第10話 ジッポーと彼女
「なぁ梨九。いい加減、この前貸したジッポー返せや」
休み時間、何気ない会話の終わりにシュウが言った。
あの日の出来事は今でも、ハッキリ覚えている。
身体は疲れているのになかなか寝付けず、夜更け過ぎまでベッドの上で何度も寝返りをうった。
次の日、滅多にひくことのない風邪をひいた。夜風に当たりすぎたのか、寝不足が
遅れて教室に着くと、シュウはさっそく探偵気取りで、あいつらが探していた女子に心当たりがあると言ったが、見事にはずれていた。
恭子センパイの事はとりあえず黙っていた。しかし、シュウはオレの右手首に巻かれた紐に気付いた。
「梨九、そのミサンガ自分で買ったんか?」
「ミサンガ?」
「手首につけてるやつや」
「あ、あぁ……」
「お前まさか、何か知らんとつけてたんか?」
「えっ、あ、いや、知ってるし……」
オレはこの時初めて、この紐に正式な名称があることを知った。
ごまかしたのを見抜いたのか、シュウはしきりに「あやしい」と連呼し、誰に貰ったんだ、としつこく訊いてきた。
結局その日、シュウはジッポーのことには何も触れず、オレは朝の微熱が38℃を越え、昼前には学校を早退する事となった。その次の日も、熱は上がったり下がったりを繰り返し、結局オレは、三日も続けて学校を休んだ。
そして日曜日をはさんだ今日になって、やっと登校できたのだ。
「まさか失くしたなんて言わんやろな?」
ぼんやりしているオレを見て、シュウは目を細めた。
「……まだ家に置いてある」
とっさの言い訳だった。
「あれは応募して当選せんと貰えん非売品なんやぞ。ぜってー失くしたりすんなよ」
シュウから念を押され、放課後一人でバコエンに探しに行くことになった。
しかし、あんな汚い公園の雑草の生い茂る中を、好き好んで歩く馬鹿もいないだろう。
そして幸いなことに今日まで雨は降っておらず、ジッポーを濡らしてしまう心配もない。
やっと登校できたこの日、恭子センパイを校内で見かけることはなかった。
昼休みにシュウに内緒で、売店や職員室前、中庭の周辺を意味もなく行ったり来たりしたが、どれも空振りだった。
もしかするとあれは本当の幽霊だったのかも、と馬鹿げた想像をしながら歩く。
そして目印の小さな郵便局を過ぎた時、オレの足はぴたりと止まった。
――バコエンが無い
オレはゆっくりと歩いて公園の入り口に近づき、馬鹿みたいに突っ立ったまま、すっかり変わり果てたその姿をながめた。
園内にはびこっていた雑草は綺麗に刈り取られ、散髪したての白髪頭のようだ。むきだしの地面の所々には、まだ煙草の吸殻がいくつか転がっている。
ブランコのあった場所は鉄柱が抜き取られたためか、土が掘り起こされていた。土管の遊具は跡形もなかった。水飲み場も、鉄棒も、小さな砂場も、全てが無くなった。
残ったのは、荒れた土の地面だけだ。
以前の
あっけなさ過ぎて、もはや寂しさすら感じることの出来ないその場所をながめ続けていると、例えようの無い喪失感が胸の内に広がっていった。
一体この数日の間に何がどうしてこうなってしまったのだろう?
しかし感傷に浸っている暇はなかった。
ジッポーを探さなければ。
だがどう見てもこの状況からして、それは絶望的に思えた。
仮に見つかったとしても、変形し、傷付いていたら許してもらうことは難しいだろう。
土管のあった辺りは深く掘り起こされた黒い土で湿り気を帯びていて、これ以上ないくらい汚れて、足を踏み入れるのをためらわせる。
そうこうしているうちに雨は小雨に変わり、絶望に引きつった頬を不快に撫で始めた。
オレは天に祈るような気持ちで、薄情に白く煙る空を仰いだ。
チャカン……!
いざ一歩目を踏み出そうと決意したその時、不意に後ろのほうから独特の金属音が響いた。
振り返ると、電信柱の横に紺色の傘が見える。
カチョ……。チャカン、カチョ。チャカン、カチョ……。
その音が何度か繰り返され、ゆっくりと幕が上がるように傘が後ろに傾く。
そこには意地悪そうでいて、親密さを帯びた笑みがあった。
「探し物見つかった?」
ジッポライターの蓋を開け閉めするその姿を見て、オレはホッとして大きく息を吐いた。
その姿を見て、彼女も可笑しそうに笑った。
「幽霊が出たみたいな顔してるよ」
道路の端っこからそう言って呼びかける恭子センパイは、確かに夕暮れの時より現実味がなかった。
「まさか、また隠れてたんすか?」
「そんなわけないでしょ。どこに隠れるとこがあんのよ?」
「ほんなら何でここに?」
「友達の家に行く途中」
彼女は学校帰りにバスを降りて大通りから歩いてきたと言い、その先の酒屋の看板が見える路地を指差した。
「濡れるよ、ほら」
道路を横切り近付くと、彼女は傘を高く上げ、オレの背に合わせてくれた。ひとつの傘の中はあまりにも距離が近く、オレは自分の顔がみるみる赤くなるのを感じた。
「バコエン、無くなっちゃいましたね……」
恥ずかしさを隠すように、公園のあったほうへ目をやると、彼女も静かな眼差しを向けて、その空間をながめた。
「新しいアパートが建つみたいやで」
「へぇ……」
「はい、これ。大事な物なんやろ?」
彼女は右手の手のひらをそっと開いた。
鈍い光を放つ銀色の
「どうやってこれを? まさかわざわざ探してくれたんすか?」
「ううん、それが偶然なのよ!」
彼女は三日前に、今から会いに行く友達とこの通りを歩いていたのだという。すると、公園で遊んでいた小学生の男の子が、このジッポーを手に持っていたというのだ。そしてまた、こうしてオレと偶然の再会を果たしたのだった。
完全にお手上げの状態からイッキに事態が好転し、オレは嬉しさで胸がいっぱいになった。喜んでジッポーを受け取ろうと手を伸ばすと、彼女は何故かその手をスッと引っ込めた。
「私、これ持って何度かあんたの教室まで行ったんやで」
「えっ、あぁ、あの、すいませんでした。オレ、風邪ひいて昨日まで学校休んでたんです」
「ふうん。ほんならしょうがないけどさ、こっちはこんな物持ち歩いてるのに、嫌いなセンセーには何の用やって声かけられるし……」
オレはその場面を想像して、思わず笑みがこぼれた。
「ちょっと。ホントにありがたいって思ってんの?」
「思ってますよ。めっちゃ感謝してます」
「じゃあ、私がここまでやってあげたんやから、何かお礼しなさいよ」
彼女はそう言ったきり、黙ってオレの顔を覗き込んでいる。
「お礼……ですか。どんなものがいいですか?」
「物じゃないほうがいいわ」
「そう言われるとなおさらムズいなぁ……」
彼女は考え込むオレの顔を、期待に満ちた瞳で見つめてくる。オレは何とか気の利いた事を言わなければと焦ってしまった。
「じゃあオレ、恭子センパイのボディガードになります!」
それを聞いた彼女は腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
そしていきなり、オレの胸をトンッと指先で突いた。軽く突かれただけなのに、しっかり立っていたはずの身体は、いとも簡単に傘からはみ出してしまった。
「百年早いわよ」
冷たくそう言い放ち、背を向けて歩き始める。
「えっ? ちょ、ちょっと待って!」
その背中に向かって叫んだが、まるで聞こえてないようにどんどん遠ざかっていく。
きっと何か怒らせるようなことを言ってしまったに違いない。
「恭子センパイ。ジッポー返して下さいよ」
途方に暮れて棒立ちになっていると、彼女が振り返った。
「ポケットの中よ」
はっとして手で押さえると、上着の胸ポケットにその感触があった。
「あ、ありがとうございました」
「もうちょっとマシなお礼、考えといてや」
ポケットから取り出したジッポーには、彼女の手の温もりがあった。オレは姿が見えなくなるまでその塊をずっと握りしめた。
雨はいつの間にか上がっている。
きまぐれ顔の雲を背に、まぼろしのような虹が橋を架けた。
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