『ゴーレム』

  

「引き寄せの法則」というものがある。

 想像したことが現実となる。良い気分が現実を作る。潜在意識に身を任せ選択した先に幸福な未来がある。直截的に法則を喧伝する連中の中にはこのように言う人もいる。現実があり、現実の中に自分というものがいるのではなく、自分が発した感情が、現実を投影する、という人もいる。言いようにいくつかバリエーションはあるが本質は同じである。

 もしくは、時間は未来から過去へと流れている。はたまた、時間は存在しない。時間の流れの束とでもいうべき無数の宇宙が生まれては消え生まれては消えしており、誰もが望んだ宇宙を選ぶことができる。翻って、今あなたが見ている現実は、あなたが無数の宇宙の中から慎重に選び抜いた希少な宇宙の姿である。

 真夏の網戸越しに吹くような切ない風ごときで切れてしまいかねない細く頼りない糸を、繊細な手つきでからめとって握りしめているのが今の現実である。それは脆い。脆いが、手に触れている間だけは針金のように固く丈夫に見えるものである。不思議と、弄り回している間は固い。それを愛しく思うか、厄介なものだと思うかはもちろん、あなたの嗜好に委ねられているけれど、その選択を含め、すべてあなたが手繰り寄せた細い糸である。脆く見えるせいで手放せない糸である。気に入らなければ手放してまた巻き取れば良いが口で言うほど簡単ではない。気に入っていれば少し手の力を緩めても大丈夫だから、愛でれば良い。望め、願え、感じろ。あなたが行きたいところにあなたは既におり、あなたが得たいものは既にあなたの手中にある。あなたが得なかったものでさえ、あなたの中にある。それを知れ。切れそうな糸はあなたがそれを観念の素手で触り続ける限り切れないままでいつも繋がっており、あなたが見つめなかったものだけが主を失った蜘蛛の巣のように、脆く朽ちてほどけてなかったことになる。

 

 浅霧兄妹の伯母はいわゆるスピリチュアル系YouTuberであり、「引き寄せの法則」及びその周辺でよく使われる単語が含まれる動画タイトルはほとんど上げていないが、彼女の言っていることはつまりそういうことだと視聴者には分かるのが、却ってそのあたりの諸法則の存在を裏打ちするように聞こえるという点で人気である。

 伯母はタロットカードも使わないし、星を読んだりもしない。あるのは論理だけであり、ほとんど言葉だけで動画が構成されている。論理的に理解し易いとは言え冷静に考えれば詭弁の域を越えない発言もあるにはあるが、引き寄せ難民と呼ばれる人々は深雪伯母が解説する内容にとにかくオリジナリティと哲学を感じることがしばしばであり、ほとんどスピリチュアルを見放してしまいそうな人たちでさえ、巷間に膾炙している「言葉の意味」の再解釈に目から鱗が落ちる経験をするのである。彼女の解説を聞けばすぐさま気分を正しい位置に補正することができ、今の今が持つ完全性を理解し感じることができる。良くも悪くも現実に押し込められた自分というものの見方が代わり、目が覚めたように生活を作り出していく。

 浅霧兄妹が伯母の力や彼女が説く世界のルールを信じている理由は明快で、自分たちが彼女に「引き寄せ」られた経緯があるからに他ならなかった。伯母の論理や世界の解釈を支持しているかと言われれば少し芯を外している。自分たちの現実を変えたいと思ったことはないから、伯母の言葉に救われる多くの人とは少し違う。彼らは、自分たちが自分たちで良かったと思っている。ナルシズムとも少し違うがこの辺りは誤解されても大きな問題はない。

 二人は引き寄せられた。伯母は妹の子どもである兄妹と共に暮らす未来を引き寄せた。兄妹の母親は服役しており、父親は他界している。母が父を殺して服役している。その結果、伯母の元での生活である。不思議な力や縁が働かなければこうはならないだろう、という現実の中に二人はいた。不思議とは言っても、伯母のことを信じるのであれば、この現状は紛れもなく自分たちが選んだ結果であり、束の間伯母と過ごしたことも、今は兄妹二人で札幌で暮らしていることも、志向したことである。では母が父を殺害するに至った経緯については? これは誰が志向した現実だろう。兄妹に言わせれば伯母である。引き寄せた? 仕組んだ。操作した。願った。唆した。

 

 伯母の暮らす古くて大きな家の二階に、二人がかつて過ごしていた部屋があった。板張りの十二畳あるゆったりした部屋で、古く重い木製のベッドが窓際を避けて置いてあり、その窓にカーテンはかかっていない。窓がある壁側には横幅が六十センチ、高さが百八十センチの本棚が二つ並んでおり、びっしりと書籍が並んでいる。文学全集や図鑑や画集が多く、読書を楽しむ人の本棚というよりは、本棚を飾るために本棚を設置している人の本棚だった。物が少なく全体的に殺風景だがベッドを降りたところに厚手のラグが年中置いてあり、生活感は無いが妙な温かみがある。本来ここは兄の部屋で、妹の部屋もあるのだが、二人はいずれか一方の部屋で駄弁っていることが多かった。兄が妹の部屋にいることが多かったが、今は兄の部屋に集まっている。

 妹がベッドの上で寝転んで、兄がベッドを背にラグで座って、同じ方向を見て話しをする。本棚とか、窓の外とかをそれぞれ見ながら、話しをする。進学先の札幌でも二人は二人で暮らしており、一緒にいるときは大体いつもお喋りをしている。二人は兄妹でありながら、ソウルメイトというやつなのかもしれない、とお互いを思っている。互いのことをソウルメイトと口にする人は、多くの場合、一方が合わせているケースが多いことを知っているので、あまり好きではない。自分たちは血を分けた兄妹である点を鑑みても一般的に言われるソウルメイト、というものとは性質が違うとも思うので口にはしない。

 進学してからも、二人の伯母の家にある部屋はそのままにしてあった。二人が進学してまだ三年しか経っていないのでそのままにしてあったと言うよりも、単に何もしていないだけだった。

 保存に強い意思はない。

 全集でも図鑑でも画集でもない読みかけの本が一冊、開いたページを下にしてベッドの頭板にある少しのスペースに放置してあり、兄妹共に、本をそのように扱いたくはないはずだけれど、とにかくそうなっている。少し粗末に扱いたくなるような本なのだ。

 

 兄の部屋ではたまにホワイトセージを焚き空気の入れ替えをするが、これは兄が自発的にしているのではなく妹が勝手にしている。「人の部屋を勝手に清めるな」というのがお決まりの返答で、妹は「そろそろ邪気が溜まる頃だと思って」と答えるのが通例だった。妹の言う邪気は何を指しているのか、兄には皆目見当がつかなかった。二人以外には何が面白いのか分からないやり取りだった。伯母は部屋に干渉しないし家の掃除は家政婦さんに頼んでいるけれど、兄妹の会話を思い出して定期的にホワイトセージを焚くことが習慣になっていた。

 帰ってくるとホワイトセージの匂いがするものだから「清められている」ことに兄妹は気付いているけれど、何となく言及できないままでいる。起きている間はほとんどずっと話をしているのだから兄妹で確認し合っても良さそうなものだけど、二人きりのときでさえこのことには言及できないでいる。

 伯母が自分たちの部屋に入ってホワイトセージを焚いている。

 言及せずにいればいるほど、その事実が可笑しみと不気味さを帯びていくようで、多分二人は、口を噤むことによってその感情を育てている。

 伯母の家は築四十年、白の下見板張りにレンガ造りの煙突が目立つ洋風な木造建築だが、購入に際して外観の印象は損ねないままにところどころ断熱材を入れ直し、セントラルヒーティングを巡らせて、全体どこにいても温まるようにしてあった。屋根の色や装飾が古く少し陰気な印象のある家だが、住み心地は意外なほどに快適で、札幌でも方々にこの手の、古民家とは少々趣きの異なる、かつての西洋趣味が表出したような建築があるが、多くは公共のコミュニティスペースになっていたり、カフェのようになっていたりすることを、二人は札幌の大学に進学してから知った。

 談話室の赤い絨毯。布張りの、派手だが落ち着いた印象の壁紙、フローリングというよりは板間と呼ぶ方が相応しそうな部屋が数個あり、窓の装飾、各部屋のデザインが異なる古風な照明、セメント塗りの壁の、寒々しくのっぺりした印象、ダイニングテーブルは少々いびつな形の一枚板で設えたもので、二人は心密かにラーメン屋さんの美味しそうな叉焼みたいだと考えていた。確かにカフェなどに利用する想像がつきやすい内装だった。壁にはモダンな画風の絵画作品が並べてありそうだし、実際、古い紙がそこかしこに仕舞われており、そこに外国語のメモがぎっしり書き込まれていたりするのは、ちょっとした見物だと思う。これを書いたのは多分伯母だ、と思えばこそ、何が書いてあるか気になるところだが、これ見よがしに解けと言われているようなそれを直視しないようにする知恵くらいは二人も持っていた。

 談話室にある暖炉に火をくべるのはほとんど伯母の趣味であり、真冬、この部屋ばかりはヒーターのスイッチを切って、炎で部屋を暖めることにしていた。暖炉の火では部屋が暖まるのが遅いのだが、伯母の元へ来た歳の秋口、当時十四歳だった二人は、伯母がこの暖炉でマシュマロを炙って食べさせてくれたことを何故か二人とも鮮明に覚えていた。伯母が、マシュマロを焦がしたのだが、そういう失敗が少し珍しかったからだろう、と二人は思っている。その日はまだ十一月の初めで、初雪が山に下りた日だった。

 

「トモの死体、どこにあるんだろうね」兄の翔が言った。

「ある、じゃなくて、いるでしょうよ」と妹の麻衣が言った。

「死体だからある、で良いと思うよ」

「でも私たちの友達だよ? いる、って生物として表現するのが正しいと思うの」

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」十数年前に流行った歌だが、翔は無感情な朗読調で言った。

「ほら」

「本当だ」

「でもこれは魂の話じゃなくて、死体の話だからさ」

 二人は悲しくなかった。

 二人だけではなく、桜大も悲しんでなかったと思う。

 トモが自殺を宣言し、その実ただ家に引きこもり、観念的な死を彼らに押し付けたのはもう三年前だった。三年前から彼は死んだことになっている。それから本当に一度も会っていない。トモの部屋の中にいるのが別人かもしれないと妹のミサキに言われて、ドア越しに話しかけたのがほとんど三年ぶりの接触と言える。返事は期待していなかった。返事はないものと思っていた。返事があって驚いた。トモの父親から、息子は既に死んでおり、隠していた死体がなくなってしまったと聞いたときにはさらに少し驚いた。

「トモと最後に何話したか覚えてる?」と翔が問えば妹は「冗談で言ってる?」と半笑いで返事する。「トモ、私たちのこと徹底的に無視してたでしょう」

 浅霧兄妹が転校してきたのは中学二年の春である。その当時から、もちろん何度かは必要に迫られて会話を交わしたことがあるが、まともにコミュニケーションらしいコミュニケーションを取ったことがない。トモは直接二人と話さなかったし、二人が話しかけてもきちんと返事をしなかった。

「まあ、それは置いておくにしても」

「私たちがトモの死を悲しめないことはとりあえず目を瞑ってもらうとしても」

「大変なことになったね」

「なったね」 

 

「引き寄せの法則」を信奉していると、軽蔑されることがある。

 非科学的であるということは当然として、都合の良い妄想ばかりに勤しんで、現実から目を背けているだけだ、という意見が大半であると翔などは感じる。人生がうまく行っていない人間にとって「引き寄せの法則」とそれらを説く声は非常に甘美な響きを持ったものであり、その思想と論理を信じて実践的な行為に賭けるにしても金銭的なリスクは伴わず、一般社会で言われるような勝負や努力とは程遠い性質をしているので、易きに流れてしまいがちな、いかにも弱者の心を唆す言説群となっている、と見る人がいる。

 否定派曰く、誰も具体的に何が起きたのかを言わない、と言う。言ったとしても食べたいと思っていた何かを偶然貰うか何かして手に入れたとか、行きたいと思っていたアーティストのライブチケットが直前になって偶然手に入ったとか、そういう話ばかりで、コツが分かれば願望が全て叶うというのは明らかに煽りすぎである。

 そういう偶然が起こることはあるだろう。偶然が重なることも、奇跡と呼びたくなるような出来事も、生きていればそれなりにあるだろう。そういう偶然の産物をあたかも自分で引き寄せたかのように喧伝して、他人に良い夢を見させて金儲けをする連中がいる、ということも気に入らないし、そういう連中のカモになり、実質的な努力は何もせずに思い通りの現実を引き寄せようと頭の中だけで頑張っている奴が痛々しくて仕方ない、という人がいる。

 兄妹は、引き寄せの法則の類に対してそんな悪辣な態度を取る人間が大勢いることを知っている。現実主義で、努力しない人が嫌いで、夢見ることに制限をかけ、自分が今手に持っているものは堅実で着実な努力と計算とほんの少しの運によって、つまり実力によって手に入れたと思っている人々である。それは健全な考えであることを否定する気持ちは二人には毛頭ないが、伯母のごとき人種は確かにいるのだ、とは思う。二人は彼女が努力している姿など見たことがないし、何かに焦ったり、嫉妬したり、欲しいものが得られなくて悶々としている姿を見たことがない。彼女の人生には常に最良が訪れる。そう見せているだけかもしれないし、今となってはそれも営業努力と言って良いのかもしれないが、傍目に見てあの伯母は現実を都合よく展開させる力を持っている。中学二年の春から高校を卒業するまでの期間、二人の親代わりとして彼らを手元に置いていたことは間違いのない事実であり、そのことで以て人生の全ての目的を達成したと言わんばかりの満足を得ていることも知っている。

 彼女の最良な人生の中に、浅霧兄妹はいる。

 言わせてもらえば、世の中に非科学的なものが非科学的なまま罷り通っている事など無数にある。仏壇が家にある人々は、毎日仏壇に仏飯を備えたりしないのだろうか。法事には参加しないのだろうか。仏教は間違いなくスピリチュアルな領域に属すると思うが、その辺りはどう考えているのだろうか。スピリチュアルは歴史が伴えば宗教になるのだろうか。

 ご先祖様には手を合わせた方が良いと思うし、寺社仏閣にはある程度ご利益があると信じているけれど、潜在意識やメタバースなどと聞くと忌避感を抱くのは何故だろうか。どちらもひとしなみに否定するなら一貫しているが、仏はおざなりに出来ないと考える一方で、無意識領域や不可視の領域のことを鼻で笑うのは何故だ。

 もしくは、こんなことも考える。生きていれば奇跡と呼びたくなる偶然が起こることがある、とは言うが、同じく生きていれば心霊現象の一つや二つ体験するものではないだろうか。心霊現象と言わないまでも、普通では説明ができないこととか、言葉では説明できない感じとか、虫の知らせ、嫌な予感、謎の体調不良などなど、自分たちの身の回りでは、科学では説明できない事柄が無数にあるではないか。それらは酒の席で提供できる小話に過ぎないのだろうか。それとも全て、認知能力の不調や精神の疲れで説明するのだろうか。

 こういう風に、引き寄せの法則に対する反対意見、否定派の意見に何か言いたくなることそのものが、伯母による洗脳と言われればぐうの音も出ない二人だが、それを言うなら仏壇を大事にすること、墓の前で手を合わせることも、親から子へ引き継がれた文化的なミームであり、洗脳と言って言えなくもない。墓を蹴ったりする人間がいれば非難したくもなるだろうし、仏壇に手を合わせるどころか話しかけたりするご老人を誰も馬鹿にしないのは、そういう領域のことを少なからず尊重しているからではないか。ダブルスタンダードは構わない。幽霊はいないとは言っても、自分のじいさんは天国で楽してる、と信じるのは自然なことだと思う。自分に都合の悪いものは非科学的だと切り捨て、都合の良いことは思想の世界のことだから、信仰に属するものだからと尊重する。浅霧兄妹に言わせれば、人間誰しもこんな風に、都合の良しあしで都合よく物事を考えたり感じたりして生きているのだから、結局見たいものを見たいように見ている、ということで、実際それぞれ、世界はそういう風にできているのだから、逆説的に伯母の論理は一理ある、となりはしないだろうか。

 否定派の意見を目にするのは主に伯母の動画に寄せられるコメント欄に限られる。現実の生活で「引き寄せの法則」はじめオカルティックな話題に及ぶことなど滅多にないし、あったとしてもそれぞれの思想を純粋に開陳するような事態にはなかなかならない。なぜならオカルティックな話題に及ぶ状況においては大抵、少なくともその場は「オカルト」を許容しており、積極的に肯定さえしていることが多いのだから。不意に始まる怖い話、ちょっと不思議な体験、運命の相手との出会い、偶然の一致。それらが話題に上るときは、許容と肯定の磁場が既に生まれている。オカルトを話題の一つとして楽しむ姿勢が備わる。その場面において非科学的だ、非論理的だなどと言う者がいれば、理性的だなどとは評価されない。そういう、オカルトに肯定的な状況にさえ狭く浅い交友関係しか持たない二人は滅多に出くわさないのだから妄想の域を越えないのだが、おそらく人との交流を増やしていけば、ときと場に応じて現実と非現実のバランスを掴み直さなければならない事態は増えるだろう。

 要はバランスの問題だ、と考えている二人は伯母の動画に寄せられた否定的なコメントに反対意見をぶつけるようなことはしないし、実生活で過度にオカルティックな世界についてひけらかしたりもしない。ネットの世界でさえ中立的な立場を装っているほどだが、ちょっとした気軽なコメントと分かっていても、頭ごなしに否定的なことを言われると伯母の身内として一言言いたくもなる。オカルトを否定されるからではなく、伯母を否定されるのが気に入らないのだろう、と自覚しているが伯母を否定されてムキになっているのも気恥ずかしい。その点、二人はまだ思春期の中にいるようで、その事実と向き合うことが即ち伯母と会うことだから、帰省は少し勇気がいるのだった。

 二人は深雪伯母について常にジレンマを抱えている。ジレンマと言おうか、アンビバレントな感情と言おうか。相応しい名付けはできないけれど、何やら常に右も左も分からない、上も下も選べないような感覚の中におり、強いて言えばこの感覚から脱したいとは思っているけれど、当の深雪伯母でなければこの感覚から脱する方法は示せないだろう、という予感がある。それは彼女が自分の手のひらの上から兄妹を降ろすか? という問いであり、自分たちは降りたいのか? という自問でもある。

 二人は兄妹で良かったと心の底から思っている。二人が兄妹であったことが深雪伯母の唯一の嬉しい誤算であったことを後から聞いて、伯母が本当に嬉しそうにそれを語ったのだから、二人ともじんわりと嬉しく、自分たちが伯母曰く「美しい男女の双子」だったことが誇らしく感じる。誤算だったというところにも二人は喜びを感じている。あの伯母が誤算を働いたという事実。これは終ぞ見たことがないもので、彼女は常に達観しており、本当に未来からこちらを見ているような態度でいつもいつも、何もかもお見通しみたいな風をしているのが恐ろしくも頼りがいのある部分だと思っていたから、彼女の唯一の誤算が他ならぬ自分たちであり、その誤算が、彼女の想定するよりも「良い」現実を作ったのだ、という事実は、これもまた二人に誇らしさを植え付ける材料となった。平行して、伯母が操っているように見える非現実的な流れとか、伯母に対するアンビバレントな感情とかを、一人ではとても受け止められないという感覚もあり、端的に言えば恐れを抱いていることも認めざるを得ないのだから、二人で良かった、と心から思う。片割れがいて良かった。理解者がいて良かった。同じ視座に立つ相棒がいて良かった。

 

 浅霧兄妹が感じている不思議な力の存在が、誰にでも伝わるとは考えていなかった。二人は深雪伯母を疑っており、敬っており、恐れており、頼りにしている。非化学的な領域と現実的な今に跨って過ごしており、日によって軸足が違う感覚が二人にはある。不思議と二人はこの感覚を言葉は介さずに共有することができる。二人にとり非現実と現実の様相の違いは天気の変化に似て限りなくシームレスなものであり、気安く話題に上る内容でありながら、同時に取り立てて話題にする必要もないことだった。それでも嵐や雷の天候の日に窓の外が不穏に陰ればそわそわ落ち着かず、発生に伴って二次災害が起きかねないような事象を無視するのは難しいのと同じで、伯母が時折起こす予知的な動作や極端な回避行動は警戒と準備に値すると考えている。

 これら内面のジレンマと言語化不能な感覚の共有は、兄妹だけのものだと思っていた。両親がいなくなってからは伯母と緊密なやり取りをしながらなんとか二人だけで過ごした。無理が生じて中学二年に上がる年に桜大たちが暮らす町にやって来た。意地を通せなかったというよりは、そうするのが自然で楽だと二人とも思えたので引っ越してきた。桜大とトモしかいない教室に入ったとき、聞いてはいたがたった二人しかクラスメイトがいないことに驚きというか、リアリティを感じた二人は今まで感じたことがない高揚感を持って帰宅して、なぜ自分たちはあんなに驚いたのか、という議題でふたり会議をした。

「やっぱり頭で知るのと身体を通して感じるのとでは大きな違いがあるんだよ」という結論に達した。そう言いながらこれは自分の言葉ではないのではないか、という不安に駆られたが、発言の内容自体は間違っていないはずだよねと二人で確かめあった。これまで一緒に過ごしていたわけではないにも関わらず、二人は伯母の影響を受けすぎているようで、受け売りみたいな発言が多いことも二人は自覚していた。大人びたことを言ってもまだ中学生で、ほとんどのことは言語化できないままに蓄積したままだった。きっと言語化に至る端っこを掴んだような感覚があった。自分たちの言葉で、伯母と、自分たちの運命と、世界について、言葉にできそうな高揚感が、たった二人のクラスメイトと会ったことで生じた。

「人は感覚の生き物であって、事象というのは感覚を映し出す虚像でしかない」と二人は、言葉の内容とは裏腹に、同じ現実を確かめ合うようなことをしているのだから、多少の自家撞着は感じつつも、クラスメイトの二人を見たときに感じた得も言われぬリアリティのことを、不思議に感じた。

 この町の少子高齢化の様相は極まっており、もう義務教育にあるどの年代も、一桁人数が当たり前だった。一学年だけ十一人のクラスがあるが、これが例外であり、地域の人間もその学年だけは数が多いと、何かにつけて頼もしそうに言う場面が散見され、複雑な気分になると担任教師は困り顔で愚痴を吐いた。どこか達観して見えるからか、兄妹は大人の愚痴を聞くことが多かった。顔を合わせたのはまだ三回目であるにも関わらず、担任教師は十一人で子どもが多く賑やかな学年として扱うしかない町の状態と、そのことを異常と思っていなそうな町民の意識にうんざりしている、というようなことを聞いてしまった。兄妹はクラスメイトの二人の姿と、担任教師の発言とが妙にリンクしたような印象を受けた。きっと二人が卑屈に見えたせいだった。一桁の学年が多いとは言え、二人だけ、というのは彼らだけらしかった。複式クラスで授業をしたりするけれど、どうしても二人が他学年に「お邪魔する」形になってしまうらしい。これも担任が言っていた。担任はわりと敏感な感覚を持っており、彼らの居た堪れなさとか町民に向けられる目を自分のことのように感じているらしかった。

「たかが十一人。十分少ないじゃないか。あの子たちは二人。確かに少ないけれど、そんなことで劣等感を植え付けられるような筋合いはない。たかが十一人で大きな顔をするようになる。そんな虚構の貫禄を植え付けるのも間違ってる、と私は思う。ピグマリオン効果じゃないけれども、人は見られたなりに振る舞うものだよ」

 あなたたちは二人だけで、可哀想な学年だ、と町民は言う。後に兄妹は、クラスメイトの二人が本当に「可哀想な学年」と呼ばれていたことを知った。だから、「転校生が来てよかったね」なのだった。まあでも、一人じゃなくて良かったね、男の子二人で良かったねと、フォローなのか何なのか分からないこともよく言われたらしい。暗に、一方が女の子だったら、というイフの世界を誰もが頭に思い描いていることが分かる発言だが、一方が女の子だったら何だというのだろう。「女の子が一人ね、あ、でもお兄ちゃんも一緒なのね」という、その一連の話の流れと、不愉快な視線を麻衣に向ける町民が好きになれなかった。男の子同士でも女の子同士でも男女でも、別に何も変わらないだろう、と思う。何も変わらないことはないだろうけど、配られたカードなりに人生はうまくいくものである、と二人は考えている。都合良く、望んだままに、生きていくものである。そう伯母が言っていたから。

 いずれにせよ、二人はクラスメイトの二人に妙な連帯感を抱いた。同情とか憐憫ではなかったと思う。仲間意識というのが強かったと思う。にも関わらずトモの方は二人を徹底的に避けているようだった。無口な方ではあったが、桜大と話をするときと、兄妹と話さなければならない場面とでは、人が違った。

 桜大とトモは二人で一つであることが一目で分かった。それは自分たちも同じだから、二人で一つ同士であることが分かったが、同時に、四人は同じ立場のクラスメイトになれないのだ、四人で一学年という形は求めていないのだ、というトモの声が聞こえるようで、兄妹は高く堅い壁の存在も感じていたのだった。

 しかし桜大は人懐こく、トモの心情を知ってか知らずか、積極的に二人と接触した。トモの頑なな態度のせいに違いないが、三人と一人、という構図になることもしばしばで、兄妹はその構図に気付くと居た堪れなさを感じたが、トモが自分で招いた結果だという意識もあって、ときにはその三対一の構図をひけらかすような、開き直るような態度でいたこともあった。そこには多少の悪意があったが、一年も経つとその感覚も薄れ、トモを蚊帳の外に置いているような状況にあっても、それほど気にならなくなった。

 桜大がトモを連れて兄妹の住む家に遊びに来るようになったのも、転校してそろそろ一年経つかという頃だった。最初の訪問は真冬だったから、正確には一年も経っていない。まだ中学二年生の頃で、年明けすぐだっただろうか。伯母と会って、話をすれば、桜大もトモも一風変わった発言ばかりに聞こえたのか、伯母の言葉を無意識に咀嚼して飲み下すようになった。兄妹はそのプロセスを知っている。最初はいまいち何を言っているのか分からなくて、次第に輪郭が捉えられるようになって、最後には自分で考えて発して言葉みたいに感じられるようになる。

「感覚なんだよ」と伯母は言う。「肉体は二の次で、その肉体の一部である目が見るものは二の次の二の次で、三の次とは言わないけれども、二ダッシュの次くらいのもので、実に曖昧なものなんですよ。感覚器官を通した事実は全部二の次の次」

「でも、目とか鼻とか、そういう感覚器官がないと、感覚を持つことができないんじゃないですか?」とトモが言った。

「そう、その通り。だけど、常に両方向に感覚というものは走っている。インタラクティブというやつなんだと私は思いますよ。感覚器官で捉えたものが感覚を作る一方で、感覚の方が感覚器官が捉えるものを探している、とも言えるんだと私は思います」

「臭い生ごみのにおいを嗅いで顔を顰めることもあれば笑ってしまうこともある、みたいなことですか」トモは賢い子だった。理性的で、伯母との相性は悪いかもしれないと兄妹は考えていたが、伯母の話を真剣に聞いていたのはトモの方だった。桜大も面白がって聞いていたけれど、初対面の伯母に対するリップサービスのような空気も無いではなかった。

「そういうことかもしれない。具体的に話をしていくと少しずつ的を外してしまう可能性がありますけれどね」

 伯母は最初、お客さんに接するときみたいに丁寧な言葉でトモにも桜大にも話しかけていた。次第に打ち解けてくると砕けた口調になっていったけれど、その頃にはもう、トモも桜大も、ちょっと職員室に行くくらいの気安さと緊張感で、伯母と話しに行くようになった。二人は伯母のことを深雪さんと呼んだ。学校の連中の親はひとしなみにおばさん、おじさんと呼んでいたが、深雪伯母のことは深雪さんと呼んだ。確かに伯母は兄妹を生んだわけではないし、未婚で、他の親よりずっと若く見えた。非現実的で、年齢不詳で、話す内容にもよそよそしいところも押し付けるところもなく、歳の離れた姉というような気安さがあった。ときには兄妹抜きで、ときには完全に一人で伯母と話すことさえあった。

 何度かみんなで伯母の家に泊まって遊んだりもした。三対一の構図は学校でしばしば生じるものの、四人は基本的には仲が良く、トモが二人を徹底的に無視している、という側面はあっても、互いに嫌っているわけではないことを了解し合っていた。兄妹とトモはそういう間柄というだけであり、そういうルールに則って生きているというだけであり、そういうものだった。トモは兄妹の前で忍者なのであって、二人を嫌っているわけでも避けているわけでもなかった。

 ある夜、兄妹の来歴を聞くことになった。桜大もトモも、二人がどうしてこんなに辺鄙な町に越してきたのか、どうして伯母と一緒に暮らしているのかを知らなかった。このときまで、母親が父親を殺害して服役しており、二人には今伯母の他に身よりがないことも知らなかった。伯母の口から桜大とトモに語られる内容は、子どもには少し刺激が強かったかもしれないが、それ以上に伯母主演のスピンオフ映画を見ているような好奇心が勝った。『浅霧兄妹ビギニング』と言った風情。この話題には浅霧兄妹も加わって、深雪伯母と浅霧兄妹プレゼンツによる冒険活劇と言えば明らかに様相が異なるが、「怪談」を聞くような、妙な臨場感があった。それは深雪伯母がまるで「神の視点」を持った語り手で、登場人物の内心をさもそうであるかのように語る、というスタイルによるところが大きかった。

 桜大とトモを聞き手として、深雪伯母や浅霧兄妹が語る内容を更に再構成したのが以下の文章である。書き手は私を含め四人いる。四人同時筆記による、グループライティングの手法を取ることにより、神の視点に肉薄した

 

 ★★★★

 

 話はもう二十年以上前に遡る。

 深雪伯母は二十二、そして当時、兄妹の父は二十一で、深雪伯母の一つ下だった。もちろん結婚もしていなければ子もいるはずはないので、二人の父はただの「誠(まこと)」という青年だった。

 誠は深雪伯母と出会った当時、激しい希死念慮に襲われていた。当時は「深雪伯母」ではなかったので、こちらもただの「深雪」だった。

 誠は在学中にふと思い立ちワーキングホリデー制度を利用しオーストラリアへ旅立ったのだが、二人はこの土地で出会った。出発時は当然というかなんというか、誠だって死にたいなどとは微塵も考えていなかった。しかし、労働と引き換えに生活の一切を引き受けてくれる牧場で「過酷な扱い」を受け、「心労が溜まり」、ついに「死を意識」したところへ、後からやって来たのが「浅霧深雪」だった。

 牧場は広大で、家は豪邸と言って良かった。モダンな作り、縦に長い家。家業は肉牛の飼育と出荷だが、オーストラリア人には馬好きが多いらしいのだが、この家庭も多分に漏れず馬好きで、趣味的に馬が何頭か飼育されており、家の中には小ぶりな馬の彫刻があった。西向きにテラスがついていて、そこに年中置いあるベンチに座れば夕日とちょうど目が合った。誠は最初、その場所で牧場の家族と話す時間が好きだったが、次第にその時間は少なくなって、コミュニケーションの不全から、次第に委縮し、家の中を事由に歩き回れるような蜜月は終わって、希死念慮が芽吹き始めていた。

 そんなタイミングで深雪は到着した。

 深雪は留学生だと言ったらしいが、それでは何故牧場なんかにいるのかと誠は聞いた。深雪は意味ありげなことを言った。ここに呼ばれている気がしたと言った。「まことくんに出会い、このことかと確信した」と言うから多少、誠は深雪を意識したが、希死念慮が消え去るほどの恋をした、というわけではなかった。

 むしろ深雪がそばにいることで、普段受ける叱責や陰湿ないじめに近い扱いによるプライドの損傷が激しく、半ば甘えるように、言い訳をするように、深雪の前で死にたいと言ってしまう自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。

「これは私の失態だった」と深雪伯母は四人の前で言った。

 彼女が語るには、このとき少しでも私を異性として意識させてしまったのは申し訳ない限りだということだった。誠を見て、運命の出会いだ、というようなことを言ってしまったのは、まさに「死にかけの人間がいる」という点を指して言ったのであり、かと言って私も、それをそのまま言うほど分別に欠けている訳ではなかったので、つい思わせぶりなことを言ってしまったと恥じらうような顔をした。

「代わりと言っては何だけど、妹を彼にあげた」と彼女は言った。中学生四人の前でこういう発言をするのは少し、大人として配慮に欠けているのかもしれないが、(浅霧兄妹も含め)子どもたちは、続きを聞きたいがばかりに、大人びた笑い方で深雪伯母を許した。

 深雪伯母は、自分がこの牧場にたどり着くまでの誠の生活について全て聞いていた。誠はそれまでこの家で感じた鬱憤をすべて日本語で話せる深雪がいて、嬉しそうだった。

 誠にとり、二件目の牧場だった。一件目は競走馬を飼う厩舎で、オーナーの人は良かったが待遇が悪かったので契約終了と共にこの牧場を紹介してもらった。この、二件目の牧場は、日本では考えられないほど巨大な規模を有していた。そんな広大な土地の一部に建つ家はポツンと佇んでいたが、豪邸だった。リビングの大きな窓からは牧草地を果てしなく見下ろせた。堅く、重い色のフローリング、大きな窓と消炭色の窓枠、天井は低いが窓が広いので窮屈には感じない。他人の視線を気に掛ける必要はなかった。それは以前の牧場でも同じだったが、二件目は小高い丘の上に建っていたので、見渡せる景色が違った。とりわけ嵐の日は見もので、渦巻く暗雲と、吹き荒れるテラスに舞う落ち葉、窓に打ち付ける巨大な雨粒は陰鬱さの材料にはならず、心なしか誠の心を昂らせる、美しい光景に見えた。オーナー夫婦はまだ三十代半ばと言ったところ。子供は男が二人、一番下が女の子の三人だった。一番大きな子でも十二歳、それから十歳、八歳と見事に二つずつ離れていた。

 広い家だが同居というわけにはいかず、誠は家から直線距離にして百メートルちょっと、実際は牧草地を迂回してそこへ行くので移動距離としては二百メートル強は離れたところにある物置小屋に案内された。ディナーの時間にはこっちに来い、というようなとを言われたがそれも最初の一週間で、以降は週に100ドルの賃金が与えられ、自炊自活というやり方だった。以前の牧場ではキッチンが家族と共有で、好きにものを食べて良いということだったが、冷蔵庫の中にはいつもろくなものがなかった。冷蔵庫の真ん中の段に放り入れられたピザの箱をあけると1ピースだけ干からびたのがあった。あとはジュースのボトル、バター、スプレー缶タイプのホイップクリームも入っていた。小さく殻が薄い卵が二個。これは買った卵ではないだろう。汚れがついていた。自炊するにも材料が無く、なけなしの卵もフライパンが手入れの行き届いていない粗末なもので、ほとんどこびりついてしまった。買い出しに行く手段もなかった。これに比べれば二件目は食料を買うには十分すぎる給金に加え自家消費用の牛肉も支給してもらえ、さらに買い物にも連れて行ってくれた。前の家庭と比べると雲泥の差。小高い丘の上に建つ美しい家。素晴らしいロケーションだった。

 誠も自炊の方が気が楽だった上、食料不足の心配もないとあって生活を楽しめそうだったが、あてがわれた物置小屋の荒れようはちょっと問題だった。扉を開けるともう五十年は使っていないような椅子とテーブルが散らかっており、ボロボロのオルガンが隅に、窓は割れ、床は砂ぼこりにまみれていた。強いて言えばそこがリビング、もしくはダイニングのような場所で、誠にあてがわれた部屋はそのリビング様の間からさらに扉を開け、廊下があり、右手に二部屋あるうちの一つだった。デザインも大きさもまったく異なるが、古い、学校の教室を思わせる雰囲気があった。廊下の左手には、やはり校舎裏を思わせる小さい面積の荒地があり、そこで洗濯物を干したりすれば、家屋が死角を作って、そもそも人目などないが、万が一その建物の近くを誰かが通っても人目に付かない、という安心感があった。もう少し先の話だが、彼はそこで夜中、満天の星を眺めながら小便をするのが習慣になった。

 屋内の荒れ方は酷かったが、廊下にも物が大量に放置されており、半ば乗り越えるように部屋へたどり着く。二部屋のうちどちらを使っても良いというが二つの部屋は散らかりようが違うだけで造りは同じだった。ただ、一方の部屋にベッドが置いてあったので、寝床にするならこちらだろうと掃除に取り掛かった。巣作りは楽しかった。丘の上の家族に気兼ねしないでも良いし、一人になれるのはありがたかった。

 三人兄妹は、いや、上の兄二人は幼いが牧場の仕事を把握していた。彼らは優しいが誠のことを八歳の妹よりもずっと年下の人間のように扱った。言葉が不自由なので仕方ないことだった。子供のような扱いを受けることは、オーストラリアに来て何度か経験していることだったし、自分も日本にいる外国人を、まるで幼い子のように扱ったことがあった気がした。

 そこには愛情も優しさもあったから傷つきはしなかったが、親の誠に対する態度を見て、次第に、それほど敬う存在ではないのだと学習していたのも確かだった。彼らは親の真似をして、誠がするあれこれをいつも、悪気が無さそうに指摘した。それは親と同じようなやり方だった。そんなに水を飲んだらトラクターで小便漏らすぞ、と言ってみたり、朝飯は食べ過ぎてないかと聞いてきたりした。まるでトラクターの上で漏らしたことがあるような、いつも貪欲に食事を貪っているかのような言いぶりで言った。彼が家族とディナーを共にしている一週間、そういう目で見られていたのだと感じさせるには十分で、もしかしたらもっと言葉で、直接的に、あいつは遠慮なく食べるだとか、子供たちの分まで食べてしまうとか、そういうことを普段言っているのだろうと思った。半ばそういう風にバカにするための卑しさを誠に期待しているような目にも見えないことはなく、誠はまだ小学生の男の子たちにも次第に卑屈な態度をとるようになった。

 妹のローザは癒しだった。彼女はまさに天使のような少女で、風になびく細い髪の毛は芸術的で、青い瞳はビー玉のようだった。欠け落ちていた牛の角を彼女の頭にあてがってみると、可愛い悪魔のように見えて、それはそれで非常に胸を打つ美しさを放っていた。上の兄弟二人もローザを心から愛しており、誠のそんな戯れにも楽しそうに付き合っていたが、親はそう見てくれなかった。誠とローザを近寄らせないように工夫しだしたし、おそらく兄弟にもそう注意したのだろう。さり気なくローザを守るような素振りをするようになった。それは、当然かもしれない、と誠は思った。ローザはそれくらい可愛い、いや、美しい。言葉もろくに通じない得体の知れない人間に、近寄って欲しいとは思わないだろう。

 働き手に双子の兄弟がいた。十九歳だった。ロディオの選手であると二人は言い、誠に仕事を教えたのは実質この二人だった。まだ若いが、重機の扱い、太い針金を使って柵の補修をしたり何か固定したり、とにかくあらゆる仕事がお手の物だった。双子だが見分けはついた。兄の方が目元が涼しく、弟の方が会話がしやすい雰囲気だった。誠にいくつか新しい単語というかスラングのようなものを教えたのもこの弟で、親しみやすかったが、ある日、誠がディナー用にハンバーグを捏ねているのを、いかにも汚らしそうに見ていることに誠は気付いていた。

 その日、俺たちは街に行って食べる用があるからと言ってから、犬がどうこう言っていたのが誠には聞き取れず、とにかく表に来いと言うのでひき肉の油がついた手を一度洗って外に出た。改めて聞けば、自分たちが車で出かけようとするとこの犬はいつもついて来ようとするから、俺たちの車があの道を越えて見えなくなるまで、リードを持って、見えなくなってから離してくれと言う。誠は夕食を作っていたところだったので突然そんな役を押し付けられたのが不愉快で、普段はどうしているんだと聞けば、彼は同じ指示を繰り返すだけで、良いから、俺たちはもう行くから、見えなくなるまで絶対離すなと、やはりまるで幼い、聞き分けのない子供に言うみたいに言い放ち、嫌な眼をして、遠ざかる。言う通りにしたが犬が必死に追いかけようとする力に足元が覚束ないで、よたよたと情けなく転んでしまったのが惨めで仕方なかった。

 犬を開放してからハンバーグを焼く。勧めたわけでもないのに、そんなものは食えないと言った目をしていたと思う。出来上がったものを一人で食べていると、惨めさと食欲が混ざっていかにも自分が卑しい存在かのように感じた。扉の外で犬が飼い主の双子を探して吠えている。塩コショウをたっぷりかけたハンバーグを犬に食わせてやろうかと思ったが良心で踏みとどまった。誠があのまま一人だったら、いずれ犬にひどいことをしていたかもしれない。

 巨大なトラクターで草刈りをしなければならなかった。その日から誠の扱いは決定的にひどくなった。急斜面に張り付いたような牧草地で、簡単な作業ではあったがその日、誠はトラクターの制御ができなかった。ブレーキが利かず、斜面を駆けるトラクターの速度はどんどん増し、ハンドルを切れば横転しそうだった。斜面の終端に柵があり、そこに突っ込むしかなかった。人間ほどの太さがある杭を引き抜き、トラクターの草刈り機は棘のついや鉄線を巻き込んだ。エラー音と共に止まったトラクターを置き、斜面を登り、事故があったと報告した。オーナーは怒らなかったし、オーナーの父親は誠を励ましさえした。彼らは人間として陰湿な性格ではなかったし、極常識的なふるまいをする人たちだった。やってしまったことは仕方ない。怠慢ではなくミスなのだから、責める必要はない。

 いじめられる方にも原因があると言う教師がいるらしいが、そういうタイプの人間に言わせれば、誠がコミュニケーション下手なところに相手がとっつきにくさを感じているだとか、冗談を真に受けてしまうところが扱いにくいだとか、何も主張しないと思えば急に家族のコップを洗ってみたり、映画を見ている最中だと言うのに税金関係の書類の書き方について訊いてみたり、何かと間が悪い点が多くあり、多少、扱いが雑になっただけのことだ、と言うかもしれない。

 誠自身、深雪にそう語った。彼らが悪い人でないことは分かる。精一杯責任を持って、自分を尊重してくれているのも分かる。悪質でも陰湿でもない。しかしだからこそ、僕には彼らの隙を見出すことができず、いつも臆病に、卑屈になってしまう。悪循環だ。彼らが僕に不快な気分を抱くのなら、それは僕が悪いということになるだろう。そういう卑屈な考えが浮き出る表情を彼らが嫌い、さらに遠ざけようとするのも分かる。人間として嫌われているのが分かるからなおさら辛い。

 ある嵐の日の夜、何かの都合でオーナー宅で過ごしていたのだが、夕飯時になって、懐中電灯を貸すから部屋に戻りなさいとオーナーの妻に言われたのも、度重なる自分の卑屈な態度が影響しているのであり、ただでさえ不安な夜に、歳は大人なのに子供のように扱わなければならない誠が家にいることが耐えられなかったのだろうと彼は言った。

 トラクターで事故を起こしてから、誠の扱いは明らかに悪くなっていた。

 牧草地の除草などは任されなくなり、アロエの植え替えや木々の剪定などが主な仕事になった。剪定をしているとオーナーが来て褒めてくれた。やったこと全部褒めてくれた。ずっとここにいてくれと言われたが、それは明らかに軽口だったし、木の上に座り枝を払っていた誠には、そこから降りてくるなと言われているような気がした。少なからず本当に、そんな皮肉を込めて彼の仕事を褒めたのだろうことが後になって分かった。

 ある朝目が覚めると部屋の外にオーナーが立っているのが窓越しに見えた。いつになく怒っているような顔で、誠のことを探していた。誠が顔を出すと「犬に餌はやったか」と聞いた。やってないと答えると、「何故」と一言、鋭く言った。今すぐやって来いと、犬の躾をするような毅然とした態度で言うが、誠は納得できない。そんな仕事を頼まれた記憶は無いし、一度も餌やりなどしたことがない。双子の兄の方に「犬の餌やりは自分の仕事なのか?」と聞くと、分からないと言って多少同情的な顔をした。

 

 誠にまた草刈りをさせろと言ったのはオーナーの妻で、オーナーは反論しかけたが、彼女なりに、誠をやってもやらなくても良いような仕事に追いやったまま過ごさせることを不憫に思ったのか、それともせっかくの働き手で、少なからず金も払っているのだから、働いてもらわないとわりに合わないと思っているのか、半ば強行的に夫を説き伏せ、誠は再び巨大なトラクターに乗ることになった。

 場所は急斜面のあの牧草地で、もう柵は直されたが、あの日ブレーキが利かなかった理由が分からないままだった。前回はその存在を忘れていたサイドブレーキの位置を確かめてから、それでも不安に思いながら、新設した柵の近くで談笑しているオーナー、その父、そしてローザの三人を眺める。前は斜面の一番上から始めたが、今度は斜面の中腹より少し下辺りにトラクターがあり、前回は反時計回りに動かしたが、今回は向きが変わっており、時計回りに回ることになった。少し下ってからすぐに上り坂という時点でスタートした。オーナーとローザがすぐ横を通り、オーナーは彼に、目で応援するような仕草をした。汚名返上しようと思った。順調だったが、上り坂の頂点に差し掛かる頃、やはり挙動がおかしいような気がした。トラクターがおかしいわけではないようだった。きっと誠が、基本的に操作を勘違いして覚えているのだ。車体がゆっくり後退する。斜面に沿って、後ろへ進む。止まらなかった。トラクターがずるずる下がっていく延長線上にローザが遊んでおり、咄嗟にトラクターの草刈り機に巻き込まれた杭と鉄線を思い出した。慌ててブレーキを踏むがやはり利かず、焦りすぎてサイドブレーキには考えが及ばなかった。彼女がこれに巻き込まれ、轢いてしまったら、という想像をすれば、その映像が克明に頭に浮かんできた。今度はハンドルを切らないという選択肢はなかった。ローザを轢くくらいなら横転して自分が死んだ方が良い。

 彼は慎重にハンドルを切り、斜面に対して横になることでトラクターを止めた。横転する想像もしたが、構ってられなかった。束の間強く焦り心臓に汗をかいて、腕も脚も自分のものではないような気がしたが、とにかく人を殺さずに済んだ。それもあの可愛い、天使のようなローザをひき殺したとなれば、誠が殺されても文句は言えない。いやきっと自ら命を絶つだろう。彼らに最大限迷惑が掛からない方法で、自分を殺しただろう。柵を壊しても怒らなかったオーナーだが、ローザをひき殺せば許されることはない。オーナーの妻は誠をトラクターに乗せたことを一生後悔する。柵を壊した前科があるのに、あの、何を考えているのか分からない日本人は、善良なふりをして、一番の宝を奪うゴミだった。

 ローザの元気な顔が見たい、と思うことが増えた。自分が殺さなかった命。殺さずに済んだという安心感がいつしか自分が救った命のように思えてきて、彼女の笑顔を見ることが自分の権利であるかのように錯覚した。錯覚だということは十分分かっていた。でも頭に牛の角を一本生やした、天使のような顔をした幼い悪魔の姿をもう一度見たかった。牛の角一本隔てても良いから、彼女に触れたかった。ローザに接触する機会はないかと考えるようになっていた。お話がしたい。拙い英語だけど、ローザもまだ、言葉が自由に扱えるというわけではない。誠を安心させられるのはもうローザの笑顔だけであり、その愛情は少しずつ倒錯し、いつだったか、何もかもやりきれなくなった頃、夜中に小便に出るときに、満天の星を眺めながら自慰行為に及んだ。日本を出てそれまで忘れていた自慰だった。一度タガが外れると耽るようになったが、そのときつい、ローザの笑顔を思い浮かべることも一度や二度ではなく、繰り返せば繰り返すほどそれは癖のようになり、星空に見つめられる背徳感に苛まれながら、手を止めることができなかった。

 その頃からである。誠の中に希死念慮が突然芽生えだす。ローザを轢き殺すくらいなら自分が死んだ方が良い、と思ったときとは少し毛色が違う感覚で、悲壮感も欲望もない、無色の死が頭を過った。彼自身、多少意地悪な扱いを受けたところでそれは外国の、ほんの一時の出来事だし、日本には仲間がおり、オーストラリア国内でも気の合う現地の友ができたのだから、たまたまこの家族と反りが合わなかったからと言って別段気にすることはなかった。それにしても居心地は悪く、卑屈さは日に増して激しくなる一方で、常に怯えた状態となり、本来の人の良さも、快活さも、器用さも、ほとんど発揮できないような、目に見えない力に押さえつけられている感覚には恐ろしいものを感じた。ここから早く抜け出したい、いついなくなっても誰も困らないだろう、と思いつつ、ローザと会いたい、ローザの姿を見たいという感情が、誠をそこに縛り付けた。しかし、ローザに対する感情が抑えられない夜の恍惚と、行為後の絶望に塗れた気分と、誠からローザを遠ざけようとする家族の心理。そういったもののことを考えるといかにも自分が害虫か何かのように思えてきて、その頃には少し色がついて、いわば正義の心から、自分を殺してしまいたい衝動に駆られることが多くなった。その衝動は果たされることなく、ただ夜の排泄に取って変わるだけだったけれど。

 深雪が誠の元に現れたのはちょうどその頃で、誠は深雪という話相手が出来たことに喜び以上の感情を抱いたが、卑屈になりきっていた彼は必要以上には深雪に近づけず、日本語を喋ると途端に陽気になるところを家族に見られるのもマズいと感じた。まるで自分たちが彼を虐げているようではないか、深雪にはそんな不遇を、あの能天気な顔で告げ口しているに違いない。そう思われるのではないかと誠は考えた。

 深雪の含みがあるような言い方に、「運命を感じる」と言ったような思わせぶりな言い方に、高揚しないではなかった。が、この頃、誠の頭の中はローザのことでいっぱいだったこともあって、いかに日本人同士とは言え、いかに美女とは言え、恋心にまでは発展せず、むしろそういう感情を汚らわしく感じるようにもなっており、二人は見かけ上、非常にドライな関係を築いた。

 深雪は誠の隣の部屋で過ごすのかと思ったが、女性で、誠より言葉も流暢だったこともあってか、家族と共に丘の上の広い家で過ごすことになった。オーナーの妻が言い訳のように、深雪はほんの二週間しかいないからと言ったのが、却って誠には後ろめたさの現れのように見えて不快だった。普通に考えれば、こんなに人の目がない、どれだけ大きな声で歌っても丘の上には微かにさえ音の届かない小屋の中、男女二人きりにする方がおかしいのだが、きっとそれよりもオーナーの妻は、深雪は家に泊めても良いが誠はダメだ、という差別感情がはっきりあったから、深雪の滞在時間を引き合いに出したのだろうと思った。

 

 嵐は珍しくなかった。週に一度と言わないまでも、二週間のうちに一度か二度は酷い天気の日があった。深雪が来てからまだ十日程だったが、既に三度、嵐か嵐に準じる天候の日があった。

 ここの土地は広大で、斜面があり、遠くの空まで見渡せたから、天気が変わる前兆ははっきり目に見えた。嵐が来る前に自分の部屋へ戻るのは簡単だった。深雪は嵐が来るのにあの部屋に戻るの? と心配そうに聞いたが、なによりオーナー夫婦が誠の宿泊を望んでいないので、どんな天気の日でも自分の部屋に戻るしかなかった。深雪が来る前には嵐の真っ只中に部屋に返された、とか言いたかったが、深雪にそんな告げ口したことが伝われば、きっとあの夫婦は更に自分のことを嫌うだろう。深雪には意外に部屋は快適なのだ、というようなことを言って、嵐が来てしまう前に誠は外へ出た。

 遠くに地平線、そして壁に張り付いたように聳える不穏な色の雲。一方で強い日差しが雲の隙間から漏れ光芒が差し、それが平原の一部を焼きとろうとするように照らす景色が誠は好きだった。小さな懐中電灯を持って、嵐の中を初めて返されたのはもうずっと前だったような気がした。ほんのつま先程度の距離しか照らすことができない懐中電灯は、そういえば返し忘れたままで、今も部屋にある。

 部屋について間もなく嵐が来た。まだ七時過ぎと言ったところだが、真夜中のように暗い気がした。厚い雲の向こうにはまだ太陽光線があふれていることは何となく知っていた。暗くても雨が降っていても暖かい。日本とは太陽光線の強さが違うのだろう、と思った。そう言えばオーストラリアにはオゾンホールがあるって、昔何かの授業で聞いたことがあるような気がする、と誠は思った。

 強い風がボロボロの小屋に吹き付けて、立て付けの悪い窓の隙間から鋭い音と共に侵入してくる。横殴りの雨が窓を叩き、やはり隙間からいくらでも入ってくる。窓際はびしょ濡れに濡れていたが誠は気にしなかった。タオルをあてがったり小まめに拭いたりもしなかった。晴れが訪れたらどうせ乾く。床材はどうせあちこち腐りかけている。誠は嵐の日、少し興奮する。大自然に抱かれながら、巨大な力の奔流を眺めることに熱中する。

 ふと思い立ち、彼は自分のバスタオルを用意してから全裸になる。靴も履かずに完全な全裸姿で、部屋を出て、汚い廊下を横切る。足の裏は埃や木屑で汚れるだけでなく、少し痛い。ドアの近くにバスタオルを置いてから建物の裏面に出て、柔らかい雑草に足の裏の汚れをなすりつけながら、いつもの小便スポットに立つ。いつものように用を足す。放物線を描くはずの尿の軌道はいつも通りにはならない。強風を浴びている。全身に強風を浴びながら、自慰を始める。いつもは足元に無数に群がる羽虫を気にしながら事に及ぶが、嵐の今日は虫の類を気にしなくて良さそうだと思った。

 果てたとき、後ろから声をかけられた。日本語だった。深雪はバスタオルを抱え、懐中電灯を自分の顔に向け、ハンディカメラを誠に向けて、微笑んでいた。

 

 そしてこの場面とこの先の出来事、つまり深雪伯母が誠にとって衝撃的な現れ方をした夜のことは映像が残っている。当時ハンディカメラで撮った映像は、まだ保存されていたのだった。いつも浅霧兄妹の家で遊ぶときは暖炉がある部屋でお菓子などをいただいていたが、兄妹と深雪伯母が映像を見せながら話をすると言うのでこれまで立ち入ったことのない部屋について行くと、ソファが三つほど無造作に並べられている殺風景なそこで、スクリーンを眺めながら続きの話を聞いた。そこで上映されたのが、若き日の深雪伯母が撮った兄妹の父、誠との会話の場面だった。

 深雪伯母は映像付きで自分が誠に施したことを話してくれた。嵐の夜と分かる音と景色。廃墟のような物置の様子はまるで分からない。話を聞いていたから、暗闇の中でも何となく雰囲気が分かる程度。モノだらけの廊下、不意に現れるのは半開きのドア。畳まれたバスタオルが丁寧に置いてあり、深雪の手がそれを拾う。開け放されたままのドアにハンディカメラを差し入れて、そのまま外を撮影していることが映像から分かる。中庭のようなところに誠が立っている。天候が悪く、明かりがほとんどゼロなので何も見えない。しかし、二人の父親がそこで何をしているのかは知っている。

 一度映像が切れて、明かりのついた部屋にいる深雪と誠がベッドに向かい合って座っているシーンが映る。見様によってはエロティックな雰囲気ではある。誠はほとんど全裸で、深雪の服も濡れている。しかし、二人の間のそれ以上、男女の空気が漂うことはなく、まるで幼い子どもどうしがこれからトランプゲームにでも興じようかという無邪気な雰囲気に包まれている。カメラはベッドと二人を下方から見上げるような位置に置かれており、音声もはっきり録れている。

 二人はこのあとおよそ一時間半ほど、ある計画について話し合うことになるらしいのだが、深雪伯母は適宜早送りをして要点を子供たちに伝えた。

 ここから話は、誠と浅霧兄妹の母親が結婚しておよそ九年ほど経った日の夜にまで飛ぶ。深雪伯母は一度スクリーンの映像を止め、ある音声データを再生した。雑音と、ぼそぼそした会話。計画実行の日、浅霧兄妹の父と母が会話している音声だという。音声を止めて、またスクリーンを動かす。こちらは若い誠と深雪。映像と、音声データの時代は隔たっているが、深雪伯母は故意にこの二つを繋ぎ合わせ、呼応させようとしているみたいだった。誠と深雪の二人は嵐の夜、まさにこの記録された音声の日の計画を立てていたらしい。随分気の長い話である。深雪伯母、浅霧兄妹が口々に、音声からその当時の状況、兄妹が考えていたこと、感じたこと、果ては誠の内面や思考にまで言及しながら話をする。交錯する語り手。数地点の過去を行き来する構造。どこからどこまでが事実で、どこからどこまでが憶測なのか、話している本人たちには分かっていたのだろうか。そんな、出来の悪いお芝居のような雑談を聞いて、桜大とトモはどれだけ話の内容を理解できていただろう。

 音声データの情報が付け加えられた。この音声が録音された日は兄妹の八歳の誕生日でもあり、二人の好物を食べきれないほど食卓に並べ、誠と、妻の佐奈(浅霧兄妹の母親)は珍しく酒を飲んで、仲良く男女分かれて風呂に入り、八歳児になりたての二人は早々に疲れて眠り、親は楽しそうに誕生日を過ごした二人の陽気に当てられた勢いで、あれやこれや、取り留めのない話しをした夜のことだった。誠が録音機材のスイッチを入れているから会話が残っている。佐奈にとっては取り留めのない話だったが、誠にとっては記録すべき話なのだった。

 誠は佐奈に過去の女のことを聞かれ、高校で初めて彼女が出来たときのこと、その彼女と何をしたか、どんな未来を約束し、どんな風に約束が果たされなかったかを話した。大学時代に少しだけ交際した女性のことを話し、それから、ローザのことを思い出した。

 思い出しても、ローザの話はしなかった。

 ローザの話はするなと言われていたし、誠もするつもりはなかった。

 ローザの話をしないことが重要だった。深雪にそう言われていた。ローザには恋をしていたと言っても良いが、幼な過ぎた彼女は恋の対象というよりは信仰の対象だったと誠は考えていた。深雪がそのように解釈していたので、恋ではなく信仰の対象、というそれを、都合よく受け入れた。

 深雪と誠には男女の関わりは一切なかった。深雪は性的なことに関心がないし、まだ人に恋愛感情を持ったことがなかった。そもそも恋愛感情というものが希薄らしかった。特異な性質というわけでもないと深雪は言った。わざわざ言わないけれど恋愛にも性愛にも関心がない人間が、この世にはそれなりにいるはずだと言われ、誠はなぜかすごく納得した。確かに、言われてみればそうかもしれないと思った。そういう感情の強弱は目に見えるものではないのだから、本人でさえ、そういう感情の希薄さに気付かないことも多く、何となくその場の雰囲気で話を合わせたり、言い寄られて絆されたりするから、そういう関心の希薄さは無視されるけれど、自覚的になれば私みたいになる人は意外にいると思うよ。深雪はそう言った。

 そんな話を、二人はあの夜懇々と、嵐に守られた誠の部屋でして、疲れて眠り、ほとんど夜が明けて、風が収まるまで過ごした。

「これから何年か先、あなたは結婚し、子どもが生まれる」

 予言というには大雑把というかざっくばらんで、特に珍しい未来でもないのだから大袈裟かもしれないが、深雪は自分の妹とあなたが結婚し、子どもが生まれるので、その子をくれ、という内容を言った。当時から見れば随分未来の話に思えたが誠はこの日のことを忘れることがなかった。忘れることがなかったから、実際に浅霧兄妹が深雪伯母と過ごす日が訪れた。とにかく誠は忘れなかった。妹に産ませた子をよこせ、と言われたのはそれなりに衝撃的だったし、背徳的でもあった。

 誠のベッドの上に二人、あぐらをかいて向かい合い、キャンドルの明かりをいくつか灯すだけの、シチュエーションだけ見ればロマンチックな夜だったのに、深雪の話す内容は突飛だった。深雪は誠に妹の写真を見せた。深雪に似て美人だったが、深雪ほど思慮深くはなさそうだった。そこが可愛いと思い、そこが可愛いと思う自分がちょっと気持ち悪い、と誠は言った。こういう会話が全部、映像で残っており、これは、スクリーンで確認できる。

 深雪の話は突飛だったが、誠にとっても都合が良いのかもしれなかった。自分は死にたい。多分、もういつまでも死にたい。生きていたくないわけではないし、多分死なないだろうし、普通に幸せな人生を送ろうと努力するだろうが、死の欲求から逃れららる気がしない。もし未来で、子どもがいたら、死にたくても死ねなくなるだろう。それは絶対に嫌だけど、深雪さんが子を引き取ってくれるというのであれば、最初からそのつもりで育てるし、深雪も血のつながった子は欲しいが子は産みたくないとかわがままの極みみたいなことを言うちょっと常軌を逸した人なので言ってしまうが、深雪さんに子を託す、という目標があると、生きやすいし死にやすくなりそうで良い、と誠は言った。肩の荷が下りそうな感じがする。

「どうして?」と深雪は聞いた。誠が死にたいと考える理由について。

「分からないけど、諦めたくなった」

「もっと詳しく話したい?」

「話したい。話したいけど、話したら軽蔑されそうで怖いです」

「大丈夫、もうしてる。さっきのあれを見せられて、これ以上軽蔑するなんてことある?」

 誠は自嘲して笑う。

「そうですね。でも、それ自体というより、僕があのとき、何を考えてその、していたかを知ったら、深雪さんきっとこれ以上ないくらい軽蔑しますよ」

「聞いて欲しいと言ってるようにしか聞こえないよ」

「言いたくないけど聞いて欲しいんです」

「当ててあげようか?」

「そんなことできるんですか?」

「できるよ」

「はい、じゃあ、お願いします」

「あの家のあの子でしょ? 小さい。ローザちゃん。あの子のこと考えてたんでしょ」

 誠は言葉を失う。頷くと同時に驚いた顔をすると、深雪が声を立てて笑う。雨の音はまだ激しく、風の勢いも収まらず、不穏な気配が二人のいるボロボロの家屋を取り巻いているが、そういう気配を跳ね除けるような笑い方だった。指向性マイクでもついているのか、嵐の音は聞こえるが、ぼそぼそ話しているはずの二人の会話もよく聴こえる。

「分かるよ、あの家の人たちもみんな分かってる。あのローザちゃんのお兄ちゃんたちも、あの双子も、誠くんがそういう類の人だって多分、気付いてるよ」

「うそ、いや、でも僕は、裸を想像したり身体を触ろうとしたり、そういうんじゃないんです。それに本来は別に」

「あの子だけ特別って言いたいんでしょ。でもね、なんにせよそういうものでしょ。小さい子が好きな人だって、全ての小さい子が好きなわけじゃない。『ロリータ』読んだことない? ナボコフの」

「ないです」

「だからあの家の人、私が誠くんの部屋に行くって言ったとき、すごく心配してたもん。ほら、私けっこう童顔だし、こっちの人からするとティーンエイジャーに見えるみたい。私はもう立派な大人だよって言ったら、かえってなんか誤解しちゃってたみたいだけど」

 結局その後朝まで誠の部屋にいたのだ。家族にどう思われても仕方ないし、実際あの家族はとても不安な気持ちで嵐の夜を眺めていたようなのだが、そのあたりに関して深雪伯母が施した操作の話はまた別の話になるらしい。

「なんか思わせぶりな言い方が癖みたいな人ですよね深雪さんって」

「そうかも。キモいよね」

「いや、キモいことはないですけど」

「あ、そうだ。これ持って行ってあげようと思ったんだ」と言って深雪はちょっとしたバケツサイズと言って良さそうなヨーグルトをリュックから二つ出した。

「これ美味しいんだー。もう食べた?」

「いや、でもそういえば、ショーンがこれ好物だって言ってたかも」

「ショーンってあの双子の」

「兄貴の方です」

「そうなんだ。いやね、白いもの出したら、白いもの入れたくなるかなって」

「いやふざけんな。これ持って来た時点では僕があんなことしてるの知らなかったでしょ」

「そうだと良いね?」

「知ってたんですか?」

「知るわけないじゃない。あんなに驚いたの久しぶりだよ」

「すみません」

「いや、驚けるって本当にうれしい。予想外って本当に心から嬉しいの。だから私はお礼がしたい」

「これがそのお礼ですか?」と言って誠はヨーグルトを受け取る。

 ヨーグルトの一つはプレーンで、もう一つにはオレンジソースがたっぷり入っていた。日本のものとは比べ物にならないほど甘く、とてもヘルシーな代物ではなかったが、デザートとしては確かに素晴らしかった。

 二人は気が合うようだった。深雪も靴とスウェットパンツが濡れていたので素足になりそれを脱ぎ、未使用のバスタオルを腰に巻いて過ごした。そのままあぐらをかけば下着が見えたが深雪は気にしなかったし、不思議と誠も気にならなかった。既に精力を発散していたからかもしれないし、深雪がはっきりとそういうことに関心がないと言っていたからかもしれない。もしくはこのとき、ローザに対する信仰に近い恋心のせいで、誠もまた無差別に性欲を催すような心境にはなかったのかもしれない。

 とにかく活き活きとした若い二人の会話が、映像付きで残っているのだ。

 この映像は浅霧兄妹の宝物の一つらしい。それから、父が残した音声データも。

 

 深雪は、性愛に関心はないが子供は欲しかった。自分と血が繋がった子孫というものに対する漠然とした憧れがあった。妹のことを慈しむ心もあった。妹は可愛い。親より妹の方に愛情を感じる。子供は欲しいが生みたいわけではないし、男性と性行為をすることにも興味が無かった。人工授精などでも構わないがそれで良しとする男性はあまり多くなさそうだし、それでは自分で出産しなければならないのが嫌だ。

 誠は脅されていたわけではないけれど、嵐の夜の自慰行為を深雪に見られたことは事実だった。深雪はそれを指して何か言ったわけではないのだが、ただ、見たという事実は二人の中に絶対的な、友情に近い何かを育んでいた。見ようによってはは主従関係と言っても良かったかもしれないが、それは誠の卑屈な精神が生み出した幻想であり、深雪は弱みを握ったつもりなど全く無かった。

 二人には友情があったから、約束もあった。

 改めて、嵐の夜からおよそ九年後。

 誠は年月を隔てて兄妹の誕生日の夜、当時二十二歳の深雪との約束を果たした。深雪との約束を果たしたのはこの兄妹の八歳の誕生日の夜ばかりではなかった。この夜は言わば仕上げであり、誠は、本当に深雪に言った通りの夜が訪れたことに興奮していた。嵐と言わないまでも、悪い天気が向こうからやってくる、あの丘の上の牧場で過ごした日々のことを思い出した。ずっと遠くにあっても、絶対にやってくる黒い雲のことを。

 この夜以前にも、深雪の予言とも言える瞬間はやってきた。自分の妹と出会い、結婚することになると深雪は言った。これは予言というより、深雪がそのように取り計らう、という約束のようなものだった。その方法は分からなかったし、最後まで分からなかったが、実際深雪の言う通り、誠は佐奈と運命的な出会い方をし、話が弾み、あっという間に結婚にまで話が突き進んだ。二人は出会う前から結婚するべくしてする二人だったような感覚を抱いた。その感覚は深雪の差し金があると知っている誠でさえも同じだった。

 佐奈と話が弾むのも、当たりまえと言えば当たりまえだった。深雪は妹の趣味嗜好を全て教えてくれた。こんな風に言えばあの子は喜ぶ、こんなところに連れていけばあの子は喜ぶ、ということを教えてくれて、全て覚えていたわけではないけれど、折に触れ思い出し、その通りにすれば佐奈は馬鹿みたいに喜んだ。自分たちの相性は最高で、まるで同じ家に育ったみたいだと言われたときは多少罪悪感のようなものが芽生えたが、これも深雪との約束のうちだと思えばなんてことはなかった。自分は深雪のための子どもをこの人と作るのだ、という意思は、一種の興奮材料にさえなった。深雪とは違う身体を使って、深雪の子どもを作る。深雪に性的な関心は持っていなかった誠だが、きっとこのとき、誠は深雪に興奮していた。

 深雪に血の繋がった子を提供する代わり、誠を殺すことが約束だった。劇的な方法で殺してあげるから楽しみにしてて。

「私は自分の元に血のつながった子がやってきたとき、たくさんの料理を作って盛大に喜ぶよ。もちろん子に会えたことも喜ぶけれど、誠くんが劇的な死に方をしたことを喜んで弔いのパーティをするよ」

 誠を殺すことになるのは佐奈で、深雪の元にやってくることになるのは佐奈が生んだ子である。ただ子が欲しいだけなら養子縁組だとかやりようはあるのかもしれないが、血のつながりのある子が欲しかった。その子たちは私に似て才気溢れる美男美女のどちらかだろうし、私が計画したことはあらゆる点で、あらゆることがうまくいく。世の中全て、結局私の思い通りなんだ。

 

 兄妹の誕生日の夜。仕上げをすることになった。誠が語ったのは、若い頃、一年だけ休学してオーストラリアに行ったときの話だった。

 誠は、当時の自分と深雪を入れ換えて妻に話していた。

 父になった誠が話すところによると、牧場の家族に嫌われていなかった。未経験ではあったが教えられればそつなくトラクターを扱い、のんびりと牧歌的な仕事をこなし、積極的に会話をして、すぐに家族と馴染んだ。週末には自分たちで育てた牛の肉をふんだんに使ったバーベキュー。肉を焼いたりグリルの焦げを落としたり開いた瓶を回収したり、気になったことをちょっとやるだけで少々過剰気味に、日本人っていうのは本当に真面目で働き者だとか言われた。テイクイットイージー誠。リラックスだ。そんなの置いておいて話に混ざれよ。召使のように働くから、初めは少し卑屈な性格に見えたけれど、誠は本当に真面目でオーガナイズしないと気が済まない質なんだ、それが少し付き合うと分かった、とオーナーは友人たちに話すようになった。誠はそれだけじゃなくユーモアもあって、人とコミュニケーションが取れる。英語は堪能とは言えないが、要点を伝えることができる。だからどこでもやっていける。家族は誠との別れを既に惜しんでいるような口調でそう言った。何度もあるバーベキューの夜、普段から優れた働き手である誠はたくさんの肉をあてがわれ、瓶ビールを何本も振る舞われ、二人の幼い兄弟は誠に懐いていた。ちょうど二十歳の双子の同僚は、誠にロディオの大会に出ることを勧め、牧場の一角に即席(と言っても半日かかったが)で作ったロディオ会場では実際、近所の友人何人かを集めて誠のファーストライドをお披露目したりした。誠が乗ったのは子牛で、これは二人の小さな兄弟も乗ったものだったが、本当の本当に未経験だった誠には、それでも十分スリリングな体験だった。子牛に振り落とされた誠は家族も双子も何人かの友人もみんな笑わせて、場がこれ以上ないほど温まった夜は、いつまでもいつまでも続くようだった。

「ねー、その話じゃなくてさ、その話も私好きだけど、今日聞きたいのは誠くんの女性遍歴の話だよ。オーストラリアでなんかなかったの? ほら、現地の子とかと」

「あー、今考えたらもったいない話なんだけど、そういう浮いた話はまったくないんだよね」と誠は言った。半分真実で、半分虚実だった。浮いた話はなかったが、ローザの顔が頭脳の奥深くに浮かんでいた。頭に牛の角を一本生やした、天使と悪魔を捏ね合わせたような愛の化身。幼い身体、白い肌、あふれ出てしまいそうな青い瞳。薄桃色の唇は今思い出しても果実味を帯びて、甘く香るような気がする。海外の巨大なアダルトサイトで、ローザが大人になったらこんな風になりそうだ、という女優を見つけていた。誠はほとんど毎日同じ動画を見ていた。

「どうしてそんな話、深雪さんが知ってるんですか?」と桜大はたまらず口を挟んだ。

「リンクが送られてきたからだよ。本人がそう言ってたんだ」

 音声が再生される。

「仕事ばっかりだったし、いや、仕事と言っても気楽なものばかりだけどね、でも仕事してお金貯めるのが趣味みたいになってて、女の子とどうこうっていう欲は全然出てこなかったかも。やっぱり日本人の女の子が良いなって思ったしね」

「でも、向こうにもたくさん日本人の女の子いたでしょ?」

「あ? ああ、まあ、いたね。たくさんいた」このとき、少し声のトーンを落とすのがポイントなのだと深雪は言った。怖い話を始めるようなトーンで。その話題は少し、話しにくいといった表情で。音声なので表情は分からなかったが、確かに、「少し話しにくそう」にしている誠の顔が目に浮かぶようだった。スクリーンで誠の顔を見ているからだ。顔と言っても、少し距離があるので、はっきりした顔立ちは見えないが、それでもあると無いとでは全然違う。

「なに? やっぱりなんかあったの?」

「いや、僕とどうこうじゃないんだけどね。また、そういう、女性遍歴的な話からは外れちゃうけどいいかな」 

 一人の日本人女性が現れたことで、穏やかで楽しい牧場の生活は一変した、と誠は言った。

 その女性は誠より一つ年上で、誠と同じようにワーキングホリデー制度を利用してオーストラリアに来て、どんな経緯かは聞いていないが、とにかく誠と同じ牧場で働くことになった。

 日本人だし、美しい人だったし、もちろん嬉しかったけど、やっぱりそういう対象として見ていたわけじゃなかった。年上と言っても一個だけだけど、年下の先輩として、この牧場のこと、教えてあげなきゃって思ったんだ。

「僕は向こうに行って、やっぱり日本人の女の子の方が良いなって思ったんだけどね、ほらやっぱり食事の好みとか、話しの合う合わないとかって大事だけど、海外の子だとそういうところがどうしてもね」

 佐奈はこれには深くうなずいた。誠とは食事の好みも、何かを面白く感じるポイントも、嫌悪を感じる対象もよく合っていた。多少の食い違いはあるが、それはそれ、実際は育った環境が違うのだし、男女差もあるし、互いに尊重できないような違いはなかった。

「でも、偏見だけど、女の子の方は海外で外国の男性とお付き合いすることを目指してるっていうか、そういうのに憧れるところがあるみたいなんだよね」

「うん、分かるかも」

「分かるのか」と誠は驚いて見せる。

「冗談、私も日本人同士が良いって思う。でも分かる。そういう子いる」

「まあ、僕もそういう気持ちは分からなくもないけどさ。一種のステータスというか。その、新しく来た女性は、そういう意味では全然僕なんか眼中にないって感じだったんだよね。語学も堪能だったし、分からないことは自分で聞けた。それに多分、僕より家族からの扱いも良かった。それはまあ、男女差、かな」

「扱いが違ったの?」

「いや、当たりまえなんだよ? 僕があてがわれた部屋の話、したことあるでしょ? 隣の部屋がまだ手付かずで、つまり掃除を全くしていない状態で置いてあったんだけど、まさかその部屋を使ってもらうわけにもいかない」

「なんで? 片づければ使えるんでしょ?」

「いや、僕がいるからでしょ」と誠は笑う。「佐奈は僕のことよく知ってるから咄嗟に分からないかもしれないけどさ、家から二百メートルも離れたボロボロの家屋に、よく知らない男とボロボロの壁一枚隔てて一つ屋根の下って、怖すぎるでしょ。あんなに開放的な密室はないよ」

「そうか」

「実際あんなとこ、殺人があったって気付かないよ。どれだけ悲鳴を上げても、例えば嵐の夜だったら誰にも声は聞こえないと思うよ」

 その場面が想像できるように話して、と深雪が言ったことを、誠は思い出していたに違いない。嵐の激しさに加え、誠が暮らしている場所はオーナーの家とは距離が隔たっており、ここで何があっても容易には知覚することができない、ということは、深く印象付けるようにするべきだと深雪伯母は伝えたという。

「それで、その人がどうしたの?」

「いやどうしたってわけじゃないけど、僕が向こうで一番親しくなったというか、一番距離的に近づいたのがその人だったってだけ。だから現地の子はもちろん、向こうで会った日本人とも、どんなチャンスもなかった」

「なんだーそうなんだ」

「残念なの?」

 佐奈は佐奈で、誠にとってのローザと同じように、私の存在があるはずだと深雪は伝えていた。必ず。どんなときも。あの子は私の影を頭の中から追い出すことができない。だから隠すはずだ。誠くんがローザの存在をまるで無かったかのように話すみたいに、佐奈は私のことを忘れられないから、絶対に私の影を掴ませないよう、念入りに隠すはずだ。その感覚は誠くんなら分かるよね?

「残念ということはないけど、誠くん、なんか隠してるような」

「隠すというわけじゃないけど、聞いてくれる?」

「うん」

「いや、これさ、実際ちょっと僕の傷というか、できれば一生話したくないことだったんだ」

「なに?」

「これを話したら軽蔑されるかもしれない。けど言う。言わなきゃ僕、佐奈に隠し事してるみたいで嫌だし、正直一人で抱えきれない」

 佐奈はこのあたりで少し苛々する。佐奈はもったいつけた物言いをされるのをあまり好まない。そんなもの、好む人はいないと思うけれど、佐奈はたまにせっかちさを隠せなくなる。特に、「話したら軽蔑されるかもしれない」というセリフは、佐奈には不愉快なはずだ、と深雪伯母は伝えていた。

「あのときあの人、僕にも詳しい経緯は分からないんだけど、オーナーの奥さんから滅茶苦茶に嫌われたんだ。理由のいくつかは僕も知ってる。トラクターで事故を起こして、けが人は出なかったんだけど、牧場の柵を盛大に壊した。その後は牧場の仕事ってあんまさせてもらえなくて、大きく育った植物の植え替えとか、庭師みたいなことをしてた。植え替えた植物も半分くらい枯らせてしまって、とにかく奥さんの評価が悪かった。それに言い訳するんだ。語学が堪能なのが仇になったというか、事故を起こしたときも、植物を枯らせたときも、言い訳をしたらしい。教わった通りに操作したけれどブレーキが利かなかったとか、指定された植え替えの場所は日陰すぎたとか。僕みたいに少々不自由なくらいの方が、素直にお礼を言ったり謝ったりできるからよかったのかもしれない」

 二人はダイニングで向かい合って話している。明かりも声も最小限にして、双子を起こさないように気を付けていたが、このときは少し、声の大きさに無頓着かもしれなかった。深雪がそう指示したから。指示を覚えていれば、誠は故意に、声を抑えることを忘れたはずだ。

「暗に責任を擦り付けられたりもしていたのに、オーナーは彼女の味方をした。確かにトラクターの操作説明が不十分かもしれなかった。柵は直せば良いのだから大丈夫。植物の植え替えとその場所を指示したのも自分だ。あまりカリカリするな。そんな風に言ったらしい。これのせいで奥さんは更に機嫌を悪くした。買い出しに行く車の中で、奥さんは僕に彼女の悪口を言った。日本人同士、日本語で、彼女の態度をもう少し改めるよう言えないだろうか、ということを言っていたと思う。それはあくまで僕の受け取り方だけど。表面上、奥さんは僕を褒めた。同じ日本人でも随分違うと言われて、僕はなんとも言いようがなかった。彼女を庇うようなことを言えば奥さんの味方がいなくなってしまうし、僕は曖昧に返事をしたり、奥さんの話ぶりに合わせてリアクションをしたりするしかなかった。そういうこともあって、日本人同士だからって、あまり二人で話すようなことはしないようにしてたんだ」

 これは全て深雪伯母が二十二歳当時、誠に伝えた内容だ。スクリーンに映し出された映像に全て残っている。未来の演出を全てしている。これを、十年近くの時を経て、自分の奥さんに話すと言っても、一体どれくらい覚えているものだろう。

 深雪伯母にこんな疑問を投げかけると、でもこれは誠くんにとっても都合の良い話だから、案外覚えていられると思うよ、そんな風に話を作り変えたんだもん。彼の恥ずかしかったエピソード全部無かったことにして、新しい旅の思い出にしてあげたの。だからむしろ、こちらを真実として記憶するだろうと私は思ったの。誠くん弱いから、と言った。それに、ともったいぶった笑顔を見せて、このビデオデータ、コピーして送ったんだ。嵐の夜、自慰が見つかった夜、計画を立てた夜に記録した二人の会話は、いつでも再生して復習できる状態だった。だから多分、誠くんはほとんど正確に私との計画を果たした。そうでしょ? と言って双子の返事を待つ深雪伯母は、少し残酷な笑い方をした。

 この夜、誠が計画を忠実に実行したことは、浅霧兄妹も証言できることだったし、桜大とトモにも確認できることだった。二人は父親の声で目が覚めて、会話内容をこっそり聞いていた。手分けして、思い出して、両親の会話を咀嚼した。わずか八歳の頃から二人は、このように情報を処理していたのだった。

「奥さんは次第に、二人の関係を疑うようになった。二人というのは、自分の旦那とこの日本人の女の子の関係ね。二人は不倫関係にあるんじゃないかって、露骨に疑うようになった。僕から見てもあながち勘違いとも言えないようだった。二人で一緒にいるところはよく見かけたし、仕事の指示をするようで、犬小屋の前で二人で長いこと喋ってることがあるのも知ってた。一応掃除をしながらね。奥さんは不安になってたし、怒ってもいた。でもそういう自分も嫌だ、という感じで、とにかく不安定だった」

「ねえ待って、その日本人の女の子って、名前は何て言うの?」

 当然こんな疑問が差し挟まれる。こんなときはこう答えるようにと言ってあった。

「それが言いにくいんだけど、みゆきって言うんだ」

 佐奈の姉の名前がみゆきであることを知っていた誠は、敢えて名前は伏せていたと言うべきである。この話は終わりが良くないので、それにこの頃、というかもうずっと前から佐奈の姉も行方不明になっているから、その名前を出されて良い感情を抱くわけがない。

 このときにはもう、薄々、このみゆきが姉の深雪である可能性に思い当たっているはずだが、佐奈は十中八九、そんな風に指摘しない。誠から語られる「みゆき」のエピソードは私の印象とはかけ離れていて、記憶と照らし合わせてみれば別人であることは明白である。だからどこかで、折に触れて、他言語を話すと性格が変わる、というようなことを言っておいた方が良いと深雪は指示した。例えばオーストラリアでのエピソードをいくつか披露すれば佐奈が「誠くん、なんか海外だと積極的だね」とか何とか言って笑うだろう。すかさず「微妙な言い回しとか、会話でかけひきとかできないからある程度体当たりで行くしかないんだよ」とか返答する。そのついでに「それとは別に他言語だと性格変わる人ってけっこう多いみたいだよ」とか言う。「ハンドル握ると性格変わるみたいな?」とか佐奈は言うだろう。「まあ、そんなとこ」。記録には残っていないらしかったが、こんな会話がどこかでなされていたのだろう。佐奈は誠と同じ牧場にいた女性の名前を聞いて不安になっている。

「苗字はなんて言うの?」

「ごめん、苗字は知らないんだ。向こうではみんな名前しか名乗らないから。苗字なんて気にしてなかった。名前も漢字でどう書くのかも知らない」

「そうか。それで、その人はどうなったの?」

「多分、オーナーとみゆきさんは、それなりに不倫関係にあったんだと思う。僕見たんだ。オーナーを見るときのみゆきさんの顔は、いつもと少し違っていた。興味のある異性を見るときの女の人の目って、なんか違うよね。それは分かるよね。だから、例えば二人がキスをしていたとか、そういう場面を目撃したわけじゃないけど、ああ、二人はやっぱり、そういう関係なんだなって思ったんだ」

 佐奈は黙って続きを待っている。

「僕にもよく分からない。僕はみゆきさんとはあまり関わらないようにしていたんだ。それでも全く関わらないというわけじゃないし、僕の部屋の外の、何ていうのかな、ベランダというか、テラスみたいなところでお喋りしたりすることはよくあった。あー、写真あったかな」

 そう言って、誠が席を立つ音が聞こえる。数秒して戻ってきて、デジタルカメラの起動音。それから写真を探していることが分かる音が聞こえて、「ああほら、ここ」と声を弾ませるが、佐奈はそんなこと、どうでも良さそうに相槌を打っている。「僕も彼女を部屋に招こうとは思わなかったし、彼女も部屋に入ろうとはしなかった。僕らが話すのはいつも外だった。僕はみゆきさんがオーナーとどんな風になってるのか、気になったけど何も聞けなかった。僕ら事故の話をしてた。トラクターじゃないよ。乗用車で。そこに、オーナーが来た。怒ってる。怒ってるのが分かった。顔も、歩き方も違った。犬に餌をやったか、って聞いてきた。僕は餌やりなんかしたことが無かったから、やってないって言った。咄嗟に、犬が何か余計なものを口にして、病気になってしまったんじゃないかって思った。それで疑われてるんだって。そういう怒り方だった。まこと、お前じゃないよ、みゆきに聞いてる、って言った。みゆきさんもやってないって言った。犬の餌やり、頼まれてたの? と僕が日本語で聞くと、頼まれてないと彼女も日本語で答えた。その、日本語でやりとりする感じがオーナーを苛立たせたのが分かった。オーナーは何か早口で悪態をつきながら、無理やりみゆきさんの手を引っ張って、バギー車に乗るよう言って、二人で、多分犬小屋の方へ向かった。その後は何があったか分からない。犬は何ともないようだったし、その後の二人の様子も普通だった。それから、何度か、そういうことがあった。二人でいなくなることが。それまでも二人でこそこそいなくなることはあったけど、そのときに感じた男女の妖しい空気というのとは少し違った。二人でいなくなって、オーナーだけすぐに戻ってくる、みたいなことが多くなった。みゆきさんはどうしてるのか、聞いて良いのか分からないけど、何度か聞いたことがある。その度、仕事を頼んだってオーナーは答えた」


 浅霧兄妹はこのときの父の話を聞いていたとは言っても、当然というか何というか、正確には聞き取れていなかったらしい。八歳になりたての二人。眠っていたはずの二人。枕からは離れずに親の話を盗み聞いたという。リビングのさらに向こうのキッチンダイニングにいたという両親の声が本当に聞こえただろうか? 

 桜大がそんな疑問を差し挟めば、トモも頷いて兄妹を見つめる。

 兄妹は、桜大はともかく、トモの関心が得られたことに少し驚いているようで、少し嬉しそうで、語る内容は父の恥部であるにも関わらず、饒舌に事情を語った。

「実は、勘違いだらけだった。でも父は、このときの会話を録音していたから、後で答え合わせができたんだ」

「そもそもこの子たちの父親が、このデータを私に送って寄越した」と深雪伯母が言った。

「で、適当な時期にこのデータを、今度は私が二人に送ったのね。もちろん、私と誠くんがあの嵐の夜にお話しした映像データと一緒に」

 当時は双子らしく、同時に目を覚まして、すっかり目が覚めていたというわけではないけれど、二人でパートを分け合うようにして、聞き耳を立てていた。何度も記憶をすり合わせて、二人で作ったストーリーであったが、二人にとっては念入りに確認し合った正確な再現だった。二人にとっては。結果的に勘違いも聞き漏らしも聞き間違いもあったが、そのときは正確に理解していると思い込んでいた。不穏な空気がキッチンとダイニングに流れていたのはきっと一抹の不安が二人の脳裏にあったからだろうが、それにしても笑い声の少ない両親の会話は兄妹にとり、それだけで相当深刻に思えたのだった。食べ物の匂いはすっかり消え失せていた。代わりにお酒の匂いと、キッチンの、シンクの上の小さな蛍光灯がちらちら揺れるような、黄緑色のような灯りが見えた。

「オーナーはずっと不機嫌だった。みゆきさんとは会う頻度が少なくなって、一日に一回も顔を合わさないということも多くなった。偶然、嵐が来る日だった。嵐が来ることはずっと前から分かる。夜に嵐が来るのなら、昼過ぎにはもう、目に見えて遠くの天気が変わってる。空気も違う。オーナーの家のリビングからは牧場が一望できて、ずっと遠くの雲も目の前の壁に貼り付けたみたいにはっきりと、こっちにもくもく漂ってくるのが見えるんだ。空に真っ黒なオイルを垂らしたみたいに雨雲がうねる怪しい午後、僕は家族に招かれて早めのディナーというか、なんだろうな、とにかく色々な料理が並べてあって、飲み物もいっぱいあって、ちょっとしたパーティみたいな、そんな日だった。家族は嵐が来そうなことには一切触れなかった。僕も、双子も招かれて、全員揃っているのに、みゆきさんがいないことにも誰も触れなかった。真っ黒な雲がそこのリビングの、大きな窓から見えているのに誰もそれを話題にしないのと同じくらい、みゆきさんのことも話題に上がらなかった。僕はそれを聞いちゃいけないんだと思った。嵐が来そうなことも、みゆきさんがいないことも。この日、僕はオーナー家族の家に泊まった。嵐が酷くなったから。みゆきさんが使ってるっていう部屋のベッドを使わせてもらった。みゆきさんの匂いってこんななんだって、思ったよ」


「この日を境に、みゆきさんと会う頻度はさらに減った。減ったというか、一度も会えなかった。みゆきさんはあの牧場のどこかにいたはずだった。荷物は置いてあったし、さすがに、いなくなるなら僕に一言何かあるはずだった。それは、約束したわけではないけれど、それこそ同じ日本人同士、それくらいの礼儀はお互い、持っているような気がした。本来なら僕の方が早くその家を出ていく予定だった。契約期間は決まっていて、僕はそこを出ていくまであと二週間というところだったけれど、その、残りの二週間、一度もみゆきさんには会えなかった。オーナーにも奥さんにも何度か聞いてみた。みゆきさんはどこかへ行っちゃったのかを聞いてみた。怖かったけど聞いた。知らないと二人は言った。そういえば、ヒッチハイクに興味があると言っていた、と奥さんは言った。ヒッチハイクは危険だから絶対に止めろって言ったんだけど。あの子、私にそう言われたのが納得いかない顔だったから、もしかしたら、とかなんとか言ってた。

 僕はもちろん分かっていた。僕の隣の部屋にみゆきさんがいること。分からないわけがなかった。知らないふりをしていた。知らないふりをするために白々しくみゆきさんの行方を聞いた。気付いてないですよ、っていうアピールだった。あんなボロボロの建物。誰かを閉じ込めておけるわけがない。僕はどちらの部屋を使っても良いはずだった。たまたまベッドがあったから、手前の部屋を使ったんだ。奥の部屋でも別に良かった。だけどいつの間にか、その部屋の入口はもう使わなくなった古いシンクで塞がれていた。塞いでいるように置いてあるんじゃなくて、あたかも最初からそこに、ただ無造作においたらたまたま部屋の入口が塞がってしまったみたいな置かれ方だった。僕はそのシンクが後から動かされたものであることにも気づいていた。だって、はじめからあんな風に塞がれていたんだったら、どっちの部屋で暮らそうかなんて迷わないでしょ? どっちの部屋にも入れそうだったから迷ったんだ。それは確かに廊下に置かれていたけれど、部屋の入り口を塞ぐほど邪魔じゃなかった。実際その部屋に入ったこともあるんだから! 最初に、部屋を、比べるために、入ったんだから!」

「ちょ、ちょっと、声、大きいよ、二人とも起きちゃう」

 二人とも起きていた。声を次第に大きくするように演出したのは深雪だった。真は二人を起こそうと思って声を荒げたし、そうでなくても、二人は起きていた。佐奈が誠の声を抑えようとしたから、却って二人の集中はいや増した。聞いちゃいけない話なのかと思えばこそ、二人は神経を研ぎ澄ませ、よく分からない話の成り行きを捉えようと必死になったという。多少大人びているとは言え所詮八歳の能力で、それほどうまくいかなかったが、誠の演技は功を奏していた。

「ごめん、僕、あのとき多分、みゆきさんのことを見殺しにしたんだ」

「見殺し?」

「いや、分からない。見てはいないんだから見殺しとは違うか」と自嘲的に笑う。これも深雪が指示したことだ。

「でも、僕の隣には確実にみゆきさんがいた。多分閉じ込められてたんだ。声を上げられなかったのか、上げなかったのかは分からない。その気になれば僕に助けを求めることができるはずなのに、みゆきさんは何も言わない。声が出せない状態だったのかな。分からない。その部屋に、ときどきオーナーが来るのが分かった。大きな身体なんだ。牛を一頭押さえられそうなくらい。実際には無理なんだけどさ、それくらいできそうなくらい、身体が大きい男なんだよ。想像するんだ。みゆきさんの両手首を片手で押さえて、両膝で身体を挟んで、右手で殴る想像」

「なんでそんな」

「音が聞こえるから。変な、ぶつかるような。もしかしたらさ、二人はセックスをしてるのかもしれないって思ったよ。二人でこそこそさ、少々荒いことも、もしかしたら好きだったのかもしれない。だから、そういう可能性を考えたりもした。だって、暴力を振るわれてるんだったらさ、僕に助けを求めれば良いじゃない。ちょっと声を上げれば隣の僕に聞こえることなんてみゆきさん知ってただろうし。僕はオーナーに比べたら身体が小さいから役に立たないと思ったのかもしれないけど、でも普通、助けて欲しいときに人の体格差を気にして遠慮したりしないだろ?」

「本当に何も無かったの? 小さくても助けを求める声とか、合図とか」

「なかった」

「何も? いることは分かってたんでしょ?」

「なかった」

「昼間は? 昼間のうちに隣の部屋を覗くくらい」

 そこで誠は黙る。情けない顔を俯かせて、飲み物があれば一気に呷っても良いし、空のコップに口をつけてしまう動揺のジェスチャーをしても良いだろう。

「昼間は、ずっと仕事だったから。仕事が割り振られていたから。ほとんど休みなく」

 また沈黙。

「嵐が来そうな日は、よくパーティみたいなことをしたんだ。嵐が来るとどうせ仕事にならないから、こういう日くらい楽しまなきゃなまこと、とオーナーが言うんだよ。確かに、彼らは普段からそうしているらしかった。嵐の日でも陽気なんだ。風が重たい音を立てて吹きすさぶ日も、家の中は料理と、お酒と、キャンドルで豪華に彩ってある。晴れの日だってろくに働いているようには見えなかった。ああいうの良いよね。今の僕らの日常とは全然違う、ゆったりした時間が過ぎていて、楽しかったよ。みゆきさんが来るまでは。

 この日もみゆきさんが使ってた部屋を使って良いと言われて、実際にみゆきさんが使ってた部屋で休んだけど、全然眠れなくて、僕は嵐の中、自分の部屋に戻った。胸騒ぎがしたんだと思う。誰にも見つからないように外に出た。風の音も雨音も激しく大きかったから、全然難しくなかった。オーナーと奥さんは酔って寝ていたはずだし、子供たちはただでさえ簡単には起きない。二百メートルの距離だけど、嵐の中だし、暗いし、戻るのは時間がかかった。懐中電灯は一つ持っていたけどね。やっとつま先を照らせるくらいの明るさだった。防水の、けっこう良いやつだったんだけど、あの嵐は酷かった。僕は暗くて入り口を間違えたみたいに見えたら良いな、と思いながら、わざと少し行き過ぎて、建物をぐるりと回って表玄関から中に入ろうとした。分かるかな。別に誰に見られるでもないんだけどさ、誰かに見られたらって思うとさ。

 それに、僕は出てくるときにオーナーの部屋を確認してないから。酒が強いんだ。身体がでかいだけじゃなく。だから奥さんが寝てしまったあと、こっそりみゆきさんに会いに行ってるかもしれないじゃない。抜け出すことが簡単なのは僕がそう感じたんだから誰だってそうだろう。だからさ、万が一僕の気配がオーナーに見つかっても言い訳できるように、嵐のせいで道を間違えたフリをして、建物をぐるりと回ったんだ。それで言い訳になるか分かんないけどさ。途中、隣の部屋の窓もあるよ。見たよ。どうせ中は見えないと思いながら見た。ここにみゆきさんがいることは間違いないと思ってた。オーナーがいるかもしれない。少しいやらしい想像もした。そういうことだったら良いなって思った。二人が声を殺してセックスしてるんだ。酷い嵐の夜、しかも僕を家に残してるつもりの二人は、遠慮なく声を出しているかもしれない。二人の不倫の現場を、嵐の夜、道を間違えて見てしまっても、別に問題ないと思った。ほとんど熱いと言って良いくらいの雨粒が全身にバチバチって音を立ててぶつかってくる。風が強くて、でも、遠くの方では雲が薄くなってるところ、すっかり晴れ上がってるところがあるところもあるって分かる。明け方には嵐が止むってことも、遠くの空を見れば分かるんだ。今は僕だけが暴風雨の中にいる、と思った。遠くでは星が瞬いてる。人工的な灯りは僕が持ってる懐中電灯しかない。遠くの雲の切れ間から見えている星の数は驚くほど多かった。細かい星まではっきり見えた。

 みゆきさんがいる部屋の中では、オーナーの巨体に押しつぶされるように小柄なみゆきさんが絡まり合ってると思った。でもそれは妄想だった。部屋の中は静かだった。もっとちゃんと見ようと思ったけど、明かりを向けるわけにはいかなかった。でも服がかかっていたと思う。だから僕はホッとして、この日、着替えるのも面倒で、タオルで髪の毛だけ乱暴に拭いて、素っ裸で寝た。全然寒くないんだよ。僕もみゆきさんと同じように、部屋の真ん中に通ってるボロボロの梁を使って服を乾かした。ぽたぽたぽたぽた、いつまでも水滴が落ちるような音がして気になったけど、すぐ眠ったよ。オーナーとみゆきさんはきっと、あそこで逢引してたんだよ。嵐の夜は特に。僕は二日後にこの牧場を去った。いつでも戻って来て良いって。みゆきさんはいつまでいたのかな。あんなの、そのうちバレるに決まってるのに」

 双子はこのあとの沈黙を痛いくらいに覚えている。耳を澄ませば、キッチンの小さな蛍光灯が放っているらしい、ジーという音が聞こえてくる。

「え、それで?」ようやく佐奈が口を開く。

「それでって?」

「いや、そのみゆきさん、どうなったの? 結局部屋にいたの?」

「いたんじゃない?」

「なんで中を確かめなかったの? それ本当に服? ねえ、それみゆきさんだったんじゃないの?」

「僕は二日後にはもうその牧場を去った。後のことは全然分からないんだ」

「ねえ、この話する前にさ、誠、この話をしたら軽蔑されるかもしれないって言ったよね? 正直一人で抱えきれないとも言ったよね?」

「そんなこと言った?」

「言ったよ! 言った! 絶対言った!」

「おいおい、声が大きいよ。子供たちが起きちゃう」

「ねえずるいよ。どうなったの?」

「だから知らないよ。みゆきさんには最後の方、全然会えなかったけど、あの部屋にいたんだ」

「いやいやいや、おかしいよ。みゆきさんのこと見殺しにしたとも誠、言ってたよ? そのとき見たのってさ、みゆきさんの死体だったんじゃないの? 死んでたの? 服? 服じゃないでしょ? みゆきさんごとぶら下がってたんでしょ?」


 この話からしばらくして、ある殺人事件が起きた。

 兄妹の父親である新山誠が刺殺された。

 加害者は自明だった。誠を刺したのは妻の佐奈で、彼女は誠を刺してすぐに警察に通報していた。

 佐奈の証言は異常の一歩手前と言ったところだった。様子はパニックでも冷静でもなく、夫を刺してしまったのならこうなるだろうという程度の取り乱し方だった。

 佐奈は見知らぬ老婆が家に上がりこんで来たと言った。老婆は包丁を持っており、まず、お前のことは殺さないと言ったらしい。私は男を殺してみたいけれど、自分の力ではとても男の身体に刃を突き通す自信がない。だから手伝ってくれと言ったらしい。

 佐奈は向けられた刃と異常極まりない老婆の迫力に押され包丁を手に持ち、老婆は佐奈に寄り添うようにして彼女の右手首を掴み、一緒に、寝ていた誠の顎下から脳天に向かって包丁を突き刺した。

 佐奈が語ったところによると、このとき、首や喉を刺すのであれば、あまり力は必要ないだろうと思ったらしい。この証言は深雪伯母が差し向けた弁護士が聞いた話だという。確かに。寝ている人間の喉を刺すのであれば、それほど深く刃を刺し込む必要もないだろうし、十分一人で目的は達成できただろう。しかし佐奈は、そう思ったものの、思っていたよりずっと力が必要だったことも語った。すぐに骨に当たるし、手元は滑るし、殺すことはできたかもしれないが、安全に、確実に、気持ちよく殺すとなれば老婆の力と軽い身体では難しかったかもしれないと語った。

 この点を見れば佐奈はもう通常の精神状態ではないようにも見えたが、同時に、話の筋は通っていたので、なんとも判断しようがなかった。精神鑑定が必要かどうかは明白だったが、かと言って老婆の存在が架空とも言えない。なぜなら、彼女の右の手首には右手で強く握った人の手形が残っていたから。自分の右手首に右手の痕を付けることは不可能なので、証言にはある程度の信ぴょう性があった。その手形は手の持ち主の性質を説明するほど鮮明に残っていたわけではないが、少なくとも小柄な人間、女性か、子供か、老人かという程度のことは分かったのだから、彼女の証言が狂言であるとは断ぜられなかった。

 しかしながら、老婆の正体も行方も分からないことも事実だった。真夜中の出来事で、突然だった。死神のように見えたとも佐奈は証言しているらしい。脅されて、相手は凶器を持っており、その口ぶりから暗に女性であれば一人で殺せるんだけど、と言っているように聞こえたらしい。だから老婆の言うことを聞かなければならないと思った。老婆にも、私一人くらいなら殺せるのだ、と思えば、恐ろしくて思考が止まった。老婆に後ろから抱きすくめられているとき、絶望感と、投げやりな気持ちが同時にまとわりついてきた。私が夫を殺すのだ、と思った。どっちが手伝ってるのか分からなかったし、一歩足を踏み出すのも、喉に狙いを定めたのも、私なのか老婆なのか分からない。

 

 誠は予定通り死んだ。

 老婆は佐奈の母親である。

 この事件に関わった人間の数は佐奈とその母親を含めて六人だよ、と深雪伯母は言った。結果的に六人の人間が協力して、あの子たちの父親を殺した。協力と言ってもほとんどは口裏を合わせただけだけど、それでも互いに存在証明ができたし、表面上動機もなかったから、誰も罪に問われない。とある事情で罪の意識もない。確信犯的にあの人たちは殺人を犯し、殺人に加担し、一種正義感のようなものを持ちさえしながら、今も健やかに生きている。実際、誠は死にたかったのだし、佐奈は誠を殺したかったのだし、誰も不幸になってないんだ。

 翔と麻衣は? とトモが言ったら深雪さんは何も答えなかった。

 兄妹はトモに名前を呼ばれたのが新鮮だったらしく、少し息を飲むような表情をした。

 誠の心の底から響き渡る、死を乞う叫び声は、帰国しても、結婚しても、子供が生まれても、鳴りを潜めることはなかった。深雪の死体を見たからだろうか。希死念慮があったところへ、深雪の死体を見たからだろうか。いや、あれは深雪と誠で作り上げた話だった。真実ではなかった。彼女は生きているどころかぴんぴんしている。望みが叶い血のつながった子供の面倒を近くから、遠くから見られる日々に充足感を覚えている。計画が順調に進んだこともうれしいが、血縁の子が優秀で美しく、反骨精神も隠し持っており、双子であることが嬉しかった。

「連絡を受けたときは本当にうれしかった。双子だと聞いて心底驚いたの。私、こんなに驚いたのは人生で初めてのことだったかもしれない。私もう、いつ死んでも良いくらい、あの二人から喜びを貰った。あんなに驚いたのははじめて」と深雪伯母は桜大とトモにも繰り返し言った。その喜びように裏がなさそうで、双子の存在を心から喜んでいる様子に嘘はなさそうで、この一点で桜大もトモも、深雪伯母のことを嫌いになれない。桜大の視点での話にはなるが、兄妹のことを大切にしている深雪伯母に好感を持っていたらしいトモも、実際は兄妹のことが嫌いじゃなかったんだろう、と思っている。

 牧場で受けた扱いで自信を喪失したから誠は死を望み続けたのか。それもあまり説得力がない。一因ではあるけれど、一番の原因ではない。深雪の計画を実行してみたい、という好奇心が強かったのかもしれない。それは間違いなくあっただろう。どこまで彼女の言うことが真実になるのかを確かめたくなる気持ち。もちろん、計画は引き返せる。誠がまだ生きたいのであれば、深雪と計画したオーストラリアの牧場での話を佐奈に言わなければ良い。話しながら、この話をして本当に自分が死ぬなんて結果になるわけがないと思っていたのかもしれない。

 いずれにせよ、好奇心だけで実際に死を求める気持ちを保ち続けるのは難しい。深雪伯母がもっと何か別の操作をしたのかもしれない。暗示を繰り返し、都度死の欲求を思い出させたとか。死を選ぶことが合理的であると思い込ませる工夫を施したとか。どうやったかは見当もつかない。

「そんなに面白いことはしてないけど、誠くんには一種の向上心があって、根がポジティブなところがあったからね」と深雪伯母は話した。

「それに誠くんは素直な性格で、人の言うことをよく聞いた。最初から評価しないで、否定的な印象を持たないで、とりあえず試すところがあった。それから自分なりに採用できるところは採用して、自分に合わないと思ったところは採用しない、という方法をとる子だった。だから、仕事の覚えは早いみたいだったし、誠に仕事を教えるのも楽しいと感じる人は多かっただろうね」

 子供たちは何の話をしているのか分からなかった。そんなので、とりあえず死んでみようと思うだろうか。

「いやいや、さすがにそういう意味じゃないよ。ただ、素直っていうのはやっぱりどちらかと言うとメリットが多いんだ。素直な人の人生を上向きにすることっていうのは、そうじゃない人と比べたらものすごく簡単。だからほら、誠くんは表面上とても幸せな家庭を築いたよ。姉の私が言うのもなんだけど可愛い奥さんがいて、こんなに可愛い双子の兄妹に恵まれて、自殺願望があった人間とは思えないほど人生がうまく行っていたでしょ? 誠くんがそれで満足ならそれはそれで良かったんだ。妹の子と言えど私が伯母なことに違いはないし、私はとどのつまり、血のつながりのある家族の存在を実感して、慈しみたかっただけだからね。愛情を思い切りぶつけられる存在がいれば良かった。それに勝る幸せはないと思うから。だから計画の実行については、誠に選択権を預けてた。妹をあげたんだからお前は私に子を差し出して死ね、っていうのはあまりに死神的所業でしょう? 私なりに友情も感じてたんだよ」

 それにしても、浅霧兄妹にとって深雪のしたことは、彼女が言う、死神的な所業なんじゃないのだろうかと思わずにいられないのであった。選択の決め手はもう誰にも分からないにしても、誠は結果的に深雪の言う通りにしたのだし、兄妹の誕生日の夜、作った打ち明け話をすることでスイッチが入ったように誠は殺された。

 深雪伯母が持っていた映像、父が残した音声。それらと家庭内殺人との間には厚い隔たりがあるように思える。あの映像と、音声が、どうして父の死に繋がるのか。どうして母は、トリックを弄してまで父を殺すに至ったのか。兄妹には分からず、伯母もその問いには答えてくれない。

 深雪伯母が音声データを兄妹に送った直後、兄妹は母が犯した犯罪を告発した。祖母のアリバイを崩し、父が殺された夜、自分たちが暮らす地域に訪れていたことも証明した。

 成長した兄妹により佐奈と祖母の計画が暴かれたのは事件発生から五年が経った頃だった。それから間もなく、兄妹は伯母の家に身を寄せることになった。血の繋がった子どもが深雪伯母の元へたどり着き、誠との約束が果たされた瞬間だった。

 オーストラリアでの会話と、両親の会話がなぜあの殺人へと発展したのか、という問いには答えないが、伯母はよくこういう話をした。

「まあその話は置いといて、自分自身でこれをやるのは比較的簡単なんだよね。これっていうのは、理想を思い描いて、それを実行することね。自分に関することだったら。例えば何かになりたいとか、何が欲しいとか、そういう、自分に関わることだったら、少なくとも自分を理想的なシナリオに沿って動かせば良いんだから、ほとんど想定外が無い。痩せたければさ、痩せれば良いじゃん。もちろん体調不良とか、天候不良とか、そういうことはどうしてもあるけどね。それで想定外に変な痩せ方しちゃって、逆に栄養摂らなきゃダメだって思い知ったり、雨が続いたせいでランニングの習慣が途切れちゃったり、やっぱり障害は多いんだけどさ。それに、自分一人で完結することって意外に少なくて、どうしても思い通りに動かない他人っていうものは存在するから、あくまで比較的簡単というだけなんだけど、私みたいにほとんど趣味でこういう操作をしていると、だんだんコツが掴めてくるんだ。他人を動かすよりは自分を動かす方が簡単、というのは分かるでしょ? で、天候を動かすことはできないけど、それに比べたら他人を動かすことは簡単。ね? 結局相対的なもので、これに比べたらこっちが簡単、これに比べたらこっちが簡単っていうことをいくつも繰り返して、少しずつ自分の思い描いたシナリオに近づけていくっていうわけ」

 兄妹だけでなく、桜大とトモも深雪伯母から何度かこの話を聞いたことがあるようだった。理想通りの世界を見ることなんて簡単。だって、世界はつまるところ自分なんだから、結局自分が思い描いた通りの出来事が目の前に現れるようにできてるんだよ。そういうことが書いてある書籍は数多くあるらしく、一部界隈では常識のように扱われる概念だし、稀なのかもしれないが自然とこのことを理解して生きている人間がいるらしい。

「稀というのはどうかな、傍から見て羨ましいと感じるような人間は、無意識にこのことを理解していて、何故かいつものほほんと、苦しまずに生きてるんじゃないかな。どんな苦境に立たされている人もさ、どんな不遇な目に遭ってる人もさ、結局それ、自分で望んだ結果なんだよ。好きでやってることなのね。結局自分が見たい世界を見ていて、そこから抜け出そうとしないってだけの話」

「あの、それじゃあ、突然、自分の過失なく事故や災害に遭ってしまう人とか、自分の親から虐待を受けている小さな子とか、そういうのはどうなんですか? それもそれぞれ、自分が望んだ世界を生きていると言えるんですか?」

 桜大がそう言っているのを兄妹は聞いたことがある。自分たちは言えなかったことだ。

「それは確かにおかしいよね。理不尽。理不尽っていうものが存在することも事実で、どうしようもないことがあるのも事実。天候を動かせないように、災害や事故もある程度避けようがない。理屈で言えばさ、災害に遭いそうな土地、昔から水害が多いとか、分かってる土地ならあらかじめ避けるとか、事故が怖いなら極力車の運転をしないとか、もっと言えば外に出ないとか、そういうことはできなくもないけど、現実的じゃないよね。合理だけで生きてるわけじゃないし。それに、幼い子供にしたら暴力をふるう親だって、育児しない親だって災害みたいなもんだけど、そこから抜け出すことなんてほとんどの場合できるわけがない。そんな力ないんだもん」

 兄妹は絶望的な気分になる。自分たちの境遇は一体どこに属するんだろう? 母親によって父親が殺されたのは環境的な虐待か? しかしそもそもこの状況を仕組んだのは深雪伯母だという。自分たちが生まれるずっとずっと前から、父と深雪伯母は協同して、未来を約束した。

 諦めなければならないことも、世の中にはある。そんなこと分かりきっていたし、世の中諦めなきゃならないことばかりだと分かっていたのに、深雪伯母と話していると、万能ではない一点があることで、矛盾を思い知り、引いては深雪伯母の主張の根拠が乏しくなり、絶望的に自分の未来を閉ざしているような気がしてくる。いや、世の中はままならないと思っている自分たちと、世の中は思った通りになる、と思っている伯母とでは、階層が違うと思ってしまう。自分たちは深雪伯母の「思った通りに生きている」生き物で、自由意志はないように思える。この根本的な自信のなさが世界の見方を変えている気がする。桜大が伯母にいろいろ聞いてくれることは頼もしい。トモが自分たちを無視するのも、何か自分たちでは知覚できない意味があるのだろうと思う。

 桜大はまだ食い付いて、トモは会話を興味深そうに聞いている。

「例えばその気になれば人気女優と付き合うこともできる、とするじゃないですか。前に確か、そんな話しましたよね? その結果、誰かがやる気を出して、強引に会ったり、話す機会を作ったりして、あらゆる倫理観とか法律を無視して、接触しようとするとするでしょ? まあはっきり言ってストーカー化なんですけど、それで万が一その女優さんが道端で刺されたりするとするじゃないですか。芸能人より一般人で多い事件に思うけど、これだって理不尽な暴力ですよね? 災害と言って良いですよね? その女優さんは何も悪いことしてないのに、急に、勘違いした人間に加害されるわけだから。これは仕方ないことですか?」

「全然仕方なくないね。ストーカーとかそういう迷惑なことはダメだと思う」

「でも現実的に実らない恋も、やり方次第で叶うかもしれない、みたいに深雪さんは人に伝えてるんでしょ? もちろんストーカーとか犯罪を推奨してるわけじゃないことは分かってますけど、結果的にタガが外れて、そういう行為に至ってしまった人がいた場合、そしてその人が深雪さんのチャンネルを見ていた、という場合、現実はどうであれ客観的には、深雪さんにそそのかされて及んだ凶行ということになりませんか? これは災害のようにどうしようもないことじゃないですよね?」

「その通りだね。ぐうの音も出ない。もしそうなったら私は実際に何か責任を取らされるわけではないにしても、責任を感じてしまうよ」

 全然責任を感じなさそうな顔で言う深雪伯母は、桜大がこんな風に言っても機嫌を損ねることはないようで、かと言って兄妹の前で何か取り繕おうとする様子もない。こうなるともういなされる感じになってしまう。

「まあでも、そういう悲しい出来事が起こることは確かに理不尽だし、根っこの方で誰かに責任はあるにしても、そういう出来事を見たり知ったりしてしまうのは桜大君、君のせいだよね?」

「はい?」

「いや、これもよく言われることではあるけれど、結局そういう理不尽を好んで見てるのも君なんだよ。好んでと言うと語弊があるかもしれない、選んで、ね?」

「これは、ただの例え話で、実際の出来事かどうかは分かりません」

「うん、今の話はそうだと思う。分かるよ。でもね、んー、例えば、これも例えばだけど、単純に外国で起きた理不尽な事件や事故、災害と比べると、日本で起きたそれの方が、桜大君は関心を持たないかい?」

「それはまあ、そうかもしれませんけど」

「ストーカーによる理不尽な被害、不慮の事故、自然災害。どれも確かに悲しい出来事だけど、君が悲しんだり憤ったりできる範囲は限られてる。君がまだ想像もできない理不尽がこの世にはあるかもしれないよ。過去に遡れば信じられない理不尽も、人災もあったはずだ。それの全てに、君は怒ったり悲しんだりすることができる?」

「できません」

 確かに、教科書に載っているような虐殺や、災害のことは知っていて、それを知ったときは心を痛めたりもしたけれど、それを現実の脅威として捉えていたかどうかは疑問だ。

「だから何? って思うかもしれないけど、結局君は、君が選んだものをわざわざ見て、わざわざ感情を動かす、ということを日頃からしているんだよ。心を動かすなら、別に今朝のニュースで見た悲惨な出来事でも、数百年前に起きた大災害でも同じなのに、距離と認識の範囲に依存して、感情の動かし方は変わるわけでしょ? 知っている人の身に起きた出来事と、まったくの他人の身に起きた出来事を比べても、感情の動き方は違うわけだから」

「だからって、無視すればそれは起こらないということでもないでしょう?」

「そう、だけど実際はそうでしょ? 君が知らないことは、少なくとも君が作ったその世界においては、起きてないんだ」

「不都合は無視すれば良いということですか?」

「結論から言えばそうなる。君の中ではそれで解決なんだよ」

「そんなの、あまりに無責任というか、人としてどうなんでしょう。どこかの誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたりすることは予想できるのに、自分には関係ないって素知らぬ顔して、自分だけ幸せなら良いって考えるのは、あまりに傲慢というか」

「その通りすぎるよ。その通りの上にもその通りだし、私は君のそういうところが好きだけど、私の考えでは、それでもなお、一人ひとりが理想の世界の中に生きるべきだと思うんだよ。望んだ出来事しか起こらない世界に生きるべきだと思うんだよ。少なくとも、幸運にも桜大君にまだ及んでいない理不尽とか悲しみなら、今のところはそれを見ないで良いと思う。少なくとも、わざわざ見に行くようなことはしなくて良いと思う」

 桜大は腑に落ちない様子をしていたし、深雪伯母のその言い分は、結局深雪伯母が他人を操作できるという主張を裏付けする材料にはならなかったばかりか、それじゃあ他人を操作するなんて無理だ、という印象を強くするだけだった。何故なら、結局世の中には理不尽が溢れていて、偶然が多く、誰もが意思を持っていて、それは予測できず、不測の事態の方が多い、ということを言っているように思えたから。

 だから今、現在、トモの身に起きた出来事も、そういう理不尽とか偶然の組み合わせによるもので、決して深雪伯母の操作により発生したのではない、とは思うものの、桜大と深雪伯母のやり取りを興味深そうに聞いていたトモの表情が思い出されて仕方ない。

 伯母は、続けてこんなことも言った。

「加えて言うなら、君の目に映るどんなものも、どこの誰であろうと、それは君自身なんだ。君と世界はイコールで結ばれているんだよ。そのことをいつでも良いから理解してほしいと、私は思っているよ」

 

 

 

『取り返しのつかない要素』


 あれじゃいじめだったと思う。

 桜大とトモはいつも二人で、上下の学年はもう少し人がいるのに、桜大たちのクラスだけ二人だった。小学生六年生の頃、そこへ転校してきた女の子がいた。駐在の娘で、いずれいなくなる子だった。どうせいなくなる子だった。

 桜大と、当時唯一の同級生だったトモは、ぽかんと口を開けて言うべきことも言えないまま顔を見合わせたり転校生を上から下まで嘗め回すように見たりして、実に不器用で失礼な態度を取った。

 それまで、学年も男女も関係なく年上の女の子はざっくりお姉ちゃんの一人だったし、年下の男の子はざっくり弟だった彼らにとり、異性として意識できる女の子を初めて見た瞬間だった。転校生は独立した生き物だった。この町と紐づいていなかった。

 転校生にとってもたった二人しか同級生がいない教室というのは相当珍しかっただろう。少子化に悩まされる地域は珍しくないとは言え、たった二人の小学六年生が揃って阿保みたいに起動する様子もなく席に座っている光景はさぞ珍妙だったに違いない。ここの小学生はあまりに田舎過ぎるが故にまだ言葉を知らないのかと思われても文句は言えなかった

 その子は細身だが、胸が少し膨らみ始めているのが、まだ春で、少し肌寒かったのに薄手のティーシャツを着ていたので分かった。三年生と五年生の頃は複式学級を経験していたから、同じ教室に女の子がいたことがないというわけではなかった。故に、女の子の身体の成長も知らないわけではなかったが、意識したのは初めてだった。

 何が一番見慣れていないのか自分たちでも分からなかったが存在全体が見慣れない輝きを放っていた。輝いているように見えたからと言って好意を持っていたとは限らない。当時のことを思い出しても、桜大は転校生を好意的に受け入れようとしていたのか、警戒していたのか、嫌悪感を持っていたのか、思い出せない。輝いているとは思った。存在が新鮮。スカートを履いているのが珍しかったのかもしれない。周りの女の子はジャージとかジーパンとかズボンを履いている子が多かった。走り回るから。スカートで登校させないのは親の視点から見れば常識なのかもしれなかった。スカートを履くことで生まれるトラブルは多い。で、転校生の子はスカートを履いていた。初日だからおしゃれをしたかったのかもしれない、と桜大は今なら考える。下心は無かったが、スカートを履いてる女の子って可愛いな、くらいのことは思ったかもしれない。今の感覚で言えば、スカートが似合う女の子は好きだ。中が短パンのようになっていて、捲れてもパンツが見えるようになっていないヤツがあることを桜大は大学生になってから知った。何となくだけど、麻衣はこういうものは履かなそうだなと思った。

 当時、町で知らない人に会うことは滅多になかった。あったとしても職業や役割を背負っていた。給食センターの誰かとか、市役所の人とか、なんとか交流でわが校を訪れた教師を目指すフィリピンの学生の人とか。だから転校生も転校生という立場で了解すれば良かったものの、それは明らかに一過性のものであるのだから動揺したのだと思う。

 給食センターの誰々さんは桜大にとり、一生「給食センターの誰々さん」で構わないけれど、転校生は「名」を名乗り、それから「クラスメイト」になって、「友達」になるかもしれない、というか、先生とか親とか自分たちでさえも、そんな変化を当然のものとして見做しており、その流れに疑問を持っていなかった。そういう期待が全部悪い。

 自然にそうなることというのは世の中に確かにある。太陽が昇って沈む、を繰り返して、少しずつ地球と太陽に対する自分の立ち位置が変わって、季節が巡る。それくらいの確かさが、人間関係にもあるのだろうか? 話せば仲良くなれる、同じ教室で勉強すれば友達になれる。同じ時間を過ごせば仲間になれる。同じ町、同じ学校にいればイベントも一緒に出なきゃならなくて、そういう、「設定されたイレギュラー」で少しずつ互いのことを知る。桜大は、トモとそんな風に仲良くなったんだろうか? と思う。もっと自然で、当たりまえのものだったんじゃないか。こんな風に無理やりじゃなくて、道筋や流れが期待されるようなものじゃなくて、言うなればもっと運命的な噛み合いがあったのではないか。

 転校生のことを嫌いになんてならなかったし、仲良くやろうと思った。たった二人のクラスが、たった三人のクラスに変わった。一人増えただけで随分違う。違うけど、良い変化に違いない。実際仲良くできたと思う。桜大もトモも転校生のことは嫌いじゃなかった。クラスに同い年の女の子がいることが嬉しかった。顔はそれといった特徴のない、普通の子だったけど細身で声が明るくて良い奴だったし、親は交番の駐在さんだった。青空教室の内容には真新しいものは無くて退屈だったと言わざるを得ないけれど、優しそうな人だと思った。贅肉がなさそうで、若く見えた。短い髪が似合っていて爽やかだった。

 転校生が転校してきて間もないある日曜日、道で五百円玉がぎっしり入った財布を見つけたことがあって、それをトモと二人で交番に届けたけれど、そのとき交番の駐在さんであり転校生の父親であるその人は痛く感動した様子で手続きをしてくれたことを覚えている。今思えば、娘の同級生の二人が真っ当な倫理観を持っている純粋な少年だったことを嬉しく思っていたのだと思う。自分の仕事の都合で転勤して来たド田舎の娘のクラスには、男のクラスメイトが二人いるきりだと知ったときは不安に思っただろう。二人の男の子にいじめられたらどうしよう、仲間外れにされたら、話が合わなかったら、性的な関心の餌食になるかもしれない。いろんなことを考えただろう。もし娘が学校やクラスメイトと合わなかった仕事を変えて住む場所も変えよう、とかまで考えたかもしれない。

 転校生の父親の心配は杞憂だった。桜大とトモは転校生を受け入れるつもりだったし、胸のふくらみとか、スカートから伸びる足とかに関心を持ってしまったところは否めないけれど、それはもうしょうがいない。だからと言ってスカート捲りなんて幼稚なことをしたことはないし、身体をジロジロみたり、何か理由をつけて身体に触ろうとしたこともない。二人とも根っから紳士を貫いており、話しかけられれば最初の方は、他の年上とか年下の友人より少し優しく受け答えするようにしていた。それがよそよそしくならない程度に、丁寧な会話を心がけた。二人とも、転校生が不安に思っていることを理解していたから。だから名実共に、転校生の父親の駐在さんは安心して良かった。落とし物と届けたことで、そのことが強い説得力を持って証明されたのがこの届け物をした日曜日だった。

 拾った場所などわりと詳しく聞かれた。小学六年生の二人の手のひらにすっぽり収まるくらいの小さな財布、というか巾着? がま口が付いた、やけに派手な布製のそれの中は、ぱっと見五百円玉だけが集められていたように見えたが、駐在さんと一緒に中を検めると本当に五百円玉だけで、小さい財布なのに一万二千五百円が入ってた。三か月間落とし主が現れなければ、このお財布の所有権は君たちのものになる、と転校生のお父さんは言った。桜大は内心期待した。落とし主が現れなければ良いと思った。でも、あのお金はきっと、金額以上に五百円玉のみを集めたものである、という点が落とし主にとって大きなものだったのではないか、と考えることもできた。五百円玉貯金は桜大もしたことがあるけれど、全然できなかった。お金を入れる穴だけあって、缶詰のようになっており容易に開けられないタイプのよくあるやつで、いっぱいまで五百円玉だけで溜めることが出来れば十万円に達するというものだった。一年くらいコツコツ頑張ったけれど重さとか音で分かる感覚で多分八枚くらいしか溜まってなくて、それじゃあまだ四千円くらいかと頭で素早く計算した結果、すごく空しくなった。毎月千円のお小遣いの中からやり繰り、というか何か買っておつりの中にたまたま五百円が含まれていたらできるだけ貯金箱に入れるというやり方で貯金をしていたので、八枚というのはまあ妥当。一年で八枚、十二か月のうち、千円を使い切らず、五百円以下の買い物に留めて貯金できた回数が八回と考えると、よくやった方なんじゃないかと桜大は考えた。それに加え、お年玉で買い物したときに生じた五百円玉を三枚貯金したことを思い出した。だから八枚より多いかもしれない。お年玉のうち二万円はお母さんが銀行に預けてくれたからそれは別として、お年玉を目の前にしても桜大は理性を働かせて、必要なもの(本当に欲しかったもの)だけを買い、お釣りに五百円玉が含まれていれば部屋の貯金箱に入れ、使う予定がない万札は銀行に預けた。非常に理性的で、よくできたと思った。

 落とし物の一万二千五百円の落とし主が現れなかったら、三か月でそれが自分のものになる。一年で多く見積もって五千円くらいしか貯金できなかった桜大にとり、これは非常に大きな金額だ。金額以上に、効率が良い。中学生になったらお小遣いが少し増える。五百円玉貯金も簡単になる。六年生の今、イレギュラーなラッキーで期待以上の結果を作ることができたら、貯金の意欲を高めることができるだろう、と思った。貰える金額は当然、一緒に拾ったトモと半分ずつということになるけれど、それにしても六千円。余った五百円はわざわざニ五〇円ずつにしなくても、二人で何か買って食べるなどして使っても良いだろう。見つけたのは桜大だが、交番に届けようと言ったのはトモだ。だからこれは二人のもので、公平に処理する必要がある。

 しかしトモは、自分はいらないからもし落とし主が現れなかったら全部桜大が貰いなよ、とその場で言った。お巡りさんも驚いていた。

 嬉しかったけれど、トモが何故そんなことを言うのか分からなかった。良い奴だって咄嗟に思ったし、交番に財布を届けようと言ったのもトモだから、トモはお金に対してそういう奴なんだろう、お金に関しては誠実でいたくて、欲張ったりしたくないんだろう、と思った。見習わなきゃな、ちょっと。と思った。何を見習うんだろう。お金が欲しい気持ちを隠して生きることだろうか。でも、欲しいと言わなければ得られないのは八人いる一つ下の学年の給食の余り物争奪戦において桜大は理解しているつもりだった。桜大も、食べ物に関してはそれほど執着がない方なので、余った給食を誰かとじゃんけんしてまで欲しいとは思わないから、譲る感覚というのはもちろん知っている。知ってるが、お金は別だ。

 桜大の感覚で、お金はいらない状況なんてあるだろうか、と思う。お金はほとんど全てのモノに換えられるのだから、一番欲しい確率が高いものだ。盗んでしまったお金とか、大嫌いな人に貰うお金とかならまだ分かるけれど、正当に受け取れる大金を譲るというのはどういうことなんだろう。大人になった今考えても分からない。今部屋の中で死んだように引きこもっているトモは、あのときのことをどう考えているんだろう。あのあと、やっぱり格好つけてあんなこと言わなきゃよかったと思っていたりしたことがあるかもしれない。

 盗んだお金とか、犯罪によって集めたお金を受け取らないというのは分かる、というか当然だ。その事実が分かっていたら、そんなお金はとても使えない。気持ちの問題でもあるし、実生活が害される問題にもなりかねない。他にもお金がいらない状況というのはいくつかあるかもしれないけれど、当時も今も、桜大が考えられるのはせいぜいやはり、嫌いな人から受け取るお金、ということだ。その線で考えて行けば、あの財布に入ったお金がトモは嫌いだった、という可能性がある。その財布の持ち主、もしくは転校生の父親で交番のお巡りさんのあの人。仮に三か月、落とし主が現れずにあのお金が自分たちのものになったからと言って、あのお巡りさんからお金を受け取るわけではないのだけど、それは理屈の問題で、嫌いというのはしばしば理屈を超えるものだから、少々強情すぎる気もしないではないけれどあり得ないことじゃない。

 財布の持ち主のことを知っていたのなら直接届ければ良いだろう。でもそうしなかったのはトモが財布の持ち主を知っているということさえ恥ずかしく思っているほど嫌いで、財布を届けるなんてとても無理だったからだ。トモはその人のお金を一秒たりとも持っていたくなかった。桜大に財布を持たせて、忌々しい財布を然るべき場所に収めようと思った。拾ったのだから交番。これは正当な手続き。本当は捨ててしまいたいけど、それは人道に悖る。よって交番のお巡りさん、もしくは転校生のお父さんのことは頼りにしていたのであって、決して嫌いじゃない、嫌いなわけがない、という結論が導かれる、と桜大は証明っぽいことを頭の中でした。それはまるで証明になってなかったし、もしこうならこうのはずだ、とか普通そう考えるに違いないとか、バリバリの主観を根拠にした推論は推論どころか推測でしかなく、なんら証明になっていないことが小学六年生の桜大には分からなかった。大学生になった今でも正直この辺りはよく分かってない。事実と、感想と、偏見と、行動。これらをきちんと使い分けることが、桜大には難しかったし、大人になった今も難しい。

 しかし、その後の展開を考えると、トモがあのお巡りさんのこと、転校生の父親のことを嫌いだった、と言われた方が納得が行くのも事実だった。そうでなければ桜大とトモは呪いの人形を山に埋めて、そのことを隠し続ける、という展開にたどり着かないような気がする。トモはあのお巡りさんのことが嫌いだったはずだ。感想で、憶測で、偏見だったが、そうじゃないといけないと桜大は思う。辻褄というものがあるだろう。財布を届けに行ったあの日に嫌いになった? それとも、自分が知らない間に何かあったのだろうか。

 

 トモが貰うはずだったお金を桜大が持っている、という事態になれば、居心地が悪そうだと思った。例えば山下商店でお菓子やらを買うとき、桜大は気を利かせてトモの分の会計まで一緒にするのが筋ではないだろうか。トモが遠慮するようなことを言えば「これはお前が貰うはずだったんだから良いんだよ」と言った上で更に、自分の取り分も含め、これは二人のお金にしよう、と言うべきではないだろうか。二人で拾ったんだから。人としてそれが正しいと思う。トモとは幼馴染で、唯一のクラスメイトで、男同士。ここにアンフェアな部分があっちゃいけないし、思い返せば二人それぞれ、そういう不公平になりそうな芽はマメに摘んできたと思う。だからこそ、貰えるはずの大金を桜大に譲るというアンフェアなことをトモが言って来た理由が分からないのだけど、それはそれとして、暗黙の了解のうちにアンフェアを退けて来た二人の短くも長い時間が楔となって、自分が自由に使えるはずだった(貯金できるはずだった)六千円もの大金を、二人のお金にしなければならなくなりそうな展開に釈然としないものを感じた。

 トモが先にやった、と当時の桜大はただそういう風に思った。トモが先にやった。大人になってからこの感覚に少し言語が追いついてきて、ようやく不満の輪郭がはっきりした感があったが、トモが何を先にやったのかというと、二人の間のバランスを崩す行為だった。「これで貸し借りなしね」という言葉を映画の台詞か何かで聞いたときに桜大はそれに気づいた。僕はトモに借りを作るのが嫌だったんだ。それから、一方的に貸しを作る行為はズルい、と思った。この考えに至ったとき既にトモは部屋の中で死んでいた。貸しを作ってしまえば、借りの意識が芽生える。この借りの意識はそれなりに重たいもので、借りを返せない間、ずっと背負い込むことになる。トモはその辺のことが分かっておらず、自分に貸しを作ってしまったことにも気づいていないほど子どもだったから、借りを返そうとするのも再三拒否して、善行を貫こうとした。トモの方は貸し付けたままで、それは返さなくても良いものだと一方的に決めつけた。自分は気分が良いだろう。しかし借りの意識を持った方はいつまでも返していない、という意識を持ち続ける。その辺りに頓着しないのは独善的である。

 天彦からトモが本当に死んでしまっていると聞いたとき、驚きとか悲しみとかに紛れてどこか重荷を降ろした安心感と、借りを作ったまま亡くなった人に対する憤ろしい気持ちなどがあった。息子の死を告げる天彦の、玄関を塞がんばかりの巨体にも腹が立ち、後ろに立っている双子がどんな顔をしているか気になり、ドアの向こうで一人待っている優に悪いと思いながら、トモが自分に押し付けようとした借りが、本当は存在していないものであることにようやく気付いた。

 あのとき、財布の持ち主はわりとすぐに現れたらしい。転校生経由でそのことを知った。トモははじめからこうなることが分かってたみたいな顔で「良かった。ちゃんと持ち主現れたんだね」と言って、転校生は転校生で「お父さんが二人のことすごく褒めてたよ」とか言っていて、「お父さん、二人の連絡先教えたみたいだから、お礼の電話とかあるかも」と続けた。

「いいよ、そんなの。別にお礼されたくてしたわけじゃないし」

 トモの発言はここまでいけば少し恰好をつけすぎなところがあり、転校生の少女もその答えに満足したような顔をしつつ「まあそれは落とし主さんの気持ち次第だから分かんないけど、お母さんも、クラスメイトの二人、今度お家に招いたらって言ってるんだ。まだ会ったことないし、って」という話をトモとしている。何となく流れが嫌だった。嘘くさい会話の応酬が嫌だった。桜大はトモとこんな風に話したことがなかった。見栄とか建前だけで話したことなんかなかった。クラスメイトの二人とは言いつつ、桜大は少し蚊帳の外みたいな位置にいた。クラスにいるのは三人だけだったから、どこにいたって蚊帳の外ということにはならないのだけど、どこかの器官で感じ取る疎外感は確かに桜大を苛立たせた。

「そういうのって勝手に教えるもん?」と桜大は何か言いたい気持ちが先行して、そんな風に言った。

「ん?」と転校生のクラスメイトは何を聞かれたのか分からない様子で桜大の顔を見つめる。トモと話しをしていたままの笑顔だった。

 その顔から察して、家へ遊びに行く計画について何か聞かれたと思ったんだな、と思うと桜大は、そういう期待を挫いてしまいたくなって、「連絡先とか、勝手の教えて良いの? 警察が」と言う。「警察が」の部分に力を入れたつもりだった。

「え、ダメだった?」

「ダメじゃないけど、勝手にするのかなって」

「桜大、でもあのときさ、俺らの家の電話番号聞かれたよな? 俺も桜大も普通に答えたじゃん」

「そうだけど」

「それに、落とし主が現れなかったとき、どうやって財布取りに来てって連絡来るんだよ」とトモが畳みかける。

 お前はいらないって言ったくせに、と思った。トモはそんなことを一言も言ってないのに、「桜大は財布を取りに来いという連絡じゃなかったから不機嫌なんだ」、と言われている気がした。

「落とし主の人から連絡来たら何かまずいこととかあるの?」と転校生は、心配そうな顔にして桜大を見る。その顔は、親が警察組織にいるからこそ予測できる事態がある、という優越的な位置からはみ出す慈愛といか慈悲というか、とにかく彼女は桜大の発言に不穏な家庭内トラブルの影を察したらしく、怒るどころか一歩も二歩も踏み込んでこようとするような表情だった。彼女には多分、正義感があった。桜大の母親か父親が、桜大に何か、強力な抑制をかけている、と予想したのだろう。あとから桜大は、親が警察だから連想したに違いない「正義感」という性質を彼女に当てはめたのは安直過ぎた、と感じるようになる。

 それはそれとして、このとき教室は桜大を中心にして「内輪」みたいな領域を作ったように感じられた。もしここで先生や、上か下の学年の誰かが現れたら、自分たちはそれらを他者と見なし、話を無理やりにでも終わらせて散開するだろう、という雰囲気があった。そういう雰囲気は居心地が悪かった。蚊帳の外ではないにしても、思っていたような一体感ではなかった。ありもしない秘密で繋がるような空気。これまではこんなことがなかった、と思う。トモと自分がセットで生きているような感じで、いわば「二人とその他」だったけれど、それで上の学年の子とも、下の学年の子とも、不自由なく接することができた。

 自分がまいた種という認識はあったけれど、それにしても居た堪れない。転校生だけじゃなく、トモまでもが桜大が何か隠してるんじゃないか、何か不都合があるんじゃないか、という、転校生そっくりの顔をしている。

 人に言いたくない家庭の事情の一つや二つはある。しかしそれは出会って間もない転校生が心配顔で踏み込んでくるほど深刻なものではなかった。数年前に親が離婚していること、母親が看護師で夜勤の日は寂しい思いをすること。不満や不足はあれどトラブルではない。いずれもトモは知っていることだったから、転校生と同じ表情で桜大の顔を覗き込む様子が白々しく感じられた。

 桜大は後から考えた。当時はモヤモヤしただけだった。落とし主からの連絡は来ていたらしい。トモの家に連絡が来たと聞いた。桜大の家にも同時期くらいに連絡が来たのだろうけど、多分母親が夜勤でいなかった。当時はまだ今の父親はいなかった。桜大は数回、夜七時くらいにかかってきた電話を居留守でやり過ごしたことがあった。多分あの電話は落とし主からのお礼の電話だった。薄々分かっていたが電話口でお礼を言われて、なんと返事をすれば良いのか分からなかった。多分咄嗟に出てしまったら、トモみたいに恰好を付けたことを言ってしまいそうで嫌だった。あなたが現れない想像をしていました、とはもちろん言えない。口先では無事に届いて良かったです。たまたま見つけて、重かったので、けっこう中身が入ってると思って、と、良い子の口調で話すしかないだろう。自分の中に善良さがなかったわけではないけれど、欲だってあった。

「電話したけど、出なかったって落とし主の人、言ってたらしいよ」と転校生が言った。

「ああ、親が夜勤だったら家、誰もいないから。僕も二階にいたら電話の音聞こえないし。取り損ねたのかも」

「いつならいる?」

「いや、いいよ別に、わざわざお礼なんて」と桜大は言ったが、トモが言ったみたいな響きではなかった。かけてこないで欲しい、という感情が乗っていたし、それは転校生に伝わったと思った。

 落とし主に何も恨みはないけれど、得られるはずだった一万二千円のうちの六千円が自分のものになると思ったにも関わらず、トモのせいで丸ごと自分の自由にできないお金となった、という想像は、既に事実に即した記憶だった。もし財布のお金の所有権が全て自分たちのものになっていたら、桜大がした想像は避けられない出来事だったから。実際に起こらなかっただけで、トモがお金の受け取りを辞退したのは事実なのだから、その後の展開も事実である。

 現実において、一円も彼らのものにはならなかった。頭の中で一万二千円という具体的な額が自分たちのものになり、半額が自分のものになり、もう半分をトモに譲られたことで自分の六千円も二人のもの、として扱わなければならなくなった記憶は、経験していないにも関わらず生々しい感触を持って頭に刻まれていた。

 

 桜大にとっては「事情」というほどでもないのだが、いつの間にか転校生は自分の「家庭の事情」を知っているようだった。親の離婚とか、仕事とか、そういう情報が漏れる場面はいくらでもあるはずだから、トモが彼女に伝えた、と考えるのは言いがかりや被害妄想に近かったのだけど、桜大にはそうとしか思えなかった。トモが神妙な顔で桜大の家の「事情」を話している場面が想像できた。

「家庭の事情」を知ったことが影響しているのかどうかは分からないが、転校生は次第に面倒見の良さを桜大に対して示しだした。

 ある日曜には、前にいた町でずっと通ってたパン屋さんのものだ、と言って大きなビニール袋にいっぱいのパンが届けられた。まだあちらの町のお友達とは交流があると言う。それほど離れた町ではないらしい。パンは確かに美味しかったけれど、食事もままならないと思われているのだろうか、と思うと惨めな気分になった。

 母親に言われてパンのお返しを渡しに行ったときは受け取ってもらえなかった。それは桜大が食べて、と彼女は言った。実はお母さんがアレルギーで、とか言っていたが、釈然としなかった。最初にビニール袋に入ったそれを広げて見せたときの父親の表情に、事情を含んだものが見えなかったから。何を渡そうとしたのかはもう忘れた。何か、果物の類だろう。

 帰り道は敗走の気分だった。トモに拾った財布の中身を譲られて、本来のトモの取り分で奢ろうとしても受け取ってもらえなかったことを思い出した。あれは完全なる想像だ、と桜大は知っているけれど、トモにしても転校生にしても、与えるだけ与えて自己満足に浸ろうとする、というイメージで結び付けられてしまっていた。二人は示し合わせて桜大を憐れむ遊戯で絆を深めているという印象があった。トモと二人のときはそんなこと思わないのに、三人でいると桜大はトモと転校生の弟か何かのように扱われる。給食など何か残ったら優先的に与えられる。三人でどこかへ行くとなれば桜大のしたいことを、という空気になる。下学年に球技を教えたりすると、転校生は後で二人きりの折を見計らって桜大を褒めたりする。

 トモはトモで、転校生は桜大のことが好きなんじゃないか、と言うことがあった。もちろん転校生がいないときに。あいつはいつも桜大のことを気にしているみたいだよ、と言うが表情は不安気で、まさかトモはあの子のことが好きになったのではないか、と思えば、落とし物の財布の所有権を放棄したことにも、それまで想像していなかった動機が浮かび上がってきた。

 転校生の前で良い恰好がしたい。

 馬鹿々々しい、と思う。思うが、そう考えると辻褄が合う気がした。もしそうなら、トモのこれまでの行動にも言動にも納得が行く。正義感が強そうな彼女に合わせて、少し可哀想な桜大にそれとなく目をかけ、手を差し伸べる、ということをしてしまっていたのかもしれない。それだったら僕も協力して良い、と桜大は思った。彼自身はまだ女の子を好きになったりする感覚というものがよく分かっていなかったけれど、トモにとって転校生がそういう対象だ、というのであれば、自分は喜んでピエロになる。もしどこかのタイミングで彼が、その気持ちを正直に話してくれたら、もっと積極的に協力しても良いし、必要であれば、自分が転校生を遠ざけることで、間接的に彼らの絆を深めるような工作をしても良い。これならフェアなんじゃないだろうか、と桜大は思った。

 転校生が二人に少し変わった「お願い」をしてきたのは、桜大がそんなことを考えて間もない頃だった。夏を越え、もうすぐ秋がくる、という季節だった。

 どんなお願いなのかは知らないが、この手柄をすべてトモに譲ることができれば、トモは自分に感謝するだろうし、借りを返すこともできるどころか、貸しを作ることもできる。貸し借りの概念を学んだのは大学生になってからなのだから、小学六年生の時点の桜大がまさかこんなにはっきりと「貸し借り」の理屈を意識していたわけではないけれど、頭の中ではこんな打算が働いていた。

 とりあえず今度の日曜日、家に来てくれと転校生は言った。

 転校生の家へはもう、何度も行っていた。彼女の家だけでなく、トモの家にもよく行ったし、桜大の家へ招くこともあった。この点彼らはフェアな関係を築いており、昼間桜大の母親がいることもあったし、そのときに直接桜大の母親がどんな人間なのかを転校生は見ているのだから、彼の家庭環境も、母との関係も、何ら心配するようなところはないと知っているはずなのに、どうしてだか彼女は桜大の世話を焼き続けた。世話を焼くと言っても、大したことではないが、トモに言わせれば彼女は、いつも桜大を気にかけており、常に桜大がどこにいるのか、把握していないと気が済まないみたいだ、という、ちょっと物騒にも聞こえるようなことを言った。

 トモと桜大にとって真意があやふやな彼女がするお願いとはなんだ。桜大は何となく面倒くさそうに思っていたし(お願いの遂行はトモにさせるにしても)、トモは前のめりな様子だったけれど、行ってみれば、別に家に行かなくたって了解できるようなお願いだった。

「リビングの戸棚においてある人形分かる?」と彼女は自分の部屋で切り出した。二人は頷いた。特に話題に上ったことも、転校生に紹介されたわけでもなかったが、二人ともそれがあることは最初から気付いていた。

「あれをさ、私の両親にバレないように持って言っちゃって欲しいの」と言った。「できれば私も気づかないうちに」

 それは盗むってことなんじゃないかと思って、転校生に気付かないうちにっていうのは無理なんじゃないかとも思った。

「私が気付かないうちにっていうのは無理か」と言って笑う。二人が頷くと「でもね、できるだけ、無くなったことすら意識したくないんだよね。手品みたいに消して欲しいっていうか」

「なんだそれ」とトモが笑う。その笑い方は危ういような気がした。何せ桜大はトモにお願いの遂行を押し付けようとしているのだから、トモが彼女のお願いを鼻で笑うようなリアクションを取るのは、幸先が良くないと思った。

「呪いの人形か何か? 捨てても捨てても戻ってくる、みたいな」

「捨てても戻ってくるわけじゃないけど、呪いの人形だとは思う。てか、宗教?」

 宗教のことはよく分からなかった。自分の家は浄土真宗だとか真言宗だとか、そういうのの違いがあるのは分かるけど、どの宗派がどんな教えを説いていて、というようなことまでは分からなかった。桜大の家には仏壇がない。トモの家にはある。転校生の家には当然ない。当然と言って良いのかどうか分からないが、あちこちに転勤するのだから、仏壇を持ち合わせないのが普通だろうと思う。

 人形はそれほど大きくない。座っている状態では戸棚の中のマグカップと背丈が変わらない。手で持ったことはないけれど、腹部分を持てば手足がだらりと下がるだろう。手足はストロー程度の太さで、中に針金でも仕込んであるのか、中途半端な腕の形を維持している。胴の部分は単一電池に形も大きさもそっくりだった。全体的に子どもが描いた妖精かなにかの絵を人形にしたという感じで、呪いの人形と聞いたときに連想するリアルな少女の姿を象ったものではないのだけれど、顔はやけに人間めいており、頭身も現実の人間に即しているように見える。美しい表情をしていて、この家の戸棚に収まっていることに満足している様子だった。

「あれってお父さんの人形なのね? 正確にはお父さんのお姉さんのお人形なんだけど、そのお姉さんっていうのが若い頃に亡くなってしまったらしくて、お父さんにしてみれば形見みたいなもんだから、大事にしてるのよ」

 姉の人形をあのお巡りさんが形見として受け取ったのか、という疑問には、転校生も答えられなかった。若い頃に亡くなったというのも、具体的にいくつくらいの頃のことなのか分からない。あの人形が形見になるくらいだから、子どもの頃の話なのだろうか、と思うけれど、転校生はそこまで父の過去に興味を持っていなかったようだった。

「お父さんは判断に迷ったらあの人形に相談するようなところがあってね。いや、実際あの人形に話しかけてさ、どうしたら良いと思う? なんて言ってるのは聞いたことがないんだけど、たまに戸棚の人間の形が変わっていたり、戸棚の外に出ていたりするわけよ。その度にお父さんが、すまんすまん、昨日ちょっと、とか言うものだから、お母さんがね、ちょっと何よ、って聞いたことがあるのね。いつもいつもちょっとね、と言うけれど、それがお姉さんの形見だって知ってるから触れないようにしてきたけど、こっちにとってはただの人形なんだから、動いていたり急にテーブルの上に乗ってたりしたら不気味なのよって」

「テーブルの上にも乗ってたんだ」

「私もそのときに知った。朝起きてテーブルの上に乗ってたら怖いよね」

「で、ちょっと何だったの?」

「うん、だから、人形に相談してたって言うの。迷ったこと、悩んだことがあったら人形に相談。それでなくともお父さんってあんまり自分でものを決められなくて、すぐお母さんに聞くみたいなところがあるんだけどね。その上で人形にも意見を聞いていたって言うの」

「人形に聞くって、何か答えてくれるわけじゃないでしょ?」

「お父さんが言うには、自分の中で決まっていることを確かめるのに良いんだって。よく映画なんかでさ、揉めたらコインとか、悩んだらコイン、みたいな描写ってあるでしょ?」

 転校生は映画を見るのが好きらしかった。映画だけでなく、漫画やアニメも好きだと言っていた。転校生の家でたくさんの漫画を読んだことや、映画について教えてもらったことが、今の桜大の映画好き、漫画・アニメ好きの土台になっていることは明確で、この点だけを見ても、桜大は転校生と仲が良かったと思うし、嫌な印象など持っていない、と自覚している。転校生はこれまでも描写、表現、演技、コマ割り、カット、モチーフ、テーマと言った単語を会話の中に織り交ぜて話しており、少なくとも桜大にとってそれらの言葉は新鮮に響き続けていた。彼女は今、何らかの物語を作っていたら良いのに、と思うこともあるけれど、残念ながら今どこにいて、何をしているのかは分からない。

「それと同じで、ある種運試しというか、そういう感覚で物事を決めるっていうのはあながち使えないことでもないらしいのね。服を選ぶときとかも、女の子がどっちが良いと思う? って聞いたときには既に答えが決まっているって言うでしょ?」

 転校生の話は長くなることが多い。連想することが多い。人形。コイン。女の子の服の選び方。それらが一点に収束していくことを知っているから桜大もトモも彼女の話には口を挟まずに聞く癖がついていたけれど、この話の聞き方は彼女の信頼にも繋がっていた。この二人は男の子なのに話をきちんと聞いてくれる。人の話を最後まで聞いて、理解してくれる。その評価は娘を持つ親にも伝わって、娘の部屋にクラスの男の子二人が入り浸っているような日があっても、ときに泊まったりすることがあっても、余計なことは心配せずに迎えることができるのだった。娘も、あの男の子二人も、悪いことはしない。親に心配をかけるようなこともしない。桜大たち自身が自らをそう評価していたし、親を裏切るつもりもなかった。

「頭で悩んでいても、心ではもう決まっていることが多いってことなのね。そうでしょ? どっちか一つを選ばなきゃならない事態ってよくあるけど、心で決めることとは別に、余計な思考が入り込んでくるじゃない。自分はこの服を来たいけど、みんなはもっと落ち着いた服を着てきたらどうしよう。浮くんじゃないか。本当はこっちが食べたいけど、こんなのを一人で食べたら太っちゃうんじゃないか。いつもいつも心に従うべきとは言えないから悩んだり迷ったりするわけだけど、最終的には心に従った方が気分が良いものだし、結局自分が機嫌よく生きていける道を選ぶ方が良いに決まってるよね? だって誰も自分の機嫌を気にしてくれるわけじゃないし、少々私が機嫌悪かったって、気分が悪くたって、恥をかいたって傷を負ったって、誰かが私のことみたいにそれを深刻にとらえてくれるわけでもない」

 口は挟まなかったが頭の中はいつもうるさく喋っている。転校生が転校初日、スカートを履いてきたときも、自分の心を優先したのだろうか、と思った。親にはもしかしたら止められたかもしれない。スカートで行かない方が良いんじゃないか。そんなに足を出して大丈夫か。母親は足が冷えるのではないかと考えたし、父親はクラスの男の子に嫌らしい目で見られるのではないかと心配になった。だからはっきり止められるとまではいかないまでも、ズボンの方が良いんじゃない? 今日はちょっと肌寒いんじゃない? と言われたかもしれない。

 こんなことも考えた。トモであれば、転校生が気分悪く過ごしているときとか、少し傷ついたときとか、機嫌が悪いとき、自分のことのように深刻に考えてくれるのではないか。このときにはもう、トモが転校生のことを異性として好ましく思っていて、この子の前では恰好をつけたいと考えていて、彼女の力になりたいと考えていることが分かっていた。分かっていたというより、そう決めつけていた。結局トモがどんな風に考えていたかは知らないし腹を割って話したこともないけれど、桜大に伝わっていることもトモは分かっていたと思う。

「そんな感じで、本当は心でどう思っているのかを確認するときに、あの人形を使っていたらしいのね。やり方は分からないけど。鉛筆を転がすみたいに姿かたちで判断したのか、実際に姉に相談するつもりで、姉だったらどう言うかな、みたいに考えていたか」

「それじゃああの人形ってとても大事なものなんじゃないの?」トモがこう尋ねる。心から転校生と、その家庭を心配している様子だ。

「お父さんにとってはね。でも私とかお母さんにとってはそうでもない。そうでもないどころか、多分、お母さんより人形の言うことを採用しているところがあって、それがお母さんも気に入らないみたいで。要するに夫婦感の危機を招きかねないのよ。だからあんなの、呪いの人形だよ」


 後日、報告があった。

 トモが人形を持ち帰ってから七日後のことで、トモはその場にいなかった。桜大にはトモがいないときを見計らったかのように見えたので、そのときのことは印象に残っている。

「あの人形、お父さんの亡くなったお姉さんのものだったって言ってたでしょ? あれ、違ったみたい」

「違った?」

「お父さんのお姉さんは普通に生きてた」と言って転校生は笑った。

「なんかね、お姉さんのお友達に貰った人形だったみたい。それこそ、お人形みたいに可愛らしい女の子らしかったんだけど、その人が転校しただかで、会えなくなっちゃったって。それがお父さんの初恋」

 それがお父さんの初恋、とは何か唐突な気がした。

 とにかく、亡くなった人というのはいなかったらしい。良かった、と桜大は思った。「呪いの人形」なんて言うから物騒なことを連想してしまったが、よくよく聞いてみればあの人形は淡い初恋の残りかすみたいなものだった。そう考えると、記憶の中のあの人形も可愛らしいものに思えてくるものの、初恋の残りかすを、結婚して子どもまでできた家庭の中に住まわせていることに強い執着も感じた。転校後、その少女とお巡りさんのお姉さんとの関係がどうなったかは分からないが、転校生は姉に人形を渡したらしい。お巡りさんはそれを盗んだ。姉から人形を隠し続け、自然に進路が分かれて以降は負い目が仇となってか疎遠となり、成人して以降はまったくと言って良いほど接触がないらしい。

 誰にも語られていないお巡りさんの姉の様子が何故か目に見えるような気がした。どんな人なのか、どんな声なのか、どんな姿なのか分からない漠然とした「少年時代のお巡りさんの姉」という人が、見たこともないお巡りさんの実家で、人形を探し回っている。顎を前に出すように急ぎ足で、家の中を歩き回る少女の姿。お巡りさんはそんな姉を無視し続けている。何を聞かれても「知らないよ」、「知らねーって」と繰り返し、母親に泣き付く姉を見て複雑な気分になっている。彼は彼で悪い人間ではなく、ただ姉の友人のことが好きで、その子の匂いが残っていそうな人形を自分のものにしたくて、少々常軌を逸した窃盗と隠匿にエネルギーを使う日々を過ごした。そのエネルギーはきっと性エネルギーの成せる業で、あの子のモノを自分のものにしたいという欲求が幼い形で表れた結果だった。

 幼い頃とはいえ、盗みを働いた過去を抱えながら警察官という仕事をするのはどういう気持ちなんだろう、と桜大は思った。盗んだ人形を転属先の町へ持ち運び、戸棚に飾って、たまに人生相談をする。姉の大事な友人の大事な人形を横取りしておきながら町の治安を守ろうだなんて、自他ともに、認められることなのだろうか。

 一方で桜大は、そんな人だからこそ、警察官という道を選んだのではないか、とも思った。もちろんもっと曖昧な言葉で、朧気な思考でそう感じただけだが、きっとどこかで過去の罪を抱えた人の哀れさとか、人生が汚れた感覚を抱え続けなきゃならない幼い選択に同情していた。あの人にも可哀想なところがある、と思った。少なくとも自分はあの人形のことであの人を責める気にはなれない。自分の人形じゃないし、お巡りさんのお姉さんもその友人も、知らない人だし。

「取り返しのつかない要素」というのがゲームにはけっこうあって、このタイミングで取らなきゃ今後絶対に手に入らないアイテムだとか、ここで仲間にしなければもう仲間にする方法がないキャラクターだとか、意地悪にもいくつか用意してあるものだ。

 幼い頃のお巡りさんにとって、姉が持っていた人形はその類のモノだったのではないか。客観的な事実としては、人形を盗み、隠し続けたことによって、「取り返しのつかないコト」をし続けているのだが、彼にとって、盗みを働いてでも手に入れなければならないものだったんだろう。

 答え合わせのときが来ている。姉と疎遠になり、初恋の女性と再び巡り合うような運命にもなく、妻と子に不審がられている。これ以上人形を保持するのであれば、この取り返しのつかなさはより進捗し、多くのものを失ってしまうかもしれない。

 桜大たちはこのとき、どれだけ大人びたことを話しただろう。愛だの恋だののことは分かり始めているとは言っても、妻より人形を正式の相談相手として選ぶ夫に対する不審や不満のことはどれだけ理解できただろうか。盗んでしまった過去が過去の一時ではなく、盗んでしまっている今にまで引き続いていることの重さをどれだけ理解できただろう。

 盗んだ過去の一点ではなく、盗み続けている現在、という話題のときに二人は英語の過去形と現在完了形の違いがよく分かった気がした。エウレカの瞬間を同時に向かえて二人は一瞬、本来の話題を忘れて喜び合った。

 桜大にはそんな記憶があるが、果たして小学六年生当時、英語の勉強なんてしていただろうか? とも思う。ましてや現在完了形など小学校で習うものだろうか?

 記憶がどこか抜けている、とは思うが、転校生の父親を教材にして、転校生と共に、「分かった」瞬間を迎えてすごく笑ったことははっきり覚えている。

「盗んだ」のは過去の一点。そういう人形もあったなあ。あれどうしたかなあ。まあ昔の話。すごく小さい頃の話。それが過去。

 一方、盗んだ人形をまだ持ち歩いていて、飾っていて、その気になればいつでも返せる状態にある今は、昔から今までずっと盗んでいる状態が続いている。つまりまだ盗みを働いた罪の意識を持っている。これが過去形と現在完了形の違い、なのではないか、というようなことを二人は話した。

 黒板に図を描きながら、二人はもう、ほんの数十分前までは全然意味が分かっていなかった過去形と現在完了形の違いを体感しているにも関わらず、本来の話を遠ざけたいみたいに、答え合わせをし続けた。

 二人とも分かっているはずなのに、言語化しようとすればするほど、何か間違っているような気がしてきた。人形を盗む、という行為とそれにともなう実感、罪悪感を指して過去形か現在完了形を区別しようとすると、間違いが生じてしまいそうだと思った。

「だから、言うときにね、今のことを言っているか、過去のことを言っているかなんだよね」とまとめのようなことを転校生が言う。自分で言ってから、ふと気づいたような顔をして「ちょっと、人の父親を教材にしないでよ!」とか言って、転校生は桜大より笑う。人形の絵を描きながら笑う。桜大は転校生のことを、良い奴だな、と思う。転校生はお巡りさんの制服を着た父親らしいイラストを描く。さすが毎日見ているだけあって、お巡りさんの服がちゃんと描けている。普段なかなか使う機会がなく長いままの青いチョークをここぞとばかりに使って描く。なかなか上手い。お巡りさんが人形を持っている絵。その隣に人形を後ろ手に隠す絵を描こうとして、それはうまく描き表せず、誤魔化すように自分の背中にチョークを隠して桜大に挑発的な目線を寄越す。追いかけて、背中に回している手を取って、チョークを奪っても良かったかもしれない。そうしかけた。転校生のお尻を追いかけるようにして手を伸ばすと、尻尾を掴ませまいとするように体を捻り、回転しながら、極端に机と椅子が少ない教室の中を走り回る。逃げられれば追いたくなる。この瞬間に「女の子を追いかけている」自分に自覚的になり、急に恥ずかしくなる。このじゃれ合いをトモに見られたら、と思うとこれ以上深追いしてはいけない、と思うがもう遅かった。教室はいつも開け放してあり、実質ドアはなく、廊下に今、トモがいたような気がする。桜大は、ああ、もう、とか何とか、少し不機嫌になったような声色だけを彼女に伝えて、「帰るぞ、そろそろ」と言って黒板の図を消そうとした。

「ちょっと待ってよ」と転校生が教室の向こうの方で言う。

「だから、あの人形をどっかにやっちゃって欲しかったのね」と、何が「だから」なのか、どこと繋がっている言葉なのかよく思い出せないことを言いながら教室の前へ来て、桜大の返事を待つ前に「どっかにやっちゃって欲しかったんだけど、やっぱりお父さん可哀想でさ、返して欲しいなーなんて言ったら、怒る?」と言う。言って、黒板の絵を消す。青いチョークを後ろ手で隠していたので、転校生のジーンズ生地のハープパンツに目立たない青色がついていることに桜大は気付いた。桜大はほとんど無意識に、「怒らないけどさ」とか言いながら彼女のそこをはたき、取れない、と言ってもっと、自分のハンカチを出して色を取ろうとするが、このときまた、女の子に触れていると自覚してしまう。気になるのはトモの視線だが、彼の姿はもうない。もうないのが不穏に感じる。桜大たちはいつも一緒に帰っているのだから、本来、今この時間に彼がいないのは珍しいことだ。トイレに行ったか、何か用事があったのか知らないが、さっき廊下の方で見えた影がトモではなかったか。入って来ないってことは、そういうメッセージなのではないか。やはり追いかけっこを見られて、拗ねてしまったのかもしれない。

 人生にはセーブポイントがない。ゲームであれば小まめにセーブして、セーブデータをいくつか複製しておいて、やり直しができるようにしておくことで、ある程度は取り返しのつかない要素を回避することができる。

 のになあ。と思う。セーブしてやり直せたらなあ、と思う。なんか、どんどんバランスが崩れていく。しかしこの程度のことでやり直しなんかしていたらいつまで経っても今日から抜け出せない。取り返しのつかないことをいかに取り繕うかが、人生なのだ、と彼は朧気に悟る。バランスを取っていかなきゃならないんだ。二人のときは簡単でも、三人になったら随分難しくなる。

「別に怒んないけど、僕、あの人形が今どこにあるか知らないよ?」と桜大は答えた。嘘がつけた。咄嗟に嘘をついたのは何故だったか。きっとバランスを取ろうとした。

「そうなの? え、もう捨てちゃったとか?」

「いや、トモに任せた。から、分かんない」トモの手柄にする思惑があったのに、この流れだと、トモに全て責任を負わせていることになってしまう、と思いながら、深く考えられずにいた。

「じゃあトモくんが知ってる?」と聞かれたので、桜大は頷く。今日、今この話はしかし、トモがいない隙を見計らってされたような気がしていたので、転校生の反応は少し意外なような気がした。トモがいない隙を見計らった、というのは勘違いだったのか、と思っただけで、やはり深くは考えなかったけれど。

「じゃあごめんだけど、トモくんに場所、聞いといてくれないかな。せっかく隠してくれたのに悪いんだけど、場所が分かったら私、自分で取りに行くからさ」

 本当は、トモと桜大は一緒に人形を埋めに行った。

 だから本当は桜大も彼女の人形がどこに埋まっているのか知っていたのに、どうしてか、本当のことを言わなかった。こうすれば、転校生はトモに詳しい場所を聞きに行って、今みたいに束の間、二人きりの時間が作れるのかもしれない、と計算したのかもしれなかった。しかし浅知恵で、今桜大がついた嘘はすぐにバレるだろうし、やはりどことなくトモを避けているように見える転校生は、トモと直接話したくないようだった。

 何故か転校生はトモに直接聞くという選択はせず、あくまで桜大経由で人形の居場所を知ろうとした。

 大人になるにつれて、彼女はトモに好意を寄せられていることに気付いていたのではないか、と考えるようになる。

「好き避け」という言葉を知ったときに、これだ、と思った。桜大はこういうことが多い。過去にモヤモヤした事象には、大体名前がついている。桜大は気楽な性格だが、モヤモヤはずっと抱えていて、ふと言葉に触れて解消することが多い。

 あのとき転校生が陥っていたのはまさに好き避けの心理だったのではないか。トモのことを好きだったのかどうかは、あの当時、本人も分かっていなかったかもしれない。小学六年生の女の子だ。恋愛に興味があってもおかしくないし、まだそんな感情や行為に拒否感があってもおかしくない。一方トモは、転校生に対して好意をあまり隠していなかったと思う。桜大が普段接していて気づくくらいには、彼女のことが好きだ、という気持ちはあふれ出ていたから、本人にも届いていただろう。それを満更でもない気持ちで受け止めれば好き避けのような現象になるだろうし、潔癖ゆえに純粋な忌避間や嫌悪感となって避けてしまったとも考えられる。いずれにせよ、トモの恋心が彼女にとって壁だったのだ。そう考えると、まだ異性に対して潔癖な彼女は、犬のように下心なく彼女のお尻を追いかけて、親切でお尻の汚れを払ってしまう桜大の方に安心していたのかもしれない。

 もしかしたら彼女は、自分のことが好きだったのかもしれないと転校生がいなくなってから考えたこともある。しかし、だから何なのだ、と思った。当時、仮に転校生が桜大のことを好きだったとしても、桜大にできることはなかった。彼女のことを異性として好きになったことはないし、トモが好きだと知っていたのだから、彼を差し置いて彼女との仲を深めようなんて考えなかった。それにしても、そう言えば彼女は自分のことを桜大と呼び捨てにする一方で、トモのことは常に「トモくん」と呼んでいたな、と思う。呼び方で距離を測るなら、自分の方に詰め寄って来ていたのは間違いなく、それが異性に対する行動なのか、あくまで友情の距離なのかは別にして、トモより近くにいたことは間違いない。いや、その呼び方も、好き避けの一種だったのかもしれない。

 

 当時の記憶と経験と感覚を大学生になった今振り返ってみると、色々なことが去来して、情緒が混線してしまう。自分の中にある意地悪な部分とか、利己的な部分とか、他人を踏み台にして自己肯定感を高めてしまう部分とか、仲良く追いかけ回った日、夜中の逢引、雨の日の紅茶、そういう、静止したままのワンシーンが組み合わさって、自分がいるのだと納得できるが、それら全部を同時に感じるのは少し無理があるような気がいつもするのだった。あの日とあの日を比べると僕は別人のようではないか? あのときとあのときのトモは別人のようではないか?

 あのとき、トモは転校生に好かれようとして、例えば財布の所有権を捨てようとしたのかもしれないし、転校生に頼られたのが嬉しくて、人形を盗んで埋めたのかもしれない。いずれも桜大は行動を共にしたが、前のめりに動いたのはトモの方だった。明らかに、彼女の力になろうと努力していたのはトモの方だし、彼女に良いところを見せようと考え続けていたのもトモだった。

 しかし、転校生が呼び捨てにしたのは自分の方だった。人形の場所を尋ねて来たのも自分の方だった。一度「お願い」したことを取り下げて、やっぱり返して欲しいなんて、言いにくいことを言うならどちらか、と考えたとき、選ばれたのは自分の方だったのだ。

 自分が転校生に友情以上の好意を持っていなかった、という点は大きな要素として確実にあるけれど、それにしても、もし自分が彼女のことを異性として意識したとしたら、その心と身体を手に入れる確率が高かったのは自分の方だった。そう考えたときの優越感はずっと、桜大の心の底の方で、自分を肯定する重要な素材となっており、はっきり言葉にするとすれば、トモより自分の方がモテる、という確信となって、桜大の腹の底を温めている。ときにはその後成長した転校生の身体を想像してしまうこともあった。もう少し胸が膨らんで、足が伸びて、だけど背は自分より低くて、もともと細身の身体の印象はそのままで、その身体のあちこち、自分の身体のように探ることができたかもしれない未来を考えた。顔だって、何ら特徴のない普通の女の子だ、と思っていたけど、あのまま成長したらこんな感じかな、と映画で見た脇役の女優を見て考えた。こんな子と、付き合えたかもしれないんだよな、麻衣ほどじゃなくても、普通に可愛い子と。

 当時小学六年生の桜大が、転校生の女の子によって不意にもたらされた優越感や自己肯定感を態度に表さずにいられただろうか。言葉にできないまでも、こうした小さな経験から培った自己肯定感は、言語化されていないだけに疑いの余地がなく、端々でトモを見下すような態度となって表れたのではないだろうか。

 翌日、三人一緒にいるときに、転校生はトモに話しかけた。桜大の援護があると見越したような喋り方で、事情を既に知っている桜大を頼りにしているような仕草と身体の動かし方、だと桜大には感じられる目配せや手の動きで、トモに、人形をやっぱり、掘り返して欲しいと言った。もちろん、場所さえ教えてくれれば自分で行く、とも言ったけれど、転校生は当然、桜大がついてきてくれると思っているようだった。二人は昨日誰もいない教室で、追いかけっこのようなことをしたのだ。それがどうした、と大人は言うかもしれないけれど、二人は昨日のあの時間で随分打ち解けたと思っている。その感じを裏切るのは少し勇気がいる。多分、トモがいかなくても桜大がついてきてくれる、と転校生が考えていることは、トモにも伝わった。

 だから、なのかもしれない。「忘れた」とトモが言ったのは。

「忘れたって、埋めたの一週間前とか、でしょ?」と転校生が控えめな口調ではあるが食い下がり、三人は一瞬、黙り込んだ。

 自分は埋めた場所を知らないと言った手前、トモが忘れたと言ったのであれば、否定するわけにもいかなかった。桜大はもちろん場所を覚えていた。忘れるわけがないことも分かっていた。まだ日が浅いこともあるが、分からなくならないように場所を決めたのだ。間違って掘り起こされるでもなく、誰かの迷惑になるでもなく、自分たちが忘れない場所に埋めた。リフト小屋の真下だ。夜中に潜り込んで埋めた。

「一緒に行ってみたら分かるとかない?」

「んー、まあある程度は分かるかもしれないけど、夜中に適当に埋めたから」とトモが言う。「なあ?」とか言われたらどうしよう、と桜大は思ったけれど、トモは桜大の方を見もしなかった。トモは、埋めるのはトモに任せたから分からない、と昨日言ったのを、聞いていたのかもしれない。

「行くだけ行ってみようよ。まだそんなに時間経ってないし、埋めた跡が残ってるかも」とか何とか言うが、トモは「でも、夜中に出て来れる? 日中はけっこう、あの辺は人がいるから、行けないよ」と、俺も掘り返したいのは山々だけど、と言った表情を一応作りながらも、誤魔化していなして取り合わなかった。「無くなって良かったんじゃないのか?」とか、「そうやって取り返したいと思うこと自体、なんかちょっと怖いっていうか、あの人形の意思があるような気がするな」とか言う。いや俺さ、別にそういう心霊現象とか、呪いとか信じてるわけじゃないんだけど、あの人形を埋めるとき、なんか声が聞こえた気がしたんだよ。ほんとは言いたくないんだけど、あれ、本当にヤバいんじゃないのか?」

「呪いの人形って言ったけど、あれって、あれがあるとお母さんが怒るからそう言っただけだよ? そんな呪いとか、あるわけないよ」と転校生は食い下がるも「分かる、分かるんだけど、俺心配なんだよ。ちょっと普通じゃないって言うか、だって、おかしいだろ、あんな人形、掘り返してまで取り返したいなんて。俺お前が心配なんだよ」

 埋めた場所を口で説明するのも簡単だ。リフト小屋の下だ。頂上の方ではなく山裾の目立つところにあるリフト小屋。あの辺に人なんて滅多に来ない。真昼間に行っても誰にも見つからないだろう。だけどそういうこと全部、桜大には言えなかった。トモに任せたから分かんない、と言ってしまったからだし、トモが忘れたと言うからだ。それに掘り返すことを明らかに良く思っていないから。トモは嘘をついているが、どうしてか桜大が口を挟まないことを知っているみたいだった。転校生が桜大は掘り起こしについてきてくれると思っているのと同じくらい、トモも、桜大は口を挟まないと知っている。あれが「本物の呪いの人形なんじゃないか」と心配するのは、良い言い逃れという気がした。トモは呪いなんて信じてないし、本当は桜大も一緒に埋めたのだから、声が聞こえたというのも嘘だと知っている。トモは多分、怒っていたんだと桜大は思う。まず桜大に相談して、桜大と示し合わせたような顔をしてトモのところへ来たことも、盗みを働かせてまで目の前から消した人形を埋めろと言ったり、やっぱり取り戻せと言ったりしたことを。トモは転校生のことが好きになりかけていたけれど、多分普通に幻滅もしている。

 どうしてそう思うかと言えば、桜大も、この二対一の構造に不快感を持ったことがあるからだった。トモと転校生二人で、まるで桜大の家に何か問題があるんじゃないかって顔で、色々お節介を働いて来た時期が束の間あった。あのときは二人に見下されている気がしたし、転校生のことも、トモのことさえ、不愉快に思っていた。同じことをしてしまってるんじゃないか、と桜大は思った。同じどころか、トモがもし彼女のことを好きなのなら、今僕と転校生が示し合わせてトモを説得するようなことがあれば、不快では済まないだろう。裏切りに近いと思う。桜大は何も喋れない。転校生の応援をすることもできないし、トモに賛同することもできない。

 この結果どうなるかと言うと、転校生は改めて桜大に相談に来た。一緒に掘り返しに行こうと言った。また二人きりのときだった。

 桜大にはそれはできなかった。トモが嫌な気分になることが目に見えていたから。トモと自分が本来はセットなのであって、お前と僕が一緒に動いちゃだめなんだ。もちろんそんなことは言えない。代わりに「だから、僕は埋めた場所知らないんだって。トモもよく覚えてないって言うんだから、探す範囲が広すぎるよ」とか何とか言ってごまかした。「それに、やるならやっぱり夜だよ? 夜中とまでいかなくても、夜ご飯のあと。抜け出せるの?」と桜大は、彼女がそんな時間に抜け出せないことを知っていて言った。お巡りさんの子が夜遊びなんて許されるはずがないのだった。父親よりずっと、母親の方がその辺は神経質なのだということを、この頃にはもう、桜大は知っていた。

 

 桜大もトモも人形の在り処は一向に教えようとしなかった。当然転校生は、場所を絞ろうとし続けた。山の裾の方なのか、中腹なのか、森の中なのか。トモは聞かれる度に答えを変えているようだと桜大は思った。しかし当の転校生は、トモの微妙に変わっていく説明を不審がる様子もなく、前と言ってることが違うと食い下がったりもせず、まるで本当に二人で宝探しでもしているかのような様子でいる。見ていると不安になる。転校生がいつ怒りだすか分からないし、トモもいつ耐えかねて、桜大も一緒に埋めたんだからあいつにも聞いてみろよと言い出すか分からない。不思議なことに桜大が心配するような展開にはならない。二人とも、埋めた人形と、人形探しに囚われたまま一歩も前へ進まないみたいに過ごした。

 トモの返答に悪意があると感じれば感じる程、素直に話を聞く転校生の素直さが惨めにも、不気味にも見える。

 トモの言い方はズルかった。

「中腹までは行ってないと思うけど、あんまり裾の方でもなかったよ。少しは上ったと思う。ほら、あんまり人が歩くところだと、いつ出て来てしまうとも限らないから」

 そう言ったかと思えば、「もしかしたら急斜面コースじゃなくて、緩やかコースの方から上って、リフトの方に向かった辺りかもしれない。向こう側にリフトのポールが見えていたことは確かなんだ」とか言う。それが具体的にどこなのか、スキー場の景色をよく知っている桜大には全然分からないのだけど、ほとんど切羽詰まって焦っているように見える転校生はとにかく言われた通りに歩いてみて、結局広い広いスキー場の斜面の、どこを指しているのかなんて分からないまま、土日の日中を、下を向いて歩いて過ごす。

 トモは、その場ではまともそうなことを言うのに全然ついて行こうとはしなかった。桜大に言わせれば、トモこそが呪いの人形に憑りつかれているように見えた。人形を捨てるように言った転校生に恨みを持っている人形の意思で接しているんじゃないか、と思うが、あまりに非現実的な考え方だ、と思った。オカルトなんて、全然好きじゃなかった。

「熊が出るから登んな」と言われたらしい。誰に? と聞くと、分からない、と答える。分からないにしても、どんな人だったのさ? と聞いても、そんなの、分かんないよ、と半笑いで転校生は言う。分かんないって何、男の人? おじさん? シーズン前にロッチの点検とかしてる人じゃないの? と聞くと、そんなの、知らないよ、と言う。こちらを馬鹿にしたような言い方に少しカチンと来る。いや、知らないんだろうけど、分かるじゃん、スキー場の関係者っぽい人だった? と桜大は、もう自分でも、ここまで聞かなくて良いだろうと思いながら、詰問したい気分だけで転校生に噛みついてしまう。登んなって言われたんだろ? 顔を合わせたんだろ? と問い詰めても、覚えてないよ、下向いてたし、とか何とか言って、いよいよ返答がおかしいなと思う。なんだこいつ。おかしいな、なんか、変な臭いもするし。熊が出るっていうのは本当なんだろう? 糞か何か見つけた? いや、私熊の糞なんて見ても分かんないよ、とまた半笑いで答えるのがやはり、いかにも人を馬鹿にしているようで、桜大は投げやりな気分になる。ああもういいや、どうしてこんなにヘラヘラ笑っているんだ、と思ったとき、そう言えば、人形の埋めた場所を考えるときのトモもこんな顔をしているかもしれない、と思う。何か変だ。変なことになってる、と思いはするものの、まさか心霊現象と結びつけるようなものでもなく、今考えると、というか今この話をもし、秋谷優などにすると、オカルト好きの彼は食いつくだろうけど、考察を始めたりするだろうけど、言えない。そんな風に解釈されると切ない気持ちになるし、人形を埋めた記憶ははっきり残っているのだから、今も少し罪悪感がある。嘘つかなきゃよかったかもなと、思うだけならまだしも、声に出してしまったらダメな気がする。


 交番のお巡りさんが落とし物を自分の家で使った、という噂が流れた。

 転校生が登校しなくなって二週間ほど経った頃だった。まだ初雪までは間がありそうだ、という時期。雪が降ったら終わりだから、その前に何とか人形を掘り返そうと、学校を休むことにしたらしい。トモが転校生から直接そう聞いたらしいが、彼女がトモの家に来て、そんな話をしていったことをとても自慢気に話していたことが桜大には強く印象に残っている。

 桜大は、転校生の母親がそんなことを許したのだろうか? と疑問に思ったが、まあ、決めつけすぎていたかもしれない、とも思うのだった。ほんの何回か会っただけだし、お母さんの方が厳しいというのは、転校生が言っただけだし。お父さんよりお母さんの方が、という意味で、それが、自分の母親より厳しいと言ったのではないわけで。そんな風に、深入りしないための考え方が少しずつ発達していく。

 お巡りさんが使ったのはガス缶だったらしい。そんな落とし物があって、誰かが届けたのか、と思うと可笑しかったが、お金とか携帯電話とかじゃないことが、何だかリアルに思えた。確かに、ガス缶くらい、と思うかもしれない。鍋を食べようとして、丁度ガスが切れて、そう言えばガス缶の落とし物があったな、と、お巡りさんは思ってしまった。よくある、三本セットになってて、厚紙の包装でまとめられてるやつを一本取り出して、家で使った。それがどういう経緯で露見したのか、それでどれだけの処分を受けたのかは誰も知らないが、多くが「落とし物に手を出すヤツ」としてお巡りさんを覚えたことは確かだった。

 この時期桜大はインフルエンザにかかる。まだインフルエンザにかかるには早い時期だった。なにせまだ雪も降ってなかったし、記憶では例年、年明けとか卒業式シーズンに流行ってたイメージだから、どうしてこんな、季節外れのインフルエンザになんてかかるんだろう、と思いながら窓の外を見ると、山が見える。歩き回っているごく小さな点が転校生だと分かって、熱によるものとは違う寒気が走る。だるい身体に鞭打って下階からかつて父が使っていた双眼鏡を拝借し、覗き込んだ。

 相談相手が土中に埋まったままで、娘が一向探し出せなかったからなのか、転校生の父親は、間違いを犯し続けた。落とし物を私物化したのはガス缶に留まらなかったらしい。所詮、らしい、という話でしかないのだが、その後、見回りの一環で足を踏み入れた公的な施設からトイレットペーパーやハンドソープの在庫を盗んだという話が間違いなく事実だったらしいので、落とし物を私物化した疑い、などはもう何だか些末な話に成り下がって、嘘でも本当でも良かった。

 桜大はあの当時のことを思い出すのだけど、実にあっけなく、一緒にいたことが嘘みたいに思えるくらい、転校生は静かにいなくなった。結局一年いなかったことになる。クリスマスやお正月は三人で何かしようと思っていたのに、どちらも例年通り、トモと、何人かの上下の学年の子たちと過ごした。クリスマス会も年明けの瞬間に神社で過ごすのも楽しかった。楽しかったから、転校生のことは忘れていて、一年足らずでけっこう仲が良くなったはずなのに、一緒にいた実感が上書きされてしまったようだった。

 双眼鏡を覗いて転校生を見たとき、レンズ越しに彼女と目が合ったのは多分、勘違いじゃなかったと思う。恨みがましい目をしていたことも、多分、気のせいではなかったと思う。

 桜大はあの目を忘れられない

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