『イタヒ』

 

 先客がいることに優はすぐに気付いた。

 桜大の友人とミサキの父親と思しき太った人物が居間の足が低いテーブルの前に胡坐をかいて座っているが、その正面に美しい双子が座っている。双子というのは事前に桜大から聞いて知っていたまでで、ちょっと見ただけでは二人が双子だということには普通気付かない。性別が違う双子であり、似ていないとまでは言わないが、そっくりというわけでもない。兄妹であることは疑わないが、双子かどうかは言われなければ分からない。

 双子がどうという話は置いておいても、とにかく美しい。二人は双子という程は似ていなかったが、性質としての「美しさ」は確かに同質だった。

 札幌で生まれ育った優は、この地に美女が多いことを地方からやってくる人からよく聞くが、優の感覚で言えば、まさにその地方から学年一可愛い子やクラス一可愛い子が毎年やってくるのが北海道の場合札幌である確率が高いから、自ずと美女が多くなるのだ、と感じていた。だから札幌に美女が多いのではなく、美女が札幌に集まりやすいのだ、と思うが、先方にとってそんなことはいつもどうでも良いことだった。

 もっとも、札幌で生まれ育ったから容姿が優れていると見なされているような因果の捻じれは生粋の札幌人として謙遜の気持ちも込めて否定ないしは注釈を挟まなければならないという責任感に唆されてそんな風に言ったりもするが、札幌に美女が多いこと自体、優も否定したいわけではない。実際、札幌駅から大通まで地上、地下問わず適当に歩いていれば、アイドルみたいな可愛い子とも、モデルのような美女ともよくすれ違う。すれ違うだけで関わり合いになることはないが、彼女たちにも当然通っている学校や職場があって、当たりまえのように彼女たちと触れ合っている人がいるのだ、とたまに考える。いることは間違いないが、自分の生活圏に入り込んでくることはあまりない。世界観は共有しているものの、生活圏となると何者かに厳格な態度で線引きされており、日常会話を交わすようなことは起こりえないように設定されているのではないかと訝しく思ったこともある。この世が仮想世界であればその仮説も成り立ち得る。人間は遺伝子ランクのようなもので厳格に世界線を振り分けられており、公共の領域では互いのことを認知できるけれども、いざロールプレイを始めると、巧みに次元が切り離されるのではないか。

 例えばホテルのフロントで、喫茶店で注文するとき、洋服を買うときなどなど、様々なシーンで美女は確かにいるが、客と店員、という立場を越えた会話ができるような状況は設定されていないらしい。好きな映画の話をしたり、スーパーでばったり出くわして、今度遊ぼうね、と約束をしたりするようなイベントは起こらないように制御されている。それより以上は課金が必要なのか、勇気が必要なのか、優には分からないがいずれにせよ、気安く会話が出来ないような人は自然と「違う世界の人間」と感じてしまうところがあって、それは誰も、口にしないまでも感じていることではないか、と優は思っている。

 優の視点で、ここでは「美女」をやり玉にあげたわけだが、同じく「美男」、「イケおじ」、「ジュノン系」と呼ばれるような男性も多く存在しており、美女や美少女と同じように存在は知っているがなかなか日常生活で交わることがない。美女と同じく美男も学校に行き、職場に通い、普通の日々を送っているはずなのだが、自分の領域にはなかなか入りこんで来ない。たまに間違って迷い込んで来る人間がいることも確認しているが、間違い及び場違いに気付いた当人は驚くほど静かに消えてなくなり、やがて自分がいるべき場所へ帰って行く。

 美少女と同じく、小中高校までは彼らとも世界を共有していたような気がするが、大学にまで来ると彼ら彼女らとは世界が遠く隔たって、卑屈な意味でなく、もうどうすれば同じ土俵に立てるか見当もつかない。卑屈な意味でない、というのは、向こうにしても、自分たちの生活圏に入り込む方法を持っていないのは同じだから、そういう意味ではお互い様だと優は思っている。

 優はこの話を桜大にしたことがある。卑屈な意味じゃなくて、とそのときも説明したが、桜大はすげなく「自分よりランクが下の世界線に行きたいとは別に思わないだろうからやっぱりお互い様ってことはないんじゃない」と言った。

「いやでもさ、そういう意味で言ったら桜大に会って、桜大と遊べる世界環境にいられて俺はうれしいんだよ。ランクどうこう言うのも嫌だけどさ、仮に、もっと高いランクの世界環境にいたとして、それで桜大と話したりできないんなら、それはだいぶもったいないことだと思うんだよね」

 優は惜しみなく愛を伝えるが桜大は照れてまともに答えない。

「そやって言ってくれるのは嬉しいけどね、僕は優が人間をランク分けして考えてるなんて思ってなかったよ。そういう意識が交流できない人、というものを作ってるんじゃないのか? だって僕、中学高校時代の同級生で、すごく美しい双子を知っているけど、今も交流がないわけじゃないよ?」

「あ、それはいわゆるマウントを取る、というやつかい?」

「違う違う、単純に優の説の粗を指摘してるだけだよ。ランクなんて意識があるからダメなんだよ。正直優らしくないよ、そういう考え方」

「んん、ごめん、桜大に軽蔑されたいわけじゃないんだ。それに今更何を言っても遅いかもしれないけど、ランク付けしているつもりはないんだ。ええとつまり、上下という意識はあまりない。どっちかというと、格闘技のヘビー級とライト級の違い、みたいな。それぞれ同じ業界にいても、試合で交わることはないだろ?」

「うん、優が誰とでも接することができる人だってことは分かってるよ。無暗に人を上に見たり下に見たりすることがないことも知ってる。でも違う世界の住人みたいな美女、なんて言うから、なんか少し珍しいなって」

 その、迂闊にも違う世界の住人のような美女及び美男と、友人のそのまた友人の家で相まみえ、同じテーブルに座ると思っていなかったので優は思いのほかたじろいた。課金も勇気も必要なかった。いるところにはいるもんだと思った。札幌で歩いていれば、もしかしたらそれほど目立つような双子ではないかもしれない。これほど美しい人を見たことがない、とまでは言わないけれど、優の認識の上で、日常関わり合いにならないよう設定されているような人であることは間違いなかった。彼らが礼服を着て、胡坐をかいた太ったおじさんの正面に座って、おつまみのナッツやチー鱈を食べているのが不思議で仕方なかった。当然、この二人が桜大の言っていた双子か、ということはすぐに分かったし、桜大も、この二人が前に話したことある翔と麻衣だよ、と紹介してくれたので、簡単に挨拶くらいは既にかわすことができた。

 驚いたのは、台所の方からやってきたトモ、という桜大の友人の母親らしき人物が、つまみを頬張っている二人の頭を撫でるばかりか頬、顎の方まで荒々しく愛撫し「美味しい? 美味しいねー」とまるで犬か猫でも扱うように双子を扱ったことだった。

 双子は「美味しいです、お腹空いてたし」などと普通の言葉遣いで返事をするが、おばさんも、おじさんも、その返答が聞こえているのだかいないのだか分からない様子で、終始にこやかにしており、どうしてだか二人をペットを扱うようにする。ナッツを麻衣の正面にバラバラと放る仕草や、大きめのマグカップにつがれた水が、どうしても愛玩動物に与えるようなものに見えて仕方ない。

 優の前には普通のガラスのコップが置かれ、おじさんがお酒は飲めるのかい? などと聞いてくれるが、その言い方は初対面の人に対する当たりまえのトーンを誇っており、このとき既に優は心のどこかで自分も犬か猫のように扱われるのかもしれない、という心配と期待が入り交じった未来予測をしており、人間扱いされたことでそれぞれ安心と落胆という対応する感情に同時に襲われ、スマートな受け答えができないままコップに注がれた本当はあまり得意ではないビールを舐めることになった。

 ペットを扱うようだと優は思ったけれど、それは勘違いで、子ども扱いなのではないかとビールを飲みながら考えた。

 自分は今日が初対面だが、桜大とこの双子は子供の頃からこの人たちと交流があったわけで、自分の子供の同級生ともなれば自分の子供も同然なのだろう。こんな田舎であればなおさら、他人の子と自分の子の区別はなく、成長した二人を前にしてもこのトモと呼ばれる友人のご両親は、つい子ども扱いをしてしまう、というところなのだろう。

 しかし桜大の扱いは優から見ても至って当たりまえのものであり、おじさんの発言も「どうだ、札幌の生活は」とか「あんまり遊び過ぎるなよ」と言ったありきたりなものだった。子ども扱いと言えばこれらの発言の内にもその気配は漂っており、まるで中学生が急に一人暮らしを始めたみたいな感覚で以てあれこれ生活を詮索するような類のものだ。これだこれだ、これが子供扱いだ、と思えば、やはり双子への対応にはおかしなところが多い。酒は当然飲ませるつもりはないらしいがそれは置いておいて、二人が水を美味しそうに飲んでいれば「おい母さん、少ししょっぱいものやりすぎたんじゃないか」とか言う。

 優も実家で猫を飼っているので、腎臓を壊しやすい猫の食べ物の塩分の摂取量には家族総出で気を遣っているが、今おじさんが言った「しょっぱいものやりすぎたんじゃないか」はまさに、動物の腎臓を心配するようなニュアンスが含まれていたと感じた。

 この双子の扱いは少し様子がおかしい。桜大はどう思っているのだろう。確認したいが当然今ここで確認できるようなことではなく、目の前で愛玩動物のように食事を与えられ、与えられるままにそれを口に運んでいる二人もこの環境をどう思っているのか分からない。

 不気味さは次第に恐怖心へと変わっていき、いつの間にか桜大を通り越してミサキの方へ救いを求めるようになるけれど、ミサキは双子にもテーブルの上にも父親にも興味がない様子で、少し離れたダイニングテーブルに座り、手元の端末とにらめっこしている。

 

 桜大は昔からトモの父である天彦のことを天彦と呼んでいると事前に聞いていた。もちろん面と向かっては「おじさん」とか「遠藤さん」という風に呼ぶけれど、地域住人みんなが彼のことを天彦と呼ぶから、桜大も外では天彦と呼んでいるらしかった。それは本名でありあだ名だった。この地域では珍しい名前だったから。

 居間の大きなテーブルを挟んで地べたに座布団一枚敷いてどっしり座り、兄妹と向き合ってお酒を飲みながら一応は楽し気に話している。

「最近、釣りとか行ってないの? 定年したんでしょ?」

 桜大が父親に話を振るので、優は少し気が紛れる。今度はまた別の意味で不穏な空気が流れる。優には理由が分からなかったが、話題が拙かったらしい。

「それどころじゃねえわ」と言って、食べかけのコマイをマヨネーズが乗った小皿に放るように置く。桜大も優も、食べ物を乱暴に扱う姿を見るのは好きではなかった。桜大の発言は彼を苛立たせた。彼の動作は桜大と優にとって不快だった。そういうことの積み重ねが、その場の空気を悪くするのだから、空気の淀みに配慮できない人のことが苦手だった。

 そう言えば天彦は昔から、空気を淀ませるのがうまかった、と思う。

「酔ったら船に乗れないからな」と運転席でトモに釘をさすそのタイミングは、桜大たちにとり不可解なものだった。遠足気分で持ってきたグミを二人で食べているのを、バックミラー越しに見られた。「そんなもん食わんでおにぎり食え、おにぎり。そこのクーラーボックスの中のタッパーに入ってるから」と不機嫌そうに言うそれは、朝早くおばさんが作ったものだった。トモは中にシーチキンを入れて欲しいと言ったが、天彦は「魚釣りに行くのにシーチキンって、嫌味な奴だな」と言ったことの意味が桜大にはまだよく分からない。

「父は魚が釣れないから、シーチキンをおにぎりの具にしてほしい」とトモが言ったように聞こえたのだろうか。

 だから正確には「意味は分かるがあまりに狭量な発言に神経を疑う」という状態か。

 結局おばさんはシーチキン入りのおにぎりを作ってくれたけれど、車内でグミの代わりに食えと言われたときも、「そんなもん、着く前に痛むだろ、さっさと食え」と言われたから、桜大たちは車内ですべてのおにぎりを食べた。

 桜大が一緒に釣りに行くことは天彦も快諾してくれたはずなのに、ガソリンスタンドで給油するとき、わざわざ、「今日は一人多いから満タンにはしない」と言って運転席に乗り込んだことも覚えている。

 天彦が運転席に乗り込むと車全体が大きく傾いだ。

「頭数が多いとそれだけ車が重くなって燃費が悪くなるからな。満タンにしないで少しでも負担を軽くしてやる。魚釣ったらもっと重くなるしな」と表向き上機嫌に言っていたと思うが、桜大は遠回しに招かれていなかったと感じた。「大漁だったらお前らどっちか歩いて帰れ」とまで言われたが、魚は釣れなかった。もし魚が釣れたら一緒に歩いて帰ろうと僕ら、話したけれど、今となっては、そうなっていても良かったかもしれない。そっちの方が、桜大とトモにとって良かったかもしれない。

「ガレージに冷凍の鮭、まだあったかな」

 桜大が言葉を継げなくなったのを気まずく思ったのか、父親は家族の誰かへ、という方向に声をかけた。

「知らない、あっても去年のじゃないの」ミサキがそう答えて、母親へパスを回すように視線を巡らせる。

「二人ともなに言ってるのよ、もう。最後に釣り行ったの何年前だと思ってるの」

 心なしか母親のその発言にも棘が含まれているように聞こえる。

 おそらく釣りはここの長男が今のような状態になってからは一度も行けていないのだろうと優は思った。表向き平穏な暮らしをしているように見える家だが、人が一人、生きながらにして生きることを止めてしまった事実は、相当根深く家の隅々、家族の心の底に横たわっているらしい。

「この町にな、鍾乳洞があるかもしんないんだわ。なあ」と天彦は桜大の方に顔を向ける。

「知らない」

「お前がずーっと小さい頃、石灰掘ってる山あったろ」

「ああ、あったかもね」

「あそこはもう掘削作業してないんだけどな、あの地下に、鍾乳洞あるんじゃないかって俺は見込んでる」

 天彦は先ほど放り投げた食べかけのコマイを自分の口に放ったあと、新しく袋から適当な大きさのコマイを出し、ほとんどコマイと同量のマヨネーズがたっぷり乗ったそれを翔の口元へ持っていく。その仕草はやはり犬や猫を扱うようなもので、つい先ほど「しょっぱいもの」を食べさせ過ぎたのではないかと妻を詰っていたのに、数分後には自分でコマイを与えるのだから、優から見れば場当たり的と言えば控えめで、有体に言って痴呆症的な印象が強くなる。論理一貫した行動を取らない大人の姿を見る機会はそれほど多くなかったので、優は不快よりも純粋な驚きに呑まれて、その光景をやはり不思議な気持ちで眺める。鍾乳洞の話をしているが、場の誰も、興味がないみたいだった。

 翔と呼ばれる美しい男性は差し出されるままにコマイを手に取り口へ運ぶ。

 ここに至ると容姿が美しい双子が従順すぎて不気味に思えてくる。美しさが却って歪な生態を覆い隠す人工物のように見える。

 頭の中ですら考えてはいけない侮蔑的な言葉がついつい浮かんで来てしまうから、優は何気なく家の中を眺めるように頭を巡らせて、それも何だか失礼な気がしてしまい、特に気にしていない時間に、無難な情報を求める。仕方ないので鍾乳洞の話に耳を傾けるが、ミサキが「その話、いい加減止めない? 言ってるだけで全然何もしないんだしさ」

「お前は俺の何を知ってるんだ? あ? お前は何もかも知ってますみたいな顔してるけどな、大人はお前が分かってるつもりのことよりずっと複雑な事情を持ってるもんなんだよ。それにもう、計画には着手してる」

「着手って」

 ミサキはうんざりするような顔をしているが、優はこの父親に少し感心した。初対面の人間がいて、娘がいて、息子の同級生がいるのに、何も取り繕おうとしない。こんなことを言ったら嫌われるかもしれないとか、こんな恰好では笑われるかもしれない、とかは全然考えていないようで、自分の家の中とは言え、ここまで素でいられるのは少し、羨ましい。

 三回忌と称しておきながら実のところはただの同窓会だと桜大が言っていたが、それは言っていた通りであり、法要もなければ、仏間にトモと呼ばれる桜大の同級生の遺影もない。トモが死んだ事実らしいものは見受けられない。しかしトモという人物は一向現れない。本当に狂言的な自殺を果たして、本当にそれ以降一度も部屋から出て来ていないのだろうか。

 生きている以上、尿意や食欲の要求に関しては当然満たさなければならないだろうが、一体どうやって、家族は「いないはずの長男」の命を保つ作業をこなしており、どのようにして家族としての整合性を保っているのだろう。

 時計から視線を移し、いつの間にか仏間の方を見ている優に気付いたのか、「仏壇にお供えをしたり、手を合わせたりするのと変わらんよぉ」と天彦が言う。何を考えているのかが伝わったことに意外さを感じる。

「高校卒業時から毎日、お食事を用意したりしてるんですか?」

「そりゃあねえ。食べないでどうやって暮らすんですか?」と母親が嫌な言い方をする。「生活するんですか?」とか「生きていくんですか?」とか、類似表現はいくつかあるだろうが、「暮らす」という言葉が一番曖昧で、卑怯な気がした。

「お前も高校出たら町を出て行くんだもんな」と天彦は、やはり嫌味な口調で突然娘に絡む。矛先が自分から逸れたことに優はホッとしてしまう。

「何急に。なんなの」とミサキは不快そうな低い声で応じるが、天彦は怯む様子もない。

「お父さんお前の進学の費用は出すよ。学費と、向こうで一人暮らしするなら仕送りもする。親としてそれは責任をもって出すつもりだが、町を出て都会に住むからってここがお前と関係なくなるわけじゃないんだぞ」

「そんなの分かってるけど」

「分かってるならもうちょっとあるだろ。実際のところまったく実感してないんだよ。この地域が危機的な状況にあること、ひいては日本全体が衰退していく一方で、いつか気が付いたら当たりまえにあると思ってたものが無くなってたり足りなくなったりして、おかしいな、どうしてこうなったんだ、ってなるんだ。そのときに焦っても遅いんだぞ」

「日本全体とかの話になっちゃったよ。何なのマジで。脈絡なくて気持ち悪いんだけど」と言ってミサキは汗をかいたコップに満たされたコーラを飲み干す。

「脈絡なくはないだろう」

「は? じゃあ私がデブの父親の代わりに鍾乳洞探して洞窟の穴探せば良い?」

「それはお前の仕事じゃない」

「仕事とか言ってるよ。ただの妄想でしょ? 着手とか言って。そうやって現実逃避してないで自分の息子どうするか考えた方が良いんじゃないの。あーもうほんとごめんね、浅霧さんたちも、秋谷さんもごめん。せっかくお兄ちゃんのために集まってくれたのに暑苦しい人のせいでそんな雰囲気じゃないよね」

「んーん、全然嫌な気持ちになってないよ」と兄の翔が優しく微笑む。

「長男には毎日お食事を運んで手を合わせて、長女には今後毎月お金を送ってはうまくやれよって手を合わせるようになるわけだ。部屋から出てこない長男も、帰ってこない長女も、仏さんと何が違うんだ。毎日の仏飯と毎月のお布施。やってることが死人とおんなじじゃねえかお前ら」

「なんでわざわざそんなこと言うの? 本当に何? 普段は無関心貫いてるクセにお客さんが来てるときを選んで嫌味ばっか言って、何のアピールなのマジで。どう思われたくて生きてるの?」

「はあ? アピール? どう思われたくて生きてるだ? お前な。まあ、お前くらいの歳だったらちょっとくらい自意識が強いのは当たりまえかもしれないが、一事が万事、常にどこかで誰かに見られてるって思うのは、どう考えても自意識過剰だと思うぞ。どう思われてるかを気にして生きて、一丁前に考えてるふりしてもな、大人から見たら周りを窺って無難に生きようとしてる姑息さって手に取るように分かるもんなんだわ。空っぽに見えるのよ。空っぽに。まあ仕方ないさ、十代なんてそんなもんだよな」

 天彦は周囲の「十代」を越えた青年たちに同意を求めるような視線を向ける。桜大も優も翔も麻衣もその視線を上手にいなしているが、できれば沈黙ではなく、何か言いたい、とそれぞれが考えているようだった。言うべきことがあるような気がする、と誰もが感じているし、ミサキの敵になりたくないのだが、一言目が繰り出せない。

 その場にあるのは漠然とした天彦へのヘイト感情であり、理屈ではなかった。

 ミサキはもう返事をしない。優には、天彦が言ってることの粗についていけないミサキの気持ちがよく分かった。よく分かるが、ではその粗を、理路整然と言語に直し、天彦の前へ差し出すことができるとも思えない。天彦の発言に一理あると思っているわけではない。生まれた時代の乖離。継承されない価値観。同一環境で生きていても、どうしても食い違ってしまう時代感覚。これらのものの存在はいかんともしがたく至るところに横たわっており、会話の端々で顔を出すものの、いまいち捉えることができない。

 きっかけは何だったか。一階居間での、トモの両親を交えた歓談をつつがなく終え、ミサキの部屋でしばらく過ごすことになった。

 ミサキの部屋はトモの部屋の隣であり、優にはいまいちその感覚が分からなかったが、ミサキの部屋にいることで疑似的にトモと過ごす、という意味合いがあったらしい。

 壁一枚隔てた向こう側に、本日の主役である青年がおり、動機は不明だが頑なに引きこもっている。そして自分で設定した命日に合わせ、三回忌法要のようなことを同級生や家族に強いている。

 優は改めてこの不思議な状況について考える。

 向こう側にいる人は自分のことを知らないわけで、今おれは当たりまえにここにいるけれど、トモくんからするとおれはここにいないはずの人間で、などと考えていると、いかにもアンフェアなことをしているような気になり、一応自分の存在は悟らせないに越したことはないような気がする。しかし誰もそのようには思っていないらしく、

「さっきの話、どう思います?」と、麻衣と呼ばれた双子の妹の方が優へ話を振ってくれる。あまりに真直ぐ優の目を見るので戸惑っていると「いや、さっき遠藤さん、トモのおじさんが言ってたこと、私、ちょっとなんか言いたくなったんだけど、いまいち言葉にできそうになくて、ふと秋谷さんの方を見ると、なんかもどかしそうな顔してたから、私と同じようなこと考えてたのかなって」

 初対面なのにこれほど長いセンテンスで会話をする麻衣のことが何だか少し珍しく感じた優は、先ほど心を過って言葉にするのを諦めかけた何かを、どうにか今ここで、言葉にしたいと思った。

 間を繋ぐために言ったのは「なんか、麻衣さん? ですよね? 麻衣さんって、初対面なのにそんなにちゃんとお話しできてすごいですね」

 本心で言ったが、不遜な言い方になってしまっている気がした。優の周りにはこんな風に話をする人間が桜大くらいしかいない。

「あ、すみません馴れ馴れしかったですか?」

「いえ違うんです、ちょっと居た堪れないところはあったから普通に話しかけてくれて嬉しいんですけど、今なんか、普段自分がどれだけコミュ障なのかが分かったような気がして。ああ、そう言えば普段、特に女性と、会話らしい会話ってしてないなって」

「今はでも、普通に会話してるじゃないですか」と麻衣は穏やかに返答する。

「そうですね、なんか、普段大学とかで人と話すときはどうしても一問一答みたいになっちゃうっていうか、仲が良くても売り言葉に買い言葉みたいな。いや、喧嘩みたいなってわけじゃなくて、反応の応酬でしかない、みたいな会話ばかりなんですけど、そうやって、どう思う? って聞かれると、安心して話せるなって」

「秋谷さんは多分、本当はそういう会話の方が得意なんですね」と翔が言えば、優は、その通りだ、と思う。自覚したことはないけれど、大勢で飲み会の席にいるときより、一対一で話す場面の方がリラックスできる気がする。それは、一対一であれば自ずとトピックを決めた会話となり易く、時間をかけて考えたり、言葉を費やして返答したりすることができるからなのではないか、と思った。

「得意なのかどうかは分からないけど、確かに安心しますね。初対面でも、そうやって話題を振ってもらえると、なんですかね、自分の話で時間を使ってしまっている、という焦りみたいなのが少なくて済むかもしれません。何より、意見や考えではなく、ツッコミとボケの応酬みたいな、ノリとテンポみたいな、そういうのがちょっと苦手です」

「分かります。分かる、というのは、秋谷さんがそういう人だということが、それこそ初対面で無暗に分かられるのも嫌だと思うけど、分かる気がします。でもそれは、桜大と仲が良いっていう前提があるからです。桜大と仲が良いって時点で、そういう部分があるんだろうなって気はするんです」

「みんなが考えてること今言って良い?」と桜大がニヤニヤしながら口を挟む。

「なに?」

「いつ敬語を崩そうかな、なんかきっかけないかな、てか秋谷さんっていくつなのかな、同い年だよな、とかそんな感じだろ」

「ごめん、それなのよほんと。私が最初に他人行儀に話しかけちゃったから。なんかお兄ちゃんの話し方変だよね?」

「変?」と翔が心外そうに妹の方を向く。

「変だね」と桜大。「なんか翔が敬語で話すと、異様に文章っぽいよね」

「敬語が文章っぽい。分かるわ」と優が、故意に敬語を崩すような形で、誰にとはなく、その場に放り投げるみたいに言った。もちろん、言葉遣いを少しずつ崩す意図で。

 二階の物置から運んできた小さな丸テーブルを囲んで座る客人を、少し高い目線から眺める形で、ミサキは自分の机の椅子に座っている。一階では居間のテーブルにそれぞれ座り、ミサキだけが食卓机に座っていたが、自分の部屋でも同じ構図だった。優が一対一の会話を好むように、ミサキは傍観者的な位置に身を置くのが好きなようだった。

 位置取りとしては傍観者のようでも、会話の内容が先程の父の発言に関することだったから他人事ではなく、優や麻衣がどのように感じたのかは気になるようで、所在なさげに机の角を指でなぞっている。

「それで、さっき何を感じたかなんだけど、これだけ言っておいて、実は何をどう感じたか、まだ全然言葉にできない、んだわ」

 やはり誰に向けて、というよりは場に向けて、言葉を置くみたいに喋る優は、誰から見ても発言すること自体がまだ恥ずかしそうに見えた。

「良い気分じゃなかったし、僕らに同意を求めるような視線も嫌だったんだけど、なんか、根本的に、ミサキちゃんのことを傷つけたいだけ、みたいな言い方が、一番嫌だったかも。あ、てかゴメン、お父さんなのに。初対面で、しかもおれ、ミサキちゃんとか言って、馴れ馴れしいよね、おれこそね」

「いやいや秋谷さん、全然良いって」とミサキはほとんど吹き出しそうになる。「それに私のことこの家で遠藤さんとか言うのも変でしょ? この家で遠藤さんと言えばお父さんのことだし。で、そのお父さんのことも、私本当、最近無理で。思春期とか反抗期とか思われるのもしんどいからさ、できるだけ平静でいたいんだけど、あんなに言うのは多分今日みんなが来てくれてるからにしても、普段からちくちく嫌味は言って来ててさ、無理無理って、もう毎日思ってて。だから極力話さない、顔を合わせないっていう選択になるんだけど、それも気に入らないみたいで酒飲んだら絡んで来るし」

「さっき、普段は無関心を貫いてるって言ってたよね? さっきみたいに話すのは珍しいの?」と翔がミサキを宥めるような声で言った。

「私も、お父さんの方から話しかけてこないんだと思ってた」と麻衣が続く。

「うん、まあさっきみたいに長い時間一緒にいることはもう少ないけど、無関心ってのは、私の進路のことね。成績も何も私はあの人に見せてないんだけどさ、その辺は何も言って来なかったから。ほとんどのことはお母さんから伝わってると思うけど、卒業したらどうとか、そういう話を訊いてきたことはないのね? でも今日はなんか、急に大学に言ったら、みたいなこと言ってくるし、自意識過剰がどうとか文脈がよく分からないこと言ってくるし、いつにも増してキモかったね」

「僕たちもあんな言い方は苦手だね。ごめんね、咄嗟にミサキの味方になってあげられなくて」と翔が言う。人を慰めているような声音で話す人だ、と優は思った。「何て言うか、ミサキのお父さんが嫌、っていうわけじゃなくて、親とか、教師とかに感じる普遍的な嫌さね」

 優は、一階でこの兄妹が、犬か何かのように天彦からコマイを与えられて食べていたことが、まるで幻覚か何かだったように感じた。犬のような、もう少しはっきり言えば何らかの障がいを抱えているかもしれないとすら感じた二人が、今は理性的なだけじゃなく、人並ならぬ共感能力を持っているような気がする。桜大の安心しきった様子も優の目には新鮮に見える。発言を控え、成り行きを見守っている様子も珍しく感じたが、この兄妹と一緒のとき、桜大はいつもこうなのだろう、と思えるほど自然であることが、翻って、自分との関係の浅さを知る指標となった。

 少しの間全員が沈黙した。急に隣の部屋の兄のことを思い出したように、ハッとした様子で、誰も、どこにも焦点を合わせず、耳をそばだてているような時間があった。

「ちょっと、追加でお菓子とか、飲み物とか買ってこようか」と桜大が沈黙を破った。桜大が誘い、優もついていくことにした。

「僕たちはこれ、書いておく」と言って翔が麻衣のものらしきバックから取り出したのは、香典袋だった。ついでと言った様子で二千円を桜大に手渡す。これに僕も千円出して、三千円あれば十分だよね? という会話の中で、優はそのお金のやり取りが何のために行われているものなのか分からずにそわそわする。「あ、これは買い出し用ね。一人千円。僕も出すけど、優とミサキは良いよ。優には無理について来てもらってるし、ミサキには今日色々お世話になってるからね」

 香典袋は何だろう、と優は考える。この三回忌、香典とかお仏前とか必要なのか? と訝しく思った顔を目ざとく見つけて翔は、「ああごめんね秋谷さん、これはね、これから行く中学時代の先生のお通夜用なんだ。こっちは本物」

「お通夜? これから?」もう八時を回っていた。桜大の方を見ると少し決まりの悪い顔をしている。

「うん、偶然なんだけどね。だから、この礼服もトモのためっていうよりは先生のためっていう方が大きいかな」

 翔は気にしていないようだったが、隣の部屋に聞こえたかもしれないと思うと何故か優が冷や冷やした。自分に合わせて桜大には平服で来てもらっている。桜大もその通夜には参加するのだろうか? するのだろう。当然。

「それ、桜大も行くの?」

「うん、なんかトモのこの三回忌だけでも無理言ってるのに、と思うとなかなか言い出せなかったんだけどさ、行こうと思ってるよ。優は悪いけど先に帰って寝ててくれよ。多分帰りは真夜中になるし。あ、着替えなきゃだし香典持ってないから一回は僕も帰るからさ」

 そっちには付いてきて欲しいとは言わないのだろうか、と優は考えたが、そう言って欲しいのか、そう言われたらどうしよう、と思ったのか、自分でも分からなかった。既に浅霧兄妹とも打ち解けた感じがあって、彼らと一緒ならどこへでも行けるような気分ではあったけれど、本物の通夜となれば冷やかしで行くようなものでもない。

「ミサキちゃんは? 一緒に行くの? 中学校の先生なんでしょ?」

「いえ、私は面識ない先生だから。名前くらいは知ってるけど」

「そっか」

 次の予定の頭数に入っていないのが自分だけじゃないと知り、留守番にも納得できるような気がした。見知らぬ土地で、友人の実家。その友人がいなかったら本当に何も縁が無い地域。そこで、友人の部屋でとは言え、一人になることが、どんなものなのだろうか。夜中、桜大の家族が寝静まった頃、あたりを散策でもしてみようか、と考えていると「じゃあ、行こうか」と桜大が、優の背中を叩く。

 

 何となく足音を立てないように階段を下って、家出をするみたいにこっそり玄関のドアを開けた。二人とも、示し合わせたように何も言わなかった。

 ドアが閉まるとようやく呼吸を再開できるような気がして、鼻から息を深く吸い込んだタイミングで「なんかさ、僕たちが外に出て行くところ見つかったら、トモのおばさんにさ、もう帰るの? とか言われるんじゃないかなって思ったんだけど、分かる?」と打ち明け話のような声音で聞かれる。

 桜大はサッカーボールでも蹴って歩く少年みたいに片足ずつ、ピン、ピン、と先へ伸ばして歩いている。座りすぎて滞った血行が改善するのかもしれないと優は思って、悟られない程度に真似をして歩く。二人の視線は架空のサッカーボールが見えるみたいに俯いている。寂しいわけでも悲しいわけでもなかった。寂しくないわけでも悲しくないわけでもなかった。

「分かる。それでさ、いや、ちょっと買い物行って、また来ますって言うの気まずいなって思ったよね。なんか、時間が時間だし。てか田舎だと夜ってめっちゃ夜だな」

「はは、なんだよそれ。夜はどこも夜だろ」

「いやいや、札幌にいたらさ、八時なんてまだこれから晩御飯、みたいな感じするじゃん。でもここだと、そろそろ寝る準備しなきゃって感じだよ」

「まあ、そうだね。やることないしね。暗いしね」

「暗いわ、これは暗い。でもなんか懐かしい。おれずっと札幌だからこんな夜を歩いたことないけど」

「表向きさ、もう帰っちゃうの? 的なニュアンスで見送りに来るとは思うんだけど」

「うん?」

「あ、おばさんね」

「ああ」

「また帰って来るって言ったら多分、隠しきれないくらいがっかりすると思うんだよね、おばさん。がっかりって言うか、なんだろうな、がっかりまでいかない残念さが、口元とか、目元とかに表れてしまうと思うんだ。それを見るのが僕、嫌でさ」

「なんでおれまでそんな風に感じたか分からないけど、分かるよ、桜大の言ってること。普段からそんな感じだったりしたの?」

「うーん、実際、あの家から出て、もう一度入るっていう機会がなかったから分かんないけどな。トモと一緒に外に出て帰ってくるのはまあ当然じゃん? 泊まりに行ったときなんかだったら時間を気にせず出入りしてたし。ただ、僕が一人で出て、何か用事を済ませて、またあの家に帰るってことはなかったから」

「そうか」

「でもさ、どことなくやっぱ感じてたんだよなきっと。おばさんが見送りに来て、場合によってはお土産とか持たせてくれるのね。野菜とか、なんか作ったジャムとか、そういうの。そういうときに、何だろうな、そんな態度も気配もまったく無いんだけど、ああ、晩御飯までに帰ってくれて良かったとかさ、今日は泊まるとか言わなくて良かったとかさ、そういう声が聞こえてくるような気がしてたんだよ」

「おばさん、そんなこと考えてないんでしょ?」

「まあ究極腹の中は分かんないけど、考えてないと思うよ。嫌な顔されたこととか、遠回しにでも迷惑そうなこと言われたりとか、一回もしたことないし」

「じゃあ桜大の頭の中でだけ、そういうことが起こってるんだね」

「そうだね。そうなる。その理由も分かってて」

「うん」

「トモがいるからね」

 買い出しを終えてミサキの部屋に戻るまでも、二人はトモの父と母に顔を合わせないまま済ませた。

 部屋に入ると三人は顔を突き合わせて中央の小さいテーブルのところに座っていた。

 隣の部屋の兄が、兄ではない気がすると、二人がいない間ぽつりと、ミサキが言ったらしかった。

 

 帰り際、玄関に見送りに来たのはおばさんではなく天彦だった。

 優が意外に思ったのは、買い出しに行く途中の話から、見送りに出るのは常にトモの母親だと思い込んでいたからだ。内心、桜大が心配するような、いなくなってホッとするみたいな顔を見てしまうのではないかと優は思っていたから、見送りに出たのが天彦で少し安心した。一方で、見送りに出てこないということそれ自体が、おばさんのメッセージでもあるかのように考えてしまうのは、桜大に負けず劣らず、優が人の感情の起伏に敏感だからだった。

 ミサキも見送りには出てきてくれなかった。少し体調が悪いと言っていたが実際に顔色が悪く、寒そうにしていたので、部屋で休んでいるように麻衣と翔がよく言い含めて半ば部屋に押し込めた。

 帰るので堂々と階段を下りた。大人四人がゆったり居られるほど広い玄関ではなかったので、優はそそくさと外に出て、三人を待つことにした。意味なく靴ひもを結びなおしたりして時間を潰したが、三人はなかなか出てこなかった。自分は部外者で、顔見知りの三人にだけ話していることがある、と思うと居心地が悪かった。先ほどの調子から察するに天彦がまた何かいやらしい、ざらざらしたようなことを言っているのかもしれない、とも思ったが、それはきっと、自分のような部外者が今日ここに居たことに対する嫌味だろう、と思った。

 それにしても時間がかかっている。

 意を決してそっとドアを開け、中の様子を見てみると、天彦の奥から玄関へ向かってくるおばさんの姿が見えて、優と同じように、いつまで引き留めているのかと、桜大たちの帰宅を促しているようだった。

 それで三人は玄関を出て、揃って空を仰いで、歩き出すがしばし無言が続く。

 さっき帰り際、何を話したのかとようやく聞くと、桜大は眉根を寄せて首を傾げて、いかにも不可解と言った様子でこう言った。

「天彦がさ、トモを」と言ってから数秒、足音が聞こえる時間があり、優の耳にはそれが酷く間延びしたザリ、ザリ、と踵を引きずる音に聞こえ、次の一歩の音が立ちそうな瞬間、「殺しちゃったんだってさ。ほんとに」と続いた。

 桜大はまた架空のサッカーボールを蹴り蹴り、しかしさっきよりずっと遅い速度と、さっきよりずっと落ち込んだ視線を保ち、言葉が継げない様子でいる。

 浅霧兄妹も同じように言葉を失っているが、桜大も含め、悲しいというより、不可解そうな顔をしている。怒っているようにも見えたが、初対面の浅霧兄妹にしても、それなりに付き合いのある桜大にしても、怒りという感情を持ち合わせているのかどうかいまいち分からないところがあり、優は何て声をかけて良いのか分からない。

「あの、それって。どういうことなの?」

 勇気を出してそう問いかけると「分かんないけど、死んじゃった? 殺しちゃった? っていうのはなんか、事故らしくて、それで天彦が言うには」

「トモの死体、隠してたんだって」と麻衣が引き継ぐ。

「隠してた?」

 死体隠避と死体遺棄では、どちらの罪が重いんだろう、と優は場違いなことを考える。場違いではないか。場違いではないが、丘と違いな疑問を持ってしまった感覚がある。

「ガレージに冷凍庫あるんだよね。コンビニのアイスコーナーにあるみたいな。あれの、蓋がガラス張りじゃない、普通の。上にぱかって開くタイプの冷凍庫」

「そこに入れてた? 息子を? 桜大! 電話しなきゃ」

 警察、と言いかけたが、桜大の声のトーンは激昂状態に近い優の声とは違い落ち着き払って「でも、いなくなったんだって。トモ入れといたのに、冷凍庫から消えてたんだって。その冷凍庫さ、釣った魚を入れとく用なんだよな。だから人くらいは、折りたためば」と言うから、口走ったものの尻すぼみで、相手に届いたかどうか分からなかった。

 砂霧兄妹とはこのまま通夜に行くからと言って、道の途中で分かれた。

 桜大と優は家に戻って、桜大は家に着くなりすぐに着替えて、香典を持って、わりとすぐに家を出た。

 桜大の部屋に取り残された優は、勝手を知らない部屋の中でひたすら同じ場所に腰を落ち着けて、そこから、丁度良いところに設置してあるモニターで一昔前に流行ったアニメを見続けた。普段はスキップしてしまうオープニングとエンディング、予告編まで見て、時間を惜しむことが無かった。三話、四話と進み、そろそろ帰って来るだろうと思いつつ、気楽なアニメの時間が終わらなければ良いとも思った。アニメを見ている間は、人生を保留できるような気がしていた。

 アニメは何周か見ていたものだったので、ストーリーはほとんど覚えていた。新鮮味はないが何度見ても面白いと思った。何となく気が引けたけれど、本棚の中が気になってつい、ジロジロ見てしまった。縦長の、細い本棚ではあったが、小説がびっしり詰まっていて少し意外に感じた。桜大は小説が好きだったのか。優はあまり小説を読む文化を持っていなかったけれど、桜大とは好きなアニメや映画が合うことが多いので、この中にある小説のどれかを、今度読んでみようと思った。タイトルか作者の名前を憶えておいて、今度読んでみよう。

 優は自分の中に少し、「偶然同じものが好き」という状況を創作しようとする意志があることに気付いた。素直におすすめの小説を聞くのではなく、借りるのでもなく、タイトルを覚えて読んで、何かの折に小説の趣味も合う、という状況を作れば、桜大ともっと仲が良くなれるのではないかという打算があることを知った。そういった打算は普通男女間で行われるもので、同性同士で発揮されるものではないのではないかと思ったので、少しだけ自分を訝しく思った。同性愛的な要素を自分に見つけ毛嫌いするわけではないけれど、桜大に対しては同性愛的な部分が表れやすくなるのかもしれない。人間誰しも、完全なヘテロセクシャルではないと聞いたことがあったので、優はそんな風に自分をとりあえず規定しつついくつかの小説のタイトルを覚えた。何冊かは手に取って読んでみた。その間アニメは流しっぱなしだった。何周か見たアニメだった。次に何が起きるのか分かっていても面白い。すごいことだと思った。何となく持っていた小説についた指紋を拭きとって、本棚に戻した。どうして自分は桜大の本棚の中の小説に触れたことすらなかったことにしようと思っているんだろう。気にも留めなかった、という状況を作り出そうとしているのだろう。分からなかったが、それは多分、桜大が優の前で小説の話をしたことがなかったからだと思った。アニメの話も映画の話もするのに、小説の話をしたことがないのは考えてみれば少し不自然だ、と優は考えるともなく考えた。自分があまり小説を読まないから気にしなかったけれど、桜大の方から振って来ても良い話題に違いなかった。それが無かったということは、もしかしたらそれは、桜大が意識的に避けている話題ということであって、つまりそれだけ繊細な、もしくは強いこだわりがある、ということの証なのではないか。

 ついさっきは自分の同性愛的な傾向に「小説のタイトルをこっそり覚えておく」という行為の動機があると思っていたけれど、今は「桜大が避けていたからこそ自分も気づかなかったことにしたい」という感情が強くあることに気付いた。「触らぬ神に祟りなし」、「七日通る漆も手に取らねばかぶれぬ」、「触り三百」。いずれも触らなかったら被害を被ることもない、という意味であり、優はこういう類の割り切りが性に会っていた。

 とは言え。触ってしまった。

 桜大の友人の三回忌があって、実はまだ生きているので架空の、設定上の三回忌であって、つまるところただの同窓会だった、というさっきの集まりは、あきらかに日常を逸脱しそうな、言い方を選ばなければ、「触り」のありそうな空気に包まれていた。浅霧兄妹は今まで優が触れたことのない美形の双子で、最初は少し奇異な目で見ていたけれど、話してみると人に対する観察力も共感力も高い、魅力的な二人だったことにも思考が及んだ。触ってみて良いことがたくさんあることも知っている。だけど、彼らが天彦に渡されたマヨネーズがたっぷり乗ったコマイを食べていた場面も鮮明に覚えていて、あの光景には触れられない自分がいる。

 桜大の友人はトモと言って、彼には妹がおり、彼女は父親との関係があまり良くなかった。ダイニングの椅子に座り父親と言い合いをしている姿、自分の部屋の、自分の机の前に座り、一人だけ少し高い位置から、たまにお菓子に手を伸ばして食べていたことを思い出す。

 桜大と街灯のついていない道を歩いて、表の照明を消してしまった山下商店に行って、お菓子と飲み物を追加で買って来たことを思い出す。何を話してたんだっけ、と思う。会話の印象は覚えていても内容をうまく思い出せない。

 優はこの日、一度も顔を見ていない桜大の友人の姿を、何度か強く意識したと思う。ミサキの部屋で、たまに彼の話題が出るとき。少し大きな音を立ててしまって、みんなが何となく隣の部屋に聞こえてしまったかなと耳をそばだてるとき。天彦がお酒とコマイを口にしながらたまに、長男の部屋のあたりに視線をやって、あたかもそこにいるかのように振る舞ったとき。いないと知っていたのに。あれは嘘だったのか。それともまだそこにいるような気がしていたのか。

「でも、話したよな?」と優はつい声を出す。

 話した。ミサキが、隣の部屋にいるはずの兄が、別人かもしれないと言い出して、みんなで確かめに行った。

 エビフライの尻尾を食べていたからという、優から見てみれば全然説得力のない理由だったけれど、他のみんなはその一点を梃にしてトモの部屋のドアを開けようとした。確かに会話した。確かに。

 気配もなく、突然ドアの向こうから声がかけられた。

「桜大? もう寝てるの? ちゃんと部屋の電気消してから寝なさいねぇ」

「寝てるの? お友達は?」

 返事はない。優が黙っているから。

「明日は私、非番だから」

 それから、こちらの返事を待つような時間があって、「おやすみ」と囁いて階段を下りて行った。階段を下りる音はさほど耳を澄ませなくても聞こえたのに、上ってくる音は聞こえなかった。

 声の主は桜大の母親で、優はまだ面識が無かった。桜大の実家についたとき、家の中には誰もいなかった。桜大の家は母子家庭だと聞いたことがあった。姉がいるが姉は静岡だか埼玉だか千葉だかで看護師をしていると聞いたことがあった。優にとってその辺りの地域はざっくり一塊の「都会」だったので、正確にどこと言っていたか、思い出せなかった。静岡も千葉も埼玉も違う地域だとは分かっていたけれど、優にとっては東京周辺とか、関東辺り、という意味で同じだった。静岡は関東ではなく中部地方だっただろうか、くらいのことには思い至るが、まったくもって実感を伴った知識ではない。札幌生まれ札幌育ちの優のことを桜大は都会っ子だと言うけれど、優に言わせてみれば札幌だって、都会的な印象があるのはごく一部で、自分が住まっている辺りは少なくとも都会ではない、と思っていた。だからもしかしたら、桜大の姉が勤務している辺りも、自分が思うほど都会ではないのかもしれない。

 今日の午後、桜大の家にもう少しでたどり着くというときに、今家には母親がいるだけだと言ったが、果たして家に着いてみると鍵は開いておらず、合鍵で中に入っても出迎えてくれもせず、どうやら仕事らしいと桜大は悟ったらしく、以前、姉ちゃんが看護師だとは言ったけれど実は母親も看護師で、勤務時間が不規則なのだと桜大はそのときに言い訳っぽく言った。規則的に不規則、と言いながら家の中へ通してくれた。

「不規則も規則的ならそれなりにリズムができるのかねぇ」とも桜大は言った。素っ気ないような言い方だったが、「病気の人の世話する人がさ、そういう仕事に就いていて、不規則な生活をして寿命が縮むって、変だと思わないか?」と続けたから、母と、(桜大の言い草によれば)母の影響なのかどうか知らないがわざわざ本州で看護師として働いている姉の体調もしくは縮んでしまいそうな寿命の心配をしていることは明らかだった。

 桜大の母親の気配が完全に去ってから、こんな時間に帰ってくるシフトなんてあるのだろうか? と優はまず考え、次に、返事をするべきだったかどうか考えた。桜大から自分がここに来ることは伝わっているはずで、今日が桜大の恩師の通夜だということも伝わっているはずだ。部屋の電気がついていることを指摘するくらいなのだから、ドアの下の隙間から光が漏れていたか、帰宅時、表の通りからこの部屋の明かりが見えたかしたのだろう。いずれにせよ、息子とその友達が家にいると思った桜大の母親は、寝る前に声をかけてくれたのだ。それを聞きながら、優は何も返事をしなかった。咄嗟に、桜大がいないままで、自分が声を出してはいけなんじゃないかと思った。どう説明すれば良いだろう。桜大に紹介されるより先に、母親と会ってしまって良いのだろうか。事情を説明すれば、桜大が通夜からまだ戻っていなくて、自分が留守番をしている、というのは了解してくれるだろう。でも桜大の母親の立場からすると、二階の息子の部屋にいるのは、息子の友人とはいえ赤の他人である。自分の家に桜大を介さなければただの知らない人が二階にいる、というのは、居心地が悪いものなのではないか。

 そう考えると優は自分の存在が嫌らしく不気味なものに思えて仕方ない。だからさっきは声を出さずに、寝ていることにして正解だったのだ。

 ふと、ずっと再生していたアニメの音量が極端に下がっていることに気付いた。このアニメに関してだけは絵面からストーリーや声を想起することができるようになっていた優は、音量が下がっていることにしばらくの間気付かなかった。桜大の母親に声をかけられたときに驚いて、咄嗟に音量を下げたのだった。ほとんど無意識の動作だった。かつて、主に高校時代、自分の部屋でアダルト動画を見ているときに同じようなことをした。実際、一度や二度じゃなかった。イヤホンをしているのにも関わらず、自分の部屋のドアの近くに気配を感じると咄嗟に音量を下げた。優の部屋は一階にあったので、家族が近づいてきた足音を聞き逃すことがよくあった。故に万が一にでも事故が起こらないよう、よく気をつけていた。たまに、イヤホンを使わずにアダルト動画を見るという冒険もしてみた。部屋に女性の、それと分かる声が漏れるが、その声がそれと分かるのは、優が性的に興奮した気分でそれを見ているからで、もしかしたら、外から聞けば何となく人の、それも女性の、黄色い声、くらいにしか聞こえず、漫才やコント、もしくはバラエティ番組の動画を見ていると思うかもしれない。一度も事故を起こしたことはないと思うが、部屋で動画を見ているときに限らず、母親に突然声をかけられたらいつもどことなく悪いことをしているような気分になっていた時期だった。親子仲も兄妹仲も悪くないが、そういう時期を経た、という引け目がどことなくあるのが優だった。親にアダルト動画の閲覧がバレているかどうかは分からなかった。自分がアダルト動画を見ているということを親は知っているのだろうか。それを確認する術も機会もなかったし、究極どっちでも良いのだけど、永遠に解けない謎というものがあるのだなとしみじみ思ったりすることが今もある。

「まあでも、分かるよなあ。多分いやらしいオーラが出てたもん」

 自分の母親がエロオーラを出していた息子に気付いていたかどうかよりもずっと、桜大の母親が今、ついさっき、どう思ったかが優は気になって仕方なかった。アニメの音量が下がった瞬間を聞いたのなら、中の人(息子)が起きていた、ということは明白で、ならば、息子は自分を無視して息を潜めていたと捉えられても仕方なかった。その行動は親子の関係に禍根を残すのではないか。久々に帰省したのに突然のシフトの変更もしくは残業があってこの時間に帰ってきた母親はおそらく多少の負い目もあって、表から見える息子の部屋の明かりを眺めただろう。

 大学の友達を連れてくる、ということも聞いていたから、もし起きているなら挨拶くらいと考えたのかもしれない。結果、返事は返って来ず、はっきりとではないものの、息子に拒絶された気分になったかもしれない。まあ、良い。寝ていたことにしよう。音量が下がったことを聞かれたかどうかはもう分からないし、あちらから言及してこない限り一生闇の中だ。

 多分間もなく本物の息子は帰って来る。思っていたよりも遅いが、朝になることはないだろう、と何となく思う。

 桜大は明日の朝か昼にでも母親と話すだろう。昨日声かけたんだけど、寝てた? などと聞かれるかもしれない。その時間にはまだ帰ってきてなかった。優は? 寝てた? と聞かれるだろう。

 あーごめん、寝てたかもしれない。

 しかしこうなると、優は人の家の留守番をしておいて、電気をつけっぱなしで寝てしまうだらしない男だという印象を桜大の母親に残してしまうかもしれない。昨今の電気代の高騰は知っている。オール電化の家庭だと、冬の電気代が月当たり十万に迫るとか聞いたことがあった。大学から連れてきた友人が、だらしない人間だと思われたら、桜大の大学生活が過剰に心配されてしまうかもしれない。

 自分のせいで桜大の家の親子関係が悪くなるのも、せっかく招いてもらったのに良い印象を与えられず、桜大の大学生活に余計な心配をかけてしまうのもまったくの不本意だった。

 先程あのタイミングで、迷わず快活に、少し勢いが強すぎるくらいにドアを開けて事情を説明していれば、と思わずにいられない。本来の性格とは違うかもしれないが、少々の陽気さを取り繕って、この人が息子の友人であれば心配ない、楽しそうにやっているようで良かったと、あの母親がこの一軒家で一人過ごしていても、息子の生活を思えば少し陽気になってしまうような、仕事に精を出せてしまうような友人を演じることができれば良かった。いや、父親の存在感は薄いが、今は再婚した男性と一緒に暮らしていると言っていたっけ? はっきり言及したわけではないので曖昧だが、いずれにせよ、桜大の母親に安心感を与える義務が自分にはあったはずだ、という気持ちと、そんな風に振る舞えなかった後悔が強い。

 もし、勢いよくドアを開けすぎたら、桜大の母親はびっくりするだろう。息を飲むような仕草をするかもしれない。「ああ! すみません、ぶつかるところだった!」そう言ってやはり少々大げさに目を見開いてみせる。

「びっくりしたぁ。大丈夫大丈夫」と笑って「桜大は、寝ちゃってる?」「はい、ちょっとさっき、遠藤さん? のお宅でお酒を飲んでしまったので、ぐっすり寝ています。あいつ、酒弱いですよね」

「そうなのよ、あの子はアルコールの分解がちょっと下手くそなのよね」

「あ、なんかそれ、看護師っぽい言い方ですね」

「え、私看護師って」

「ああ、桜大に聞きました。母親が看護師だから、病気とか怪我とかのときは頼りになるって言ってました」

 こんな風にすれば良かった。

 現実ではただ息を潜めて無視をした。咄嗟に卑屈な性根が顔を出して、自分が返事をしたら仕事帰りの疲れた身体と心に余計な心労を強いてしまうかもしれないと思った。本当はそんなことを思うより早く無視をした。後から少しずつそういうことにしただけだった。

 尿意を催してきた。さっきの行動は失策だったかもしれないな、桜大なかなか帰ってこないな、少し寒くなってきたような気がするな、今はまだ部屋の外に出るわけにいかないな、と一連の流れるような、一つひとつ動かしがたい思考の岩と、岩の、隙間から染み出してくるように尿意を感じた。

 トイレは一階で、桜大の母親も一階へ降りていった。帰宅直後の今なら、シャワーを浴びていたりするかもしれない。食事を摂っている可能性もある。自分の家の、自分の家族でもなければ、微かな生活音から桜大の母親の行動を推測することはできないことを知った。自分の家族なら、姿が見えていなくてもどこで何をしているか、手に取るように分かるのに、自室とよく似た部屋にいながら、他人の家族の行動を想像することは難しい。当たりまえのことには違いないが、優はこの発見に絶望的な脳と知覚の深みを感じた。

 いずれにせよ、実際に降りてみなければ確かめる方法はないのだし、いざとなったら思い切って下におりて、会話をやり直しても良い、と思った。一旦寝ていたことにして、尿意で目が覚めたら桜大の母親が帰って来ていた、ということにしてみよう。

「あ、お邪魔しています! 桜大くんと大学のゼミで同期の秋谷と言います。あの、お仕事お疲れさまです。すみません、ちょっと緊急なんで、失礼します!」

 そう言って曖昧な笑顔を作って股間を押さえつつ、トイレの方へ向かう。

「ああ! そっちトイレじゃないわよ。トイレはこっち!」

「すみません、すみません! ちょっとお酒飲みすぎちゃって。ははは」

 陽気で、少し間抜けな人間として振る舞えば、桜大の母親も警戒せずに一夜を過ごせるだろう。過ごせたかもしれない。

 トイレから出て「すみません、さっきは。ちゃんとご挨拶もしてないのに」

「いいのいいの。あの子は? 寝てる?」

「あ、いや、まだ帰って来てませんでしたね今僕が起きたときには」

「あらそう」

「はい、なんか、中学の頃の先生のお通夜があるとかで」

「浜中先生ね。聞いてるわ。随分遅くまでかかってるのね」

「先生のお宅へ向かうのも少し遅い時間でしたから、もしかしたら抜け出しにくい状況なのかも」

「そうなのかもね」

「あ、おかあさんすみません、僕寝てたのにさっき、部屋の電気点けっぱなしで」

「ああ、少しくらいいいわよ。普段なんかほとんど家にいなくて電気も使ってないんだから」

 こんな夜にすれば良かった。

 本当は気を揉む夜なのに。本当は気が気じゃない夜なのに。

 桜大はトモの死と、死体の喪失を知ったまま恩師の通夜へ赴いた。なんて夜だ。優はまだかすかな尿意を感じながら、どうして自分は自分以外の人間ではないのだろうと考える。

 考えてみれば、優はトモの声も喋り方も知らないのだから、あのときドア越しに話した誰かが、トモではない可能性もあったはずなのだ。優は見慣れたアニメと、勝手を知らない部屋の中で、理屈の通らないことを考えだした。尿意と、とっくの昔に一度襲ってきた眠気に唆された結果だったかもしれない。

 あのときのおれにとって、あの声があの家の長男ではなかった可能性は確かにある。なぜならおれはあの人の声が長男の声であるかどうかを判断できない。文脈から隣の部屋にいるのはトモと呼ばれる人物であると思い込んでいたけれど、仮にあの部屋にいたのがまったくの別人でも、おれに限っては、これはトモだ、と判断するしかなかったのだ。

 他の四人にとってもそうだとしたら?

 優は自分の発見に驚いた。それは尿意に似て、痛みとも、痒みとも、痺れともつかない不快な刺激を持っていた。

 桜大も浅霧兄妹もミサキも、隣の部屋のトモという人物のことを知らなかったらどうだろう。もし誰もトモと呼ばれる級友や兄のことを、直接は知らないのだとしたら。直接は会ったことのない同級生、直接は会ったことがない兄。そういうものがいるのだとしたら。さすがに親が長男と会ったことがない、というのは無理があるだろう。少なくとも母親は、自分の身体から産み落としているのだから、会ったことがないということはないはずだ。しかし父親だったら。自分の息子と会ったことがない、という状況が絶対にないと言えるだろうか。

 もう十二時を過ぎていた。

 桜大がいない間にこっそり部屋を抜け出して、見知らぬ土地の真夜中というものを散策してみようと考えていたりもしたけれど、思いがけない展開の中に置き去りにされて、それどころではなかった。そうでなくても、トイレに行くことすら躊躇している優に、家の外に出る勇気はない。

 さほど時間はかからず、桜大は帰ってくるだろう。

 帰って来たらこの考えを話してみなければならない。馬鹿々々しい考えであることは分かっているけれど、その上で、話してみなければ。桜大が夕方言っていた、運動会のBGMを町内に流すとか、そういう類の荒唐無稽は、自分たちにとって通常のモードなのだ。トモに関することは冗談では済まないだろうから、もちろん言い方には気を付けるとして。

 尿意をごまかすようにそんなことを考えて、しっかり電気を消し、それから明るいアニメの画面を閉じて、情報が何もなくなるとキン、と氷を割ったような静寂が部屋に満ちた。一瞬、冷凍庫に入っていたというトモの姿を想像する。会ったこともないのに。写真ですら見たことがないのに、冷凍庫の中で足を抱えるようにして眠らされている男性の姿が過った。優も座椅子の上で膝を抱える。見知らぬトモという男性とどこか同調する感覚がある。冷凍庫の中は桜大の部屋に劣らず静かで、その音に集中していると頭がだるくなり、急激に眠くなった。自然に呼吸が深くなり、ほんの束の間眠り、深夜一時に目が覚め、優は失禁していることに気がついた。まだ桜大は帰って来ておらず、すぐに着替えて、カバンを探るとスーパーの有料レジ袋(五円の方)があったので下着とズボンを詰め込んだ。袋へ入れる前にフローリングをズボンで拭き、座椅子に少し沁み込んだ尿をハンカチで叩くように拭いた。バスに乗るときに買った緑茶が残っていたのでそれで殺菌効果に期待しながらハンカチを少し濡らし、引き続きトントン拭いた。仕上げにティッシュを何枚か拝借して、やはり少しお茶をしみこませてから床をもう一度拭き、座椅子も叩いた。この間、下半身に何も着ていなかった。

 臭いが残っていないか確かめていると、普段桜大が使っている座椅子に残っている桜大の臭いを嗅いでいる人みたいになってしまっていることに気付いて少し屈辱的だった。下半身に何も着ていないことも相俟って、酷く変態的な出で立ちでそこに在る自分を鑑み、今日のこの瞬間を人に話すことは多分死ぬまで無いのだろうなと思った。嗅いでも臭いは分からない。同じにおいを嗅ぎすぎて麻痺してしまっただけかもしれず、一度窓際に向かい、カーテンを少し開けて、微かに漂う外気を吸う。別の空間のにおいを鼻に覚えさせてからまた座椅子を嗅いだ。分からない。窓を少し開けて、ちゃんと外の匂いを嗅いだ。外の温度は高く、少し湿り気のある夏らしい匂いがした。札幌の家の近くで嗅ぐ匂いとは違うが、あながち別物という感じもしなかった。さっき、桜大と山下商店へ買い出しに行くときに聞いた、歩くと少し粘ついているみたいに感じるアスファルトが立てる音を急に思い出して、少し切なくなった理由が分からなかった。

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