第9話 土管の上の少女

「ちょっとキミ、大丈夫?」


 ニンマリと笑ったその瞳は大きく、鼻筋から頬にかけてそばかすが散らばっている。いぶかし気なオレの視線を気にすることもなく、獲物を捕らえた猟師みたいにわくわくした面持ちだ。


「ねぇ、パンツ、何色やった?」


「パ……パンツ?」


「今、私のパンツ見たやろ?」


「えっ、いや、あの、途中で目つぶったし……」


「あ〜ら、ザンネン」


 彼女はからかうように笑って、すぐそばの土管の足場に腰掛けた。オレは仰向けの状態から、まだふらふらする上半身を起こし、あぐらをかいた。

 

 彼女は両手で頬杖をつき、親しげな笑みを浮かべてオレの顔を見据える。よく見ると、うちの学校のセーラー服だ。


「それにしても噂って受け継がれるもんやねぇ。お友達も言ってたけど」


 胸の前で両手をだらりと下げる恨めしやのポーズだ。


「ちょっと待った。オレらの話、どこで聞いてたん?」


「ここ」


 彼女は後ろに手を伸ばして土管を軽く叩き、子供のように笑った。


 確かにこの土管の大きさならしばらくは窮屈きゅうくつじゃないが、オレたちが来てから、けっこう時間が経っている。


「なんでまた、こんな所に一人で?」


「かくれんぼしてたのよ」


「かくれんぼ?」 


 オレは何気に辺りを見回した。しかし、オレたち以外に人の気配はない。


「もう暗いし、みんな帰っちゃったんじゃないの?」


「ちょっと、本気にしてるん?」


 彼女はぷっと吹き出す。


「え、どういう意味?」


「赤鬼はあんたらが追っ払ってくれたやろ」


 そう言われてやっと気付いた。

 彼女こそが、赤毛の探していた茶髪の女だったのだ。


「ここって案外、盲点やと思わん?」


 そう言う彼女の胸元には、幸いまだ白いスカーフが結ばれていた。オレはゆっくり立ち上がって、身体についた土汚れを手ではらった。


「今度から一人で歩かんほうがいいよ。スカーフ取られてる女子、結構いるみたいやし」


 そう注意すると、彼女もおもむろに立ち上がった。そして制服のお腹の辺りから何やらゴソゴソと取り出し、それをパッと空中に投げた。


 深紅しんくのスカーフが数枚、はらはらと舞い、音もなく地面に落ちる。


「えっ?」


「私こう見えて、けっこうすばしっこいんやで」


「もしかしてさっきの赤毛のスカーフも……」


「まあね」


 オレの予想は見事に当たっていた。いや、その予想を上回る結果だ。

 

 しかしこれが本当に他校の生徒から奪い取ったものなら、ただすばしっこいという話では済まされない。おそらくこういう事に場慣れしていている、かなりヤバい上級生だ。

 

「友達の敵討ちでやったんやけど、いつの間にか男共も追っかけてきてさ……」


「多勢に無勢ってやつっすね」

 

 とりあえず礼儀正しく話すことにして損はない。


「そういうこと。まぁとにかく助かったわ」


 彼女は心なしか、緊張の和らいだ表情になった。オレは冗談っぽく、腕を組んで胸を反らせてみる。


「じゃあオレたち、恩人って事でいいですか?」


 そうやね、ありがとう、と彼女は素直に礼を言った。お転婆てんばな娘が急にしおらしくなり、はにかんだ笑顔を見せる。その姿に、オレは一瞬ドキッとした。

 

 そして頭を撫でるような手つきでそおっと手を伸ばしてくる。思わずオレは頭を低くしてみせた。

 

「チョーシこいてんじゃないのよ」


「イテッ!」


 軽くデコピンを食らう。


 空は急ぎ足で藍色あいいろを溶かしはじめ、深緑に輝いていた山々も闇に沈みかけている。


「随分暗くなっちゃったわね」


「コーハイを驚かせて面白がっているからですよ。じゃあ、オレはこれで……」


 そう言って学生カバンを引き寄せようとすると、その腕を彼女が軽く掴んだ。


「ちょっと待って。あんたどうせ暇やろ?」


 オレの返事を待つわけでもなく、彼女は土管の上に登る。


「暇って……。確かにそうやけど」


 少し強引だが、何故だか悪い気はしなかった。言われた通り土管に登って隣に腰を下ろすと彼女はオレに向かって微笑み、二本指を立てた。


「なんや。煙草が吸いたかっただけか」


「バコエンに来た時の、上級生に対しての礼儀やろ?」


「聞いたことないんすけど」


「こういうのショバ代っていうんやで」


「ショバ代? オレたちに助けられたくせに」


「何か言った?」


「いいえ、なんも言ってません」


 彼女はオレの差し出した箱から煙草を一本抜き取ると、当たり前のように口元にもっていった。

 ジッポーで火を点けてあげると、慣れた様子でふかしはじめる。

 ついでにオレも箱から飛び出した煙草を歯で噛んで抜き取り、自分で火を点けた。


「ブンタなんて吸ってんの? 生意気」


「ブンタ? ブンタって、あの、チャララ~の人?」


 彼女はおもわず吹き出して、自分の煙草の煙にむせかえった。


「違うって。セブンスターの『セ』を取って略してみ」


「セ? セ、……ブンスター、ブン、スタ。ブン、タ。ブンタ! なるほど……」


「ほんなに感心することじゃないやろ」


「セブンスターは……、いや、ブンタは何で生意気なんすか?」


「だって、ブンタって貫禄かんろくのあるおじさんが吸うやつやん」


「いつも何吸ってるんすか?」


「マルボロよ」


 彼女は何故か得意げにそう答える。オレは少しあきれて反論した。


「マルボロかってそうでしょ」


「いや、ブンタのほうがおじさんやわ」


「ほんなこと言い出したら、おじさんの吸わないタバコなんて無いっすよ」


「確かに正論やわ」


 彼女はバカバカしそうに笑いながら、小指で頬にかかった髪を耳にかけた。

 そして改まったようにオレに向き直った。


「あんた、名前なんていうの?」


「あ、オレ、梨九っていいます。菖蒲あやめ梨九……」


 苗字が花の名前だと教えると、へぇ〜なんか可愛い、と感心している。


「私ね、立川恭子っていうの。何かあんたの名前聞いてからやと、平凡やね」


 彼女はそう言って、愉快そうに笑った。 


「ほんなら、立川センパイ……っすね」


「あんたは特別に恭子さんって呼んでいいよ」


「え? えっと、じゃあ……、恭子さん。これからもヨロシクお願いします」


 ペコリと頭を下げると、彼女は煙草をふかしながら満足げな笑みを浮かべた。


 夜の気配がすぐそこまで迫っていて、ぼんやりとした膜に包まれたような夕暮れの匂いは今にも消え去ろうとしている。


 こんな状況のせいだろうか。オレは初めて会ったこの女性に、他では感じたことのない妙な親近感を抱き始めていた。

 

 懐かしい感じがするとでも言えばいいのだろうか、そんな気持ちを上手く説明することもできず、オレはまた新しい煙草を口にくわえた。


「あ、あれ?」


「どしたの?」


「いや、ジッポーが……。落としたかも、やべぇ……」


 ポケットや、そこら辺りを探したが何処にもない。


「下に落ちてんたかもね」


 土管の下には背丈の長い草が生い茂っている。考えるまでもなく、この暗闇の中を探すのは至難しなんわざだ。


「しょうがねぇ。明日朝早く来て探そ……」


「ほやねぇ。今日はほっといても、誰にも盗られんやろ」


 その言葉にオレはちょっと安心して、指に挟んだままにしていた煙草を、何も考えずにまた口にくわえた。それを見た彼女はまたぷっと吹き出した。


「今、失くしつんたって言ったばっかりやん」


「はははっ、そうやった。恥ずかし」


「しょうがないわねぇ。ほんならさ……」


 彼女は短くなった自分の煙草を指に挟んで揺らしてみせ、それを口元にもっていった。


「早よせんと消えてまうよ」


 煙草をくわえて少し身体を傾けると、土管の上に置いた彼女の指先にオレの指先が触れた。煙草の先と先をくっつけ、彼女が息を吸い込むと、先端が赤く燃え上がり、それに合わせてオレも息を吸う。


 指先が一瞬赤く染まり、上手く火が点くと、彼女はオレの目を見て微笑んだ。


 その時ふいに、さっきから感じていた気持ちの正体がはっきりした。

 

 この人とは遥か昔に何処かで会ったことがある……。


 山頂の輪郭りんかくをわずかになぞっていた夕焼けは消え、しんみりと夜気が忍び寄る。

 侵食しんしょくする闇に外灯が灯り、公園は日常から切り離された。遠い記憶のような感覚は、この空間に見守られるように、温かく気持ちを満たしていく。


「ちょっと右手見せて」


 彼女は思い立ったようにそう言うと、ポケットの中から色とりどりに編み込まれたひもを取り出し、オレの手首に巻き付けて固く結んだ。


「なんすか、これ?」


「自然に切れたら好きな人と結ばれるっていう魔法の紐。今日の記念にあげるわ」


「今、付き合ってるコとかいるの?」


 オレはブンブンと首を振る。


「じゃあ好きなコとかは?」


「いや……。今は友達作るほうが先っていうか」


「そっか。まだ入学したばっかやもんね」


 そう言って彼女はオレを弟のような目で見る。


「ほんならさ、めちゃめちゃ可愛い彼女ができますようにってお願いしたら?」


「そんな願いでもいいんですか?」


「もちろん。じゃあ今日から、お風呂に入る時も寝るときも取ったらあかんよ」


「分かりました、ちゃんと守ります」


「素直でよろしい」


 耳元で笑う吐息が離れ、彼女はそっと土管から降りた。薄闇の中に残り香が漂う。


「じゃあね」


 彼女はバイバイと手を振って帰っていった。笑ったその唇がいつまでも闇の中に浮かんでいるようだった。


 オレはまたしげしげと手首に巻かれたその紐をながめた。彼女が結んでくれたその紐のある右手は、さっきまでとは違う特別なものみたいだ。


 知らない間に長く伸びた煙草の灰が、手の指をかすめて落ちた。


 むき出しになった熱の塊が暗がりの中赤々と燃え続けている。オレは煙草をひとつふかすと、土管の上で揉み消した。そして暗がりの中を思い切りジャンプし、そのままの勢いで夜の街を駆け出した。誰にも止められない、無敵のロケットの気分で。

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