第26話 悲願
8歳で的射は人生の方向転換を決断する。
それは徐々に大きくなる『意識の不死』に抱く違和感と、北村と研究していく過程で湧き上がった人体に対する興味からだった。
進路への迷いが最大になった丁度その時に、的射は北村から今後の進路についての打診を受けた。
「実はあるAIプログラムが情報ネットワークの中で妙な動きをしていると、政府のテロ情報集約室から相談がありました。今後僕の身辺はちょっと忙しくなりそうで君の相手ができないかもしれない。ちょうど良い機会だからこれからも僕と一緒に研究を行うかどうか、それともどこかの大学に所属して研究を行うか、君の忌憚ない意見を聞いてみたいと思って――」
「先生、ごめんなさい」
的射は、北村に医学に興味があることを初めて告白する。
腕組みをして目を伏せる北村。しかし、その顔には安堵の表情が浮かんでいた。
「君は才能があるけど、確かにちょっとこの研究に対しての情熱が欠けている気がしていました。だから君には僕の行っているプログラムの研究よりも、脳神経学的なアプローチをお願いしていたのです」
「すみません、先生の出される課題はハードルが高すぎてちょっとうんざりした時も――」
北村はしつこかった。問題をクリアしてもクリアしても、彼が提示するのはさらなる高みであった。
「でも、君はすべての課題を完璧にこなしてくれました。まあ、獅子は子を千尋の谷からつき落とすと言って――」
「先生はいつも、突き落としすぎです」的射が口を尖らせる。「褒めてるそばから、谷底に真っ逆さま」
「期待している君だからこその所業でしたが――、すみません」
博士はちょっと言葉を切る。だが、伏せた目を開けて彼は的射に微笑んだ。
「でも、君の一番やりたいことが見つかって良かった。この先、幾多の壁が君の前に現われるでしょうが、立ち止まっていては物事が進展しません。君なら必ず突破できます。自信を持って前進していってください。そして、気が向いたら遠慮無くここに遊びに来てくださいね」
的射にとって医学の勉強はうんざりしなかった。頭の先からつま先まで、人体の素晴らしいメカニズムが面白くて、面白くてたまらなかった。
そして、彼女は幸せな日々がまだまだ続くと思っていた。
2年前のあの日、的射がなぜか嫌な予感に苛まれて研究室に行くまでは――。
開けっぱなしのドア。消えた室内灯。
恐る恐る入った研究室で見たのは、部屋に血だらけで倒れている北村だった。
傍らには薄汚れた茶色の鞄。何かの用事で出かけようとしたところを襲われたのか――。
一瞬の硬直の後、的射は悲鳴を上げた。
その時。背後にかすかな気配が。
振り向いた的射。轟く発砲音。
赤く染まる床。
警備ロボットが駆け込んでくる音。
彼女はそこからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。次に気がついたのは病院のベッドの上だった。
至近距離からの発砲だったが、致命傷ではなかった。彼女はその抜群の反射神経と運動能力で、腹部の真ん中を貫いていたはずの弾丸から逃れたのだった。
右膝から下を犠牲にして。
「先生の事だから、きっと肉体は無くなっても、自己を情報化してこの情報ネットワークのどこかに潜んで反撃の機会を狙っておられると信じていました。あの日から、私の時間は止っています。どうしてすぐに私の前に現われてくださらなかったんですか」
ロドリゲスの体に投影された北村にしがみつきながら的射はたずねる。
「それは、君も察しているとおり、『
「先生、私の足なんてどうでもいいんです。私は先生さえ居てくだされば、AIの下僕になってもかまいません」
「君が狙われている。だからこそ、僕は現われたのです。しばらくは存在を隠して君をサポートするつもりでした。でも、天井が落ちたことで僕は姿を現わさずにはいられなくなりました。残念ですが、敵の術中にはまってしまったようです。敵にも僕がこの社内のどこかに潜んでいる事は、伝わっているでしょう」
「変革者はどこに居るんです? 私が彼を倒したら、私は先生とずっと一緒にいられるんですね。そのためだったら私――」
突然、北村は青い顔をしてふらつく。
慌てて体を支える的射。ロドリゲスを支えるには的射の小さな体では難しい。的射は歯を食いしばって両手両足に力を込める。
「ああ、的射君、君も知っているとおり僕は体力が無くて疲れやすいんです。今日はロドリゲス君の中から君に向かって自力でトランスポゾンコードを動かし、一言ですがメッセージを話したのでほとんど余力が残っていないのです。すみませんがそろそろ僕は消えます。これでも頑張ったのですが」
「わかってます先生。昔から先生はカロリーのほとんどを脳で消費して、そのほかの頑張りが利かないタイプでしたよね」
「君の音紋パスワードによって発動したトランスポゾン変異を使っても、ロドリゲス君のプログラム上に発現できるのはせいぜい30分。それを越えたら、8時間は休憩が必要にな」
彼の声と共に姿がふっ、と消える。
「先生っ」的射は先生の胸に頭を埋めて呼びかける。
カチッ、という音とともに、突如青い目が光った。
「ふーっかふかの胸毛100%、厚い胸板はあなたの頬の預け場所、僕はさみしい心に癒やしを届ける胸毛の国の王子様、その名も任せて♡ロドリゲスでゲスーー」
「あんた、ちょっとは空気を読んで遠慮しなさいよーっ」
ロドリゲスは、訳もわからぬまま背負い投げを決められて、宙に舞った。
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