連作短編(推敲)

@0rihara5050

異郷へ

「俺、喪服なんて持ってきてないよ」

 桜大(おうた)の実家、二階の桜大の部屋である。

 今この部屋には二人いる。桜大と、大学で知り合った友人の秋谷優(あきたに ゆう)の二人。桜大は自分のベッドに涅槃像のような姿でおり、優は小柄な丸テーブルといつも仲良しの座椅子に腰を落ち着けている。普段は桜大の定位置に今は優がいる。十二畳ほどのフローリングの部屋で、決して広くはないが、物が整頓されており、窮屈にも感じない。二人は気が合うが、二人の自室の印象も似ている。部屋の印象とか、そういうところまで似るもんなんだな、と思う。桜大の実家の部屋も、札幌で一人暮らししている部屋も、当然かもしれないが印象が似ている。優は札幌生まれで札幌育ちだから、実家の部屋と自分の部屋というものは同一である。

 二人は部屋の北側を向いている。モニターが座椅子に座ったときばっちり目線が揃う高さに設置してあるので二人は揃ってこれを見ている。高さにこだわったわけでも方角にこだわったわけでもない。偶然だった。偶然気に入ったテレビボードに、偶然持ってたゲーム用のモニターを置くと、偶然目線がばっちり合った。二人はそれぞれの位置から、このモニターを見ている。その位置がたまたま北だった。

 北のそれほど高くない山の麓には、かつて桜大たちが埋めた呪いの人形が眠っている。ほんの一例だが、この点において二人は、同じ部屋のほとんど同じ位置にいながら、情報の差を持っていることになる。目に見えるものはほとんど同一でも、モノの来歴や、遠くの景色に埋まった思い出などが、桜大の頭には蓄積されている。

 人形と、その本来の持ち主のことはときどき思い出す程度で、札幌で学生生活を送っている最中にそのことを思い出すことは稀である。

 それでもたまに何かの拍子で思い出したとき、呪いの人形、と自然に頭の中でつぶやくことになるのだが、そのたびに呪いって何だよ、と少し笑い飛ばしたくなる。そうしなければ本当に呪いというものが生じそうな気がして、微かにでも笑い飛ばさなければ気が済まないようになっている。カラスの羽を見たら前倣えのような格好をして、手の平と手のひらの間の空間を手刀で切ってもらう、というおまじないがあったが、「呪いの人形」を思い出したときに笑い飛ばすのもこの手の解呪法と似ていて、やらなくても何もない、とは思いつつ、蔑ろにできないような気分になるのである。いつ気にしないで済むようになるだろうと桜大は実家に帰ってくる度思うが、今回は大学の友人である優が着いて来てくれているので、実家や地元の重力にあまり飲み込まれないで済んでいる。

 優と一緒に映画やアニメを見ているときにさえふと集中力が切れる瞬間があって、そんなときに桜大の意識はモニターを越え、壁を突き抜け、ニキロメートルほど向こうで眠っている呪いの人形に意識が向かう。気にするな、忘れろ、と思えば思うほど頭の中に思い出や焼け付いたようになって厄介である。

 今、モニターに映しているコンテンツは劇場版名探偵コナンの第十作目『探偵たちの鎮魂歌(レクイエム)』だった。このタイトルを選んだ理由は特にない。二人とも好きな話だった、というだけで、これも偶然である。仕組まれたものでも、意図的なものでもない。よって描写される理由もないが、二人の部屋は無音ではなく、劇場版コナン特有の音、声、流れの空気が流れていて、寂し気でも暗くもない、ということを了解してもらわなければならない。呪いの人形がどうとか、地元の同級生の話だとか、そういうものはまだ桜大の頭の中に潜んでいるのであって、あくまで今は桜大と優はいつも通り、心地の良い部屋で心地よく過ごしている。

 

 到着時、桜大の家には誰もいなかった。桜大も予想していなかった。父はともかく、母はいると思っていたが、台所の書置きを見ると、急遽シフトが入ったらしい。母は看護師で、今日は仕事が無いと言っていたが、確かに人手不足で忙しいとも言っていたな、と桜大は思った。急遽シフトに入って、急遽急遽の流れで夜勤を引き受けたりしなければ良いけれど、と桜大は思うが、母のことだからそのくらいのことは覚悟しておいた方が良いことも分かっている。

 食器が並んだ戸棚の隣に白い扉付きキャスターがあり、その中から袋菓子を適当に選んで、冷蔵庫からはリボンナポリンを掴んで二階に上がる。部屋に入り、座椅子の前の小さなテーブルの上にそれらを並べ、劇場版コナンを再生するという、平和を愛する大学生が巣を整えるような流れがあった。二人はリスのようであった。

 午後三時。おやつの時間。

 目の前に並んでいるのはかりんとうの袋と、「パイの実 深みショコラ」、「オーザックあっさり塩味」、「サッポロポテトバーベキュー味」飲み物は「リボンナポリン」。実に、小中学生の頃に戻った気分だ、と桜大は思った。

「分かるわー。小学校の帰りに友達の家に来たときみたい」

「小学生の頃から僕たち、一緒に遊んでた気がするよね」

 桜大はわりと恥ずかしいことを恥ずかし気もなく言う男だった。女性にかけるような言葉を、男友達にも平気で口にすることができるのは長所ではあったが、男性的なモードやマウンティングの気配が漂う場所では少し浮いてしまうことがあり、体育会系の飲み会や、警備のバイトなどでは少し居心地の悪さも経験した。そういう場において、男同士の会話というのは女性のそれよりもっと裏腹であり、力関係、人間関係について繊細に把握しなければならない、と学習した。その結果、男社会にはなるべく立ち入らないようにしようと決めたのが、桜大の処世術だった。

「ナポリンのオレンジ色ってさ、虫の色って噂あったよね」と優が、リボンナポリンをコップに注ぎながら言う。桜大の真に受けると少し甘ったるすぎる発言を、少しいなしているようにも見える。桜大の、思ったことを口にしてくれるところは好きだが、真に受けるのは少し恥ずかしいらしい。

「久しぶりに飲むわ。お菓子も、なんか懐かしい。友達ん家で食べるってのが」

「コチニール色素でしょ?」

「うん?」

「コチニール色素。エンジムシとかカイガラムシから取れる色素らしいから、虫から取れる色ってのは間違ってないけどね。でも今のナポリンはもうパプリカ色素を使ってるはずだよ」

「あ、ほんとだ。植物由来のやさしい色だって、書いてあるわ。でもこんなことわざわざ書くくらいには虫の色って話が世間に広まってるってことだよね」

「コチニール色素なんて食べ物とか化粧品とかに普通に使われてるのにね」

 かりんとうの袋を開けながら、今何時だ? と考える。

 何時に出なきゃならないんだっけ。

「てか詳しいね。コチニール色素なんて聞いたことない」

「あーなんか、自然に、知ってた」

「自然に知るってなんだよ」と言って優は笑って、かりんとうを一つ口に放り込む。

 二人とも煙草は吸わない。酒も飲まない。猥談も好まないし、噂話もしない(リボンナポリンのオレンジ色は虫から取った色素、という話をしたばかりではあるが)。映画やアニメに関して言えば、シリアスな結末は好まないし、救いようのない物語は好きではない。臓器健康系男子であり、低刺激を好み、生まれながらにして汚れ物に嫌悪感を抱くいかにも平成時代に生まれ、平和に、クリーンに育った二人なので、形而上・形而下問わず空気の淀みや変化というものに敏感だが、長い雑談の末、桜大がついに帰省理由を打ち明けたとき、若干の淀みが生じたことは否めない。

 それなりに温まっていた空気が、急激に冷めた、と言えば、若干の淀みと言うのには少し控えめ過ぎるかもしれないけれど、正味のところ、二人の間の温度は明らかに冷める一方で淀みは微かなものであり、言うなれば人々が家に帰り、夜が訪れる、そんな期待を孕んだ空気に近いものがあった。

 要は湿り気。不快とは違う湿り気。もうすぐ夜が来る、という程度のありふれた、終わりを迎えることで様変わりした何かが次第に始まるような、場合によってはワクワクするような冷め方。

 

 友人の三回忌があると言った。

 中・高時代の同級生で、三回忌法要もそいつの家でやる。

 帰省についてきてくれただけでも感謝しなければならないのに、三回忌にまでついてきて欲しいというのは流石に甘えすぎである、という自覚は桜大にもある。

「ああ、いいよそのままで。全然、正式なやつじゃないから」

 これは喪服ではなく普段着で良いという意味と、片手間に聞く話ではないと考え動画を止めようとした優の動作を止める意味の両方の機能で働き、桜大は、会話を一往復、節約できた、と思った。桜大は優との無駄話が好きだったので、決して労を惜しんだわけではなかった。ただ「会話の節約」というスマートさに満足した。もっと短いやり取りで、もっと長く話していられたら、と思う。

「正式なやつじゃないってなんだよ」 

「正式じゃないの。生きてる奴の三回忌なんだから」

「はあ? いやそれは流石に引くって。なんなんそれ。もっと分かるように」

「分かるようにも何も。来てくれるならもう少し詳しい話するよ僕も」

「ここからは有料です、みたいなやり方か。なんでもそうだよな最近」

 無料で釣り、続きが気になるなら料金を支払うか所定の行動を取れ、というのは昨今のウェブサービス、オンデマンド配信サービス、ゲーム等では常套手段となっている。二人はこのことを別に良いとも悪いとも思っていない。

「頼む、優しさだけが取り柄だって言ってただろ?」

 白々しく両手を合わせながら桜大はベッドの上で姿勢を正す。

「優しさだけが取り柄って。そんなこと誰が言ってたんだよ」

 少し顔付をくっきりさせて優が言う。ある程度彼を知っている人間なら、怒る三歩くらい手前の顔だと分かるが、初対面ならむしろ機嫌が良く見えるかもしれない顔。

「優だろ」怯みながら桜大は答える。

「俺は自分でそんなこと言わないぞ」

 優のいつにない拒否反応を珍しく思いながら、桜大は心底、申し訳ないな、と思っている。申し訳なさは、眉尻を下げられるだけ下げて精一杯顔に出していると思うが、優は優で眉根を寄せていまいち納得していない顔をしている。発言を不審に思ってはいるようだが、怒っているわけではなさそうだ。

『劇場版名探偵コナン』がBGMとなって部屋を満たしているから、二人の中が険悪になるわけではないけれど、桜大は自分の発言がジワジワと失言だったような気がしてきて変な焦りを覚える。この程度でひびが入る関係ではないけれど、とりあえず今日、友人の三回忌についてきてもらえないかもしれない。

「どうしたらついてきてくれる?」

「どうしてもついていかないって。何でそんなについて来てほしいんだよ」

「え、それを言うのはちょっと恥ずかしいよ」

「恥ずかしい理由で俺を友達の三回忌に連れていきたいの? どういうこと?」

「いやいや、本当のことを言うのはちょっと恥ずかしいわ。手紙か何かなら」

「手紙は受け取る俺も恥ずかしいから出来たら口で言って欲しいんだけど」

 久々に帰省した実家のベッドは記憶よりくたびれている。そして優は大抵の誘いを断らない。一緒に映画に行こうと言えばもちろんオーケーしてくれるが、それが甘々の恋愛ドラマであっても意思が翻ることはない。優しいだけでなく意志強固な男だと思っている。大学生にもなって、男二人で、高校生を主人公としたラブストーリーを楽しめるのか、と言われれば、たいていの冷静な意見として予想できる答えは「楽しめない」もしくは「楽しくないことないけどなんか恥ずかしい」というあたりに落ち着くはずだが、桜大と優はこれを目を当てられないくらいには楽しみ、鑑賞後はカフェで映画の考察までこなした。

 実際の人間関係についてあれこれと話すことは好まなかったが、創作物についての会話をするのは楽しかった。猥談と噂話を抜くとトピックが見つからないらしい人は多いが、優はむしろそれらのコンテンツの存在を鼻から理解していないような顔で、アニメの話、ドラマの話、映画の話を繰り出した。噂話は好まないが、創作と分かる都市伝説や、一種の陰謀論にも一定の理解を示した。中庸に立つことは前提として、世界を彩るものには目がない。

 馬が合うとはこの関係のことを言うのだ、と桜大は思っていた。何度かお互いに、どっちかが女だったら絶対に付き合ってる、という話しを交わすような二人である。客観的に見れば多少行き過ぎな仲の良さかもしれないが、事実、下手な異性と一緒にいるよりも優と一緒にいた方が楽しいし、桜大には昔から片思いを続けている女性がいるが、彼女を置いてほかの女性に靡く気もないのだから、少なくとも桜大は、男と恋愛映画を見て惨めな気分になる、ということもないのだった。

 しかし桜大は「どっちかが女だったら」というこの話を大学の友人の誰かが冗談めかして言ったり、自分から話題にしたとき、心のどこかしらに小さい痛みを感じる。それは地元に置いて来た痛みであり、開陳しなければ一生誰にも伝わらない痛みであり、誰かに打ち明けられるような性質のものでもないような気が桜大はしていた。話して伝わらないことではないだろうが、とても長い説明が必要になる気がして、そんな長広舌を誰かに聞いてもらえるような機会がこの世界には無いと思っている。

「それより、優しさだけが取り柄って言ってたのはマジで誰?」と優がおかしなところでしつこく食い付いてくる、と桜大は思う。俺にとっては重要な問題だ、と言う。証拠に、動画を止めている。部屋が静かになっている。

「そいつとの付き合いは考えなきゃならないよね。なんか、利用されているみたいで嫌だからな」

「誰も言ってない。優の周りにはそんな奴いないよ」

「だって、現に今、俺は優しさだけが取り柄って言ったでしょ。どっから出て来たの?」

「それを言ったのは僕だ。今初めて口にした。内心僕がそう思ってたってことの表れだと思われるかもしれないけど、違う、全然違う。もちろん優しさにつけこんで利用するつもりなんてないよ」と桜大が、謎に毅然とした態度で言うと「おいおいそしたら桜大は、俺には優しさしかないと思ってる、ということか? 他の長所は?」優は既に少しふざけ始めている。アメリカのコメディアンのセリフを吹き替えたみたいな口調になっている。

 だから桜大もこんな風に答える。

「おい待ってくれよ、喧嘩なんかしたくないんだ。優しさが取り柄と言えば確かに優しさしかない男と取れるかもしれないけど、そんなつもりじゃない。軽率な発言だった。言葉を間違えた。言うなれば優しさがデフォルトだ、ということを言いたかったんだよ。優しさという、人間にとって一番重要と言っても良い性質が土台にあって、その上に、ユーモアだとか、真面目さだとか、責任感の強さだとかがある。しかし元を正すと、それはやっぱり優しさから来てるんだなって優を見てると思うんだよ。人に楽しんでもらいたいという気持ちが優のユーモアに繋がっているし、優がルールを守るのは、そうしないと困る人がいるって思うからだろ? 優はいつも自分がそうしたいからしてるんじゃなくて、人のためにそうしてるんだ。優の身勝手なところを見たことがない。それはすごいことだと思うよ」

 少しの沈黙。もうすぐ夜が来ようとしている。

「もう良い、大丈夫だよ。だんだん恥ずかしくなって来た。優しいと思ってくれてるだけでもありがたいのに、なんか褒めを強要してるみたいで申し訳ないな。ありがとう桜大」

 そう言って優がまた動画を再生し始める。

「いや良いんだ、本当に思ってることだし、言わなきゃ伝わらないことだらけだからね。それに、身勝手と言うなら僕はこの通り、本当に身勝手な男だから、確かに言われてみれば、優の優しさに付け込んでいるのかもしれない。じゃなきゃ帰省について来てもらった上、友人の三回忌にまで巻き込もうとしないじゃない。それも、その友人は生きている。トモって呼んでるんだ。ああ恥ずかしい。僕は友人を体よく利用しようとしてたんだ」

「いやまあ、確かに桜大の友人の三回忌についてきてくれっていうのはもう優しさでどうこうできるようなことじゃないと思う。ってか、今の会話より恥ずかしい理由で桜大は俺をその三回忌に連れていきたいわけ?」

「んー、どうかな。今なら言えるかもしれない。ただ、うまく言えるかどうか分からないんだよね」

 見つめ合う二人。信頼の籠った目である。言えば、快くついて来てくれるかもしれない。「探偵たちのレクイエム」のストーリーにはもう付いていけていない。しかしそれも問題はない。二人とも、もう何度かこの話は視聴済みなのだ。シーンを見ればどのあたりか分かる。今、口を開かない理由はない。

 沈黙に耐えきれず先に口を開いたのは優の方だ。

「いや待って。まあとりあえずそれは置いておいてよ、いずれにせよ桜大は俺がついて行くにせよ行かないにせよ、自分の友達の三回忌が今日あるんだよね? それについていかないとしたら、俺は晩御飯どうすれば良い? ここ、どっかにコンビニとかある?」

「それは大丈夫だよ。親に言っとくし、なんか作っておいてもらおう。あ、でもお母さんいつ帰ってくるかな。まあ今いないってことは晩飯の時間にはいると思うから」

「いやいやそんな甘えられないよ。桜大と一緒ならまだしも、俺だけのために晩御飯用意してもらうなんて申し訳なさすぎる。しかも仕事終わりに」

 母なら喜んで作ると思うが、確かに、母の性格や習性は優には分からないだろう。分からないし、口で母なら喜んで用意するよ、と言っても、心がそれを了解しないから、口先だけに聞こえるに違いない。それに、喜んで作っているように見えるのは、桜大という人間の観測地点から母を見ているからではないか? 優だけが食べる晩御飯を母が喜んで作るかどうかは、確かに推測できない。

「そうだよな。逆の立場で考えたら僕も優と同じように感じると思う。ごめん、適当な提案をして。そんなの気まずいよな。それに、根拠も乏しかった」

「そんなにちゃんと謝らなくて大丈夫だよ」

「コンビニだったらね、車で十分くらい行ったところにセーコマあるわ」

「車で十分。最寄りが?」

「そう、一番近いコンビニがそこ。良かったら車貸すけど。お母さん軽に乗ってってるみたいだから、もう一台の方使えると思う」

「車? いやいや、桜大の車じゃないだろ? それに俺たまにレンタカー使うくらいでほとんど運転なんかしないから、人の家の車なんて運転できないよ」

 またやってしまった、と桜大は思った。普段はこんなに独善的な発言をしないはずなのに。実家に来てなんだか甘えてしまっているのかもしれない。自分だって急に友達の家で、友達の家の車を貸すと言われれば動揺するだろう。道も知らない。万が一何かあったらどうする。しかし、先ほどは母の内面という、どう頑張っても推し量れない部分を根拠にしてしまったが、車は車と免許とガソリンがあれば確実に動くのだ。心配なのは万が一事故を起こしてしまったら、というところだろう。

「大丈夫だよ。一本道だし、車だってほとんど走ってないし」

 優の表情は決して晴れない。分かってる。それなら借りようと言う優じゃない。桜大は慌てて付け加える。

「あ、それか、コンビニじゃないけど山下商店だったらちょっと歩いたところにあるよ。歩いて、十五分くらいかな」

「じゃあそこ、行こうかな。場所教えてくれる?」

「いや行こうよ一緒に」

「一緒に行ってくれるのか? それは助かるよ」

「それはこっちのセリフだよ。ありがとね」

 この流れで友人の三回忌へ向かえないだろうか。

 いいか、と桜大は自分に問いかける。今何が起きているのかを整理しよう。

 会話の流れから、「行こうよ、一緒に」という言葉を引き出すことができたわけだ。まさに桜大、お前が聞きたかった台詞だ。自分で言った台詞だが問題ない。これを転用する。コピー&ペーストだ。お前はさっきこう言ったことにするんだ。

 

「今日実は、友人の三回忌があるんだ。悪いけど、優は少しだけ留守番しててくれるかな? 晩御飯は、重ね重ね申し訳ないんだけど、車で十分行ったところにコンビニがあるからそこに行ってもらうか、歩いて十五分くらいのところに山下商店という小さな店があるから、そこに行って買ってきてもらえるか? ごめんね、せっかく来てもらったのに。ああそれと、実はその後、恩師のお通夜もあるんだ。これは偶然なんだけど、三回忌とお通夜のはしごなんだ。だから、今日は随分遅くまで優は、他人の部屋で留守番をしてもらうことになる。本当に申し訳ない。来て早々留守番なんて。もちろん、優が嫌じゃなかったら一緒に来てもらっても構わない。実のところ、友人の三回忌っていうのは架空のものなんだ。説明しにくいんだけど、その友人は高校を卒業した直後、自ら命を絶ったという設定を身近な人に押し付けたんだ。命を絶ったという設定に従って生活するよう強いて、自分は以来部屋に閉じこもっているんだ。おかしいだろ? 迷惑な話だろ? だからそいつは実は生きていて、三回忌というのも実際はただの同窓会に過ぎないよ。あ、同窓会と言っても、僕の中学時代の同級生はその狂言的な自殺を実行した友人と、他には双子の兄妹がいるだけ。とても良い奴らだし、あの容姿はちょっとこの辺りだと目立つほど綺麗だから、会ってみて欲しいって気持ちもある。優がいてもそれほど居た堪れないということはないと思うから、嫌じゃなかったら一緒に来て欲しいんだけど、無理だよな、急にこんなこと言っても」

 ここにペースト。

「いや行こうよ一緒に」

「一緒に行ってくれるのか? それは助かるよ」

 発言者は逆転しているが、こういう流れを頭に植え付ければ良い話だ。

「おかしい。今桜大、三回忌の方に行くって設定で話してるだろ。俺は山下商店の話してるから。三回忌には一緒に行く気ないから」

 さすが、長くはないが濃い付き合いをしているだけある。何故分かったんだ。優は「頭の中で発言の所有者を無視してコピペして遊ぶ僕の趣味」を知っているのだろうか、と桜大は思った。滅多に発揮しない趣味のはずだが、どうして気付かれたんだろう。

 たまに昔話などしていると、発言者が入れ替わって覚えられていたりすることがあって、桜大はその微妙な誤謬をいつも許せなかったのだが、もしこの、発言者の曖昧さというものが世界に許されるなら、積極的に利用しようといつか考えたのだった。現実に罷り通るなんて思っていないが、遊びとしては面白かった。あの発言は自分のものに、あの発言はあの人のものに。そういう風にコピペを繰り返して崩壊する秩序は意外に少ないのではないか? 一方でこの世は、何を言うかより誰が言うか、の方が重要だ、ということも大学生活を通して桜大は少しずつ学んでいるのだった。ゼミの研究はこの辺りをテーマにしたいのだけど、今のところ具体的な方針は全く立っていない。

「じゃあ僕も山下商店の場所を教えることはできないな」

「卑怯だぞ。あまりに卑怯だぞ。まあでも、改めて聞くけど、そもそもどうしてついてきて欲しいの?」

 桜大は少し考える。本当のことを言うべきだと思うが、まだ少し恥ずかしい。本当のこと、というのは、有体に言えば優のことを級友に見せたいから、というものだった。友達を自慢したい。もちろんそれは、それだけ優が素晴らしい人間だから、ということだけれども、結局は自分の面子のためだと桜大は理解している。

 進学した先の、新しい人間関係を故郷に持ち込んで、地縁の力を借りることなく、新しく自分の意思で選んだ友達を見せたい。母には見せることができそうだ。父は、どうだっただろう、今日は帰ってこないんだったか。まあ、今日は自分が外にいずっぱりだから、明日の朝になるかもしれないけれど、紹介する機会は絶対にある。二人とも、桜大の人を見る目に安堵するだろう。それくらい、優はどこに出しても恥ずかしくない友達だ。優を見せたい。友達を見せたい。多少行き過ぎた感情であることも分かっているが、この願望はささやかながら強力だ。例えば、これが「付き合っている彼女」だったり、「お嫁さん」だとしたら普通に理解してもらえる感情に違いない。自慢の彼女/奥さんを自慢したい気持ちというのは、誰に寄らず普遍的にあるものだろう。桜大の場合その感情が友人の優に向けられているというだけだった。優を彼女扱いしているとか、性別の壁を越えたパートナーであると思っているわけではない。性愛の感情はない。純粋な友情でしかない。もちろん深層心理でどう考えているか、となると桜大にも分からないが、少なくとも異性に向けるような恋情や、独占欲、支配欲を持っているというような自覚はない。むしろ優の存在を「分けてあげたい」という気分である。

 両親よりも重要なのが、中高時代の友達に新しい友達を見せるということだった。だからトモの三回忌についてきて欲しい。

「そんなん、不安だからだよ」といつの間にか桜大は、嘘ではないが本心を押し殺した理由を口にしていた。

「不安? 友人の三回忌が?」

「何度も言うけど、三回忌って言っても架空なんだ。本当は生きてるんだから」

「変な人なの?」

「変な人ではなかったと思うけど、高校卒業の年、急に狂言自殺っていう変なことをしたんだ。実際、それ以降、一回も部屋から出てきていない。変なことは、稀にしかしないけど、その稀な機会がすごく変なのがトモなんだ」

「仲良かったの?」

「仲良かったよ。中学までは唯一の同級生だったし」


 桜大にとり、この「架空の三回忌」というものは当然と言わないまでも自然な流れで「発生」したイベントだった。それが自然な流れだと思えたのは、桜大が実際にその「発生現場」にいたからなのだが、その場にいなければ現実感がなくなってしまう出来事というものは、案外多いものだと桜大は日ごろから思っていた。

「呪いの人形」もその一つだった。今も北の山に埋まっている。トモが部屋から出てこないみたいに、そこに、確実に、在る。が、見えない。そういう、不在故の存在感が両者は似ている。この似通った感覚が混ざって、トモの行為が一種の「呪い」なのではないか、という気分を作っている。不在を演出することで却ってより強い存在となる。北の山の人形は人形で、埋めたはずで、ただのゴミに違いないのに何か命が宿って自分のことを恨んでいるように感じるみたいに、部屋から出てこないかつての級友はその部屋の中で自分のことを恨んでいるのではないか、という疑心暗鬼に駆られる。発生現場を何度も思い出して、その度、彼に他意はないと確認するが、結局のところは分からない。

「発生」というのはつまり、トモが高校卒業後の雪降りしきる晩に突然桜大の家を訪れて、「今日から俺は死んだものとして扱ってほしい」と言った日のことである。

 この日は実際にあったのだから間違いなくリアルな出来事のはずだが、後から人に話しても、「はあ?」と返答されるに決まっていた。とりあえず母に話したがやはり「はあ?」と言われた。「引きこもりってこと?」「引きこもりとは違うんじゃないの」「何が違うの」「違いが分からない人に説明しても分からない違いがあるんだよ」「そう、じゃあ一緒ってことじゃない」「一緒ってことじゃないと思う」

 この話以降の母の態度や思考は、桜大にとり、興味深い変化を見せていた。

 雨に浸食された岩の窪みや微生物の営みの果てに発酵して生じた旨味のように、長い時間をかけて少しずつ作られるものは数多くあれど、母の思想もその一つ、と思えば、今まで見て来た母の姿が、形の無いところで変容していくのが分かった。気温や、血圧と同じ領分に母の変化がある。見た目で分かる母の老化や機嫌の変化とは別に、「母」という女性の持つ何かがゆっくり、確実に変化していった。

 あえて一言で表現するなら母は桜大に「寛大」になった。口うるさく物を言わなくなったし、干渉も減った。血圧が下がった、ということかもしれなかった。それまではシャキシャキと物事をはっきり言う母であったし、だらだらしているというとこがなかったけれど、良い意味で力が抜けて、余裕が生まれたようだった。職場の人間が減って、単に疲労が溜まってしまった、ということかもしれないし、再婚して心に変化が生じたということかもしれない。そうだ、再婚という大きな変化が母にはあった。当然トモの不在より再婚の方が母に変化を促す事件として特筆すべきだろう、とは思いつつ、やはり変化の始まりはトモの不在によるものだと感じる。

 母の変化について、不用意に言葉で表現するものではないと桜大は感じていたが、一方で言葉にしなければならないとも感じていたし、その方法を探していた気もする。

 少なくともこの時点で桜大の頭の中には、「もしかしたらトモの狂言自殺には健康効果があるのではないか」という仮説が、言外においてではあるが、確実に生じていた。繋がりが強いとは言えないかもしれないが、繋がりがある、と思っていた。

 狂言自殺と健康効果。

 その二つの間の因果関係の証明。

 呪いの存在の証明。

 誰かにその「証明の必要」を押し付けられたいといつしか感じるようになった。「必要」に迫られたいと思うこともしばしばだった。母が変わったという点について、分かりやすく教えてくれと誰か言ってくれないか。君の母の変化に興味があるよと、誰か言ってくれないか。分かりにくくても良い、結果的に伝わらなくても良い、第三者である私に、あの手この手、手を変え品を変え、変化について語ってくれないか、と誰か言ってくれないか、といつも考えていた。

 キャンパスの中では自然と講師や教授にその役割を担ってくれる者はいないかと期待していた。期待するだけで桜大は、地元に残して来たおかしな友人のことも、北の山に埋めた呪いの人形のことも、微かだけど確かな母の変化のことも、日常ではおくびにも出さなかったわけだから、「必要」に迫られることなどあるはずがなかった。隠してたのだから。しかし期待した。誰か、僕の話を聞いてくれ、と考えていた。

 そんな日々のどこかで、四季は二十四節季に分けられ、それをさらにおよそ五日ずつ三つの節目を作り、七十二候の名称をあてがう考えがあると、基礎教養の講義の、ほとんど雑談に近い、アイスブレイクのような時間で教わったとき、初耳ではなかったけれど、新鮮な驚きに打たれた。これほど仔細に、かつ大らかに、変化を見つめる力が自分にもあるべきだと桜大は思った。母を四季に分け、二十四節季に分け、七十二候に分ける観察力が必要だと思った。母の変化は七十二にも分けられ、それぞれ名称が与えられる可能性がある。「目玉焼キ良ヒ半熟具合ニ成る」などである。たったそれだけでそれほどの微動が母の中にあり、微動を感応した自分にも相応の微動が起こる。半熟過ぎもせず、固焼きにもならず、見事なハリ、弾力、瑞々しさを誇る目玉焼き、黄味が漏れすぎて皿を汚す心配もない目玉焼きを前にすれば、気分が上がり、黄味の中央に垂らす醤油の加減にも気を遣うようになる。そうして口へ運ぶ食事は一日の始まりにバフをかけ、弾みをつけたように回り出す。少し過剰に表現すればこうなる。自分の中にもまた七十二にも細分化される何かがあるとすれば、それは当然架空の死を果たした友人にもあり、その家族にもある。無数の微動と変化が人には存在し、その気になればそれらに名を与えることができる。全てに名を付けて、誰の目にも変化の流れが可視化されれば、あの狂言的な死も、夏がそのうち冬になる、そんな巨大な変化を自分たちが毎年自然に受け入れているように、誰もが受け入れることができるかもしれない。

 自然を眺めるように町を眺めれば、やはり町は静かに蠢いている。自然に耳を澄ませば騒々しいことは誰もが知っている。知っているだけで、普段はノイズキャンセリング機能を使っているので気にも留めない。ただ注意するところから始めれば良い。虫が目的を持って這い、飛び、集めるように、よく見なければ何をしているか分からないうちに巨大な巣を作るみたいな微動が、この町の至るところにある。知らないところで知らないうちに膨らんでいる。注目しないから、名付けようとしないから、そういうことが起こる。だから桜大は丁寧に生きたい。微動に名を付けたい。

「静かな町だよな」と優は桜大の町に着き、桜大の家に着き、桜大の部屋に入るなり言ったが、母を七十二にも分けたことがある桜大にはアリの巣か何かを覗いたときのようなぞわぞわする目まぐるしさと忙しなさをいつも感じている。予想外に母が家にいなかったと知ったとき、病院の中は目まぐるしいのだろう、と思った。

「静かってか、悪いけど、ちょっと不気味かも。人はいるのに、気配がしないみたいな。反対か。気配はするけど、人がいない、みたいな」

「それ、分かるわ」と適当な返事に聞こえかねない共感の言葉を示した桜大だが、本当は桜大こそがその感覚にずっと前からたどり着いていたから、優がこの町に来てすぐそういうことを感じ取ってくれたことに心強いものを感じていたし、気が合うというのはこういうことなんだよな、とじんわり思った。


 架空の死を迎えた友人は遠藤智久という名で、桜大は昔からずっとトモと呼んでいる。彼とはゼロ歳の頃から一緒であるが故に、いかに彼が非現実的な行動を取ったとしても、厳然として絶対にトモはいるのだから、先入観や常識より先にトモの行動には現実感が付きまとっている。

 世界と自分が分離し、自分が自分であることに気付くのは二歳頃からだというが、それより以前にトモは近くにおり、言うなれば自他の境界を越えた領域で存在を認めてしまっている以上、桜大にはトモの「架空の死を自ら迎える」という選択も、賛成とか反対とかは置いておいて、認めるしかなかった。あまり意味は分からなかったが認めるしかなかった。

 片割れと言っても良いような環境で共に育った二人のうち一人が、口だけ、設定だけとは言え自殺を果たしたことは、文字通り半分自分が死んだような感覚なのではないか、といつか母に言われたことがあったけれど、肯定することはできなかった。確かに言われてみればそう感じなければ嘘という気がするけれど、そもそも狂言自殺というものを、とりあえず受け入れるのと納得しているかどうかはまた別の話しで、母と同じように「なんでそんな馬鹿なことを」と思わないわけでもない。そういう意味ではわりとドライな他人行儀の仕草である。

 自然だからと言って毎年馬鹿みたいに振る雪に不満を感じないわけではないのと一緒で、ことの成り行きは自然だと感じていても、自ら架空の死を迎えたトモに不満を感じないわけでもない。

 一方で、興味深くも感じているところが桜大のちょっと変わったところだった。トモの話を母にして以降、母がゆっくり変わったように見えた。それはトモの影響を受けたと言って良かった。そうだ、桜大の観測によれば、その変化の先に再婚があったのだ。再婚があったから母が変化したのではなく、変化したから再婚があった。ここで順逆を起こすわけにはいかない。もちろんトモの出来事以外にもさまざまな出来事が母に影響を与えたのだろうが、絶対に無関係ではなかった。

 良い変化もあれば悪い変化もある。いや実際には良いも悪いもないのだ。それは自分が勝手に付け加えた意味であり、あるのはただの変化。運動の連続。

 トモの変化にも相応の道筋があって、当然トモにとってそれは、至極自然な流れだったに違いない。桜大にもその自然が分かった気がするけれど、これを理解するにはトモと桜大が共有していることの悉くを言語化する必要がある。そしてそれはどうしても「呪いの人形」に行き着いてしまうのだと桜大は感じているのだが、その関わりというか因縁を誰かに伝わる形で言葉にするのは無理なのだと知っている。

「僕ね、ちょっと考えたんだよそれで」

「それでって?」

 動画を止めないままで優は桜大の方を振り向く。桜大の方でも姿勢を正していて、優にはそれが予想外だったのか、少し意外そうに、改めて身を固くする。それを合図にするかのように桜大はまた少しずつ涅槃像の出来損ないのような姿勢に還ろうとする。

「いや、気配はするのに人はいないって感覚。僕もちょっと考えたことがあって。あのさ、この辺はもう小さい子どもとかってほんとにいないのね。年々少なくなって行ってる感じで、僕らの代は僕と、これから三回忌行くっていう、その友人、トモって言うんだけど、そいつと、中学二年の頃に越して来た双子の兄妹がいるだけで、際立って少なかったからよく話題になってたくらいで、かつては学年毎に十数人いる感じだったのよ。なんだけどさ、最近では一桁のクラスが普通になってるらしくて」

「それは、少ないよね。一桁って四人とか五人とか、多くても九人ってことでしょ? 少ない少ない。想像できないわ」

「優は都会っ子だもんね」

「都会ってほどでもないけどね」

「都会の人はすぐそう言うんだよ。近くにコンビニ全種類あって、イオンとかイトーヨーカドーとかもあるわけでしょ? ここはどこ行くにも車なわけだからね」

「まあねー、あるのはあるけど」

「タクシーも普通に走ってるわけでしょ?」

「まあ、駅周辺とか、巡回ルートみたいな道? ならの話だけど」

「そんでね、考えたのはそういうことじゃなくて、フリーBGMってあるじゃないかぁ」

「あるじゃないかぁって」

 語尾が少し、間延びして聞こえただけで、優は可笑しくなってしまうらしかった。大抵いつも機嫌が良く、悪くなってもすぐに良くなり、笑いやすい男である。優のこういうところも桜大は好きだった。

「あれ、変だった? まあ、あるじゃないか。あれのさ、運動会とか、お祭りとか、人が大勢いた頃の音声を流すんだよ」

「どうやって」

「もお、聞いてくれよまず。質問は後から受け付けるからさ」

「あーオッケ」

「運動会の入場の音楽とか徒競走のときの音楽とか、ちょっと歓声と、車が行き来する音。ああ、近くで運動会やってんなーって思う音を町中に流すの。普通にサイレンとかなるあのスピーカー使って」

「流してどうするんだよ」

「もう運動会とかもまともにできないからね、小中合同だよ。それでも五十人いないくらい。運動会をしたとしても、俺らが想像するような運動会はもうないわけ。頑張っても活気っていうのは生み出せないわけ。だからね、架空の運動会よ。実際に人はいないの。でも活気ある音は町に流れてるの」

「実際はいないの? いや、だからそれでどうすんの」

「一問一答みたいになっちゃってるな」

「分からんところが多いんだもの」

「運動会やお祭りの音は都会のものを拝借する。本物の音を、実際の尺で」

「は?」

「いや、さっきの質問に答えておこうと思って。なんか答えないままの質問残ってるの嫌だなあって」

「サブクエ残ってると先に進めない感じ?」

「そんな感じ」

「都会から拝借した音を、町内で流す。文字通り横流しだね。音響はしっかり準備して、実際グラウンドが音源かのように音量を調節して流す。グラウンドから遠いところは微かに、近いところは大きく。どう?」

「どうって、だから、どうすんだよそんなことして」

「どうもしない。学校のグラウンドとかお祭りの会場とか、そこに行きさえしなければ、運動会やってるなとか、お祭りにぎわってるな、って感じることができる」

 桜大の部屋が沈黙する。

「水がちょろちょろ流れる音を聞いて清涼感を演出するみたいなこと?」

「違うけどそう」

「違うの?」

「もっとねえ、奥が深いものなんだよこれは。僕が想像するに」

 優は返事をしかねている。

「一人で部屋にいるお年寄りなんかがね、外を確かめようのない人間がね、ちょっと昔を思い出したり、勘違いできればそれで良いんだよ」

 実際に見に行ったりしなければ運動会やお祭りがあるように感じる。またこれも、トモと関連があって、トモの存在(もしくは不存在)に根差した発想だったのだと知る。


 トモが世間的に姿を消したということで母には微かながら影響が生じた。一方で、もしトモがあのまま普通に高校卒業後、地元に残って就職するなり、桜大と同じように進学して都会に出るなりしたら、母に影響を与えることはなかったと桜大は思う。「トモが存在を消す」という行為によって、母に変化が生じたことに、桜大は面白みを感じていたし、トモの家族にはより顕著な変化が表れているのではないかと思えば、トモが設定した架空の三回忌も楽しみに思えるのも事実だった。

 結局二人で家を出た。桜大も礼服を脱いで、ラフな格好で赴くことにした。

 きちんと礼服を着て、お供え持って、というのがトモの言いつけだったけれど、どうせトモは部屋から出てこない。自分を仏のように扱って、敬ってほしい、ということを冗談ではなく本気で言っていたように見えたことを思いだす。しかし、トモは死者の立場にいるのだから、わざわざ帰省について来てくれただけでなく友人の三回忌にまでついて来てくれるという心優しい友人の方を大事にしたいと桜大は思った。

 歩いていると、道のはるか向こうにトモの妹のミサキが立っていることに気付いた。

 ミサキは礼服を着ているが、多少ラフな装いに見えるのは、きっと髪の毛の色が記憶より明るいせいだと桜大は思った。それで桜大は、ミサキにも随分久しぶりに会うのだ、ということに気付き、友人の妹と、どう接していたかを急いで思い出し、自分の性格とか、喋り方とか、そういうものをチューニングをするような気持ちで彼女に近づいた。

 ミサキは気を利かせて迎えに来てくれたようだった。話してみると途端に昔に戻ったようで、自然に横並びで歩くことが馴染むらしく、背の低いミサキの歩測に合わせて歩いているとそれで良く、頭であれこれ考えたことは全て無駄だったのだと思った。

 ミサキはどうして自分を待っていたのだろう、と思ったが、確かに考えてみれば、トモと一緒にあの家に入るのでなければ、どうやって入れば良いのかを桜大は知らなかった。うまく入れないかもしれなかった。何度も彼の家には行っていたのに、トモの家のチャイムを押したことがなかった。もしかしたらチャイムの押し方を間違えるかもしれないし、インターホンが反応し、「はい、どちらさま」などと聞かれたら、自分が何て答えるのか分からなかった。桜大です、と言ってトモの親は分かってくれるだろうか。どの面下げてノコノコやって来たんだと思われないだろうか。何せ狂言的な自殺を果たした息子のことを年単位で放置している名ばかりの同級生で幼馴染だ。ゼロ歳の頃から一緒なのに、突然部屋に引きこもった息子のことをまるで無視して、一人都会へ行ったやつだ。死んだ人間として扱えとトモが言うのだからその通りにしたのだ、と反論できるとは言え、負い目があった。何かすべきなのではなかったか。馬鹿なことは止めろと言うべきではなかったか。無理にでも部屋に乗り込んで、目を覚まさせるべきではなかったのか。そんなことは何度も考えた。トモの親に言われても仕方ないようなことは、全部自分で自分に言った。距離があるのを良いことに、友人の時が止まっていることを知りながら、自分は自分の、新しい暮らしをこなしていたことに暗澹たる優越感を持っていた。あまつさえその成果物とでも言うかのように大学の友人を連れて来ている。自分はとても場違いで、相応しくないことをしているのではないか。そんな心境をミサキが知っていて、気を遣ってくれるはずなんてないのに、迎えに来てくれて良かったと思ったのだから、意図するしないに関わらず、この子は気が利くのだった。

 自分にもこれだけ複雑な心境がある。だからミサキにも、家に入る前に何か伝えたいことがあるのかもしれない、と桜大は身構えたが、少なくともこの段階では、特に何もないようだった。

 優はミサキにとり初対面の男性であり、初対面の男性が今日、このタイミングで自分の家の中に入ることになることは、彼女にとって納得がいかないことに違いなかった。もしかしたら先に、桜大に何か話すことがあったけれど、優がいたからその計画が頓挫したのかもしれない。計画が頓挫は言い過ぎにしても、優がいるせいで拗れてしまった計画や思惑の一つや二つあってもおかしくない。物事は些細なことの積み重ねなのだから。

 先ほど夕方五時のチャイムが鳴ったが今は六時過ぎである。例年、五月から夕方のチャイムが六時に変更されることを知っていた桜大は、白々しくも「チャイムが鳴ったからまだ五時なのかと思った」などと言って、ミサキに雑なパスを回す。「五月からは六時だよ」と言い返す他ない。「日、長くなってきたね」「まだ朝晩寒いけどね。五月じゃ」と年老いたようなやり取りをする。もちろん言い方にはいくらか工夫を凝らす余地はあったけれど、優にどう思われようとも思っていないミサキはごく普通の調子で受け答えをした。緊張をほぐすとか、場を温めるとか、そういうことに労力を割くつもりは、ミサキには無いようだった。

 ミサキが初対面で優を気に入っていたとしたら、多分もう少し明るい性格を演じていたりもしただろうが、桜大が必要以上に鈍感を演じている以上、彼女は、その辺りを牽制した物言いをする他なかったのかもしれない。もしくは、桜大が思っている以上にミサキは思春期であって、初対面の異性を前にして、浮かれた発言をすることも、声のトーンを上げることも、自意識が邪魔をして、できなかったのかもしれない。もう高校生になって男友達も増えているだろうことは予想できたけど、ミサキだって少人数クラスで育ったのだから、異性に慣れているわけではないだろう。

 三人の歩調がまばらに町に響いた。

 ミサキは優を人として、不快には思ったわけではないと信じたいが、心なしか歩調をわざとずらして歩いているようだった。息が合うような全ての出来事に、十七歳の多感な彼女は強い忌避感を抱いているみたいだった。

 礼服を脱ぎ反故を着て歩くような桜大の行為は、おそらく少しミサキを怒らせた。兄を馬鹿にされたような気がしたし、兄に対する誠実さに欠けるような気がしたかもしれなかった。ミサキが兄の言いつけ通り礼服を着ていることに居心地の悪さを感じもしただろうし、どこか恥ずかしいような気分にもなる。なぜなら兄は生きており、架空の三回忌と称した、実のところただの同窓会を繰り広げるのだ、ということがミサキにもよく分かっているから。

 トモは桜大が礼服を着てこなかったことを知るかもしれない。

 トモは生きているのだから。死者であれば結局、目がないのだから生者が何をしていても気づかない、と割り切ることもできたが、トモは生きているのだから、約束を破ったことに気付くかもしれない。あとから誰かが告げ口する可能性もある。生きた人間の約束を破るのは危険なことだ。死んだ人間との約束を破ることは禍根を残すことになるかもしれない。死んだ設定の生きた人間との約束を破ればどうなるのか、桜大には分からない。

 着いた。

 

 ほんの数年前、頻繁にトモの家に遊びに来ていたときの印象と、今久しぶりに訪れて眺めたトモの家の印象は、随分違っているように見えた。

 玄関はこんなに暗かっただろうかとまず思い、靴を脱いで揃えるとき、桜大が持ち込んだ黒っぽいもの全部(靴と、上着)の表面が微振動しているように見えた。それは多分、この家の玄関の灯りがLED電球ではないからだと桜大は思ったが、考えてみれば自分の家の蛍光灯や電球にもLEDは使っていない。

 玄関土間に置きっぱなしにしてある靴の多さとか、玄関廊下に積み上がっている小ぶりな段ボールの箱とか、傘立ての傘がストラップで止められておらず、ふんわり半開きになったまま刺さっているところとか、全部全部、トモの家ではお馴染みの光景であることを桜大は知っていたのに、それが薄暗さに感じて仕方ない。

 居間に通してもらってからも薄暗い印象は継続されて、ミサキが一度二階の自分の部屋へ戻り、どんな心変わりがあったのか、黒っぽい、けれどリラックスした格好になって降りて来たときに、目が慣れたからなのか、ミサキがつまらなそうに黙っているトモの両親との時間を打ち破ってくれたからなのか分からないけれど、やっと少しだけ明るくなった気がした。

 適当にものを食べたり雑談をしたりと他愛ない時間が流れ、程よいところでミサキの部屋へ移動した。

 ミサキの部屋には久しぶりに侵入したが、当然、昔の印象とは違う。赤、ピンク、黄色ばかり目立った部屋だと思っていたが、今ではカーテンや布団やカーペットなど大きなものはアースカラーで統一されており、赤や黄色と言った明るい色は小物に限られている。

 居間ではほとんど誰も酒を飲まなかったが、ミサキの部屋にはチューハイやお菓子を並べてもっと若く明るい二次会が催された。本棚の中の漫画本はアニメを見ていた優も自然に割り込むことができて、最初道で会ったときとは比べ物にならないほどミサキと優が打ち解けているのを見て桜大は嬉しくなった。

 双子の兄妹も如才なく優に話しかけ、少し緊張しながら受け答えする優に新鮮さを感じた。

 浅霧兄妹も札幌に住んでおり、桜大と優とは別の大学にいて、一緒に住んでいる、というところまで紹介すると、優はやけに兄妹で二人暮らしというものを珍しそうにしている。桜大も内心物珍しいものを感じていたから、優があれこれ聞いてくれるのには助かった。

「二人暮らしって、それ、友達呼ぶときとか大丈夫なの?」

「あんまり友達呼んで遊んだりしないし、困ったことないね」

「いや、友達っていうか、ええとさ、あんまりこういう話初対面でどうなのかなって思うけど、恋人、とか」

「恋人?」と二人は、まるでそんな言葉は初耳だ、というような顔をして、少し考える。

「今のところは恋人を作る気もないかな。勉強もしなきゃいけないし、バイトもあるし」麻衣が真剣な声色でこう言うので、桜大は心から安心する。

「むしろ兄妹とはいえ男女で暮らしていると、そういう交流を避ける口実になって便利なんだよね」と翔の方も恋愛方面には関心がなさそうだ。

 桜大には優の自己嫌悪が見て取れるようだった。

 今日、優は多分少し変わると思う。

 季節を一つ進める他ないと桜大は思っている。

 

 トモの家からだと少し歩くことになるが、それでもせいぜい二十分以内のところにこの町唯一の商店があり、八時まで営業している。桜大が先ほど優に教えた山下商店だ。温かくなってくると蛾が大量に発生し表がとんでもないことになるので、営業中でも夜はエントランス前の灯りを消すことにしているらしい。蛾の柄は地味だ。おかげであまり遠くからでは営業しているのかどうか分かりにくかったし、営業しているようだと思っても中に入りにくい雰囲気があった。もちろん地元の人間は事情を知っているので誰も文句は言わない。営業日も営業時間もよく知っている。だから困らないのだけど、桜大は夜のこの商店に少し異世界を感じることがあって、どこか、優に特別な部屋を見せるような、自慢気な気持ちがあった。

 営業終了の時間も近いのに、珍しく車が二台ほど止まっている。中に入ると車二台分の人間はいない。一人、店の奥側に設置されている冷蔵庫の前でお酒を物色している。人数の不整合はあまり気にせず買い物をする。嗜好品や調味料、それから飲み物の類は割高だけど、ここでしか買えないのだから背に腹は代えられない。やはり近くに一軒ある居酒屋で、車が停められなくて山下商店の前を借りてるのかもしれない。気にしないでおこうと決めたのに、頭が勝手に考えている。

 店で適当なお酒を買うと、やはり感覚的に三割増しくらいで高い。物心ついてからずっと、千円札で買える量、というものが把握できていない。それでも一人千円ずつ出して、三千円持って来た上、一度は退けたものの、道々自分も出すと優が言ったから、全部で四千円。だからお酒もたっぷり、お菓子やおつまみを追加して、大体全て使い切った。千円以下のおつりであれば、桜大か優が貰ってしまっても構わないという話だったが、チョコレート菓子をいくつか追加して、限りなく無駄なくお金を使った。百円と少し残ったが、それは募金箱に入れる。桜大が買い物のついでに募金したのは初めてだった。

 かつて一度、札幌大丸デパートと紀伊国屋書店の間の通りで募金活動をしている男性がおり、ご協力を、と話しかけられたことがあるのだが、財布を家に置いてきていることに気付いてすみません、財布を持っていなくて、と言ったのが白々しい嘘のように取られたことに桜大は、男性が何も言わず視線を外し桜大の肩を抜くようにして去ったときに気付いた。男性からは明らかな嫌悪感情が放たれており、軽蔑すらされたと感じ、いやほんと、ほんとに財布持って来ていなくて、と言い訳がしたかったのだが、わざわざ募金活動中の男性の後を追って言うようなことでもないため、そそくさとその場を立ち去るよりほかなかった。通り魔に遭った気分だった。嫌いだな、と思った。あの男性。もう顔も思い出せないけど、すみません、サイ、の時点ではもうお願いしてる立場を取り繕おうともしない無関心な目に変わった。尖った頬骨、無精ひげ、の印象はあるけれど顔の総体は相対しているその瞬間から思い出せないような影の薄い男性だった。小さな頭にくすんだ青の帽子を被り、よれよれのポロシャツを着ていた。不快で汚らしくて弱者という気がした。弱者、弱者が! と桜大は、実のところ口汚く罵りたい気分だった。頭の中では腐るほど「弱者」と呟いて、自分はあたかもそうではないかのように振る舞った。例えば爪を切るなり、服を清潔にするなりすればあんな目をするほど募金活動が難航せずに済むんじゃないかとか、もうここに至ればほとんど負け惜しみと言って良いほど根拠の薄いところにしか悪態をつけず、下半身から力を失ったような気分になって部屋に入った。ワンルームの小さな部屋に落ち着くと、そりゃそうだ、札幌駅に財布を持たずに歩いている人がいるなんて普通思わないだろう。咄嗟に嘘を吐かれたと感じてもおかしくないだろうと思った。あの人は弱者じゃない。被害者だ。もしくはそれに類する人だ。なんの募金だった? どこかの地域の地震か何か、災害の復興支援金か何かじゃなかったか? 彼は家族や仲間のために被災地から離脱し募金を募っていたのではないか? ギリギリ張り詰めてる状態だったんじゃないか? そんなときにのうのうと生きているように見える若者に見え見えの嘘を吐かれてみれば、少々切り捨ててみたくもなるんじゃないか? そうやって切り捨てられた若者が自分なんじゃないか? 自分もあの人に相当嫌な気分を植え付けてしまったに違いない。本当に嘘をついていたならまだ良かったかもしれないが、嘘じゃなかったので桜大は苦しんだ。札幌駅の近く、北十一条に住んでおり、たまたまふらっと散歩がてら駅の方に来て、紀伊国屋で立ち読みをして帰るところだったのだ。本当に財布は持っていなかった。

 山下商店のレジ前に置いてある募金箱に買い出しのあまりのお金百円ちょっと入れたくらいで留飲が下がるとは思わなかったが、持て余した善意を今ここで供養できた気がした。これも一人じゃなくて、優が一緒にいたからできたことだった。

 帰り道、トモの家で遊ぶの久しぶりだったなと、すっかり暗くなった薄青い夜空を眺めながらもう既に酔ったみたいな頭で独り言めいたことを考える。

「毎朝、山下商店のおじさんがさ、蛾を掃いてるんだよ」

「ああさっきの、あのレジにいたおじさん?」

「そうそう、店の明かりを消しても街灯の方に集まってさ、朝死んで落ちてるんだよ。落ち葉を拾い集めてるみたいに見えなくもないんだけど、ゴミ袋いっぱいに溜まった蛾も落ち葉に見えなくもないんだけど、やっぱり集めてるのは蛾じゃん? いや、蛾を集めてるのってあそこのおじさんだけじゃないんだけどさ、この通りの、街灯の下に毎朝、大量の蛾が落ちてるから、それぞれ掃除しなきゃならないんだけど、それも町の景色っていうかね、風物詩じゃないけど、文化の一つだと思うんだよね。カラスと一緒に蛾を集めるような朝を、僕らはもちろん喜んでいるわけじゃないから、夜に街灯を消すようになったのもまた一つの文化で、その街灯が、夏が過ぎてもずっとつかないままなのも文化と言えば文化だよな。これはただの怠惰でも意地悪でも、どちらでも良いんだけど、誰かが街灯をつけないままにするっていう判断をしたんだわ」

「それ、単に忘れてるだけなんじゃ」

「そうかも」

「知っていてもそんな大したことじゃないと思われてるかね」

 桜大と優は、揃って同じ街灯に二三、集まっている蛾を眺めることになる。大きな通りの街灯ではなく、細い横道の、やけに昔からある小さな傘を被った小さな明かりの方。注目すると、それまで聞こえなかったバチバチ言う音が聞こえ、桜大が毎朝大量に蛾が死んで落ちているという話をしたから、あれらはずっと電柱なり電球なりに体をぶつけ続けて朝までに死ぬのだ、ということが分かり、そのことを思えば、あの蛾とは違って自分は明日もほとんど間違いなく生きている、という立場で安穏と過ごしていることに白々しく俄かな罪悪感を感じる。

 ミサキの部屋は、昔はトモと遊ぶついでに、ごく稀に入るくらいだったけれど、今日は当たり前のようにくつろいで、桜大は何だか不思議な気分だった。昔はほんの小学生だったとは言え女の子の部屋だから、やはりこれも、少し異世界のような気分で立ち入ることがあったけれど、今ではすっかり、トモの部屋の方が異世界だ。今、トモの部屋はどんな風になってるだろう。トモの顔ってどんなだっただろう。桜大は、思い出そうとすればするほど遠ざかる幼馴染の姿形を、今や妄想の産物のようにさえ思っている。山に埋めた人形の姿ははっきり思い出せるような気がするのに、幼馴染の顔が思い出せないのはおかしいと思った。今のトモの姿を想像できないのは仕方ないけれど、昔のトモさえ思い出せないのは一種の理不尽だと思った。

 トモの家にチャイムを鳴らさずに入り、開けっ放しのダイニングのドア越しに目が合ったおばさんには会釈し、二人の方を見ようともしないリビングの天彦のことは無視して二階へ上がった。天彦にとって二人は、言われなかったら気付かない蛾と同じで、注目すればやっと、音を立てて死へ立ち向かったいることが分かる程度の存在なのかもしれなかった。もしくは夏を過ぎて、蛾の季節が終わっても灯らない街灯のような存在なのかもしれなかった。それはお互い様でもあった。

 部屋は盛り上がっているとは言えなかった。

 三人は三面鏡のような位置で顔を寄せて座っていた。正面にいるミサキの神妙な顔がまず目に入って、同じく神妙な顔でミサキを挟んで座っている兄妹の顔が見えた。印象として三人は同じ側にいて、例えば胸元に小さな異形の天使が浮かんでおり、そいつは契約をしようとかなんとか、三人に「お得な提案」をしているみたいだと思った。もちろんそいつの姿は桜大には見えなかったけれど、場合によっては三人とも、異形の天使と契約を交わしてもおかしくないほど真剣な顔だった。咄嗟にそんな想像したのは何故かというと、ミサキの部屋に『魔法少女まどかマギカ』のコミックス版があったのを見ていたからだった。アニメは見ていたがコミックスがあることを桜大は知らなかったから、もし時間があれば、あとで読ませてもらおうと思っていた。

「何の話?」と桜大がわりと強引に三人の意識に割り込むと、はっとした表情でミサキが彼に気付き、「おかえり、ありがとう」と言った。麻衣は「お金足りた?」と聞いたので桜大と優は揃って頷き、おつかいの品を小さなテーブルの上に並べていった。「お酒はいくつか、下の冷蔵庫に入れてもらって良いかな」と言うとミサキが立ち上がって、四本ほどの缶を持って階段を下りて行った。

「何の話してたの? なんか真剣な顔だったけど」

「いや、ミサキちゃんがさ、トモの部屋にいるのがトモじゃないかもしれないって言うんだよ」と翔が教えてくれる。

「こわ」優が思わず、と言った調子で呟く。

「なんでそう思ったの? って聞いたら、エビフライの尻尾を食べてたんだって」

「あー」

「ね?」

 トモがエビフライのしっぽを食べないことに関しては、彼らが普通に共通認識として持っている基本的な知識なので、それが食べられているということはトモの部屋にいるのがトモじゃない可能性というのは確かにある。優だけは、トモがエビフライの尻尾を残すタイプだということは知らないのだが、説明されなくとも、優ならトモがエビフライの尻尾を食べない人なんだな、それが残ってなかったってことは、そういうことなんだな、と察することができるだろうと桜大は軽く考えていた。

「部屋、見てみる?」

「うん、見てみようか」

 そんな風に決まったものの、誰も腰を上げようとしない。部屋を見てみると言っても本人がドアを開けなければどうしようもないし、仮に別人が中にいたとしたらそのときはどうするつもりなのか、誰も展望が見えないのだった。

 黙る。みんな黙る。ミサキの部屋に沈黙が下りると、下階のテレビの音やトモの母親が台所で立てている音が聞こえてくる。人の生きる音は少し息を潜めればわりと聞こえる、と思えば、隣の部屋にいるはずのトモの生活音がまったく聞こえないことが不審に思える。小さなテーブルの上にエビフライを食べた後のお皿が乗ってるみたいにみんなそこを見つめている。エビフライが乗っていた皿だ、と分かるのは、その上にエビフライの尻尾が残っているからであって、それが無いということは、そこにエビフライが乗っていたのかどうかも本当は判断できない。そこにエビフライが乗っていたということを信じる根拠は、そこにエビフライが乗っていたという誰かの証言によるものだ。

「みんなにとってトモくんがエビフライの尻尾を食べないことが、別人説が出てくるほどあり得ないことだっていうのは分かったんだけどね、それがどれくらい珍しいことなのかを少し説明することはできる?」と優が、少し緊張気味に言った。

 優以外の四人は少し虚を突かれる。桜大含め、優の発言が、ここで発言すること自体が、意外に思えたからだ。

「どれくらい珍しいかって言う説明はできないけど、僕は今までトモがエビフライの尻尾を食べてるのを見たことがないよ」

「私も」とミサキが言う。

「妹が見たことないんだよ? よっぽどだと思わない?」と麻衣が追撃する。

「いやそれでも、何か気が変わってエビフライの尻尾を食べたのかもしれないよ? 例えば部屋の中でトモくんは普段、何をしてるんだろう?」

「何って、何だろう。暇だろうからずっとゲームしたり動画見たり、本読んだりじゃないか?」桜大は普段自分が部屋でしているようなことを言った。「あと、窓の外を見ているとか」プラモデル作りのような、何か手先を動かすような趣味が欲しいなと桜大は日ごろ思っているが、工作系は部屋が散らかりそうで手が出せずにいた。

「例えば動画でさ、ベアグリルスのサバイバルゲームを見たりしたとするでしょう最近。知ってる? 知らない? いるのさ、サバイバルの技術とか知識を実践して教えてくれる人が。そしたらさ、サバイバルごっこと言わないまでも、少しサバイバル意識が芽生えて、尻尾も貴重なたんぱく源で、カルシウムが豊富だ、とか思いながら食べた可能性があるじゃない」

 四人は優の話を右から左へ聞き流しながらも、無いことではない、とは思う。しかしトモのことを知っている四人は、優の話が机上の空論であることを感じていて、やはりきちんと確かめなければお話にならない、という決意が固まった。

 雑談のあとようやくミサキの部屋を出て、隣のトモの部屋へ向かう。

「トモ、いるか? 元気か?」と桜大が声をかける。

 翔と、その背中に手を添えている麻衣が後ろにいることを桜大は知っている。桜大がこの兄妹の壁になっている、と思うと少し強気になった。

「声だけでも聞かせてくれないかな。寝てる?」

 ゆっくりドアノブに手をかける。内側から鍵がかかっているらしい。場合によっては扉を破っても良いとミサキは言ったが、天彦にもおばさんにも許可は得ていない。いずれにせよ、ドアを破るのは良いことかもしれない。天彦はこれを僕に期待していたのではなかったか? と桜大は考える。

「ちょっとだけさ、鍵開けてくれよ。翔も麻衣も、一目で良いから会いたいって」

「トモ、お願いだから少しだけお話しない? せっかく集まったんだしさ」と麻衣。翔は何も言わない。何も考えていないのではなく、いつも人より多くを考えているのが翔だと桜大は思っているから、何か考えているに違いないと感じている。

 ドアノブにかける手に力をこめる。すぐに鍵で拒絶される感覚があり、ノブは動かない。

「分かった」と、中から小さい声が聞こえる。

 四人はどうしてか、一斉に優の方を見る。優は、エビフライの尻尾を食べていないくらいのことで中の人が別人だという説を推していなかったので、少し得意気な顔をしている。四人はその顔を確認したかったのかもしれない。

「でも開けないでくれ、ごめん」

「いやミサキがさ、中にいるのがトモじゃないかもしれないとか言い出すんだよ。マジびびったよ」五人とも、それぞれとても低いレベルの笑い声を漏らす。

「馬鹿だな」と、部屋の方でも笑い声を含んだ悪態が聞こえる。「ミサキもいんの?」と続ける。「いるよ」と控えめに声を上げるミサキ。

「ごめんな」と言うが何を謝ってるのかいまいち分からない。迷惑をかけていると思うなら今すぐにでも出てくれば良い。そう考えるのはミサキも同じだったらしい。少し縋るような声で、実に妹が兄に甘えるような声で「何言ってんの? 兄ちゃんさ、もういい機会だし出てくれば?」と言う。

「ごめん、おれにもう関わらない方がいい」と言ったきり、トモの返事はなかった。

 翔はあまり口を開かなかった。後で言うことには、あれ、本当にトモだったかな、と訝しんでいるようだった。「短い言葉しか言わなかったし、ドア越しでトモの声かどうか分からなかったよね」

 そのあとずっと、もう何年も前の記憶となってしまったトモの部屋に、やはり歳を取っていないトモの姿が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。浮かんで、消える度にその想像は、ほんの少しずつ変わっていくようで、ときたま、得体の知れない人影が、トモの背後にいる想像をした。

「エビフライのしっぽを食べたかどうか、誰も聞かなかったね」

 ミサキの部屋にもう一度落ち着いてから、麻衣が言った。

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