて、必要なもの(本当に欲しかったもの)だけを買い、お釣りに五百円玉が含まれていれば部屋の貯金箱に入れ、使う予定がない万札は銀行に預けた。非常に理性的で、よくできたと思った。

 落とし物の一万二千五百円の落とし主が現れなかったら、三か月でそれが自分のものになる。一年で多く見積もって五千円くらいしか貯金できなかった桜大にとり、これは非常に大きな金額だ。金額以上に、効率が良い。中学生になったらお小遣いが少し増える。五百円玉貯金も簡単になる。六年生の今、イレギュラーなラッキーで期待以上の結果を作ることができたら、貯金の意欲を高めることができるだろう、と思った。貰える金額は当然、一緒に拾ったトモと半分ずつということになるけれど、それにしても六千円。余った五百円はわざわざニ五〇円ずつにしなくても、二人で何か買って食べるなどして使っても良いだろう。見つけたのは桜大だが、交番に届けようと言ったのはトモだ。だからこれは二人のもので、公平に処理する必要がある。

 しかしトモは、自分はいらないからもし落とし主が現れなかったら全部桜大が貰いなよ、とその場で言った。お巡りさんも驚いていた。

 嬉しかったけれど、トモが何故そんなことを言うのか分からなかった。良い奴だって咄嗟に思ったし、交番に財布を届けようと言ったのもトモだから、トモはお金に対してそういう奴なんだろう、お金に関しては誠実でいたくて、欲張ったりしたくないんだろう、と思った。見習わなきゃな、ちょっと。と思った。何を見習うんだろう。お金が欲しい気持ちを隠して生きることだろうか。でも、欲しいと言わなければ得られないのは八人いる一つ下の学年の給食の余り物争奪戦において桜大は理解しているつもりだった。桜大も、食べ物に関してはそれほど執着がない方なので、余った給食を誰かとじゃんけんしてまで欲しいとは思わないから、譲る感覚というのはもちろん知っている。知ってるが、お金は別だ。

 桜大の感覚で、お金はいらない状況なんてあるだろうか、と思う。お金はほとんど全てのモノに換えられるのだから、一番欲しい確率が高いものだ。盗んでしまったお金とか、大嫌いな人に貰うお金とかならまだ分かるけれど、正当に受け取れる大金を譲るというのはどういうことなんだろう。大人になった今考えても分からない。今部屋の中で死んだように引きこもっているトモは、あのときのことをどう考えているんだろう。あのあと、やっぱり格好つけてあんなこと言わなきゃよかったと思っていたりしたことがあるかもしれない。

 盗んだお金とか、犯罪によって集めたお金を受け取らないというのは分かる、というか当然だ。その事実が分かっていたら、そんなお金はとても使えない。気持ちの問題でもあるし、実生活が害される問題にもなりかねない。他にもお金がいらない状況というのはいくつかあるかもしれないけれど、当時も今も、桜大が考えられるのはせいぜいやはり、嫌いな人から受け取るお金、ということだ。その線で考えて行けば、あの財布に入ったお金がトモは嫌いだった、という可能性がある。その財布の持ち主、もしくは転校生の父親で交番のお巡りさんのあの人。仮に三か月、落とし主が現れずにあのお金が自分たちのものになったからと言って、あのお巡りさんからお金を受け取るわけではないのだけど、それは理屈の問題で、嫌いというのはしばしば理屈を超えるものだから、少々強情すぎる気もしないではないけれどあり得ないことじゃない。

 財布の持ち主のことを知っていたのなら直接届ければ良いだろう。でもそうしなかったのはトモが財布の持ち主を知っているということさえ恥ずかしく思っているほど嫌いで、財布を届けるなんてとても無理だったからだ。トモはその人のお金を一秒たりとも持っていたくなかった。桜大に財布を持たせて、忌々しい財布を然るべき場所に収めようと思った。拾ったのだから交番。これは正当な手続き。本当は捨ててしまいたいけど、それは人道に悖る。よって交番のお巡りさん、もしくは転校生のお父さんのことは頼りにしていたのであって、決して嫌いじゃない、嫌いなわけがない、という結論が導かれる、と桜大は証明っぽいことを頭の中でした。それはまるで証明になってなかったし、もしこうならこうのはずだ、とか普通そう考えるに違いないとか、バリバリの主観を根拠にした推論は推論どころか推測でしかなく、なんら証明になっていないことが小学六年生の桜大には分からなかった。大学生になった今でも正直この辺りはよく分かってない。事実と、感想と、偏見と、行動。これらをきちんと使い分けることが、桜大には難しかったし、大人になった今も難しい。

 しかし、その後の展開を考えると、トモがあのお巡りさんのこと、転校生の父親のことを嫌いだった、と言われた方が納得が行くのも事実だった。そうでなければ桜大とトモは呪いの人形を山に埋めて、そのことを隠し続ける、という展開にたどり着かないような気がする。トモはあのお巡りさんのことが嫌いだったはずだ。感想で、憶測で、偏見だったが、そうじゃないといけないと桜大は思う。辻褄というものがあるだろう。財布を届けに行ったあの日に嫌いになった? それとも、自分が知らない間に何かあったのだろうか。

 

 トモが貰うはずだったお金を桜大が持っている、という事態になれば、居心地が悪そうだと思った。例えば山下商店でお菓子やらを買うとき、桜大は気を利かせてトモの分の会計まで一緒にするのが筋ではないだろうか。トモが遠慮するようなことを言えば「これはお前が貰うはずだったんだから良いんだよ」と言った上で更に、自分の取り分も含め、これは二人のお金にしよう、と言うべきではないだろうか。二人で拾ったんだから。人としてそれが正しいと思う。トモとは幼馴染で、唯一のクラスメイトで、男同士。ここにアンフェアな部分があっちゃいけないし、思い返せば二人それぞれ、そういう不公平になりそうな芽はマメに摘んできたと思う。だからこそ、貰えるはずの大金を桜大に譲るというアンフェアなことをトモが言って来た理由が分からないのだけど、それはそれとして、暗黙の了解のうちにアンフェアを退けて来た二人の短くも長い時間が楔となって、自分が自由に使えるはずだった(貯金できるはずだった)六千円もの大金を、二人のお金にしなければならなくなりそうな展開に釈然としないものを感じた。

 トモが先にやった、と当時の桜大はただそういう風に思った。トモが先にやった。大人になってからこの感覚に少し言語が追いついてきて、ようやく不満の輪郭がはっきりした感があったが、トモが何を先にやったのかというと、二人の間のバランスを崩す行為だった。「これで貸し借りなしね」という言葉を映画の台詞か何かで聞いたときに桜大はそれに気づいた。僕はトモに借りを作るのが嫌だったんだ。それから、一方的に貸しを作る行為はズルい、と思った。この考えに至ったとき既にトモは部屋の中で死んでいた。貸しを作ってしまえば、借りの意識が芽生える。この借りの意識はそれなりに重たいもので、借りを返せない間、ずっと背負い込むことになる。トモはその辺のことが分かっておらず、自分に貸しを作ってしまったことにも気づいていないほど子どもだったから、借りを返そうとするのも再三拒否して、善行を貫こうとした。トモの方は貸し付けたままで、それは返さなくても良いものだと一方的に決めつけた。自分は気分が良いだろう。しかし借りの意識を持った方はいつまでも返していない、という意識を持ち続ける。その辺りに頓着しないのは独善的である。

 天彦からトモが本当に死んでしまっていると聞いたとき、驚きとか悲しみとかに紛れてどこか重荷を降ろした安心感と、借りを作ったまま亡くなった人に対する憤ろしい気持ちなどがあった。息子の死を告げる天彦の、玄関を塞がんばかりの巨体にも腹が立ち、後ろに立っている双子がどんな顔をしているか気になり、ドアの向こうで一人待っている優に悪いと思いながら、トモが自分に押し付けようとした借りが、本当は存在していないものであることにようやく気付いた。

 あのとき、財布の持ち主はわりとすぐに現れたらしい。転校生経由でそのことを知った。トモははじめからこうなることが分かってたみたいな顔で「良かった。ちゃんと持ち主現れたんだね」と言って、転校生は転校生で「お父さんが二人のことすごく褒めてたよ」とか言っていて、「お父さん、二人の連絡先教えたみたいだから、お礼の電話とかあるかも」と続けた。

「いいよ、そんなの。別にお礼されたくてしたわけじゃないし」

 トモの発言はここまでいけば少し恰好をつけすぎなところがあり、転校生の少女もその答えに満足したような顔をしつつ「まあそれは落とし主さんの気持ち次第だから分かんないけど、お母さんも、クラスメイトの二人、今度お家に招いたらって言ってるんだ。まだ会ったことないし、って」という話をトモとしている。何となく流れが嫌だった。嘘くさい会話の応酬が嫌だった。桜大はトモとこんな風に話したことがなかった。見栄とか建前だけで話したことなんかなかった。クラスメイトの二人とは言いつつ、桜大は少し蚊帳の外みたいな位置にいた。クラスにいるのは三人だけだったから、どこにいたって蚊帳の外ということにはならないのだけど、どこかの器官で感じ取る疎外感は確かに桜大を苛立たせた。

「そういうのって勝手に教えるもん?」と桜大は何か言いたい気持ちが先行して、そんな風に言った。

「ん?」と転校生のクラスメイトは何を聞かれたのか分からない様子で桜大の顔を見つめる。トモと話しをしていたままの笑顔だった。

 その顔から察して、家へ遊びに行く計画について何か聞かれたと思ったんだな、と思うと桜大は、そういう期待を挫いてしまいたくなって、「連絡先とか、勝手の教えて良いの? 警察が」と言う。「警察が」の部分に力を入れたつもりだった。

「え、ダメだった?」

「ダメじゃないけど、勝手にするのかなって」

「桜大、でもあのときさ、俺らの家の電話番号聞かれたよな? 俺も桜大も普通に答えたじゃん」

「そうだけど」

「それに、落とし主が現れなかったとき、どうやって財布取りに来てって連絡来るんだよ」とトモが畳みかける。

 お前はいらないって言ったくせに、と思った。トモはそんなことを一言も言ってないのに、「桜大は財布を取りに来いという連絡じゃなかったから不機嫌なんだ」、と言われている気がした。

「落とし主の人から連絡来たら何かまずいこととかあるの?」と転校生は、心配そうな顔にして桜大を見る。その顔は、親が警察組織にいるからこそ予測できる事態がある、という優越的な位置からはみ出す慈愛といか慈悲というか、とにかく彼女は桜大の発言に不穏な家庭内トラブルの影を察したらしく、怒るどころか一歩も二歩も踏み込んでこようとするような表情だった。彼女には多分、正義感があった。桜大の母親か父親が、桜大に何か、強力な抑制をかけている、と予想したのだろう。あとから桜大は、親が警察だから連想したに違いない「正義感」という性質を彼女に当てはめたのは安直過ぎた、と感じるようになる。

 それはそれとして、このとき教室は桜大を中心にして「内輪」みたいな領域を作ったように感じられた。もしここで先生や、上か下の学年の誰かが現れたら、自分たちはそれらを他者と見なし、話を無理やりにでも終わらせて散開するだろう、という雰囲気があった。そういう雰囲気は居心地が悪かった。蚊帳の外ではないにしても、思っていたような一体感ではなかった。ありもしない秘密で繋がるような空気。これまではこんなことがなかった、と思う。トモと自分がセットで生きているような感じで、いわば「二人とその他」だったけれど、それで上の学年の子とも、下の学年の子とも、不自由なく接することができた。

 自分がまいた種という認識はあったけれど、それにしても居た堪れない。転校生だけじゃなく、トモまでもが桜大が何か隠してるんじゃないか、何か不都合があるんじゃないか、という、転校生そっくりの顔をしている。

 人に言いたくない家庭の事情の一つや二つはある。しかしそれは出会って間もない転校生が心配顔で踏み込んでくるほど深刻なものではなかった。数年前に親が離婚していること、母親が看護師で夜勤の日は寂しい思いをすること。不満や不足はあれどトラブルではない。いずれもトモは知っていることだったから、転校生と同じ表情で桜大の顔を覗き込む様子が白々しく感じられた。

 桜大は後から考えた。当時はモヤモヤしただけだった。落とし主からの連絡は来ていたらしい。トモの家に連絡が来たと聞いた。桜大の家にも同時期くらいに連絡が来たのだろうけど、多分母親が夜勤でいなかった。当時はまだ今の父親はいなかった。桜大は数回、夜七時くらいにかかってきた電話を居留守でやり過ごしたことがあった。多分あの電話は落とし主からのお礼の電話だった。薄々分かっていたが電話口でお礼を言われて、なんと返事をすれば良いのか分からなかった。多分咄嗟に出てしまったら、トモみたいに恰好を付けたことを言ってしまいそうで嫌だった。あなたが現れない想像をしていました、とはもちろん言えない。口先では無事に届いて良かったです。たまたま見つけて、重かったので、けっこう中身が入ってると思って、と、良い子の口調で話すしかないだろう。自分の中に善良さがなかったわけではないけれど、欲だってあった。

「電話したけど、出なかったって落とし主の人、言ってたらしいよ」と転校生が言った。

「ああ、親が夜勤だったら家、誰もいないから。僕も二階にいたら電話の音聞こえないし。取り損ねたのかも」

「いつならいる?」

「いや、いいよ別に、わざわざお礼なんて」と桜大は言ったが、トモが言ったみたいな響きではなかった。かけてこないで欲しい、という感情が乗っていたし、それは転校生に伝わったと思った。

 落とし主に何も恨みはないけれど、得られるはずだった一万二千円のうちの六千円が自分のものになると思ったにも関わらず、トモのせいで丸ごと自分の自由にできないお金となった、という想像は、既に事実に即した記憶だった。もし財布のお金の所有権が全て自分たちのものになっていたら、桜大がした想像は避けられない出来事だったから。実際に起こらなかっただけで、トモがお金の受け取りを辞退したのは事実なのだから、その後の展開も事実である。

 現実において、一円も彼らのものにはならなかった。頭の中で一万二千円という具体的な額が自分たちのものになり、半額が自分のものになり、もう半分をトモに譲られたことで自分の六千円も二人のもの、として扱わなければならなくなった記憶は、経験していないにも関わらず生々しい感触を持って頭に刻まれていた。

 

 桜大にとっては「事情」というほどでもないのだが、いつの間にか転校生は自分の「家庭の事情」を知っているようだった。親の離婚とか、仕事とか、そういう情報が漏れる場面はいくらでもあるはずだから、トモが彼女に伝えた、と考えるのは言いがかりや被害妄想に近かったのだけど、桜大にはそうとしか思えなかった。トモが神妙な顔で桜大の家の「事情」を話している場面が想像できた。

「家庭の事情」を知ったことが影響しているのかどうかは分からないが、転校生は次第に面倒見の良さを桜大に対して示しだした。

 ある日曜には、前にいた町でずっと通ってたパン屋さんのものだ、と言って大きなビニール袋にいっぱいのパンが届けられた。まだあちらの町のお友達とは交流があると言う。それほど離れた町ではないらしい。パンは確かに美味しかったけれど、食事もままならないと思われているのだろうか、と思うと惨めな気分になった。

 母親に言われてパンのお返しを渡しに行ったときは受け取ってもらえなかった。それは桜大が食べて、と彼女は言った。実はお母さんがアレルギーで、とか言っていたが、釈然としなかった。最初にビニール袋に入ったそれを広げて見せたときの父親の表情に、事情を含んだものが見えなかったから。何を渡そうとしたのかはもう忘れた。何か、果物の類だろう。

 帰り道は敗走の気分だった。トモに拾った財布の中身を譲られて、本来のトモの取り分で奢ろうとしても受け取ってもらえなかったことを思い出した。あれは完全なる想像だ、と桜大は知っているけれど、トモにしても転校生にしても、与えるだけ与えて自己満足に浸ろうとする、というイメージで結び付けられてしまっていた。二人は示し合わせて桜大を憐れむ遊戯で絆を深めているという印象があった。トモと二人のときはそんなこと思わないのに、三人でいると桜大はトモと転校生の弟か何かのように扱われる。給食など何か残ったら優先的に与えられる。三人でどこかへ行くとなれば桜大のしたいことを、という空気になる。下学年に球技を教えたりすると、転校生は後で二人きりの折を見計らって桜大を褒めたりする。

 トモはトモで、転校生は桜大のことが好きなんじゃないか、と言うことがあった。もちろん転校生がいないときに。あいつはいつも桜大のことを気にしているみたいだよ、と言うが表情は不安気で、まさかトモはあの子のことが好きになったのではないか、と思えば、落とし物の財布の所有権を放棄したことにも、それまで想像していなかった動機が浮かび上がってきた。

 転校生の前で良い恰好がしたい。

 馬鹿々々しい、と思う。思うが、そう考えると辻褄が合う気がした。もしそうなら、トモのこれまでの行動にも言動にも納得が行く。正義感が強そうな彼女に合わせて、少し可哀想な桜大にそれとなく目をかけ、手を差し伸べる、ということをしてしまっていたのかもしれない。それだったら僕も協力して良い、と桜大は思った。彼自身はまだ女の子を好きになったりする感覚というものがよく分かっていなかったけれど、トモにとって転校生がそういう対象だ、というのであれば、自分は喜んでピエロになる。もしどこかのタイミングで彼が、その気持ちを正直に話してくれたら、もっと積極的に協力しても良いし、必要であれば、自分が転校生を遠ざけることで、間接的に彼らの絆を深めるような工作をしても良い。これならフェアなんじゃないだろうか、と桜大は思った。

 転校生が二人に少し変わった「お願い」をしてきたのは、桜大がそんなことを考えて間もない頃だった。夏を越え、もうすぐ秋がくる、という季節だった。

 どんなお願いなのかは知らないが、この手柄をすべてトモに譲ることができれば、トモは自分に感謝するだろうし、借りを返すこともできるどころか、貸しを作ることもできる。貸し借りの概念を学んだのは大学生になってからなのだから、小学六年生の時点の桜大がまさかこんなにはっきりと「貸し借り」の理屈を意識していたわけではないけれど、頭の中ではこんな打算が働いていた。

 とりあえず今度の日曜日、家に来てくれと転校生は言った。

 転校生の家へはもう、何度も行っていた。彼女の家だけでなく、トモの家にもよく行ったし、桜大の家へ招くこともあった。この点彼らはフェアな関係を築いており、昼間桜大の母親がいることもあったし、そのときに直接桜大の母親がどんな人間なのかを転校生は見ているのだから、彼の家庭環境も、母との関係も、何ら心配するようなところはないと知っているはずなのに、どうしてだか彼女は桜大の世話を焼き続けた。世話を焼くと言っても、大したことではないが、トモに言わせれば彼女は、いつも桜大を気にかけており、常に桜大がどこにいるのか、把握していないと気が済まないみたいだ、という、ちょっと物騒にも聞こえるようなことを言った。

 トモと桜大にとって真意があやふやな彼女がするお願いとはなんだ。桜大は何となく面倒くさそうに思っていたし(お願いの遂行はトモにさせるにしても)、トモは前のめりな様子だったけれど、行ってみれば、別に家に行かなくたって了解できるようなお願いだった。

「リビングの戸棚においてある人形分かる?」と彼女は自分の部屋で切り出した。二人は頷いた。特に話題に上ったことも、転校生に紹介されたわけでもなかったが、二人ともそれがあることは最初から気付いていた。

「あれをさ、私の両親にバレないように持って言っちゃって欲しいの」と言った。「できれば私も気づかないうちに」

 それは盗むってことなんじゃないかと思って、転校生に気付かないうちにっていうのは無理なんじゃないかとも思った。

「私が気付かないうちにっていうのは無理か」と言って笑う。二人が頷くと「でもね、できるだけ、無くなったことすら意識したくないんだよね。手品みたいに消して欲しいっていうか」

「なんだそれ」とトモが笑う。その笑い方は危ういような気がした。何せ桜大はトモにお願いの遂行を押し付けようとしているのだから、トモが彼女のお願いを鼻で笑うようなリアクションを取るのは、幸先が良くないと思った。

「呪いの人形か何か? 捨てても捨てても戻ってくる、みたいな」

「捨てても戻ってくるわけじゃないけど、呪いの人形だとは思う。てか、宗教?」

 宗教のことはよく分からなかった。自分の家は浄土真宗だとか真言宗だとか、そういうのの違いがあるのは分かるけど、どの宗派がどんな教えを説いていて、というようなことまでは分からなかった。桜大の家には仏壇がない。トモの家にはある。転校生の家には当然ない。当然と言って良いのかどうか分からないが、あちこちに転勤するのだから、仏壇を持ち合わせないのが普通だろうと思う。

 人形はそれほど大きくない。座っている状態では戸棚の中のマグカップと背丈が変わらない。手で持ったことはないけれど、腹部分を持てば手足がだらりと下がるだろう。手足はストロー程度の太さで、中に針金でも仕込んであるのか、中途半端な腕の形を維持している。胴の部分は単一電池に形も大きさもそっくりだった。全体的に子どもが描いた妖精かなにかの絵を人形にしたという感じで、呪いの人形と聞いたときに連想するリアルな少女の姿を象ったものではないのだけれど、顔はやけに人間めいており、頭身も現実の人間に即しているように見える。美しい表情をしていて、この家の戸棚に収まっていることに満足している様子だった。

「あれってお父さんの人形なのね? 正確にはお父さんのお姉さんのお人形なんだけど、そのお姉さんっていうのが若い頃に亡くなってしまったらしくて、お父さんにしてみれば形見みたいなもんだから、大事にしてるのよ」

 姉の人形をあのお巡りさんが形見として受け取ったのか、という疑問には、転校生も答えられなかった。若い頃に亡くなったというのも、具体的にいくつくらいの頃のことなのか分からない。あの人形が形見になるくらいだから、子どもの頃の話なのだろうか、と思うけれど、転校生はそこまで父の過去に興味を持っていなかったようだった。

「お父さんは判断に迷ったらあの人形に相談するようなところがあってね。いや、実際あの人形に話しかけてさ、どうしたら良いと思う? なんて言ってるのは聞いたことがないんだけど、たまに戸棚の人間の形が変わっていたり、戸棚の外に出ていたりするわけよ。その度にお父さんが、すまんすまん、昨日ちょっと、とか言うものだから、お母さんがね、ちょっと何よ、って聞いたことがあるのね。いつもいつもちょっとね、と言うけれど、それがお姉さんの形見だって知ってるから触れないようにしてきたけど、こっちにとってはただの人形なんだから、動いていたり急にテーブルの上に乗ってたりしたら不気味なのよって」

「テーブルの上にも乗ってたんだ」

「私もそのときに知った。朝起きてテーブルの上に乗ってたら怖いよね」

「で、ちょっと何だったの?」

「うん、だから、人形に相談してたって言うの。迷ったこと、悩んだことがあったら人形に相談。それでなくともお父さんってあんまり自分でものを決められなくて、すぐお母さんに聞くみたいなところがあるんだけどね。その上で人形にも意見を聞いていたって言うの」

「人形に聞くって、何か答えてくれるわけじゃないでしょ?」

「お父さんが言うには、自分の中で決まっていることを確かめるのに良いんだって。よく映画なんかでさ、揉めたらコインとか、悩んだらコイン、みたいな描写ってあるでしょ?」

 転校生は映画を見るのが好きらしかった。映画だけでなく、漫画やアニメも好きだと言っていた。転校生の家でたくさんの漫画を読んだことや、映画について教えてもらったことが、今の桜大の映画好き、漫画・アニメ好きの土台になっていることは明確で、この点だけを見ても、桜大は転校生と仲が良かったと思うし、嫌な印象など持っていない、と自覚している。転校生はこれまでも描写、表現、演技、コマ割り、カット、モチーフ、テーマと言った単語を会話の中に織り交ぜて話しており、少なくとも桜大にとってそれらの言葉は新鮮に響き続けていた。彼女は今、何らかの物語を作っていたら良いのに、と思うこともあるけれど、残念ながら今どこにいて、何をしているのかは分からない。

「それと同じで、ある種運試しというか、そういう感覚で物事を決めるっていうのはあながち使えないことでもないらしいのね。服を選ぶときとかも、女の子がどっちが良いと思う? って聞いたときには既に答えが決まっているって言うでしょ?」

 転校生の話は長くなることが多い。連想することが多い。人形。コイン。女の子の服の選び方。それらが一点に収束していくことを知っているから桜大もトモも彼女の話には口を挟まずに聞く癖がついていたけれど、この話の聞き方は彼女の信頼にも繋がっていた。この二人は男の子なのに話をきちんと聞いてくれる。人の話を最後まで聞いて、理解してくれる。その評価は娘を持つ親にも伝わって、娘の部屋にクラスの男の子二人が入り浸っているような日があっても、ときに泊まったりすることがあっても、余計なことは心配せずに迎えることができるのだった。娘も、あの男の子二人も、悪いことはしない。親に心配をかけるようなこともしない。桜大たち自身が自らをそう評価していたし、親を裏切るつもりもなかった。

「頭で悩んでいても、心ではもう決まっていることが多いってことなのね。そうでしょ? どっちか一つを選ばなきゃならない事態ってよくあるけど、心で決めることとは別に、余計な思考が入り込んでくるじゃない。自分はこの服を来たいけど、みんなはもっと落ち着いた服を着てきたらどうしよう。浮くんじゃないか。本当はこっちが食べたいけど、こんなのを一人で食べたら太っちゃうんじゃないか。いつもいつも心に従うべきとは言えないから悩んだり迷ったりするわけだけど、最終的には心に従った方が気分が良いものだし、結局自分が機嫌よく生きていける道を選ぶ方が良いに決まってるよね? だって誰も自分の機嫌を気にしてくれるわけじゃないし、少々私が機嫌悪かったって、気分が悪くたって、恥をかいたって傷を負ったって、誰かが私のことみたいにそれを深刻にとらえてくれるわけでもない」

 口は挟まなかったが頭の中はいつもうるさく喋っている。転校生が転校初日、スカートを履いてきたときも、自分の心を優先したのだろうか、と思った。親にはもしかしたら止められたかもしれない。スカートで行かない方が良いんじゃないか。そんなに足を出して大丈夫か。母親は足が冷えるのではないかと考えたし、父親はクラスの男の子に嫌らしい目で見られるのではないかと心配になった。だからはっきり止められるとまではいかないまでも、ズボンの方が良いんじゃない? 今日はちょっと肌寒いんじゃない? と言われたかもしれない。

 こんなことも考えた。トモであれば、転校生が気分悪く過ごしているときとか、少し傷ついたときとか、機嫌が悪いとき、自分のことのように深刻に考えてくれるのではないか。このときにはもう、トモが転校生のことを異性として好ましく思っていて、この子の前では恰好をつけたいと考えていて、彼女の力になりたいと考えていることが分かっていた。分かっていたというより、そう決めつけていた。結局トモがどんな風に考えていたかは知らないし腹を割って話したこともないけれど、桜大に伝わっていることもトモは分かっていたと思う。

「そんな感じで、本当は心でどう思っているのかを確認するときに、あの人形を使っていたらしいのね。やり方は分からないけど。鉛筆を転がすみたいに姿かたちで判断したのか、実際に姉に相談するつもりで、姉だったらどう言うかな、みたいに考えていたか」

「それじゃああの人形ってとても大事なものなんじゃないの?」トモがこう尋ねる。心から転校生と、その家庭を心配している様子だ。

「お父さんにとってはね。でも私とかお母さんにとってはそうでもない。そうでもないどころか、多分、お母さんより人形の言うことを採用しているところがあって、それがお母さんも気に入らないみたいで。要するに夫婦感の危機を招きかねないのよ。だからあんなの、呪いの人形だよ」


 後日、報告があった。

 トモが人形を持ち帰ってから七日後のことで、トモはその場にいなかった。桜大にはトモがいないときを見計らったかのように見えたので、そのときのことは印象に残っている。

「あの人形、お父さんの亡くなったお姉さんのものだったって言ってたでしょ? あれ、違ったみたい」

「違った?」

「お父さんのお姉さんは普通に生きてた」と言って転校生は笑った。

「なんかね、お姉さんのお友達に貰った人形だったみたい。それこそ、お人形みたいに可愛らしい女の子らしかったんだけど、その人が転校しただかで、会えなくなっちゃったって。それがお父さんの初恋」

 それがお父さんの初恋、とは何か唐突な気がした。

 とにかく、亡くなった人というのはいなかったらしい。良かった、と桜大は思った。「呪いの人形」なんて言うから物騒なことを連想してしまったが、よくよく聞いてみればあの人形は淡い初恋の残りかすみたいなものだった。そう考えると、記憶の中のあの人形も可愛らしいものに思えてくるものの、初恋の残りかすを、結婚して子どもまでできた家庭の中に住まわせていることに強い執着も感じた。転校後、その少女とお巡りさんのお姉さんとの関係がどうなったかは分からないが、転校生は姉に人形を渡したらしい。お巡りさんはそれを盗んだ。姉から人形を隠し続け、自然に進路が分かれて以降は負い目が仇となってか疎遠となり、成人して以降はまったくと言って良いほど接触がないらしい。

 誰にも語られていないお巡りさんの姉の様子が何故か目に見えるような気がした。どんな人なのか、どんな声なのか、どんな姿なのか分からない漠然とした「少年時代のお巡りさんの姉」という人が、見たこともないお巡りさんの実家で、人形を探し回っている。顎を前に出すように急ぎ足で、家の中を歩き回る少女の姿。お巡りさんはそんな姉を無視し続けている。何を聞かれても「知らないよ」、「知らねーって」と繰り返し、母親に泣き付く姉を見て複雑な気分になっている。彼は彼で悪い人間ではなく、ただ姉の友人のことが好きで、その子の匂いが残っていそうな人形を自分のものにしたくて、少々常軌を逸した窃盗と隠匿にエネルギーを使う日々を過ごした。そのエネルギーはきっと性エネルギーの成せる業で、あの子のモノを自分のものにしたいという欲求が幼い形で表れた結果だった。

 幼い頃とはいえ、盗みを働いた過去を抱えながら警察官という仕事をするのはどういう気持ちなんだろう、と桜大は思った。盗んだ人形を転属先の町へ持ち運び、戸棚に飾って、たまに人生相談をする。姉の大事な友人の大事な人形を横取りしておきながら町の治安を守ろうだなんて、自他ともに、認められることなのだろうか。

 一方で桜大は、そんな人だからこそ、警察官という道を選んだのではないか、とも思った。もちろんもっと曖昧な言葉で、朧気な思考でそう感じただけだが、きっとどこかで過去の罪を抱えた人の哀れさとか、人生が汚れた感覚を抱え続けなきゃならない幼い選択に同情していた。あの人にも可哀想なところがある、と思った。少なくとも自分はあの人形のことであの人を責める気にはなれない。自分の人形じゃないし、お巡りさんのお姉さんもその友人も、知らない人だし。

「取り返しのつかない要素」というのがゲームにはけっこうあって、このタイミングで取らなきゃ今後絶対に手に入らないアイテムだとか、ここで仲間にしなければもう仲間にする方法がないキャラクターだとか、意地悪にもいくつか用意してあるものだ。

 幼い頃のお巡りさんにとって、姉が持っていた人形はその類のモノだったのではないか。客観的な事実としては、人形を盗み、隠し続けたことによって、「取り返しのつかないコト」をし続けているのだが、彼にとって、盗みを働いてでも手に入れなければならないものだったんだろう。

 答え合わせのときが来ている。姉と疎遠になり、初恋の女性と再び巡り合うような運命にもなく、妻と子に不審がられている。これ以上人形を保持するのであれば、この取り返しのつかなさはより進捗し、多くのものを失ってしまうかもしれない。

 桜大たちはこのとき、どれだけ大人びたことを話しただろう。愛だの恋だののことは分かり始めているとは言っても、妻より人形を正式の相談相手として選ぶ夫に対する不審や不満のことはどれだけ理解できただろうか。盗んでしまった過去が過去の一時ではなく、盗んでしまっている今にまで引き続いていることの重さをどれだけ理解できただろう。

 盗んだ過去の一点ではなく、盗み続けている現在、という話題のときに二人は英語の過去形と現在完了形の違いがよく分かった気がした。エウレカの瞬間を同時に向かえて二人は一瞬、本来の話題を忘れて喜び合った。

 桜大にはそんな記憶があるが、果たして小学六年生当時、英語の勉強なんてしていただろうか? とも思う。ましてや現在完了形など小学校で習うものだろうか?

 記憶がどこか抜けている、とは思うが、転校生の父親を教材にして、転校生と共に、「分かった」瞬間を迎えてすごく笑ったことははっきり覚えている。

「盗んだ」のは過去の一点。そういう人形もあったなあ。あれどうしたかなあ。まあ昔の話。すごく小さい頃の話。それが過去。

 一方、盗んだ人形をまだ持ち歩いていて、飾っていて、その気になればいつでも返せる状態にある今は、昔から今までずっと盗んでいる状態が続いている。つまりまだ盗みを働いた罪の意識を持っている。これが過去形と現在完了形の違い、なのではないか、というようなことを二人は話した。

 黒板に図を描きながら、二人はもう、ほんの数十分前までは全然意味が分かっていなかった過去形と現在完了形の違いを体感しているにも関わらず、本来の話を遠ざけたいみたいに、答え合わせをし続けた。

 二人とも分かっているはずなのに、言語化しようとすればするほど、何か間違っているような気がしてきた。人形を盗む、という行為とそれにともなう実感、罪悪感を指して過去形か現在完了形を区別しようとすると、間違いが生じてしまいそうだと思った。

「だから、言うときにね、今のことを言っているか、過去のことを言っているかなんだよね」とまとめのようなことを転校生が言う。自分で言ってから、ふと気づいたような顔をして「ちょっと、人の父親を教材にしないでよ!」とか言って、転校生は桜大より笑う。人形の絵を描きながら笑う。桜大は転校生のことを、良い奴だな、と思う。転校生はお巡りさんの制服を着た父親らしいイラストを描く。さすが毎日見ているだけあって、お巡りさんの服がちゃんと描けている。普段なかなか使う機会がなく長いままの青いチョークをここぞとばかりに使って描く。なかなか上手い。お巡りさんが人形を持っている絵。その隣に人形を後ろ手に隠す絵を描こうとして、それはうまく描き表せず、誤魔化すように自分の背中にチョークを隠して桜大に挑発的な目線を寄越す。追いかけて、背中に回している手を取って、チョークを奪っても良かったかもしれない。そうしかけた。転校生のお尻を追いかけるようにして手を伸ばすと、尻尾を掴ませまいとするように体を捻り、回転しながら、極端に机と椅子が少ない教室の中を走り回る。逃げられれば追いたくなる。この瞬間に「女の子を追いかけている」自分に自覚的になり、急に恥ずかしくなる。このじゃれ合いをトモに見られたら、と思うとこれ以上深追いしてはいけない、と思うがもう遅かった。教室はいつも開け放してあり、実質ドアはなく、廊下に今、トモがいたような気がする。桜大は、ああ、もう、とか何とか、少し不機嫌になったような声色だけを彼女に伝えて、「帰るぞ、そろそろ」と言って黒板の図を消そうとした。

「ちょっと待ってよ」と転校生が教室の向こうの方で言う。

「だから、あの人形をどっかにやっちゃって欲しかったのね」と、何が「だから」なのか、どこと繋がっている言葉なのかよく思い出せないことを言いながら教室の前へ来て、桜大の返事を待つ前に「どっかにやっちゃって欲しかったんだけど、やっぱりお父さん可哀想でさ、返して欲しいなーなんて言ったら、怒る?」と言う。言って、黒板の絵を消す。青いチョークを後ろ手で隠していたので、転校生のジーンズ生地のハープパンツに目立たない青色がついていることに桜大は気付いた。桜大はほとんど無意識に、「怒らないけどさ」とか言いながら彼女のそこをはたき、取れない、と言ってもっと、自分のハンカチを出して色を取ろうとするが、このときまた、女の子に触れていると自覚してしまう。気になるのはトモの視線だが、彼の姿はもうない。もうないのが不穏に感じる。桜大たちはいつも一緒に帰っているのだから、本来、今この時間に彼がいないのは珍しいことだ。トイレに行ったか、何か用事があったのか知らないが、さっき廊下の方で見えた影がトモではなかったか。入って来ないってことは、そういうメッセージなのではないか。やはり追いかけっこを見られて、拗ねてしまったのかもしれない。

 人生にはセーブポイントがない。ゲームであれば小まめにセーブして、セーブデータをいくつか複製しておいて、やり直しができるようにしておくことで、ある程度は取り返しのつかない要素を回避することができる。

 のになあ。と思う。セーブしてやり直せたらなあ、と思う。なんか、どんどんバランスが崩れていく。しかしこの程度のことでやり直しなんかしていたらいつまで経っても今日から抜け出せない。取り返しのつかないことをいかに取り繕うかが、人生なのだ、と彼は朧気に悟る。バランスを取っていかなきゃならないんだ。二人のときは簡単でも、三人になったら随分難しくなる。

「別に怒んないけど、僕、あの人形が今どこにあるか知らないよ?」と桜大は答えた。嘘がつけた。咄嗟に嘘をついたのは何故だったか。きっとバランスを取ろうとした。

「そうなの? え、もう捨てちゃったとか?」

「いや、トモに任せた。から、分かんない」トモの手柄にする思惑があったのに、この流れだと、トモに全て責任を負わせていることになってしまう、と思いながら、深く考えられずにいた。

「じゃあトモくんが知ってる?」と聞かれたので、桜大は頷く。今日、今この話はしかし、トモがいない隙を見計らってされたような気がしていたので、転校生の反応は少し意外なような気がした。トモがいない隙を見計らった、というのは勘違いだったのか、と思っただけで、やはり深くは考えなかったけれど。

「じゃあごめんだけど、トモくんに場所、聞いといてくれないかな。せっかく隠してくれたのに悪いんだけど、場所が分かったら私、自分で取りに行くからさ」

 本当は、トモと桜大は一緒に人形を埋めに行った。

 だから本当は桜大も彼女の人形がどこに埋まっているのか知っていたのに、どうしてか、本当のことを言わなかった。こうすれば、転校生はトモに詳しい場所を聞きに行って、今みたいに束の間、二人きりの時間が作れるのかもしれない、と計算したのかもしれなかった。しかし浅知恵で、今桜大がついた嘘はすぐにバレるだろうし、やはりどことなくトモを避けているように見える転校生は、トモと直接話したくないようだった。

 何故か転校生はトモに直接聞くという選択はせず、あくまで桜大経由で人形の居場所を知ろうとした。

 大人になるにつれて、彼女はトモに好意を寄せられていることに気付いていたのではないか、と考えるようになる。

「好き避け」という言葉を知ったときに、これだ、と思った。桜大はこういうことが多い。過去にモヤモヤした事象には、大体名前がついている。桜大は気楽な性格だが、モヤモヤはずっと抱えていて、ふと言葉に触れて解消することが多い。

 あのとき転校生が陥っていたのはまさに好き避けの心理だったのではないか。トモのことを好きだったのかどうかは、あの当時、本人も分かっていなかったかもしれない。小学六年生の女の子だ。恋愛に興味があってもおかしくないし、まだそんな感情や行為に拒否感があってもおかしくない。一方トモは、転校生に対して好意をあまり隠していなかったと思う。桜大が普段接していて気づくくらいには、彼女のことが好きだ、という気持ちはあふれ出ていたから、本人にも届いていただろう。それを満更でもない気持ちで受け止めれば好き避けのような現象になるだろうし、潔癖ゆえに純粋な忌避間や嫌悪感となって避けてしまったとも考えられる。いずれにせよ、トモの恋心が彼女にとって壁だったのだ。そう考えると、まだ異性に対して潔癖な彼女は、犬のように下心なく彼女のお尻を追いかけて、親切でお尻の汚れを払ってしまう桜大の方に安心していたのかもしれない。

 もしかしたら彼女は、自分のことが好きだったのかもしれないと転校生がいなくなってから考えたこともある。しかし、だから何なのだ、と思った。当時、仮に転校生が桜大のことを好きだったとしても、桜大にできることはなかった。彼女のことを異性として好きになったことはないし、トモが好きだと知っていたのだから、彼を差し置いて彼女との仲を深めようなんて考えなかった。それにしても、そう言えば彼女は自分のことを桜大と呼び捨てにする一方で、トモのことは常に「トモくん」と呼んでいたな、と思う。呼び方で距離を測るなら、自分の方に詰め寄って来ていたのは間違いなく、それが異性に対する行動なのか、あくまで友情の距離なのかは別にして、トモより近くにいたことは間違いない。いや、その呼び方も、好き避けの一種だったのかもしれない。

 

 当時の記憶と経験と感覚を大学生になった今振り返ってみると、色々なことが去来して、情緒が混線してしまう。自分の中にある意地悪な部分とか、利己的な部分とか、他人を踏み台にして自己肯定感を高めてしまう部分とか、仲良く追いかけ回った日、夜中の逢引、雨の日の紅茶、そういう、静止したままのワンシーンが組み合わさって、自分がいるのだと納得できるが、それら全部を同時に感じるのは少し無理があるような気がいつもするのだった。あの日とあの日を比べると僕は別人のようではないか? あのときとあのときのトモは別人のようではないか?

 あのとき、トモは転校生に好かれようとして、例えば財布の所有権を捨てようとしたのかもしれないし、転校生に頼られたのが嬉しくて、人形を盗んで埋めたのかもしれない。いずれも桜大は行動を共にしたが、前のめりに動いたのはトモの方だった。明らかに、彼女の力になろうと努力していたのはトモの方だし、彼女に良いところを見せようと考え続けていたのもトモだった。

 しかし、転校生が呼び捨てにしたのは自分の方だった。人形の場所を尋ねて来たのも自分の方だった。一度「お願い」したことを取り下げて、やっぱり返して欲しいなんて、言いにくいことを言うならどちらか、と考えたとき、選ばれたのは自分の方だったのだ。

 自分が転校生に友情以上の好意を持っていなかった、という点は大きな要素として確実にあるけれど、それにしても、もし自分が彼女のことを異性として意識したとしたら、その心と身体を手に入れる確率が高かったのは自分の方だった。そう考えたときの優越感はずっと、桜大の心の底の方で、自分を肯定する重要な素材となっており、はっきり言葉にするとすれば、トモより自分の方がモテる、という確信となって、桜大の腹の底を温めている。ときにはその後成長した転校生の身体を想像してしまうこともあった。もう少し胸が膨らんで、足が伸びて、だけど背は自分より低くて、もともと細身の身体の印象はそのままで、その身体のあちこち、自分の身体のように探ることができたかもしれない未来を考えた。顔だって、何ら特徴のない普通の女の子だ、と思っていたけど、あのまま成長したらこんな感じかな、と映画で見た脇役の女優を見て考えた。こんな子と、付き合えたかもしれないんだよな、麻衣ほどじゃなくても、普通に可愛い子と。

 当時小学六年生の桜大が、転校生の女の子によって不意にもたらされた優越感や自己肯定感を態度に表さずにいられただろうか。言葉にできないまでも、こうした小さな経験から培った自己肯定感は、言語化されていないだけに疑いの余地がなく、端々でトモを見下すような態度となって表れたのではないだろうか。

 翌日、三人一緒にいるときに、転校生はトモに話しかけた。桜大の援護があると見越したような喋り方で、事情を既に知っている桜大を頼りにしているような仕草と身体の動かし方、だと桜大には感じられる目配せや手の動きで、トモに、人形をやっぱり、掘り返して欲しいと言った。もちろん、場所さえ教えてくれれば自分で行く、とも言ったけれど、転校生は当然、桜大がついてきてくれると思っているようだった。二人は昨日誰もいない教室で、追いかけっこのようなことをしたのだ。それがどうした、と大人は言うかもしれないけれど、二人は昨日のあの時間で随分打ち解けたと思っている。その感じを裏切るのは少し勇気がいる。多分、トモがいかなくても桜大がついてきてくれる、と転校生が考えていることは、トモにも伝わった。

 だから、なのかもしれない。「忘れた」とトモが言ったのは。

「忘れたって、埋めたの一週間前とか、でしょ?」と転校生が控えめな口調ではあるが食い下がり、三人は一瞬、黙り込んだ。

 自分は埋めた場所を知らないと言った手前、トモが忘れたと言ったのであれば、否定するわけにもいかなかった。桜大はもちろん場所を覚えていた。忘れるわけがないことも分かっていた。まだ日が浅いこともあるが、分からなくならないように場所を決めたのだ。間違って掘り起こされるでもなく、誰かの迷惑になるでもなく、自分たちが忘れない場所に埋めた。リフト小屋の真下だ。夜中に潜り込んで埋めた。

「一緒に行ってみたら分かるとかない?」

「んー、まあある程度は分かるかもしれないけど、夜中に適当に埋めたから」とトモが言う。「なあ?」とか言われたらどうしよう、と桜大は思ったけれど、トモは桜大の方を見もしなかった。トモは、埋めるのはトモに任せたから分からない、と昨日言ったのを、聞いていたのかもしれない。

「行くだけ行ってみようよ。まだそんなに時間経ってないし、埋めた跡が残ってるかも」とか何とか言うが、トモは「でも、夜中に出て来れる? 日中はけっこう、あの辺は人がいるから、行けないよ」と、俺も掘り返したいのは山々だけど、と言った表情を一応作りながらも、誤魔化していなして取り合わなかった。「無くなって良かったんじゃないのか?」とか、「そうやって取り返したいと思うこと自体、なんかちょっと怖いっていうか、あの人形の意思があるような気がするな」とか言う。いや俺さ、別にそういう心霊現象とか、呪いとか信じてるわけじゃないんだけど、あの人形を埋めるとき、なんか声が聞こえた気がしたんだよ。ほんとは言いたくないんだけど、あれ、本当にヤバいんじゃないのか?」

「呪いの人形って言ったけど、あれって、あれがあるとお母さんが怒るからそう言っただけだよ? そんな呪いとか、あるわけないよ」と転校生は食い下がるも「分かる、分かるんだけど、俺心配なんだよ。ちょっと普通じゃないって言うか、だって、おかしいだろ、あんな人形、掘り返してまで取り返したいなんて。俺お前が心配なんだよ」

 埋めた場所を口で説明するのも簡単だ。リフト小屋の下だ。頂上の方ではなく山裾の目立つところにあるリフト小屋。あの辺に人なんて滅多に来ない。真昼間に行っても誰にも見つからないだろう。だけどそういうこと全部、桜大には言えなかった。トモに任せたから分かんない、と言ってしまったからだし、トモが忘れたと言うからだ。それに掘り返すことを明らかに良く思っていないから。トモは嘘をついているが、どうしてか桜大が口を挟まないことを知っているみたいだった。転校生が桜大は掘り起こしについてきてくれると思っているのと同じくらい、トモも、桜大は口を挟まないと知っている。あれが「本物の呪いの人形なんじゃないか」と心配するのは、良い言い逃れという気がした。トモは呪いなんて信じてないし、本当は桜大も一緒に埋めたのだから、声が聞こえたというのも嘘だと知っている。トモは多分、怒っていたんだと桜大は思う。まず桜大に相談して、桜大と示し合わせたような顔をしてトモのところへ来たことも、盗みを働かせてまで目の前から消した人形を埋めろと言ったり、やっぱり取り戻せと言ったりしたことを。トモは転校生のことが好きになりかけていたけれど、多分普通に幻滅もしている。

 どうしてそう思うかと言えば、桜大も、この二対一の構造に不快感を持ったことがあるからだった。トモと転校生二人で、まるで桜大の家に何か問題があるんじゃないかって顔で、色々お節介を働いて来た時期が束の間あった。あのときは二人に見下されている気がしたし、転校生のことも、トモのことさえ、不愉快に思っていた。同じことをしてしまってるんじゃないか、と桜大は思った。同じどころか、トモがもし彼女のことを好きなのなら、今僕と転校生が示し合わせてトモを説得するようなことがあれば、不快では済まないだろう。裏切りに近いと思う。桜大は何も喋れない。転校生の応援をすることもできないし、トモに賛同することもできない。

 この結果どうなるかと言うと、転校生は改めて桜大に相談に来た。一緒に掘り返しに行こうと言った。また二人きりのときだった。

 桜大にはそれはできなかった。トモが嫌な気分になることが目に見えていたから。トモと自分が本来はセットなのであって、お前と僕が一緒に動いちゃだめなんだ。もちろんそんなことは言えない。代わりに「だから、僕は埋めた場所知らないんだって。トモもよく覚えてないって言うんだから、探す範囲が広すぎるよ」とか何とか言ってごまかした。「それに、やるならやっぱり夜だよ? 夜中とまでいかなくても、夜ご飯のあと。抜け出せるの?」と桜大は、彼女がそんな時間に抜け出せないことを知っていて言った。お巡りさんの子が夜遊びなんて許されるはずがないのだった。父親よりずっと、母親の方がその辺は神経質なのだということを、この頃にはもう、桜大は知っていた。

 

 桜大もトモも人形の在り処は一向に教えようとしなかった。当然転校生は、場所を絞ろうとし続けた。山の裾の方なのか、中腹なのか、森の中なのか。トモは聞かれる度に答えを変えているようだと桜大は思った。しかし当の転校生は、トモの微妙に変わっていく説明を不審がる様子もなく、前と言ってることが違うと食い下がったりもせず、まるで本当に二人で宝探しでもしているかのような様子でいる。見ていると不安になる。転校生がいつ怒りだすか分からないし、トモもいつ耐えかねて、桜大も一緒に埋めたんだからあいつにも聞いてみろよと言い出すか分からない。不思議なことに桜大が心配するような展開にはならない。二人とも、埋めた人形と、人形探しに囚われたまま一歩も前へ進まないみたいに過ごした。

 トモの返答に悪意があると感じれば感じる程、素直に話を聞く転校生の素直さが惨めにも、不気味にも見える。

 トモの言い方はズルかった。

「中腹までは行ってないと思うけど、あんまり裾の方でもなかったよ。少しは上ったと思う。ほら、あんまり人が歩くところだと、いつ出て来てしまうとも限らないから」

 そう言ったかと思えば、「もしかしたら急斜面コースじゃなくて、緩やかコースの方から上って、リフトの方に向かった辺りかもしれない。向こう側にリフトのポールが見えていたことは確かなんだ」とか言う。それが具体的にどこなのか、スキー場の景色をよく知っている桜大には全然分からないのだけど、ほとんど切羽詰まって焦っているように見える転校生はとにかく言われた通りに歩いてみて、結局広い広いスキー場の斜面の、どこを指しているのかなんて分からないまま、土日の日中を、下を向いて歩いて過ごす。

 トモは、その場ではまともそうなことを言うのに全然ついて行こうとはしなかった。桜大に言わせれば、トモこそが呪いの人形に憑りつかれているように見えた。人形を捨てるように言った転校生に恨みを持っている人形の意思で接しているんじゃないか、と思うが、あまりに非現実的な考え方だ、と思った。オカルトなんて、全然好きじゃなかった。

「熊が出るから登んな」と言われたらしい。誰に? と聞くと、分からない、と答える。分からないにしても、どんな人だったのさ? と聞いても、そんなの、分かんないよ、と半笑いで転校生は言う。分かんないって何、男の人? おじさん? シーズン前にロッチの点検とかしてる人じゃないの? と聞くと、そんなの、知らないよ、と言う。こちらを馬鹿にしたような言い方に少しカチンと来る。いや、知らないんだろうけど、分かるじゃん、スキー場の関係者っぽい人だった? と桜大は、もう自分でも、ここまで聞かなくて良いだろうと思いながら、詰問したい気分だけで転校生に噛みついてしまう。登んなって言われたんだろ? 顔を合わせたんだろ? と問い詰めても、覚えてないよ、下向いてたし、とか何とか言って、いよいよ返答がおかしいなと思う。なんだこいつ。おかしいな、なんか、変な臭いもするし。熊が出るっていうのは本当なんだろう? 糞か何か見つけた? いや、私熊の糞なんて見ても分かんないよ、とまた半笑いで答えるのがやはり、いかにも人を馬鹿にしているようで、桜大は投げやりな気分になる。ああもういいや、どうしてこんなにヘラヘラ笑っているんだ、と思ったとき、そう言えば、人形の埋めた場所を考えるときのトモもこんな顔をしているかもしれない、と思う。何か変だ。変なことになってる、と思いはするものの、まさか心霊現象と結びつけるようなものでもなく、今考えると、というか今この話をもし、秋谷優などにすると、オカルト好きの彼は食いつくだろうけど、考察を始めたりするだろうけど、言えない。そんな風に解釈されると切ない気持ちになるし、人形を埋めた記憶ははっきり残っているのだから、今も少し罪悪感がある。嘘つかなきゃよかったかもなと、思うだけならまだしも、声に出してしまったらダメな気がする。


 交番のお巡りさんが落とし物を自分の家で使った、という噂が流れた。

 転校生が登校しなくなって二週間ほど経った頃だった。まだ初雪までは間がありそうだ、という時期。雪が降ったら終わりだから、その前に何とか人形を掘り返そうと、学校を休むことにしたらしい。トモが転校生から直接そう聞いたらしいが、彼女がトモの家に来て、そんな話をしていったことをとても自慢気に話していたことが桜大には強く印象に残っている。

 桜大は、転校生の母親がそんなことを許したのだろうか? と疑問に思ったが、まあ、決めつけすぎていたかもしれない、とも思うのだった。ほんの何回か会っただけだし、お母さんの方が厳しいというのは、転校生が言っただけだし。お父さんよりお母さんの方が、という意味で、それが、自分の母親より厳しいと言ったのではないわけで。そんな風に、深入りしないための考え方が少しずつ発達していく。

 お巡りさんが使ったのはガス缶だったらしい。そんな落とし物があって、誰かが届けたのか、と思うと可笑しかったが、お金とか携帯電話とかじゃないことが、何だかリアルに思えた。確かに、ガス缶くらい、と思うかもしれない。鍋を食べようとして、丁度ガスが切れて、そう言えばガス缶の落とし物があったな、と、お巡りさんは思ってしまった。よくある、三本セットになってて、厚紙の包装でまとめられてるやつを一本取り出して、家で使った。それがどういう経緯で露見したのか、それでどれだけの処分を受けたのかは誰も知らないが、多くが「落とし物に手を出すヤツ」としてお巡りさんを覚えたことは確かだった。

 この時期桜大はインフルエンザにかかる。まだインフルエンザにかかるには早い時期だった。なにせまだ雪も降ってなかったし、記憶では例年、年明けとか卒業式シーズンに流行ってたイメージだから、どうしてこんな、季節外れのインフルエンザになんてかかるんだろう、と思いながら窓の外を見ると、山が見える。歩き回っているごく小さな点が転校生だと分かって、熱によるものとは違う寒気が走る。だるい身体に鞭打って下階からかつて父が使っていた双眼鏡を拝借し、覗き込んだ。

 相談相手が土中に埋まったままで、娘が一向探し出せなかったからなのか、転校生の父親は、間違いを犯し続けた。落とし物を私物化したのはガス缶に留まらなかったらしい。所詮、らしい、という話でしかないのだが、その後、見回りの一環で足を踏み入れた公的な施設からトイレットペーパーやハンドソープの在庫を盗んだという話が間違いなく事実だったらしいので、落とし物を私物化した疑い、などはもう何だか些末な話に成り下がって、嘘でも本当でも良かった。

 桜大はあの当時のことを思い出すのだけど、実にあっけなく、一緒にいたことが嘘みたいに思えるくらい、転校生は静かにいなくなった。結局一年いなかったことになる。クリスマスやお正月は三人で何かしようと思っていたのに、どちらも例年通り、トモと、何人かの上下の学年の子たちと過ごした。クリスマス会も年明けの瞬間に神社で過ごすのも楽しかった。楽しかったから、転校生のことは忘れていて、一年足らずでけっこう仲が良くなったはずなのに、一緒にいた実感が上書きされてしまったようだった。

 双眼鏡を覗いて転校生を見たとき、レンズ越しに彼女と目が合ったのは多分、勘違いじゃなかったと思う。恨みがましい目をしていたことも、多分、気のせいではなかったと思う。

 桜大はあの目を忘れられない。

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