◇◇ 第二話 四月十三日、あと23日・放課後(3)

   ○


 まず翔と道を分かれ、次に千亜希を家の前まで送り届けると、僕と悠乃だけになった。

「え? じゃあ、あの幼稚園ってもう無いの!?」

「無いっていうか移転されたんだ。いまは空き地になってるらしい」

「うわー、そうなんだ……あ、ほら! あの大手スーパーがあるところ、前は田んぼじゃなかった? みんなでオタマジャクシを乱獲してた」

「ああそっか、前は田んぼだったっけ……」

 悠乃の語る変化はとめどない。

 ここにマンションなんてなかった。

 この道の舗装はこんなにお洒落じゃなかった。

 駄菓子屋が無くなっている、ここは空き家だった、虫取りした林が新築の民家に。

 ずっと住んでいた僕が忘れた景色を、五年半ぶりの悠乃が呼び覚ましていく。

「よく覚えてるな」

「むしろなんでセージより私が覚えてるのよ?」

「なんでだろう……このあたりは滅多に通らないから、単純に忘れたのかも」

「え? なんで? 家からそんなに遠くないのに」

「ゆーちゃんの家に行く以外で、ここを通る理由がなかったんだよ」

「あ、そっか。そういうこともあるんだ……」

 驚いたことに、自宅から歩いて十数分ほどの道さえ、数年も踏んでいなかった。

 こういう、生活の動線から外れた『死角』みたいな場所は、他にもたくさんある。

 いつしか行かなくなった友達の家への道のりとか、卒業した学校への通学路とか。

 自転車に乗るようになって行動圏が広がり、逆に歩かなくなった近所の路地とか。

 その道を歩かなくなるにつれて、その道で誰と何をしたのかも思い出せなくなる。

 大人になって車を運転するようになったら、そういう死角がもっと増えるのだろうか。

「あれ? ところでいま『ゆーちゃん』って言った?」

 感傷に浸っていた僕は、悠乃の指摘で不覚を悟る。

「……言ってない」

「いやいや、たしかに聞いたから。別にいいのに」

 むしろなんで呼びたがらないのかと首を傾げていた悠乃は、ニヤリと笑う。

「もしかして、子供っぽく見られたくないから? 口調が堅物っぽいのもそのため?」

 その瞬間、僕の顔はさぞかし雄弁に『図星です』と語っていたことだろう。

「……昔はともかく、いまはそういうキャラで通ってるんだよ」

 小学校の委員長と高校の委員長では、求められる風格が違う──と思う。

 そのために気を張ってきたら、いつの間にか、自分で形成した印象に縛られる人間となってしまった。

 しかも、他の対人関係スタイルを築いてなかったせいで、いまさら変えられない。

 翔が言うに、僕は『そういう種類のバカ』なのだそうだ。

「昔はともかく、かぁ」

「どうした?」

「いや、子供の頃とは違うんだなーって」

 悠乃はどこか不満そうな目を向けてきた。

「僕、そんなに変わったか?」

「変わった。とにかく背が伸びた。頭が高い、けしからん」

「いや、けしからんって言われても……」

「あと性格、前はもっとオドオド気味だった」

「いまもそんなに変わってないつもりだけど?」

「変わってますー。今日の親睦会みたいに堂々とした感じじゃなかった」

 あれが堂々としているように見えたんだろうか? やらされ慣れただけなのに。

「なんか、ずるい……セージのくせに」

「なんで?」

 悠乃は口を尖らせていた。

 男には未知なる乙女心の働きだろうか? ちょっと可愛いけど、意味は分からない。

「なんていうか、全体的に、大人になった」

 大人になった──悠乃の口にした評価は、褒め言葉と取っていいのだろうか。

 見た目も性格も、ランドセルを背負っていた頃よりは大人だろう。

 高校生男子の端くれとして、男ぶりを上げる試みも色々してきた。大半は失敗に終わったけど、そのうち幾つかが実を結んだならいいことだ。

 ただ、悠乃の言いたいことは、そうじゃない気がする。

(ああ、そっか……)

 何気なく悠乃を見て、僕は『大人になった』の真意に気付く。

「悠乃も、大人になったと思うぞ?」

「へ? どこが?」

「今朝なんかは、すっかり一人前の女子高生って感じで、変に緊張させられた」

「そ、そりゃ見た目に気を遣ってはいるけど、性根は昔と変わらないっていうか……」

 悠乃が僕の台詞に戸惑っている。

 ああ、さっきまでの僕はこんな顔してたんだろうな。

「それだよ。僕も変わってないんだ」

 大人になったという台詞の真意はそういうことだ。

 子供の頃とは違うから、あの頃と同じではいけないのではないか──だ。

「久しぶりすぎて勝手が違うのは『お互いさま』ってことだよ」

 きっと、悠乃も僕と同じだったんだろう。

 昔と同じ感覚ではいけない、かといって初対面のようでもいけない。

 そんなことを悩みながら、手探りで、相手の顔色を窺っていたんだろう。

 こうして向き合ってみれば簡単に解消されることを、何を怖がってか慎重に。

 だとしたら僕たちは、なんてバカな遠慮をしていたんだろう。

「へー」

「……なんだよ、その、ニマニマした変な笑い方」

「いやー、セージってば私と話してて緊張してたんだなーって」

「その精神的な優位に立ったような顔、どうしてか腹が立つな」

 ガキ大将の血がそうさせるのか、優位なところを見付けた途端に得意顔だ。

「あ、ここまででいいよ? ごめんね遠くまで」

「ああ、おばさんにもよろしく」

「わかった。じゃ、またね」

「また明日」

 僕は悠乃に別れを告げて、きびすを返す。

 またね、また明日──本当に五年半ぶりなのかと疑うくらい、あっさり口にできた。

(……少し、散歩して帰るかな)

 子供の頃のように、軽々しく手は繋げなくなった。

 けれど、手を通じて繋がっていたものが、また繋がった気がした。


 ──家に帰り、部屋に戻る。

 目に入ったのは、例のモンスターのボードゲームだ。

(これ、処分しようかと思ってたけど……)

 こんな紙細工に等しいオモチャ、二度と出番なんてないだろう。

 だが、もしこれを手放したら、十年後に今日のことを思い出せるだろうか?

(……もうちょっとだけ寝かせておくか)

 言い訳みたいに考えながら、ボードゲームを押し入れに片付けた。

 その後はざっと部屋の掃除をして、風呂に入り、また部屋に戻る。

 スマホから着信音がしたのは、そのときだった。

『朝陽悠乃』

 画面には、今日登録したばかりの名前があった。

「お待たせ、誠治だけど」

 応答するも、悠乃の声がない。

 もう一度「もしもし?」と呼んでみると、返事が来た。

 ──後になって振り返ると、僕はさっきまで、とても楽しんでいたんだろう。


『セージ…………転校するって、本当?』


 悠乃から聞くまで、その事実を忘れていたのだから。

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