第28話 ま、それほどでも

 午前10人、午後6人の面談が終わった時点で、的射はニヤリと笑って、保健師に向き直った。


「ところでアンダ、次はあなたよ」

「は?」


 目を剥いて彼女は腰を浮かす。


「心電図だって問題なかったし、別に――」

「時々胸が痛むんでしょ」的射が首をかしげる。「事前問診票にそう書いたでしょ。時々ピリッとした痛みがあるって。それに、あなた都合が悪いって健診センターに行かず、内科診察を受けてないでしょ」


 この子、隅々までよくチェックしてるわね。アンダは心の中で舌打ちする。


「だって、服の上からでも胸を触られるのが嫌なのよ。あの健診センター、男性の先生しかいないし」


 アンダがそっぽを向く。


「心電図や胸部から骨盤腔の断層撮影だって問題なかったからいいでしょ」


 的射は目を伏せる。


「やっぱり気になるから、聴診させて」

「聴診なんか、どうせ儀式的なもんでしょ。だって、心臓動画をとればすぐ診断がつくし。診察なんて要らないのよ、全部機械にお任せで」

「まあ、そう言わないで。みんな最先端の検査に飛びついてばかりいるけど、身体診察フィジカルイグザミネーションっていうのはきちんとやれば奥が深いのよ。見る、触る、臭う、聞く、簡単だけど安価で手軽で情報量が多い。なにしろ医学黎明期から積み上げられてきた技術ですものね。未だ機械にも劣っていないと思うわ」


 しかたなくアンダは上着を脱ぎ、上半身はTシャツ一枚の姿で椅子に座る。


「息を吸って、吐いて」


 的射は右手の指を、アンダの胸を上部から、左から右にクランクを描くように当てていく。首にかけて医師のシンボルとなっていた聴診器は、今となっては指の先端に付ける小さな聴診装置に変わっている。使用しないときにはスイッチを切って人差し指に指輪の形で装着されており、宇宙時代前には聴診器が果たしていた医師のシンボルに成り代わっている。

 指先の聴診装置が拾った胸の音は的射の耳にイヤリングのように付けられたイヤホンに直接届いている。


「息を吸って、そこで止めて。はい、息を楽にして」


 的射の指がアンダの胸骨下側の左方で止る。


「収縮中期クリックがある」

「何それ」


 アンダは心配そうに聞き返した。


「アンダは看護師さんだから四つの部屋に分かれている心臓の構造はわかっているわよね。その中の身体の左側の二つ、左心房と左心室の間にあって、閉じたり開いたりすることによって逆流無く血流を送っていく構造が僧帽弁よ。肺で綺麗になった血液が入ってくるのが左心房、その血液は左心室という壁の厚い部屋に送られて、左心室が収縮することによって一気に全身に血液が押し出されるの。で、収縮した時左心房に血液が逆流しないために蓋をしているのが僧帽弁」


 アンダは前のめりになって的射をのぞき込んでいる。


「ときに僧帽弁逸脱症と言って、左心室が縮んだ時にその僧帽弁が左心房側に飛び出ることがあるの。その時に出る、僧帽弁が左心房側に張る音が収縮中期クリック。パチッという過剰心音よ。聴診で逆流音は聞こえなかったからひどい閉鎖不全は起こしてないと思うけど。でも、軽い症状があるし、他の病気が原因のこともあるから、一度病院で診てもらったら安心ね」

「今まで聴診は受けたことあるけど、初めてよ、指摘されたの。凄いわね、先生」


 指から聴診装置を外しポケットに入れる的射を、アンダは尊敬のまなざしで見つめる。


「ま、それほどでも」


 鼻を上に突き出して、的射は大きなあくびをする。そのままがくりと頭がテーブルに落ちる。

 医務室のテーブルから軽い寝息が聞こえ始めた。


「お疲れ様」アンダはそっと、肩から毛布を掛けた。

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