第25話 Morpho didius
的射が、北村に初めて会ったのはアカデミーと呼ばれる高IQ児サポートセンターの植物園であった。そこは高いIQを持つ子供達の教育機関、そして通常の生活に生きづらさを抱える場合には、彼らを引き取って育成にもあたる組織であった。
「こんにちわ。運動神経も抜群だね。警備員を振り切って逃げるなんて」
新緑の茂みをかき分け、的射が隠れていた菫の花咲く小さな空間に現われたのは、まるで植物の精かと見まごうような、若草色の瞳をした銀髪の青年だった。
まさか、ここがそんなに簡単に見つかるとは思っていなかった的射は言葉を失ってその青年を見る。
きっと、また勝手なことをして、と怒られる。
震えながら的射は、声も上げずにしゃくりあげる。今まで声を上げると大人は程度の差はあれ、うんざりとした顔をしたからだ。
「的射君」
長くて白い上着に葉っぱやゴミをちりばめた青年は、土が付くのも気にすることなく的射の前に膝を突いてしゃがみ込み、優しい声で話しかける。
「怖かったね、もう、大丈夫だよ。声を出して泣いていいんだ」
怒られるとばかり思っていた的射はキョトンとした目で相手を見上げた。そして突然現われたまだ少年の面影を残す青年を観察する。
このセンターでは高IQ児の多岐にわたるニーズに対応するため、様々な研究所からその分野の最先端の科学者がボランティアとしてサポートにあたっている。彼もその一人らしかった。
「的射
「的射は女の子だから、
必死に目を怒らせて言い返す的射。4才にしていろいろな経験をしてきた彼女は、相手に甘く見られないこと、自分をいいなりにできない事を知らしめておく事が大切だと身をもって知っていた。
「ははは、『
的射は少し考えた。ちらりと見上げたその先には、優しいまなざしがあった。これまで、親も含めて、幼い彼女を対等に扱ってくれた者はいなかった。
「私、それでいい。その呼び方、好き」
的射は恥ずかしそうに微笑む。
「僕は、北村・アルフォンス・
的射はそっとうなずく。今まで、的射の前に現われた大人は的射が言った事が理解できずに癇癪を起こすか、ねじ伏せようと的射の知らない知識をひけらかしてくることが多かった。そういった人間に限って的射が、何か欠陥を指摘すると烈火のごとく怒るのだった。
子供のくせに。
彼らの目からは、理解できない者に対する恐怖に似た感情や嫉妬が透けて見えた。
「一緒に研究?」
「ええ」
青年は切れ長の目を糸のように細くしてにっこりとうなずく。
「的射君の頭脳を是非貸して欲しいんです」
自分をちゃんと認めてくれている。
両親が急死してから、転々と親戚の家をたらい回しにされ、精神的圧迫を受けてきた的射には、彼が本物の天使に思えた。
「僕は、意識の他媒体へのアップロードの研究をしています。例え肉体が滅びても、記憶を含む意識をデーター化し、他の媒体を依り代にして生き続ける研究です。まだまだ未完成のこの分野を発展させることが、僕の研究テーマです」
「その研究で、お父さん、お母さんは帰ってくる?」
「残念ながら、亡くなった方を蘇らせることはできません。でも、この研究が進めば、離別の悲しみから逃れられるかもしれませんね」
「でも、そうなったら、いつまでも亡くなった人の意識は受け継がれるわよね。別れが無ければ生きている人間は喪失感が無くなって、新しい人間関係を構築しなくなるかも知れないわ。そうしたら、人間社会は停滞しない?」
「素晴らしいアプローチだ、的射君。さすが、僕の見込んだ天才少女だけある」
的射の手を両手で握り、満面に笑みを浮かべた北村はブンブンと上下に振った。
それからというもの、北村は的射のバックグラウンドを考慮に入れた接し方の話し合いを養育寮と持つなどして、彼女の生活をずいぶん暮らしやすいものにしてくれた。ただ、その頃には一日の大半はサポートセンターの教室か、大学の教授である北村の研究室で過ごす事になっており、寮での生活は彼女の活動時間の中でごくわずかな時間を占めるだけになっていた。
北村博士と一緒に新しい知識を得て、そして議論を重ねながら新しい理論を構築していく過程は的射にとって刺激的で夢のように幸せな日々だった。
「僕には君のような聡明な理解者が居て幸せだよ。的射君は、僕にとってかけがえのない人だ」
北村は的射のレポートを読むと、二、三、立ち直れなくなるほど辛辣な言葉で鋭い突っ込みを入れた後に、決まって的射を褒めた。毎回その言葉を聞くと、的射はその前に言われた容赦ない指摘も忘れて、幸福感でいっぱいになった。
北村は小細工のできる人間ではない。褒める場合には心底そう思っているのだ。しかしあの容姿と声で言われる側はたまったものではない。その一言が破壊力抜群の殺し文句となって、幾人の北村ゼミの学生が要らぬ勘違いをしたことか。
人呼んで『罪作りの
ゼミの学生から北村が黄色い声を浴びるのを聞くたびに、的射は不機嫌となった。そんな彼女を笑顔にするため、いつも北村は妙なギャグを飛ばしては、さらに事態を悪化させた。
それは彼の意外な趣味に起因する。
研究室には、最先端の研究資料とともにお笑いの本や動画が並んでいた。見かけによらず、北村はベタなお笑い、ベタなギャグが大好きであったのだ。真面目な討議の途中に突然挟まれるギャグは、彼の飛び抜けた頭脳から考えるとあまりにも稚拙でしばしば的射を困惑の淵にたたき込んだ。
「ニューロン(神経細胞)にばかりこだわりすぎると、脳の大きなネットワークを忘れてしまう。まさに本末テントウムシだ」
「先生、寒すぎます」
的射のつれない返事を聞くたびに、北村は嬉しそうに笑ったものである。
あんなに頭が切れるのに、なぜこんなにも笑いのセンスがないのだろう。小さいときから尊敬され、褒められる経験しか無かったから、人からつっこまれてみたいのだろうか。的射には、北村が繰り返えすこの児戯にも似た遊びがどうしても理解できなかった。
雑多なものにあふれる北村の部屋の中で、不思議と一方の壁だけは何も無く、大きな青い蝶の動画額だけがかけられていた。体の弱い北村には研究の気晴らしになりそうなスポーツの趣味は無く、研究に疲れると、お笑いの動画を見るか、その画像をぼんやりと眺めていたものだ。
「先生、あの蝶を好きなんですか?」
ある日、コーヒーを飲みながらその画像を見ていた北村に的射はたずねた。
「大きなモルフォ蝶でしょう、
「そういえば、先生の研究をお手伝いしていると『胡蝶の夢』を思い出すことがあります」
「地球時代の中国の哲学者『荘子』の説話のなかの一節ですね」
北村は面白そうに的射に向き直った。
「『胡蝶の夢』では、蝶の夢を見た荘子が、自分が本当に実在するのか、それとも自分は蝶の見ている夢なのだろうか。と、自分と他者の区別が付かない、この世はすべて一体であるという境地について語っています」
そこで的射は言葉を切った。北村はにっこり笑って先を促すようにうなずく。
「でも、私がこの故事を読んでいて思ったのは、脳を捨てた意識が機械に移植された時の認識のあり方です。優れたプログラムであればあるほど移植された自分は果たしてオリジナルの自分なのか、それともただのコードの羅列で相手が思うからこそ存在する自分なのか、と疑問を持ち混迷するのではないか、と」
眉を大きく上げて、じっと少女を見つめる北村。しかし突然何か思いついたのか、彼はニヤニヤしてキーボードを操作しながら、的射に言った。
「的射くん、今の蝶の名前を覚えていますか? もう一度言ってみてください」
「Morpho didius」
「そう。忘れないようにしてください。これを君と僕だけの、大切なパスワードにしましょう。いいですか、的射君。もし今後このパスワードを使わなければならなくなった時には、声は大きくなくてかまいませんが、音紋を正確に認識させるため対象物にまっすぐに向いて話してくださいね」
次の日から、蝶の画像は無くなり、彼の回りから青い蝶の痕跡は一切消えた。まるで蝶の事は二人だけの秘密だとでも言うように。
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