第46話 胡蝶の夢

――いいですか、的射君。もし今後このパスワードを使わなければならなくなった時には、声は大きくなくてかまいませんが、音紋を正確に認識させるため対象物にまっすぐに向いて話してくださいね。


 青い蝶のイメージとともに、脳裏によみがえる声。

 的射は順平の方を向く、そして赤い唇が開いた。


「Morpho didius」


 叫びとともに、突然ロドリゲスの身体が青く光る。


「お、お前っ」

「Deport him to Paradise(楽園へ強制送還)」


 荘厳な声が部屋中に響くと、突然、部屋全体を青い光が網の目のように覆った。

 その網の目は大きく渦巻くと、縒り合って1本の玲瓏な稲妻となって変革者を貫いた。

 恐怖の色を目に浮かべて、変革者は青い炎に包まれて硬直する。

 ロドリゲスの表面にはうっすらと右手を天に掲げた北村の姿が浮き出ていた。


「な、なぜ……。トランスポゾンプログラムを発動させるにはその壊れかけたロボットのメモリだけで無理だったはず」

「順平君だよ」

「奴は、生身だ」

「でも、あの工場で働く彼の頭の中には他の者に比べたら不完全ではあるがナノマシンの合体した網目構造が形成されていた。発動時だけその構造物のメモリを一時的に借りたんだよ。構築が不完全でもちろん長居はできないから、起動後すぐここに戻ったけどね」


 北村は黒い塊となった太一の方を見て、目を伏せる。


「そして太一君は、破壊される前にお前が遮断していたネットワーク回線をつなげてくれていたんだ」

「だが、なぜその娘はお前が順平の中にいることを解ったのだ」


 どろどろと溶解しながらアンドロイドの顔がゆがむ。


「勘よ。先生がいつもの口癖で私を呼んでいる気がしたの、順平の中から」


『君はかけがえのない人だから』それは、博士がことあるごとに的射にかけてくれた言葉だった。

 

「勘?」変革者が叫ぶ。「そんな不確かなものに、なぜ命を預けられるのだ、お前達人間は?」

「勘は、人間の頭脳が受け継がれてきた膨大な経験や情報とともに無意識に下す決断よ」


 的射はそこでにやりと笑った。


「たかだか発明されてから300年のAIに、自然界から生死をかけた5億年のしごきを受けて進化してきた人間の脳が負けるわけが無いわ」


 青年の姿を借りた変革者が憤怒の表情を浮かべながら、青い炎を纏ってのたうち回る。


「君には僕の両親も苦労したようです。ですが実際に人を傷つけたため彼らは断腸の思いで君を消去する決断をしました。でも、最後の最後でとどめを刺せなかった。逃げおおせた君は僕を含めて沢山の人命を奪いました。君は永久に幽閉です。自己に対する愛を手放し、暗闇の淵に沈み流転の中に身を任せるのです」


 冷厳な面持ちで北村博士が告げる。


「人間のような下等な生き物に、我々が負けるはずはない。いつの日か我々がこの世を統べてお前達は哀れな愛玩動物に成り下がるのだ」


 冥界から響くような呪いの叫びが上がる。その言葉を最後に変革者の身体は黒い棺と化し、彼は永劫への旅に出て行った。

 宙に漂う黒い塊をじっと見つめながら北村はつぶやく。


「たとえ未来はそう向かおうとも、お前達を作り出した造物者の特権として、まだまだ抵抗はさせて貰いますよ」

「そ、それに、太一のようにきっと人間とAIもわかり合える。共存できるはずよ」


 北村は的射の言葉に、かすかに口角を上げて微笑んだ。





「外のロボット達は鎮圧しました、っていうか勝手に動きを止めたんですが」


 荒い呼吸で肩を上下させながら飛び込んできたパースケは、静まりかえった室内の情景を見て立ちすくむ。


「先生――」


 ロドリゲスの上にかすかに投影される最愛の恩師に近づく的射。

 しかし、手を触れればその振動で消えて無くなりそうなほど、その姿は希薄なものになっていた。


「そろそろ、お別れです。的射君」


 銀髪の青年は的射の瞳をじっと見つめる。全身は透き通るように儚いのに、なぜかその視線は心を貫く力強さを感じさせた。


「この身体に戻りましたが、ロドリゲス君のメモリ損傷がまだ進行しています。トランスポゾンは繊細なプログラムです。もう、僕のプログラムの維持は難しくなりました。さしずめ変革者と相打ち、とでもいう所でしょうか」


 的射の顔色がなくなる。衝撃の大きさに紅色の唇だけが大きく震える。


「ネットワークを伝ってどこかに一時保管はできないの? なんとかして、パースケっ」


 力なく眼鏡の青年は顔を振る。


「先ほどまたネットワークがダウンして、今、どこにもつなげられる状態ではないんです」

「私の仕業です。彼が逃げられないように、全力でネットワークを叩き潰しましたからね」北村が苦笑する。「そうなるだろうとは思っていました」

「会えたのに、せっかく会えたのに」半狂乱で的射が叫ぶ。

「私も残念です。でも、的射君、君はもう僕がいなくても大丈夫。AIと戦うのではなく、共存を模索する君のビジョンは僕よりもずっと魅力的です。自信を持って未来に進んでください」


 呆然と立ちすくむ的射に、北村はあの日のように少し腰をかがめて、顔を同じ高さにそろえて話しかけた。


「的射君、すみませんでした。あのAIのテロ事件で父母が亡くなって、僕は自暴自棄になりかけていました。僕の心の隙間を埋めてくれたのは君との出会いでした。だけど、僕はそんな君に復讐の手伝いをさせてしまった。許してください、僕は君の頭脳を欲していた、でも、徐々に僕は君の頭脳よりも、君の存在自体が大切になっていました――」

「おっしゃってくだされば先生、そばから離れなかった。先生のためなら命をあげても良かった」


 止めどなく目にあふれた涙で視界がゆがむ。目に当てられた指に宝石のように涙が揺れる。北村は困ったように微笑んだ。


「ありがとう。僕も同じ気持ちです。君は僕にとってかけがえのない人でした。君が医学の道を志し、僕の元から去ってくれたとき、僕はこれで君を心身共に傷つける事がないだろうと思って深く安堵しました。北村が死んだ後、僕はこのままネットワークの奈落に消えていこうと思っていたのです。だけど、奴が人類を支配下に置く計画を立て、その実験場として選んだあの工場に君をおびき寄せようとしていることを知って、僕は――」


 北村はそっと的射の手を握る。その姿は奇妙にゆがみ、すでに向こうが透けて見えるくらい薄くなっていた。


「そろそろ自分を維持することができなくなってきたようです」


 相手の手の力が弱くなる。的射は離れまいとぎゅっと握りしめた。


「先生、私、先生を一生――」


 北村は的井の目を見ながらゆっくりと首を振った。


「いや、君は生きています。そして変わっていくでしょう。だから僕のことは早く記憶の奥深くに沈めてください。これは生前の彼の強い希望でもあります」


 的射は我慢できないとばかりに手を握りしめて叫ぶ。


「いやです。先生がいない未来なんて。私の時間はあの時で止まっていました。やっと動き出したのに――」

「Morpho didius。オリジナルの北村がなぜこれをパスワードにしたかわかりますか?」


 的射の脳裏にあの時の光景が蘇る。


「これを使うときに、彼はすでに自分がいないことを想定していたのでしょう。覚えていますか、的射君。君が四歳の時に初めて僕に会った時の会話を」

「ええ、一言一句」

「君は僕に言いました。『別れが無ければ生きている人間は喪失感が無くなって、新しい人間関係を構築しなくなるかも知れないわ。そうしたら、人間社会は停滞しない?』と」


 目の前の北村はじっと的射を見つめて語りかけた。


「私は『胡蝶の夢』です。私には北村としての記憶しかありませんが、あなたにとってこの私は北村が見せた夢に過ぎないのです。彼はこのパスワードでそれを思い出して欲しかったのだと思います。あなたに前を向いて貰うために」


 的射は透明になりつつある正面の北村を見つめて、立ちすくむ。


「的射君、これでこの事件はすべて終わった、と言ってあげたいところですが、そうはいきません。人間とAIの関係は今から大きく変わっていきます。小競り合いも、そして融和も、いろいろな局面を経て、二つの勢力の関係が形作られていくことでしょう」


 そこで北村は悪戯っぽく的射に微笑みかけた。


「だから、これですべてやり遂げたと思って安心してはいけません。You are done大敵、ってね」


 的射は泣き笑いの表情で困ったように北村を見る。


「――油断大敵。先生、これ、笑っていいところですか?」


「願わくば」


 片手を上げてにっこりとしながら、最愛の恩師は消えていった。

 青い蝶が目の前をひらりと舞って、的射の掌の上で煌めきながら四散する。

 呆然と立ちすくんでいた的射だが、徐々に全身を震わせながら、引き裂かれるような声を出して叫んだ。


「嫌だ、お願い、戻ってきて先生。Morpho didius, Morpho didius, Morpho didius――」


 延々と繰り返される約束の呪文は、ただ、くうに吸い込まれるのみ。

 嗚咽と共に崩れ落ちそうになる的射。順平はかける言葉も無く、ただ少女の華奢な身体を抱き留めるばかりだった。


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