第11話 崩落
「前産業医はどこに住んでいたの?」
「独身だったから社宅のアパートだよ。その部屋の隣がお嬢ちゃんの部屋だぜ」
「先生と呼んでください、太一」
慌てて順平が注意する。「議事録用に録音しているんですから」
「いつ頃からここで仕事を?」
「さあ、5年以上は前かしら」
目尻のかすかな皺から古株オーラを出しているアンダが首をひねった。
「じゃあ、低重力による気分の変調って訳ではないわね。きっかけもない上、あまりに症状が唐突すぎだし、本当にキリンガム先生が自殺か、事故か、それとも殺害されたのか気になるところね」
「殺害いいっ?」
零介が頓狂な声を上げる。
「もう混ぜっ返さないでくださいよお」順平は頭を抱える。「やっと社内の衝撃が収まりかけているところなんですから」
「事故でも、事件でも、繰り返さないためには検討が必要よ」
的射はアンダを見る。アンダは待ってましたとばかりにうなずいた。
「事故当日までの企業内生体データがあります。出社時のバイタルサイン、血圧、脈拍、体温、呼吸数、そして、生体認証時に使用したデーター。これらは身体的個人情報なので医療部に所属する私と産業医のみ閲覧ができます。今から那須先生の前にある小型のディスプレイにデーターを送ります」
アンダがメディアを的射の前の細長い機械に差し込む。機械から光が射して的射の座席の前に薄いスクリーンが出現した。的射の網膜認証をしたスクリーンは次々とデーターを映し出す。これは彼女の目にだけ情報を送る特殊な光学技術が使われており、周囲からのぞき込んでも見ることができなかった。
「ん?」
的射がある画像で首をかしげた。
「ちょっとおかしいわ、これ」
皆が一斉に彼女の顔を見る。
「事故時間より前に、先生が亡くなっていたって可能性は?」
思わず皆が駆け寄って、彼女が食い入るように見つめるディスプレイをのぞき込む。しかし、そこは新任産業医以外には不透明な白い空間としか映らなかった。
周りに集まった皆の怪訝そうな表情に気がつき、的射ははっ、と口をつぐむ。
「い、いや何でも無いの。ごめんなさい脱線ばかりで。これから質問をしませんから、まずはざっと当日のキリンガム先生の行動を教えてください」
前産業医の行動をアンダはわかる限り正確にまとめていた。
会社に来て、書類整理した後、社内食堂での昼食。希望者と面談後、社内食堂で夕食。産業医室で過ごした後、深夜、個人情報や社内秘のデーターを扱う情報管理室で執務、ここへは入室が虹彩での生体認証で確認されている。
そこまで説明してアンダは目を伏せた。
「その後、ご遺体で発見されました」
「帰宅されなかったんですか?」
「ええ、キリンガム医師は独身でかなりの自由人だったので情報管理室で過ごされることも多く、そこで寝泊まりされることも珍しくありませんでした。健診データー管理などをされていたのでしょうか」
「健診データの評価は大部分AIが行うし、職場巡視も安全衛生委員会も怠るほどのわずかな仕事量で、過労も無いわよね」
的射が首をかしげる。
「星間警察が手を引かないのもなんとなくわかるわ。だって、遺書もないんでしょう。おかしいもの、この事件。何か裏がある気がするわ」
的射の言葉に、船を漕ぎかけていた頭が一斉に上がった。
不穏な雰囲気を感じて、順平は慌てて的射に声をかける。気がつけば始まってから1時間を優に過ぎていた。
「予定時刻も過ぎたので今日はこの辺で安全衛生委員会を終了しましょう。次回は――」
「明日にしましょう」
順平の言葉を遮って、的射が発言する。
「ええっ、冗談じゃない。今日はこんなに時間をかけたんですよ」
零介がげんなりした顔でつぶやく。
トイレから帰った太一は何が起ったのかわからずキョロキョロと見直すが、皆に明日また会議だと知らされると、頬を膨らまして腕組みをした。
「ええっ、またかよ。俺たち暇じゃ無いんだぜ」
「まだ、なぜこの事故が起こったのかの検討や対処ができていません。それに溶接部門のことも話し合わなければ」
「それではまた明日」と言い残し、反論は聞く耳持ちませんとばかりに的射は茶色の手提げ鞄を持って立ち上がる。
「あ、お送りします」
「大丈夫よ順平、昨日案内していただいてもうこの工場の構造は頭に入ったから。出口まで一人で行けます」
的射は部屋を出た。
出口に向かう的射は職場に戻る人々とは、逆方向だ。
誰も居ない長い廊下。
数十メートル先の突き当たりで左に曲がって少し行けば出口だ。
しかし、かすかな音と共に、的射は頭上から妙な圧を感じた。
ふと、上を見る。
割れた天井がスローモーションのようにゆっくりと的射に近づいてきた。
落ちる! 天井が。
的射の脳は「逃げろ」と絶叫している。
駆け出すが、慣れない磁力シューズのためにスピードが出ない。
突き当たって左、あの曲がり角に飛び込めれば。動け、身体っ。
時間が急にゆっくりと動き出し、じれったいほど、曲がり角が近づいてこない。
もうダメだ、押しつぶされる。
天井が――――
轟音がとどろいた。
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