第4話 生徒手帳


 数学教師の宇陀うだは、定年を間近に控えていたが、それをイメージする年配者よりも、ずっと老けて見えた。濃いめの茶色のスラックスに、乾いた砂をまぶしたような色の背広はいつも同じだった。


 その存在はもはや無いも同然で、授業はいつも魚市場の競りのような騒々しさだ。


 宇陀は稀に、上半身ほどもある大きさの木製の三角定規を脇に抱えて教室に入って来た。そしてまたあるときは、足の長さほどもある巨大な木製のコンパスを持参してくる日もあった。


 その二つのアイテムが揃った時、クラスのお調子者の森下もりしたは、「素数因子ガウダム」というニックネームをつけた。


「素数因子って何?」


「知らねぇ」


 クラスの連中はそのあだ名を面白がり、森下は調子に乗って、黒板の真ん中に「我宇陀無がうだむ」と暴走族をもじって書いた。


「無はないやろ、おじいちゃんに」


「かわいそうやわ……」


 様々な意見を吟味ぎんみした結果、正式名称は「我宇陀」に決まった。


 名前を改め、初めてそのいたずら書きを決行した時、その悪ふざけを宇陀がどう処理するのか、クラス全員がしんと静まり返って見守った。


 宇陀は最初それに気付かず、五分ほど話をしてから、いざ黒板に文字を書こうとして、少し驚いたように身を引いてそれをながめた。


 ゆっくりと一文字ずつ、かすれた声で読み上げ、やがてオレたちのほうをチラリと見て、しょうがないなぁといった苦笑いを浮かべるのだが、顔中深く刻まれた年輪のようなしわのせいで、それは泣いているようにも見えるのだった。

 そしてため息にも舌打ちにも聞こえる奇妙な声を発して、その文字をおぼつかない足取りで消し始める。

  

 すると、僕が消します! と森下が叫びながら黒板の前に飛び出した。

 森下は、宇陀から黒板消しをひったくると、「誰だ、こんなこと書いた奴は!」と正義感を装い、怒りを込めて乱暴に消し始めた。

 

 クラスの連中は「お前やろ」と口々に言ってゲラゲラ笑う。


 笑いの渦の中、オレは胸ポケットから取り出した生徒手帳を広げた。


 つい最近、お互いの手帳を交換し、それぞれの時間割とメッセージをメモのページに書いた。


 ―― 勉強がんばってね! 未歩 


 放課後、未歩は毎日レッスン室にこもって、ピアノを練習しているらしい。


 一度だけ、未歩に内緒で練習が終わるまで時間を潰したことがあった。そしていざ、未歩の練習終わりにレッスン室を訪ねると、一足先に帰ってしまい、顔を合わすことすらできなかった。


 かをりに相談すると、そういう些細な事をきっかけに、実際に別れてしまう男女も少なくないのだと言う。

 オレを待たせていると未歩も気を使うらしく、もし一緒に帰れたとしても、帰る方向もバラバラだから、ほんの短い時間になってしまう。


 かをりはそんな様子を察したのか、たまの昼休みに未歩とオレを引き合わせてくれた。


 しかし、未歩が頼んでいるのかは知らないが、かをりが必ず間に入った。

 シュウも交えて、その場を盛り上げようとしてくれるのだが、和やかな雰囲気の中、オレは嬉しさと歯がゆさが混じり合う、妙な気分になった。


 オレは見慣れたその文字をしばらくながめると、そっと手帳を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る