第5話 初めての下校

 未歩と付き合って、約一年が過ぎた。六月に入り、空は均一に広がった薄暗い雲から、ポツポツと大粒の雨を降らせている。


 雨は傘からはみ出した制服のブレザーの裾をみるみるうちに黒く染め上げていく。未歩の小さなローファーも、いくつものまあるい水の玉をはじいていた。


「始めてやね、こうやって一緒に帰るの」


 出来上がったばかりの水たまりを避け、オレは未歩の顔に視線をずらした。


「ピアノの練習はどうしたの?」


「うん、ちょっと休んじゃった……」


 やわらかく笑った黒目がちな瞳が、ほんの一瞬だけかげり、また元の色に戻った。ふんわりとまとめたポニーテールは、歩くたびにやわらかく揺れて、くるんとなったもみあげの後れ毛も可愛い。


「今日、いつもと髪型違うね」


 未歩は少し照れてうつむく。その仕草で急に実感が湧いた。

 今、彼女の横に並んで歩いてる。これが付き合ってる男女の形だ。


 オレの肩の高さにちょうど未歩の頭があり、身体の右側で受けとめるその柔らかな熱が、オレをじんわりと幸せな気持ちにさせる。

 それは爆発的な喜びとは違う、静かに押し寄せる波のような心地良さだった。


 バスの扉が閉まると、その空間はすぐさま、生徒たちの喧騒けんそうに包まれる。

 話の合間、未歩は窓越しに過ぎていく景色を無表情に目で追いかけていた。

 それはちょっとだけ不機嫌にも見えたし、ただ単に考え事をしているようにも見えた。


 傘の先から滴る雨水が、不規則な揺れを続けるバスの床に細長い線を描いている。


 付き合い始めてからずいぶん経ったが、今まで欠かした事のないピアノの練習を休んでまで一緒に帰るなんて、どういう風の吹き回しだろう。

 未歩の気まぐれにも思える行動に戸惑いながら、オレはバスの揺れに身を任せた。

  



 次の日の昼休み、音楽室前でかをりに呼び止められた。

 未歩のことで、ちょっとだけ話があると言う。学食帰りに隣を歩いていたシュウは、かをりに目配せをすると、そのまま教室へと戻って行った。

 

 音楽室は他の学科も共用するため、至ってシンプルな造りをしている。

 大体の学校がそうであるように、床には絨毯じゅうたんが敷いてあり、グランドピアノが黒板側の奥に配置されていた。


 五時間目には、実技の試験があるという。

 耳をすませると、隣の第二音楽室からくぐもったピアノの音が聞こえてくる。昼休みも半分を過ぎ、音楽学科の生徒は各レッスン室にこもり、練習中というわけだ。


「オレこんなところに居てもいいんか?」


「いいのいいの。ナイショ話するにはもってこいでしょ?」


 かをりはそう言って、意味深いみしんな笑みを浮かべる。


 少しだけ開いている窓から、夏の匂いを含んだ風が通り抜けた。

 音楽室はいつも通り、よそよそしい。他の教室に比べて、この部屋は特別な意思を持っている。

 教師も生徒も、音を楽しむ事を神様に試されているのだ。


「いいこと教えてあげる。今隣で弾いてるの未歩やで」


 さっきから聴こえていたピアノは、曲が変わったのか、ずいぶんゆったりとした曲調になっている。


「さすが未歩やわ」


 かをりは感嘆かんたんの声を上げた。

 何でも今弾いてる曲は、誰もが弾けるものではない、音大生レベルの特別な曲らしい。


「この前の実技試験で、Sランク取ったのは未歩だけなんやで」


「ふうん。やっぱすげぇんやな」


 オレは誇らしげな気分で未歩の演奏に耳を澄ませた。


 明け方に、ささやかに輝く月光。

 あとわずかな時間で、空に溶けてしまう曖昧な白。

 生まれたての地球と、果てしない宇宙を繋ぐ旋律たち。


 オレは今まで、ピアノを奏でる未歩の姿を見たことがない。

 しかし、くぐもってはいても、鍵盤から弾かれた音符は、はっきりとした理想を持つ生命体のようにオレの耳に届く。


 未歩がピアノに向かう姿は可憐かれんといったものではなく、その真逆のストイックなものに違いない。勝手に想像した、でもおそらくそれに近い姿を思い描く事は難しくなかった。未歩と付き合うようになってから間もなく、今のような輝かしいエピソードを、度々聞かされていたからだ。


 未歩の夢はピアニストだ。


 できれば仕事として音楽に携わっていたい、という漠然としたものではない。ピアノをあまり知らない人間でも、未歩がそれを生業なりわいとしている人間だと認識できるような、プレーヤーのことなのだ。


 練習のため、睡眠時間を三時間しかとらない日もあると聞いた。中学生の頃にはすでに、名立たるコンクールの常連となっていたらしい。


 彼女はピアノを他の何かのために犠牲にすることはない。

 一流のピアニストを目指す彼女には、その場所に進むためのしかるべきカリキュラムがあり、会えない時間にオレの事をぼんやり想って、ピアノが手につかない、なんてことは有り得ない。


 そもそもオレは、ピアノと天秤にかけられるほどの存在ではないのだ。

 

 未歩は何故、自分と釣り合わない、こんなヘタレを選んだのだろうか?

 いつだったかシュウが言った、生粋のギャンブラーという例えも、あながち間違いとは言い切れなかった。 


「そういえば梨九センパイ、昨日未歩と一緒に帰ったんやろ?」

 

 かをりは改まったように話題を変えた。


「未歩、嬉しそうにしてたよ」


「そっか……」


「ちょっと進路のことで悩んでるみたいに言ってたし、安心したわ」


 へぇ、と驚いて返すと、かをりは、何の悩みか聞いても教えてくれんのやわ、とおどけて言った。

 確かに昨日の未歩は、ちょっとぼんやりしている感じがした。会話は成立しているのだが、頭の後ろのほうでは、もっと別の、大きな何かがふくらんでいるような、そんな感じ。


 最近、二人きりで昼休みに話す機会も増えた。しかし昨日は、何の前触れもなく、放課後の音楽室前で、いきなり後ろから声をかけられた。

 振り返ると、いつも居るはずのない未歩が立っていた。早歩きで追いかけてきた未歩は息を整えながら、一緒に帰ろう、と言った。


 確かに今考えれば、唐突で不自然だったかもしれない。しかしオレはただ、初めての事に驚き、悩みがあるなんて気が付きもしなかった。不安げに誘ってきた未歩に対して、あからさまにキョトンとしてしまっただけだ。


「ねぇ、もうすぐ未歩の誕生日でしょ」


「うん」


「未歩って甘い物好きなんやで」


「へぇ、そうなんや」


「駅前に新しいお店できたの知ってる?」


 かをりはやけに上機嫌で、そのお気に入りの洋菓子店の魅力を語りだした。


 オレはまだ、未歩と食べ物の好みの話なんてしたこともない。一番の友達のかをりが言うのだから間違いないのだろう。


 かをりはそのお店のスイーツを未歩にプレゼントしてみたらどうかと提案してきた。食べれば形は無くなるが、甘い記憶として残るスイーツ。


「……あげたら喜ぶかな?」


「絶対喜ぶわ。私、一緒に行ってあげる。梨九センパイ一人じゃ、何選んだらいいかわからんやろ?」


「うん、じゃあそうしよう……」


 興奮気味に話すかをりの瞳は企みを帯びた色に変わっている。気が付くと、オレはまんまとかをりの話に乗せられていた。


「やった! じゃあ、今度シュウセンパイと一緒に行こっさ」


 かをりはバンザイのポーズをして、タカリ顔を笑顔で隠す。すると壁の掛け時計がカチリと音を立てた。


「あ、そろそろ未歩の時間終わりやわ」


 つぶやくように言うと、かをりは机に手をついて立ち上がる。

 ピアノの演奏が終わり、第二音楽室の扉が開く音がして、未歩がこっちに歩いて来た。


 かをりがドアを開けると、未歩は中にいるオレに気付き、どうしたの? と、どちらともなく尋ねた。


「未歩のピアノ聴きたかったんやって。ねーセンパイ」


 わざとらしく未歩の肩を抱くかをりは、おとぎ話に出てくるキツネのように狡猾こうかつな笑みを浮かべている。


「じゃあね、センパイ」


 扉を閉める瞬間、かをりはオレだけに分かるように、、と唇だけを動かし、二人で教室へ戻って行った。

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