第10話 アンダ

 だが太一は少女の視線など全く気にしていない様子で、小馬鹿にしたようにニタニタと笑っている。


「な、何よっ」

「見てくれないんなら仕方ねえな、ま、今の俺に必要なのはヤブ医者よりトイレだぜ」

「失礼ねっ」

「まあ、まあ……」


 慌てて中に入った順平が二人を分ける。


「太一も、失礼な物言いは止めてください。先生はあの後で溶接部門の環境改善のために財務のタイトにまで掛け合いに行ったんですよ」

「あのブーメンにか」


 ブーメラン星雲は宇宙の中でも極寒と言われているほぼ絶対零度の星雲である。タイトの冷ややかで傲慢な性格は社内でも嫌われており、ブーメラン星雲を略してブーメンと呼ばれていた。

 太一は口を尖らせて黙り込んだが、二人の間にはまだ一触触発の険悪な空気が漂っている。順平は頭を抱えた。   

 突然建て付けの悪い産業医室のドアがガタガタと揺れた。

 そして――。


「遅れてすみませんっ」


 ドアを突き破る勢いで部屋に飛び込んできたのは、褐色の巻き毛を持つ長身の女性であった。一目で気が強そうだとわかるはっきりとした眉にぱっちりした釣り目。短めのキュロットにスパッツ、ヒールのあるGパンプスを履きこなし、腰のくびれの目立つ身体のラインを強調したスーツに身を包んで登場した女性は、皆の前で荒い息をして肩を大きく揺らした。それとともに、これ見よがしにはち切れそうな胸も上下に揺れる。それは低重力のため地球上よりも大きく揺れていた。

 部屋中の男性陣の視線が一点に集中し、黙り込む。


「すみません。依頼された仕事が多すぎて遅れました」


 周りを見回した美女は、零介と太一に極寒の視線を送る。訳ありなのか、彼女の目がさらに吊り上がり、零介と太一の顔が青くなる。

 名前に入った零と一、二人合わせてゼロワンコンビと呼ばれている彼らは、どうも余暇を優先する傾向があった。仕事が残っていても定時になれば二人して飲み屋に繰り出してしまうお気楽社員だ。

 これはまずい。部屋に広がる不穏な空気を察知した順平は唾を飲む。

 おそらく急遽開催がきまった安全衛生委員会用の資料作成が回り回って処理能力の高いアンダに流れ込んだのだろう。

 的射先生も瞬間爆発型だが、アンダも負けてはいない。怒りのトリガーを引いてしまったらただではすまないことが明白だ。

 アンダの視線に串刺しにされたゼロワンコンビは硬直している。

 順平は空気を変えようと慌てて口を開いた。


「的射先生、この方は衛生管理者の里崎さとざきアンダさんです。保健室勤務で看護師と保健師の資格をお持ちです」

「産業医の那須的射なすのまといです。よろしくお願いいたします」


 的射が立ち上がって頭を下げる。


「順平、ほんとに?」


 アンダは振り返ると順平にこれ以上ないくらい丸くなった目を向ける。青年のうなずきを確認すると、彼女は眉をつり上げて酸欠の鯉のように、真っ赤な口紅で彩られた口をぽかんと空けた。言葉にこそ出さないが、顔中が『この子で大丈夫なの?』と叫んでいる。

 静まりかえって彼女を見つめる周囲の面々に気が付いたのか、アンダは顔を修正して的射に向き直った。


「こんにちはお嬢ちゃ……いえ、先生。よろしくね」


 取り繕った笑みを浮かべて、アンダは手を差し出す。


「こちらこそよろしくお願いいたします。おばさ……いえ、アンダさん」


 的射も不敵な笑みを返す。

 二人が握手した瞬間。周りを取り囲む男どもは、つながった手に火花が散るのを見た。





「えええーっ、安全衛生委員会、って今まで開いてなかったんですか? 労働基準監督署がよく黙っていましたね」


 的射の叫びが産業医室の外にまでとどろく。

 新労働安全衛生規則では地球時間に換算して30日に一度の安全衛生委員会開催が定められていた。アンダから前産業医の事故以前から安全衛生委員会は開かれていなかった事実を聞かされて、的射は目をつり上げる。


「はいはい、文句はそこまで。さっさと辞めてとんずらした前任者の代わりに、順平が目いっぱい労基ろうきから絞られたんだから、それはもう終わったことにして」


 アンダが見事に的射を制し、すかさずメディアにダウンロードしたデーターを会議室前面に現われたスクリーンに映し出す。他に漏れないようにネットワークの回線はケーブルでつながれ、この部屋の中だけに限定されたものであった。


「これは的射先生から一晩という極めて迷惑な提出期限でご依頼いただいた、前産業医、キリンガム・アキツ先生の事故の詳細です」


 そこには、彼の周りの人が彼とここ1ヶ月で交わした会話の覚えと、監視カメラ等でわかる限りの当日のスケジュールが細部まで経時的に記載してあった。そして、事故現場の加工機械についても資料が添えつけてあった。


「本当は、会話に関しては零介に、そして先生が亡くなった場所のロボットについては太一にまとめをお願いしていたんだけど私に提出がなかったのはなぜかしら」


 びっしりと棘の生えた口調でアンダは首をかしげる。ライトに照らされたアンダの目の下にうすい隈ができていた。


「そういえば、給料日に返すって約束で、あんたたちにお金を貸してたわよね」

「おーゆーるーしーくださああい。仕事そっちのけで飲みに行っちゃってましたあ」


 アンダの突き刺さるような流し目に、二人はついに椅子を降りて土下座をする。しかし、焦った二人は、バランスを崩して浮き上がった瞬間、お互いに頭をぶつけて悶絶した。

 喧噪をよそに、的射は食い入るように画面を見ている。


「事故1週間前までは普通の会話だけど……、1週間前から急にネガティブな発言が多くなったようね」


 まずは、職場に適応ができないと相談に来た青年に向けられた一言。


『仕事が憂鬱なら早くここを離れなさい。この低重力の世界に長居するとだんだん筋肉や骨がもろくなって、もう地球には帰れなくなるよ。僕はね、一生この星の奴隷なんだ、なんだか希望がなくなる話だね』


 これが始まりだった。この発言は相談したことに対する産業医の答えがあまりにも投げやりだとクレームが文章で来たことで発覚している。限られた範囲のみでの音声の公表と使用は相談者からすでに了承を得ていた。


「これではどちらが相談者かわからないわね」


 的射が首をかしげる。

 もちろん、低重力下では筋や骨の衰えは否めないが、現在は筋肉トレーニングとかなり効果的な筋骨増強剤や心肺機能調節薬が造られているため、昔のように地球に着いた瞬間から重力に負けて立てなくなるといったことはない。しかし、やはり低重力環境に居る者は、心肺機能の変化や筋骨の衰えを潜在的な恐怖として感じている。あんなことを言われて、青年はへこんだに違いない。


「それにしても、とんでもない面談だわ」的射は目を伏せて首を振る。

「それからはなし崩しですね。前産業医が社長に業務の責任が重いと弱音を吐いたり、合う人ごとに延々と愚痴をこぼしたり」

「前産業医は過重労働だったんですか? 順平」

「そんな風には見えなかったですけど」

「以前、産業医って真面目にやれば大変だけど、手を抜こうと思ったらいくらだって抜けるって言ってたよ、当のご本人が」


 うらやましそうに零介がつぶやく。社員の皆がうなずいているところを見ると前任者はかなりのんびりとした仕事ぶりだったようだ。

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