第12話 手料理

壁に青い光。

あの形は、青い蝶?




 的射の脳裏に白衣をまとった長身の青年が浮かび上がる。

 柔らかくウェーブした耳にかかる銀色の髪、涼やかな新緑しんりょく色の瞳。


「大丈夫。君ならこの角度でも撃ち抜けるよ。まずは右手で手すりを持って身体を固定して」


 輝くような笑みと、心にそっと寄り添ってくるような柔らかい声。


「焦らないで、地球よりも落ちてくるのは遅い」



 先生? 先生ですよね。

 帰ってきてくれたんですよね。

  先生、先生、先生、

    答えて、先生っ――――――。







「せんせーっ、せんせーっ」


 先生? 呼んでいるのは私なのに。



 耳に飛び込んでくるわめき声にも似た絶叫。

 その振動が長い睫毛を揺らし、的射の瞼を開かせた。

 涙で濡れた目に、いきなり映り込んできたのは、赤い巻き毛。

 丸っこい目に涙を溜めて、ベッドの横にひざまずいているのは順平だった。

 傍らに立ったアンダが濡れた布を持って冷ややかな目でじっと的射の方を見ている。


「せんせー、良かった、死んじゃったかと思いましたよ」


 涙と鼻水がごっちゃになったものを垂らして、順平は叫んだ。


「ここは?」


 見慣れない部屋に的射はキョロキョロと辺りを見回す。枕元に見慣れた茶色の鞄が置かれていた。


「ラブリュス第一病院救急センターの経過観察室です。今、全身の断層撮影で問題が無かったのを確認したところです」


 柔らかい日差しが窓から漏れて、的射の顔を照らしていた。やはり、あれは幻だったのか。

 的射はシーツの下で、右膝をそっと触る。スラックスが裂けて穴が空いていた。


「現実だったんだ」


 目を見開いて、そっとつぶやく的射。


「先生が廊下に出たとたん、整備ロボットとともに天井板が落ちてきたんです。どうやら誤作動して天井を砕いてしまったらしくて――。出られてからすぐだったから、もう天井の下敷きになったかと思いました。でも、砕けてたのは杖だけで、先生は突き当たりから左の通路に入った所で倒れておられたんです。先生の足が速くて本当によかった」


 順平は鼻声で、ひたすら的射の無事を喜んでいる。


「瓦礫の下で杖が折れてました。身代わりになってくれたんですね、きっと」


 無我夢中であの時のことははっきり覚えていない。的射はボンヤリとわずかな記憶をたどる。壁に激突したのだろう、壁には耐ショック性の素材が使われているとはいえ、体の節々が痛い。


「どうして天井が?」

「わかりません、年季の入った工場ですが、いきなり広範囲に天井にひびが入るなんて、こんなことあり得ないんですけど。最近地震が多かったから亀裂が入っていたんですかねえ」

「そんなに簡単に落ちるものなの?」

「普通は整備ロボットが誤作動しても天井が全部砕けて落ちるなんて事は無いんですが。本当に年期の入りすぎた安普請のぼろ社屋ですみません。先生に何かあったら、どうしようかと思いました。こんな辺境に産業医に来てくれる奇特な先生なんか、なかなかいませんから」

「え? 私じゃなくて次の産業医の事が心配なんですか」


 紅色の唇がつんと尖る。


「滅相もありません。先生の事が心配に決まってます」


 慌てて順平は首を振る。

 傍らに立っていたアンダが会話に割って入って来た。


「先生、救急担当の先生から意識が戻ったら帰ってもいいし、希望があれば経過観察入院でもいいと言われたんですが、どうされますか? 入院されない場合には、呼べばすぐ人が来るセキュリティ付きのホテルを手配するように社長から連絡がありました」

「ホテルは必要無いわ」


 的射は微笑みを浮かべた。


「職員官舎に帰ります。私には守護神がいることがわかったから――」

「ダメですよ。こんなことがあったんです、やっぱりショックだと思います。頭をぶつけたら、後から出血をすることもあるからしばらく一人になっちゃいけないって救急の先生も言われてました。アンダ、頼む今日は先生を一人にしないで」


 順平がアンダに手を合わせる。目を丸くしたアンダはゆっくりと首を縦に振った。


「いいわよ、でも条件があるわ」






「すみません、アンダ。お世話になります」


 玄関から上がった的射はすっきりした白と茶色で統一されたアンダの部屋を見回す。浮き上がりにくいように磁石で固定されたテーブルに椅子。女性らしく落ち着いた色の花が作り付けの花瓶に飾ってあった。


「気にしなくていいわよ、私つねに部屋は綺麗にしているの。だっていつ一生の出会いがあって相手をここに招くことがあるかわからないじゃない。いいこと先生、これと思った相手には躊躇ちゅうちょしちゃだめよ。いつでも機会があるなんて思っていたら、運命の女神が相手を連れ去って行くから」


 人生の先輩とでもいうように講釈を垂れるアンダの言葉に、的射は何度もうなずく。


「本当に、そうよね」

「あら先生、そんな経験あるの?」

「ええ」得意げに鼻をうごめかしながら的射はうなずく。

「美形で天才で優しくて――でも、急にいなくなってしまったの。いつかまた会えると思うんだけど」

「まあ、可愛そうに」アンダは首を振って大げさに声を上げた。「でも、会えるわよきっと」


 アンダは半眼で微笑む。


「ま、先生がおばあちゃんになってからかもしれないけどね」

「意地悪ね」的射が目をつり上げた。


「二人とも、なに険悪になってんの」


 両手に皿を持った順平がテーブルに近寄ってきた。順平に出したアンダの条件は今日の夕食の支度と後片付けである。彼は皿の下に付いている吸盤をテーブルに押しつけて固定した。


「まあ、宝石箱みたい」的射が歓声を上げる。

「冷菜のラブリュスゼリーです。この七色の野菜がラブリュスの地面に似ているでしょ。ブイヨンの味付けだからサラダ感覚で食べてください」


 右手の皿には色とりどりの野菜を小さく切ったものが入っている琥珀色のゼリーが揺れている。そして左手の皿には、とろみで皿に貼り付いているラブリュス名物の長キノコと鶏のソテーが良い香りを漂わせていた。

 ひとくち口に入れた的射の顔が幸せにとろける。


「このキノコ、味が濃い。すっごく美味しい、今までこんな美味しいの食べたこと無い」

「食べて、食べて、順平の料理は美味しいの。会社の皆で人工庭園にハイキングに行くときも、順平がお弁当を作ってくれるのよ」


 アンダが少女のようにはしゃぐ。


「すごいわ順平。私、料理とか洗濯とかって全然無理」


 的射は素直に感動のまなざしを順平に向ける。団体用の料理は食べ慣れているが、人が自分のために作ってくれる手料理を食べた思い出は、的射にはほとんど無い。


「う、うれしいなあ。普段、料理を作っても褒められないから」


 順平は盆を抱きしめて相好を崩す。


「喜んでていいのかしら。女って、家事ができなくてうろたえる男の人に心をくすぐられるものよ。完璧すぎると、ターゲットからライバルに気持ちが変わるの」

「え? そうなの?」


 順平が不安げな声を出す。


「アンダは時代錯誤ね」


 的射はお代わりを皿に取りながら肩をすくめる


「男でも家事ができる人ってカッコいいと思うわ。でも、いまや家事なんて全部機械に任せることができるから、そんなの恋愛感情には関係しないけど」

「そうですか、あ、はは」


 擁護して貰っているのか、スキルを否定されているのかわからずに順平は曖昧な笑顔を浮かべた。

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