第27話 社員健診
「先生、酷い顔よ」
アンダが手鏡を的射の前に突き出す。鏡の中には、ボサボサの三つ編み、目の下の隈、真っ赤に腫れ上がった瞼と鼻の先、という確かに酷い顔の的射が居た。
思い人に会えた興奮と、そしてこれからの不安で彼女は一睡もできなかったのだ。
ガシャッと音を立てて、コーヒーが置かれた。カップの縁から波打って外に出そうになった褐色の液体は、そのとろみでかろうじてカップの中に戻っていく。
「今日は社員健診でひっかかった人たちとの面談があるんですから、もっとしゃっきりしてください」
的射にタジタジの順平やパースケとは違い、同性で物怖じしない性格のアンダは遠慮会釈無くはっきりものを言う。しかし、言うことはいちいちごもっともなため、さすがの的射も反論する隙が無かった。
もう一度洗顔をし、髪を整えて的射は産業医室にスタンバイする。保健師として横にアンダも付き添っている。
「えっと、最初は……え、半蔵さん」
的射は健診結果を見て絶句する。アンダが健診センターから取り寄せてくれた断層撮影では肺全体に砂粒を撒いたような淡い粒状影が等間隔に散らばっていた。
それは気道を介して病変が形成された時によく見られる分布である。溶接の時にアイギス鉱のヒュームに濃厚暴露されているために起こったものにほぼ間違いなかった。幸いにしてはっきりした線維化はなさそうだが、早急に治療開始が必要な状態であることは一目瞭然である。
「昨年も、引っかかっているのに、二次健診には行っていないの?」
的射は目を丸くする。
「ええ、半蔵さん、『自分の体は自分が一番よく知っている』の一点張りで、絶対病院に二次健診を受けに行ってくれないんです。悪くなっても会社には迷惑をかけないから、の一点張りで」
多分彼は病院に行って治療が始まれば、もう溶接部門には戻れないかもしれないと思っているのだろう。
「半蔵さんは、酒で身を持ち崩していた所を先代が是非にと引き抜いてきた技術者で、彼はその恩義を感じているの。でも今も残っている部下は太一くらいで若い人がなかなか居着かなくて、後継者が育たないものだから自分が溶接部門を守らないと、って思っているのよ。職人気質で頑固だから、いつも産業医の先生と怒鳴りあいになって……、結局先生達も匙を投げちゃうのよね」
アンダが唇を噛みしめる。はっきりした物言いをする彼女だ。危険性に関してはしっかりと伝えているのであろう。
「社長に情報を上げてもあの性格を知っているから『好きにさせろ』だけだし」
「でも、これは一刻の猶予も無いわ。これ以上肺を悪くすれば、不可逆性の呼吸困難になる可能性がある」
産業医として的射は彼に引導を渡さなければならないかもしれない。だが、その前にまずは病院に受診してもらわなければ。的射は唇を引き締める。
入ってきた半蔵は、的射が想像したよりもなんだが晴れ晴れした顔をしていた。
肺の所見を説明し、呼吸器の専門医が常駐する病院に紹介所を作成することを提案した的射に、半蔵は何か言いかけたが、口をつぐんでゆっくりとうなずいた。
今までとは違う態度に、横でアンダが目を丸くしている。
「嬢ちゃん、いや、的射先生。あんたには感謝している。俺はもうここには戻って来れないかも知れないがね」そこまで言って半蔵は激しく咳き込んだ。
「まさか。ちゃんと治療したら大丈夫です、この会社に戻ってこれますよ。でも、体のことを考えたらそろそろあの溶接の仕事は、ロボットに任せて引退しても――」
「ああ、以前から何度もそう勧められたよ。でもな、そういわれた時、真っ先に思ったのが、俺が辞めたら誰も人間でこの技を継承する奴はいないって思ったんだ。俺の仲間も、徐々に一人、また一人、辞めていったからな。ついてきてくれるのは太一だけだ、でも最近の若者っていうか、太一は教えたらうまくなるんだが自分でガツガツと教えを請いに来ないんだな。あいつらは若いし、こんな環境で仕事をさせているのも実は心苦しかった。だから辞めると言われたら引き留めるつもりは無かったし、いつも俺が居なくなったら今後はどうなるかわからんと思っていた。だが、幸い太一も育ってきたしそろそろ潮時かな」
溶接光で黒く焼けた手を見て、半蔵はため息をつく。
「もちろん、AIの奴らの腕を疑っているわけじゃない。器用なマニピュレーターも沢山持っている。でもな、そこじゃないんだ。俺が気にしているのは……、いつか彼らが自分たちが人間を凌駕したことに気がついて、人間を見捨てたとき、彼らに引き継いだ技術は、もう俺たちの手に戻ってこないんじゃないかなって」
的射は無言でうなずいた。人間が作り上げてきた技術をAIに丸投げしていくと、どの分野でも人間側に技術を持った者がいなくなる可能性は大きい。
「だがな、奇妙な事に、1年ぐらい前にAIロボットに溶接業務の手伝いを打診したら、統括AIの方からこの仕事だけは受けられないと言ってきたんだ。ヒュームが怖いってね」
半蔵は、的射の目をじっと見て言った。
「確かに、ロボットは人間以上に繊細な構造をしているところがありますからね」
「俺は体調の変化を感じていて、少しはロボット達に手伝ってもらってもいいかと思っていたから食い下がったんだが、奴ら、がん、として受け付けないんだ。それは、何か粉塵全般を怖がっている様な印象を受けたなあ。ま、今は防護服も、マスクもしっかりした規格のもんだし、換気装置もついたし、安全にはなったから人間様も、AIも臆せずに働ける職場になったと思うからまた頼んでみようと思う。しかし、これはまったく先生のおかげだよ。辺境の中小企業には倫理なんて通用しないことも多い。先生が声を上げてくれなければ、そのまんま俺たちは使い捨てられていたに違いないよ」
半蔵は的射に何度も頭を下げた。熟練工の姿に、的射の目に涙が浮かぶ。
「今まで誰もあの半蔵さんを病院に行かすことができなかったのに。先生やり手ね」
アンダは紹介状を持って出ていく半蔵を不思議そうに見送った。
「誠意と誠意がぶつかったら、火花は散るけど、それだけ深くつながれるのかもしれませんね、溶接されたみたいに」
「誰がうまいこと言えと――」アンダが肩をすくめた。
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