『本物のお通夜』

 偶然、と言って信じてもらえるか分からないが、トモの三回忌と称した同窓会が開かれた日に、中学時代の恩師の通夜があった。ほんの二日前に決まったことである。浜中先生という社会科の先生で、桜大たちから見れば、当時から定年退職していないのが不思議なほどおじいちゃんのように見えた先生だった。実際にあの頃、先生は幾つだったのか分からないけれど、定年間近だったことは確かだと思う。

 恩師というのは多少大げさな表現で、単純に、生徒に好かれる先生だったというだけのことだった。特に桜大の人生を左右するような訓戒を受けたというわけでもないし、大きな危機を救ってくれたというわけでもない。普通に穏やかな授業をして、授業内容にせよその他のことにせよ分からないところがあれば、先生の世界には時間というものが流れていないのかもしれないと思わせるほどゆっくり丁寧に教えてくれたという印象があるだけだ。つまり桜大たちが教師に期待することを普通にやってくれた唯一の先生だった。

 そんな先生でも死ぬのだ。

 そりゃトモだって死ぬ。

 おかしいことじゃない。

 変なことじゃない。

 大きな不幸じゃない。

 まだ若いとか、幼馴染だったとか、そういうことと死との間には、直接的な相関はない。これはただ、自分がただ、そういう情報を過度に意味あることとして評価してしまっているだけだ。死は死でしかない。大丈夫。大丈夫。

 死ぬのはおかしいことじゃないが死体がなくなるのはおかしい。今すぐにでも探してやりたいが先生の通夜に出るのも大事なことだった。一大事ではあるものの、途中から割り込んで来たトモばかりを優遇するわけにもいかない、と桜大は思う。思うようにして、動いている。

 会場は斎場ではなく、先生の実家だった。つい四日前、ゴールデンウイークの混雑した道路で悲惨な事故があり近場の斎場が埋まっていたこと、寺の住職もそちらにかかりっきりで、寺の方ではまた別の通夜が執り行われるということで、先生の通夜は昔ながらの「家でやる」という結論に至ったらしかった。普段は人の存在なんてあってないようなものの地域でも、こういうときにはしっかり影響が出るものなんだな、と桜大は思った。そうか、住職の檀家さんは割と方々に散らばっているのか、とか、住職は一人、副住職と、二人だとそりゃ、すぐに手いっぱいになるよな。

「昔ながらって、どれくらい昔なの? 家でお通夜をするって」と麻衣が言った。「今の八十歳が子どもの頃くらいじゃない?」と桜大は適当に答えた。

 家で通夜を執り行う、という結論に至るまでに少し時間がかかり、先生が亡くなってから二日もの間、先生はご自宅で、保冷剤で全身を冷やされたまま過ごしていたというのだから不憫なものだ。そう考えるとトモは保冷剤無しでもう数日を過ごしていることとなり、山野に捨てられたならもうとっくに野生動物の餌食になっているか水に捨てられたなら浮かび上がってくる頃かもしれない。いずれにせよ生前に近い姿のままでいる可能性は低いだろう。解凍した肉からはなんかよく分からない血みたいな液体がたくさん出てくるもんな、トモもあんな感じなのかな。

 トモの死体を早く見つけなければという焦りが無いことは無かったが、トモの死体を見つけて、そのとき咄嗟に駆け寄れなかったり、触れなかったり、異臭に顔をしかめたりしてしまいそうな自分というものも予測していて、そういう自分の部分と向き合いたくない気持ちがあった。それに、桜大たちにとり、何十年も昔に遡った場所にぬるりとタイムスリップするような昔ながらの通夜、というイベントは、先生には申し訳ないけれど好奇心をそそるものだった。

 先生の授業を受けていた当時、先生はお母さんと一緒にそこで暮らしていると言っていた記憶がある。よく桜大はトモと一緒に、先生の家で、先生の息子二人と遊んだりしたものだから、先生のお母さんという人にも会ったことがあるけれど、ほとんど自室から出てこない、小さい小さいお婆さんで、孫と桜大たちを区別できているのかどうかもよく分からなかった。そのお母さんももう亡くなっていてしかるべきだから、二人いる息子が家を出てからは先生一人で、あの赴きある古民家で暮らしていたのだ、と思うと寂しいような気分にもなった。

 通夜は本当に夜を徹して行われるらしかった。隣保班の面々が葬儀を取り仕切り、通夜振る舞いの用意、弔問客への対応、住職との打ち合わせ全てが流れるように遂行される、というのは桜大の希望的な妄想もしくは勘違いで、こんな古風なやり方、段取りを知っている人など誰もおらず、先生の通夜は類まれな慌ただしさを呈していたらしい。そもそも住職となかなか連絡が付かず、二進も三進も行かない状況で突貫工事的に作られた通夜の席だった。

 それはそれで楽しそうではあるが、関わる人間も皆家族なり仕事なりがある身であり、こんなことはもうこりごりだというのが本音で、深夜零時を回った頃には、こんな目に遭わせた先生への恨み節が酒気混じり、冗談混じりではあるが先生の家中を駆け巡った。住職は大きな葬儀の仕事の合間を縫って、簡単に通夜経と、翌日の葬儀を極簡単にこなしてくれる約束をしたらしかった。昨今ではバイトの僧侶をレンタルすることもできるということで、一度はそれでもかまわないのではないか、何なら誰か、見様見真似でお経を唱えても良いくらいではないか、浜中先生はユーモアの人だったし、それでも構わないと言いそうじゃないかと誰かが言ったらしいが、それもそうだがさすがにそれは故人に甘えすぎなのではないか、先生が良くても我々が後に悔やむことになるのではないか、ということで、素直に住職にお願いすることにした。

 先生はユーモアの人だっただろうか。

 突貫工事のような通夜だったし、住職が忙しいことは周知のことだったので、何もかも簡易版ということで、しかしお布施はそれなりにきちんとしており、住職にとってみれば本業の合間にちょちょいと副業で稼ぐみたいなもので、きちんと故人を送れないことが遺憾であると口では言って、渋面を取り繕っていたらしいが内心ボロい通夜だったと心は温かなものなのではないか、などと、やはり先生を責めるのと同じ温度と湿度を保った口調で住職への悪態も家中を駆け巡った。

 浜中先生の通夜があると知っていた上で、桜大はトモの家へ向かう途中ワクワクしてしまっていた。かたや悪ふざけのような三回忌、かたや本物の、古風なお通夜。内情、そんなに慌ただしいことになっているなんて知らなかったけれど。

 桜大たちはミサキの部屋で、香典袋に名前と包んだ金額を書いていた。薄墨の毛筆は浅霧兄妹が帰省時に過ごしている家(実家というわけではない。伯母の家)から持ってきてくれた。ミサキは浜中先生の授業を受けたことがないそうで、少し蚊帳の外という扱いになっていたかもしれないことを、桜大は何となく気にしていた。桜大たちはミサキの前で浜中先生の話をして、通夜に出るという些か大人びた予定をひけらかすような言動をしていた。優がいたのが多少の緩衝材になったかもしれない。蚊帳の外と言えばただの大学の友人である優の方が、名実ともに蚊帳の外であった。

 しかし、なによりミサキにとって、桜大たちに次の予定があることが不愉快だったのではないだろうかと桜大は気にしている。印象として、そう感じさせてしまっているようなオーラを感じながら、桜大はあえて三人の世界に逃げ込んでいたと思う。そのときは深く考えてなかったけれど、桜大たちが去り、いつもの家族で、姿を見せないが故に何よりも不気味な重力を放っている兄の存在を感じながら日常を維持するのは非常に心細くなることなのかもしれなかった。天彦があんな風に、やたら町の未来がどうとか言うのは、もしかしたら不安を抑え込むための代償行為だったのかもしれない。おばさんはいつも変わりないように見えたが、それだって本当は不安定すぎる家庭の空気に呑まれまいとする意思が頑なに「いつも通り」を演出させているのかもしれない。桜大たちはそんな中に上がり込んで、同窓会気分で過ごす呑気な害虫だった可能性があるのだ。

 そう思っていた時間もあった。トモの現実的な死。そして死体消失。あの家族に対する様々な疑念が、トモの家に束の間滞在した記憶をかき乱している。本当に? 本当にトモは死んで、本当にトモを隠して、本当におばさんもミサキもそのことを知らなかったのか? あのドアの向こうにいたのは誰? それが何より問題だろう。何よりトモのフリをして生きている人物が問題だろう。

 トモの死体を探さなければならない今は、ただいくつかの不安感情と、やはり少し、抑えられない好奇心が綯い交ぜになっているのが分かった。

 先生のご実家に付いたのは、十時近くなっていた。実際に夜を徹して故人と過ごす古風な通夜をしているからと言って、こんな時間から顔を出すのは非常識だったかもしれないが、それはそれ、桜大らは桜大らで友人の三回忌があったのだから、ある程度仕方のないことだった。先生が眠っている仏間で線香をあげて、到着が遅くなったことを先生に一頻り謝る。同時にトモの三回忌だったこと、まあこれは、架空の三回忌なんですけど、それで集まったら、本当にトモが死んじゃってるって話になって、だから、先生、そっちでトモのこと、よろしくお願いします、というような祈りを捧げた。我ながらふざけていると桜大は思った。ふざけていたわけではないけれど、桜大にはとにかく現実味というものが感じられないままだった。

 

 二個上と三個上の学年に浜中先生の息子がおり、二人とも高校を卒業してからは近隣の町の役所にそれぞれ勤めていた。役所の所在地に居住しているとは言え、それぞれ車で二十分ほどの距離なので頻繁に実家に帰ってきてはいたらしい。先生が亡くなっているのを見つけたのも長男の啓介君で、聞いた話では、亡くなってからそれほど時間は経っていなかったようだ。案外先生は寂しさを感じずに日々を過ごしていたのかもしれないと思うと少し安心したけれど、一方で桜大は少し他人の心情を勝手に想像し過ぎているかもしれないと思った。

「死体探しってさ、なんかいかにも小説っぽいよね」と翔が、何だか気の抜けた口調で、桜大の手を突然握るような、不意打ちめいたことを言う。

「死体探しは良いけど、まず目の前のもやもやは、二階にいた人は誰か、だよ。あんなの放っておいて良いはずなくない?」桜大は多分咄嗟に、「いかにも小説っぽいよね」という翔の言葉を受け流そうとした。中学三年のとき、桜大は小説家になりたいという夢を浅霧兄妹、その伯母、そしてトモの前で語ってしまったことがあった。秘めていた夢だったのについ打ち明けてしまった。翔はあのときのことを覚えているのだろう、と桜大は思ったし、それは困るな、とも思った。麻衣も覚えているだろうか。恥ずかしいな、と思った。それは恥ずかしい。桜大はもう小説を書いていないし、小説家になりたいという夢も既に諦めて、今では専らただの小説ファンである。それも月に二三冊読む程度のライトなファンで、彼の人生にはもう何かを書くという選択肢はない。優にはさすがについて来て欲しいとは言わなかった。優にとってみれば、浅霧兄妹がいるから不要だと言われたような気になっているかもしれない、と桜大は思ったけれど、浅霧兄妹に、桜大の大学生活を想起させ得る友人を見せたかっただけで、トモの偽物の三回忌と先生の本物の通夜はまるで違う。だから家で留守番をしてもらっているけれど、それはそれで、招いておいて酷い扱いかもしれない、と今更心配になる。それでも、「いかにも小説っぽいよね」なんて言われたら、優がいなくて良かったと思った。小説と桜大を結び付けるようなことを優の前で言わないで欲しい。大学では大きな夢も野心もない、同程度の意識の高さもしくは低さを持った友人Aとして振る舞っている自分像の、人間としての解像度が少し上がってしまうことを恐れた。それの何が一体避けるべき事態なのか、桜大は説明できなかったし、ならば友人を故郷に連れてくるなんてことをしなければ良いものを、とは自分で思うものの、裏腹という心の働きはあるもので、全ての行動を論理立てて選択できるものでもなかった。

「死体探し」というモチーフに惹かれてしまうのも事実だった。創作に必ずしも経験は必要ない、と桜大は思っていたけれど、実際に幼馴染の死体が消失する、という出来事を体験しておきながら、何も残さないのは怠慢なのではないか、と思った。誰に頼まれるでもないのに、自らが「死体探し」について書かないことを怠慢と感じる程度には、自意識として僕は作家なのだ、と桜大は思って、満更でもないのに、やはりそこに言及されると咄嗟に逃げ腰になってしまうのだった。

 桜大はトモの死を聞いてなお平常運転のこの雰囲気に多少罪悪感を抱きながら、でも、死の実感を湧かせてくれないお前が悪い、と心の中でトモを詰った。

「ミサキちゃんはもちろんだけど、おばさんも、トモの部屋にいるのが別人だってことは分かってるんじゃないかな?」

「そうなのかもね。ミサキの部屋とトモの部屋は隣同士だし、異変があったら気付くだろうし。隠してることはいっぱいありそうだけど、天彦が死体を失くしたってのも、嘘とは思えない」

 通夜に参加しながら翔や麻衣とこんな話をした。まったく、双方に不謹慎である。が、頭の中は先生の通夜に参加することと、トモの死体を探すことで占められていたから、本人たちには自然なことだった。

 桜大たちは例えば怪談話の考察をしているような気分で、実際自分たちが巻き込まれている現状のことを話し続けた。とにかく現実感がないままというか、現実のふりをした何かに付き合ってる感じだった。


 先生の実家は、両親が稲作をやっていたので近隣に広い田んぼと、敷地内には家より大きな納屋があった。納屋の中は吹き抜けの二階建てになっており、遠い過去、まだ先生の両親が出面さんと一緒に大量の米を作っていた時代には、そこが米俵でいっぱいになるらしかった。その光景について先生は歴史の授業中よく語ったが、桜大たちには残念ながら米俵一俵のことすらうまく想像できなかった。

 桜大にとってその納屋は、先生の息子であり先輩の啓介と亘(あたる)が一緒に遊んでくれた場所、という印象だった。真夏の、中にほとんど何もない時期、そこはかくれんぼにこそ不向きだったが、鬼ごっこをするには最適だった。特に啓介は鬼を二階に惹きつけておいてから下へ飛び降りて逃走すると言ったアクロバットが得意で、桜大たちはほとんど彼が挑発的に自分から捕まりに来ない限り、捕獲は不可能だった。今思えば彼は、逃げ足が早い分スタミナが少ないというキャラ設定を自ら作り、そのことを年下の桜大たちにアピールしながら巧みにハンデを作り出し、戦略が立てられるようにしてくれていた。年上らしい、体格もスピードもスタミナも乏しい桜大たちと鬼ごっこというゲームを楽しくやりきるための工夫だったのだが、当時の桜大たちは啓介が本当に「経験はあるがスタミナの乏しい年寄り」だと思っていたし、戦略がうまくいって啓介を捕まえられたときは、自分たちの頭脳の切れを誇ったものだった。

 散々走ったら、納屋の一階、土間の隅に置いてある大きな冷凍庫の中からホームランバーを取り出して桜大たちに渡した。それは鬼ごっこが本格的に終わる合図でもあったので切なくもあったけれど、楽しみでもあった。啓介君は本当に年下の扱いが上手だったんだな、と桜大は思い出す。ホームランバーは啓介が出してくれることもあれば、亘が出してくれることもある。桜大たちはどれだけ納屋に親しんでも、勝手に冷凍庫を開けることはしなかった。

 しなかったはずだが、鮮やかな記憶の中で幼い桜大は、あの冷凍庫を開けたいと思っている。強く思っている。考えている。汗のにじんだ自分の細い腕が、強い意志を持って冷凍庫の方へ伸びている。気持ち悪い腕だな、と思う。細くて、土みたいな色をして、爪が伸びている。納屋の中は木材の香りと、紙の肥料袋、土がついたビニール袋、埃っぽいにおい、カビっぽいにおい(多分これ、カビのにおいだよな、埃のにおいだよな。ねえトモ。これがかび臭いってにおい? だよね)。床は細かい土や砂利が、風の力で、もしくは人や動物の出入りの流れで、均等に薄く薄く敷き詰められているようで、気を抜けば滑る。鬼ごっこのとき、あえて滑るように横移動して危機を乗り越えたこともある。

 気付けば夜と朝が混ざった時間にいる。こういうことはよくある。例えば明け方、一日が朝を目指し始める時間に見当識をあえて忘れ、日付も時間も、方角も、自分の身体の中だけにある眠気とかダルさとか空腹とか、そういうことも全部考えないようにすればいい。意識の内で肉体を捨ててしまえば、それは明け方なのか暮れ方なのか分からなくなるので。目に映る明るさだけ、もしくは暗さだけ、風の湿り気だけの中にいる温度計付き風見鶏のふりをして呼吸をすれば、限りなく肉体を無視できる。自分、というものを忘れ去ることができる。そんなときの清浄さのことは、浅霧兄妹の伯母である深雪さんに教えてもらったのだ、と桜大は知っているが、それはまた別の話。

 車の中が便利だったりした。誰かの運転で、明け方の世界を走っているとき、方角もすぐに分からなくなって、明るい方が東なのか西なのか、咄嗟には分からなくなることができる。分からなくすることができる。考えなければ良いし、感じる方に意識を集中すれば良い。この道は、今の自分は、早朝に釣りへ行く道にいるのか、暮れ方に外食へ出かける道にいるのか分からない、ができる。

 汗だくになった頭。乾いていく汗。

 呼吸を整えながら冷凍庫を見つめる幼い桜大は、冷凍庫の蓋に手をかける。自分の手が自分の手に見えないほど黒いが自分の意思で動く。夏の音が全て止み、呼吸だけがまだ整わない中、蓋をゆっくり開ける桜大の手がある。中にはトモの死体がある。ほら言った! 言っただろ! 気をつけなきゃ! 死んじゃうんだから! こちらに桜大の手とそっくりの形の、しかし青白い手をくっつけた腕を半ば伸ばした状態で固まっている。

 ホームランバーはあれ以来食べていない。ホームランバーを包む独特な厚さの紙の手触りが、桜大は今まで触れた紙の中で一番好きな手触りかもしれなかった。だからと言って同じ紙質のノートがあっても使わないだろうことは分かりきっている。ホームランバーを包んでいた紙だから良い手触りなのであって、一度もあの濃厚なバニラ味のアイスクリームを包んだことのない紙は、折れ目に甘い液体が溜まったことのない紙は、決して同じ質感にはならないし、仮に同じ質感が得られたとしても、ノートやただの折り紙にしてしまったら味気ないだろう。

 そういうわけで、桜大たちは啓介と遊ぶのが大好きだった。桜大「たち」というのはつまり、桜大とトモのことで、当時はまだ浅霧兄妹は全然まったく、桜大たちの世界に登場する気配がなかった。あのときもし、翔と麻衣がここにいたら、と考えてしまう。この件に限らず、ほとんどどんな状況でも桜大は、翔と麻衣がいたらどうだっただろうと考えてしまう。いつもどんなときも、翔と麻衣はいないよりいた方が良いのだ。必ずその瞬間、その場所が数倍輝いて、色濃くなって、印象に残るし、いくつかの間違いも、恥ずかしさも、彼らと一緒なら別に惨めじゃなくなるだろう。

 だから今、浅霧兄妹と一緒に先生の家に向かうということが、桜大はとても嬉しい。トモの死体を探さなきゃならなくなった今に巻き込まれてしまってもなお嬉しい。いや、内心二人とこの厄介が共有できることに強く興奮していて、もうまるで、トモのことを友達とは思ってないみたいな感覚になる。加えて今先生のお通夜に来ている誰にも伝わらないと思うし、あまりに不謹慎で伝えるわけにいかないことだけれど、桜大は翔と麻衣が一緒にいて、思い出の納屋を見せることができて、啓介や亘と会わせることができるのが本当に嬉しく、誇らしい。例えばあとで、納屋で鬼ごっこした話などを二人に聞いてもらうことができれば、二人を加えた形で、思い出の上書きができそうな気がするのだ。

 

 家と納屋の敷地は駐車場というわけではないけれど、駐車場というわけではなかったから、近隣から駆け付けた人の車がいかにも来た順に、入れやすいように適当に入れたというような止め方で、車があちこちに頭を向けて止まっていた。家の周囲と納屋の前を囲むようにあるスペースはトラックが二台か三台くらいは縦列できそうな広さがあったけれど、そこは何せ作業用の通路であり駐車スペースではなく、たくさんの車が整列できるような形にはなっていなかった。おまけにコンパクトカーや軽自動車は少なく、ほとんどが鼻の長い乗用車だった。車に対する知識と興味がない桜大には車種は判別できないけれど、いかにもお年寄りが昔から大事に乗っているというような車がぎゅうぎゅう詰めと言っても良い形で並んでいる。いつかみた津波の映像で、車が何台も無秩序に流されて、ある角に溜まっていく様子を見たことがあるが、先生の家の前に止まった車の姿はまさにあんな風に、もう出るつもりなどないとでも言うように、好き勝手止められているのだった。これでもきっと、銘々が最大限多くの車を止められるよう工夫したのだろう。それぞれが肩身狭そうに、遠慮深そうに佇んでいる。

 車はきっと、入った順とまるっきり反対の順に出ていいかなければならなかった。最初に来た人物が最後に出て行く。親しい順に来て、縁が浅い順に出て行く。まっとうな人間関係、不平等でムラのある人付き合い。この田舎には、そしてとりわけ先生の実家近辺では、そういうものがまだしっかり根を張っているようだった。

 桜大たちがこんなに多くの 車が止まった先生の家にお邪魔することになって、紫煙と相槌に頭が痺れてすぐに立ち去ることになるのは自然なことだった。

 思ったよりずっと座は温かくて立ち去り難かったけれど、桜大たちにはあそこはうるさすぎた。死んだ人を横たえている仏間の隣の障子を取っ払って、広々とした座敷を宴会場としており、テーブルは無く、部屋の壁に背を付けるようにぐるりと座っているそれぞれの前にお膳が、一人前と言うには少々多すぎる量の料理が乗ったお膳が並んでおり、麻衣が、こういう通夜振る舞いのときのお料理って「おとき」って言うんだよね確か、と言っていた。桜大はそのことを知らなかったし、漢字でどのように書くか分からなかったので、頭の中では「お時」とか「お途帰」とか、色々でたらめに変換しては、やはり既に立ち込めている紫煙に辟易していることに気付かれないよう振る舞った。

 タバコの煙に怯むような顔色を窺うような人がいないことは間違いなかった。桜大たちがお世話になっていた頃から高齢に見えていた先生の通夜に集まった人々は、多くが先生と同年代か先生より一回り程度は上と思われる高齢の男性で、二十代は見た所、先生の息子二人と僕らだけだった。先生は二度の結婚歴と二度の離婚歴があり、息子たちは二度目に結婚した若い奥さんとの子だと言う。四十過ぎてからの子供だったと座の会話から窺い知ることができ、そうすると先生はまだ七十にも満たない年齢だったと知り、桜大は妙な納得感と驚きに薄笑いを浮かべて、周りを気味悪がらせた。

 気味悪がらせたというのはしかし、桜大の思い込みもしくは思い上がりだったかもしれない。先生の結婚歴や子を授かった歳についての雑談が桜大らに聞かれていることなど誰も知らない。桜大らはただ場を弁えず好き勝手に漫画だのゲームだのの話をして薄ら笑いを浮かべていると思われていたのだろう。例えばトモがここに居て、トモにこんな自意識を披露すれば、それは被害妄想だろうと笑うかもしれないと桜大は思った。トモ。忘れがたい死体探しの仕事。通夜というリアリティの中にありながら、まだ本当に死んでいるのかどうかも分からない状況。

 桜大たちはあの騒がしい宴会場のしわがれた声の中から器用にある会話を選んで聞く、ということができなかった。桜大と翔は座敷の、蛍光灯がまだLEDではないせいで四隅がほんのり暗く見える広い部屋の、その、見えなくはないが微妙に明かりが届いていないように見える一隅に落ち着いて、誰も手を付けていなかった三ツ矢サイダーを飲んでいた。

「これ、開けていいかな?」と桜大なりに図々しくなりすぎないように窺うポーズを取っていると、近くにいた老人が「なんでも開けろや」と気前よく言ったから飲んだ。老人の注意が、彼らにとって冴えない若者二人、場違いな若者二人に注がれた途端、近くの老人の周囲四、五人の、顔の区別がつかない老人たちが初めて桜大たちに気付いたように、声と、たぶん言葉遣いを少し変えて、桜大たちに残りの食べ物を食べるように言った。桜大たちは喜ぶフリをしながら「口付けてないから」と言って差し出された刺身の小皿や、少々焼きすぎた鳥の串焼きや、甘そうないなり寿司などを、それなりに美味しく、しかしほとんど無味に近く感じる冷めたそれらを、居た堪れなさに負けないように食べた。

 麻衣は小器用に酌をして回っていた。誰かに請われたのか、自らそうすべきだと思ったのかは分からないが、いずれにせよ、彼女の濃い色のストッキング越しに伸び縮みする膝の裏が老人の目に触れる距離にあることが遺憾だと桜大は思ったし、それより、誰一人、彼女の脚などを盗み見る人間がいないように見えることにも、大きな違和感を覚えた。もしかしたら老人は、女性の脚を盗み見ることに精通しすぎて、桜大にはその痕跡すら察知することができないのかもしれない。

 先生の結婚の話は、座を巡っている麻衣がお土産に持って来てくれたトピックだった。今の奥さんはどこに? と麻衣は疑問を呈したが、「それは先生、離婚も二度しているから」と桜大が言ったら納得した。

「離婚したらお通夜とかお葬式にも来ないものなのかなぁ」と麻衣は言った。

 

 先生の結婚歴などの他にも、彼女が楽しそうに言うことには、皆揃って里芋の煮っ転がしを残しているというのだった。どういうことかと聞くと、里芋の煮っ転がしから糸が引いているらしい。それに目を凝らしてみると、饐えた臭いが漂ってくるようでもある。

「誰かが一回里芋の煮っ転がしに箸をつけるの。糸が引くことに気付いて、そっとそれを小鉢へ戻す。それを見ていた両隣は、里芋に手を付けることなく、以降無視して食事を進める。このユニットが、何組かあって、結局誰も食べないって現象が起きてるの」と言って笑う。

 皆、里芋が腐っていることは分かっているのに、それについて話題になることはないのが、どこか歪な空気を醸しており、二つの意味で誰も口にしない里芋の存在が、麻衣にはいやに浮き上がって見えたらしい。

 先生の息子の兄の方、つまり啓介の推察するところによると、この料理は川村とかいう古くからある仕出し屋に頼んだものらしく、どんな場合でもメニューはほとんど一緒で、仕事は手慣れており、夫婦二人でやりくりしているという。この二人はもう相当な高齢で、だから里芋が腐っていたんだろう、と言った。

「え、なんか飛躍が今。里芋が急に腐ったような」と翔が思わずと言った調子で言い放ったのが何だか場の雰囲気と妙な形で重なって可笑しかった。

 確かに、仕出し屋の夫婦が高齢なことと里芋が腐っていることの間には、相関がありそうで、すこし飛躍しすぎている話に思えた。啓介の口調は至って真面目で、本人にとっては脈絡のある運びだったらしく、翔の発言は啓介にとって予想を超えたものだったから、虚を突かれたような顔をしていた。

 麻衣が「それはそのご夫婦が、里芋が腐ってるのに気づかずに仕出しに入れちゃってるってことですか?」と聞くと啓介は、彼女との間にある距離を隠そうともしない顔で「いや、問題が複数あって、どこが根本か分からない」と言った。桜大たちは黙って話の続きを待った。「里芋が腐ってることに気付かないのもマズいけど、そもそもそれをいつ作ったものなのか憶えていないのもマズい。保存状態が悪いのだということが分かってマズい。二人とも本当に気付いていないのか? どちらかは気付いていて、指摘できずにいるのでは? ここにいる皆も、何故誰も怒ったりしないんだろう。エビの尻尾に誰も文句を言わないように、当然ある不可食部分として了解しているのか? そういうなあなあな関係もマズい、と思う」

 啓介は何か用事があるのかそう言い放つと立ち去った。

 啓介は怒っているように見えたし、怖がっているようにも見えた。

 啓介の顔を見て、桜大はふと考えたことがあった。

 彼ら兄弟は最後までここに居なければならないのだ、ということだった。

 いつまでも煙草を吹かし続ける老人。特に荒げているわけではない声がやけに響く。ときたま用便に立つ瞬間の老人の膝は鋭く尖り、そこだけ礼服の布地が突っ張る。腿や脹脛に肉は無く、自らの骨を杖にして立ち上がるみたいに見えた。太った老人も、痩せた老人もそれぞれ座敷に馴染んでいる。蛍光灯の真下の一番明るく、誰の席もない部分に空のビール瓶や一升瓶が無数に置かれており、次第にその面積を浸食し始めている。改めて見て、その量があの老人たちの腹に入っているのかと思うと驚いてしまう。

 まだ若い人間と交流があることが自慢らしい、何の仕事をしているのか分からないが現役風の、太った老人が、桜大たちにその空の瓶を台所へ運ぶように指図した。桜大たちは言われるがままに持てるだけの瓶を持って、狭い廊下を譲り合いながらそれぞれ何往復かするのだけど、途中、「それじゃ何べんも行ったり来たりせにゃならんべ」と、その太って脂ぎった老人が、瓶の持ち方まで指図し始めた。桜大たちは耳が悪いわけではないので、「若い人はよく働くわね」と労いなのか嫌味なのか分からない言葉を誰か、老女から投げかけられたのもしっかり分かっており、しかし桜大はどう答えて良いか分からないので聞こえなかったことにしながら一応会釈にも見えるような仕草をし、その運動を利用して櫂を漕ぐように速足で前進した。後ろでは例の太った老人が「若い子ははっきり指示してやると喜んで働く、あいまいなことを言うとダメだね」などと言っている。「はっきりと、できることを与えてあげるのが一番良いんだ。こんなじじいばっかりの場所で、自由に振る舞え、やるべきことを見つけて動けって言ってもねぇ、困るらしいんだよ」

「優秀な子が多いから、ほれ、この子たちみたいに、ちゃんと言えばすぐやり方も覚えるし、一度覚えたら手際は良いんだ。教えてやれば素直なんだから、見て覚えるとか自分で考えるとか、俺らが当たり前にやってたことは要求しないで、柔軟にな、今の子たちの性質に合わせて使ってやるんだよ」

 桜大たちは交代で太った老人の言葉を聞きながら、束の間でも座敷の外に出られる労働に勤しんだ。ビールのケースに入れてまとめて運べばすぐに終わる作業であることは分かりきっていたけれど、そもそも指に挟んで持てばかなりの量を一度で運べることも分かっていたけれど、僕らは連携して小まめな仕事をした。それぞれ断片として持ち寄ったフレーズを、あとでまた座敷の隅でわだかまり、一つに繋げて遊ぶことは、浅霧兄妹がよくやることだった。

「それじゃああんまり状況を見て動くっていうのは」と老婆の声が聞こえる。

「苦手だね、臨機応変にやってくれというのは、今の子たちにしてみれば指示じゃない。何も言ってないのと同じ」

「私らなんかはお姑さんに指示らしい指示なんか受けたことないけどねぇ。見て覚えて、あんまり動かすわけにいかないから先に先にってやってるうちに段々家事なんかはできるようになってね」

「俺らより劣ってるわけじゃないんだ。今の子たちは、指示を待つのが一番要領が良いって、学校から教えられてるんだ。考えて動いたりしたら余計なことするなって怒られてきた世代だからね」

 相手の老婆は唸るような返事をして「怒られながら塩梅を覚える、ってことじゃないのかしら。不思議とね、仕事を覚えて自信がついたころにお姑さんにあれこれそれまで言いつけられたことのないことを言われるようになるのよね。見てないフリしてちゃんと見てたんだわね。偉いわよね昔の人は」

 自分たちが再生する老人の姿は実際以上に醜悪だった。

「あれこれそれまでって凄くない? あれ、これ、それ、が一文で網羅されることあんまりなくない?」と麻衣は内容よりもそちらを僕らに聞かせたかったらしかった。

 太った老人は絶えずにやにやしている。自分のことを頼りになる男だと思っているようだった。これまでの人生に納得しているようだった。相槌は必要ない人のように思えた。誰がどんな顔で話を聞いていようと関係なく、自分の話にはみんな興味があると思っているみたいな顔だった。

「こないだなんて俺、一応自分の誕生日よ? もう誕生日って歳でもないけどよ。若い子たちがパーティみたいの開いてくれるって話で、いや俺をだしにして飲みたいだけで、俺に金出させるつもりでやってるのは分かったからさ、喜ぶだけ喜んでおいてよお、大人しく隅で飲んでたわけよ。何でも頼めって言い置いてな、そしたらある女の子がちょっと話を聞いてくださいよって横に座って、そこから、んー、かれこれ三時間か、四時間か、もうーいい加減にせいってぐらい話し通しでよ、俺は我慢ならなくなるまでうんうん話を聞いてやったわけよ」

 ここでピースが揃わない。その先の話を聞いていた仲間はいなかった。

 それから次のピース。

「たいがい男の子より女の子の方が要領は良いやね。ほれさっき私はビール瓶を運んでって言ったけれども。な? 言ったよな? 男の子たちは言われた通りただ瓶を運んで、あの女の子は残ったビールを注いで回って、空の瓶を男の子に渡してるでしょう? 往々にして女の子の方がやっぱり基本的に気が利くわな。それはもう、どこに行ってもそう」

 フレーズを持ち寄り組み合わせて文章らしいものを作る。家主不在の台所やリビングというより居間を、不思議な気持ちで眺め、すべての瓶や、こまごましたゴミ(吸い殻や空の煙草の箱のような)や、お菓子の袋を片づけ終わったときにやっと、啓介と亘にだけ礼と改めてお悔やみを言って、三人は先生の家を辞した。外には先ほどと変わらない場所に並んでいる乗用車があったが、見る向きが違うので別の景色に見えた。

 

 ところせましと並べられた車の間を縫って行く。歩道までの距離が随分あるように感じるが、おそらく蛇行して歩いても精々五十メートルくらい。途中から、納屋に沿って歩いた方が良さそうだと思った桜大は二人を先導する形で扉が開けっ放しになっている納屋の方へ進み、「この中でよく鬼ごっことかしたんだ」とやはり過去の思い出を共有せずにはいられなかった。あの冷凍庫の中にホームランバーとかナポリタンアイスとかが入ってて、と続けたがナポリタンアイスを二人は知らないと言う。

「ナポリタン? スパゲティの? アイス?」と声を揃えるので違う違う、チョコとバニラとストリベリーの三色の味がこのくらいの大きい箱に入ってて、と説明する羽目になる。桜大としてはホームランバーの方が重要なのに、思わぬ躓きだった。しかしイメージとしてナポリタンアイスは安くてたくさん食べられる、みたいな商品だったので、都会育ちの二人はそんなものに出会う機会がなく、幼少期を共にしていないという事実を突きつけられたようで却って寂しくなったまま歩道にたどり着いた。

 歩道に出ると、桜大たちは揃って深く息をついた。先生の家は最終的にすごく居心地が悪かったし、煙臭かったし、不愉快な思いをたくさんしたように思えたけれど、外は澄んだ空気に満ちており、街灯が少なく、星空が美しかった。先生の家を見ると中の灯りが見えて、今ではその中の様子が想像できるのが何だか不思議な気がした。

 あの灯りの中にはこういうじいさんがいて、こういうばあさんがいて、その奥の座敷で先生は大人しく眠っている、ということ。飲んだ酒の量は今のところこれくらいで、糸を引く里芋の煮っ転がしには誰も手を付けておらず、意外なことにお菓子の消費量が膨大だ、ということ。そういう細部が想像ではなくて、実際に知っていて思い出せる。啓介たちは二人だけ明晰な思考のまま先生を悼み、老人たちが吐く煙と他愛もない枯れた武勇伝を眺めている。

 この時点で夜十一時になるかどうかというところ。桜大らが先生のお宅に一時間もいなかったことになる。

「このあとは、ふたり、帰る?」と桜大は、うまく誘えない。

 本当はこのまま別れるのは寂しく、二人を独り暮らししている自分の家に招待したかったのだけど、一応二人にも帰る家があることを知っている桜大は強く誘えない。

「もう遅いし、僕らは桜大の家に行く気満々だったよ」と翔が言ってくれる。

「おいもう遅いしって言われたら帰るよ、って言われると思うだろ」と桜大は嬉しさを抑えきれず、少し昂った声を出してつっこみ風のおどけを見せてしまう。浮かれて馬鹿みたいだ。そういう桜大の挙動が楽しいのか麻衣がくすくす笑っているから、星空がより輝いて見える。麻衣越しに見る夜空の美しさには永遠の兆しが漂っている。

「いやいや、もう遅いから帰るとうちの神経質な伯母に迷惑かなってね。もう寝てるだろうし」

「あんなでかい家、何時に帰ろうが気づかないだろ」

「確かに、伯母さん二階の奥の部屋で寝てるしね。でも気を遣うんだよ。明日何言われるか分かったもんじゃない」

「朝に帰ったら帰ったで何か言われるんじゃないのか?」

「んーその辺は放任主義だよ。自分に迷惑がかからなきゃいいのさ」と言って翔は笑う。

 桜大の家へ向かう道々、桜大は夜露で微かに粘りつくような音を立てるアスファルトの質感に気付く。トモの三回忌を途中で抜けて、優と一緒に買い出しに行ったときにも、同じ質感があった。優は起きているだろうか。先に翔と麻衣が行くと連絡した方が良いだろうか。多分優も二人を気に入った。できればまた会いたいと思っているに違いない。前を歩く麻衣と翔の足元を眺め、つまり傍目には俯いているような姿勢で、優のことを考えながら、二人の会話に耳を澄ませた。幸せだった。片隅にトモの死体のことがあったけれど、幸せを損なうようなものではなかった。

「あれ、ここってなにもない?」と翔が言えば「取り壊されちゃったんだね」と麻衣が言う。

「何が取り壊された?」

「分かんない」

 それから桜大の方を振りむいて、後ろ向きに歩みは止めないまま「ここって何があったっけ。誰の家だった?」と指をさして聞いてくる。

「分かんない。忘れちゃったよ」

「なんで建物とかってなくなったらすぐ忘れるんだろう」

「もともと知らなかった説もあるな」

「あーそもそもね。そもそも記憶する程見てなかったかも」

「てかそもそもで言ったら僕ら、見て認識しているフリをしてるだけなんじゃないか?」

「あーそれ、伯母が言いそう。ストリーミング再生みたいに、その都度どこかからデータを引っ張って来て、目の前にこれがあって、これを見ているって認識してるだけ、みたいな」

「脳はそのものを見ているというより、データをその都度構築してる」

「実際にそれはそこにあるんだけど、脳はもとから何もない、まっさらな空間にただ浮かんでるってことね」

「そう、だから実際にそのものが無くなってしまうと、データをうまく引っ張り出せなくなって、ここに何があるのか思い出せなくなる」

「ネット環境がなくなると動画が見られなくなるのと一緒だね」

 なんだかわざとらしい喋り方になって来ていることに桜大は気付いている。

「ダウンロードしとかなきゃこういう事態になる。だから、桜大にね、ずっとこの町に住んでるのにどうして分かんないの? って思うのはお門違い」

 ほら、からかいはじめる。

「誰かの家だったかお店だったかくらい思い出せるでしょって思うのも?」

「お門違い。桜大はそもそもダウンロードしておこうとするものが極端に少ないんだよ。すごく身近な物事を深く愛するけど、自分の視野の届かないところはあってもなくても良いと思ってる。牡牛座生まれだ」

「は?」と桜大はここで初めて反応する。

「伯母が言ってたよ。桜大くんはまさに牡牛座。ごく狭い物事に執着が強くて愛情が深い」

「私たちのことは忘れないでいてくれたもんね」

「深雪伯母ってそんな星座占いみたいなこと言うの?」

「動画じゃやらないけど、けっこうそういうのも好きみたいだよ」

 この兄妹はいつもどんな会話をしてるのだろうか。札幌では二人で暮らしていると言うけれど、桜大から見れば常軌を逸していると思う。二人とも恋人の一人や二人作りたい年ごろだと思うし、そしてそれは二人にとり、容易なことだと思うが、兄妹で暮らしていればそれもままならないのではないか、と思ってしまう。二人は今、恋愛に興味が無いらしいが、どこまで本当なのだろう。第一、兄と暮らしてる女性に手を出そうと思わないのではないか。これは希望的観測だけど。

 それに、二人で暮らしてくれている方が桜大としても心安らかでいられるけど。

「でも気になるなあの空き地。本当に何が建っていたんだろう。桜大、本当に思い出せない?」

「本当に思い出せない。家でも店でもプレハブでも、何を言われてもピンと来る」

 いろんな可能性が同時に存在するんだよ、って、確かに二人の伯母がいつか言っていたような気がした。

 先生のお宅から桜大の家までは歩けば優に三十分はかかる。

「先生の家から何か飲み物でも持ってくればよかったねー」と麻衣が言う。桜大もそう思っていたので声は出さずに頷くが、持ってこられるような飲み物なんてあっただろうか。ビールは瓶と生ビールサーバーがあった。ソフトドリンクはすべて一・五リットルか二リットル。そう言えばトモの家にはまだ冷蔵庫に入れっぱなしの飲み物が何本かあったはずだ。天彦が飲んでしまうか。いや、チューハイなんか飲まんって言うだろうか。どっちもありそうだった。

 桜大たちの会話は基本的に途切れなかった。

 だけど何かの拍子にふと無言になることがあって、そのときはすかさずトモが僕らの間に割り込んで来る。

 僕らがトモの死体を探す?

 現実的じゃない。僕らだけで、何の手がかりもなく。

 警察や消防に正直に話して、捜索してもらうのが筋じゃないのか?

 だけど信じて貰えるだろうか。

 やっぱり嘘なんじゃないかって、桜大たちでさえ思っている。

 翔と麻衣は何も言わない。トモの死体を探さなきゃならないなんて話はすっかり忘れたように清々しい顔で、満天の夜を見つめている。

 そうだ、死体を見つけるなんて、輝かない星を探すようなものじゃないか。

「ねえ、先生のお通夜で先生の噂話してる人たちのこと覚えてる?」

 桜大はそう問われたとき、いまどきの若者論を隣の女性に講義していた男性の話しか思い出せなかった。あの人は先生の噂話なんてしてなかったと思うけど、と思っていると、「あの、桜大たちの近くにいた太った人じゃなくてさ、その人の向かい側に座ってた人達の話」

 麻衣はあちこちで立って歩いていたので、たくさんの話のピースを持っていた。桜大はほとんど動かなかったし、ビール瓶を運んでいるときでさえ、あの太った老人にしか注意を払っていなかったので、他の席でどんな話をしていたかなんてまったく意識していなかった。隣にいた翔も同じだと思っていたが「ああ、先生が亡くなる数日前に軽トラですれ違ったってやつ?」と言うから桜大はびっくりした。この兄妹は色々なところに敏感なのだなと、今更のように思った。

「そう、軽トラで先生とすれ違った人がいたらしいのよ。自分の棺を運んでたって、かなりホラーな文脈で語られてたけど、あれ何なんだろう」

「他にはどんなこと言ってたの?」桜大が口を挟んだ。

「青白い顔で、笑ってたって話かな。あとは、ほとんど真夜中だったとか」

「先生が? 真夜中に棺を担いで歩いてたって?」

「意味分かんないよね」

「棺なんて一人じゃ運べないでしょ? 誰かが後ろにいた?」

 どうやら町の様子が少しおかしいらしい。

 桜大はトモの死体消失や、自分の死期を悟ったように棺を運ぶ教師の姿をオカルティックに夢想して、少し心が浮足立つのだった。

 しかし浅霧兄妹は夢想に走らず、言葉の断片、景色の組み合わせ、些細な発見を敷衍して、統合し、この後一つの真実にたどり着くことになる。

 

 桜大の家に着いたのは深夜一時近く。部屋の電気がついていたから、優は起きているに違いないと思った。優は電気をつけっぱなしにして寝るタイプじゃないと桜大は思っている。

 優は翔と麻衣が一緒にいることを予想しているだろうか。翔と麻衣を連れて行って迷惑じゃないだろうか。ついさっきまでは翔と麻衣を連れて行けば優も喜ぶだろうと思っていたけれど、いざ家に着く段になると心配になった。

「上がって、うちの親は多分、もうぐっすりだと思う」

 リビングの明かりを点ける。結局今日、母親には会えなかった。

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