第9話 安全衛生委員会

 安全衛生委員会とは職場の安全や衛生に関して働く側の意見を、事業者の行ういろいろな措置に反映させるための話し合いの場であり、一定の条件を満たす事業所では開催が義務づけられている。以前は安全委員会、衛生委員会はそれぞれ開催が必要な基準が違っていたが、地球時代後期から安全衛生委員会としてまとめての開催が一般的になっていた。

 ただ、ここ十年でさらに安全衛生委員会の開催が必要となる条件が変更されている。新労働安全衛生規則(略して新安衛則あんえいそく)では、鉱業においては50人以上の社員のいる事業所、もしくは社員が30人以上50人未満で社員の2倍以上の可動性AIロボットのいる事業所、と定められている。この後半の部分がここ十年で改定された部分だ。 

 アイモト工業の社員数は50人に満たないが、AIロボットの台数が多く新安衛則で新たに加えられた「もしくは~」からの部分が当てはまっているため、安全衛生委員会の開催義務があった。

 AIの暴走による事件が頻発している昨今、AIの割合の多い事業所は、彼らの管理が安全衛生委員会でも重要課題になっている。もちろん委員会にはAIの参加は認められていない。AI参加だと,バグを起こし人間に敵意を持ったAIが参加した場合、巧妙に対処の裏をかかれる可能性があるからである。新安衛則には、追記として安全衛生委員会が開催される場所は、AIへ情報が漏れないように盗聴器、盗撮器の排除、AIが侵入できるネットワーク環境への漏洩が無いように留意する旨が明記されている。





 的射の着任翌日、早速安全衛生委員会が開催された。

 通常、出席者は産業医である的射と総括安全衛生管理者である社長とともに、安全管理者の順平、衛生管理者、安全に関する経験を持つ社員、衛生に関する経験を持つ社員の計6人の出席が最低限必要となる。

 だが、新安衛則では特例として従業員数が50人未満の中小事業所では、安全管理者、衛生管理者の出席があれば、必ず記録に目を通すことを条件として総括安全衛生管理者の出席は必須ではなかった。

 この特例が付け加えられたとき、責任のある事業所側の人間がいないほうが、後日なんらかの事故が起きたときに責任逃れしやすいからではないかと、まことしやかにささやかれたものである。

 愛本社長はどうしても避けられない出張とのことで、今日の会に姿がなかった。


「なんだか、せっまい部屋ですねえ。内装も古くさいし」


 長髪を後ろで束ねた、いかにもこんな会は時間の無駄ですという雰囲気を全身から立ち上らせている黒髪の青年が周りを見回す。


「黙れ零介れいすけ、失礼だぞ。ここは産業医の先生用の執務室なんだ。確かに5人入ると手狭だけど安全衛生委員会を開くための基準に合致するのはここしか無かったんだ」

「はいはい、順平。じゃあ先生、手短にね」


 悪びれた様子もなく、長髪の青年はパイプ椅子の上で窮屈そうに手足を伸ばす。

 彼はスミス零介。通常は、溶けた鉱石をそれぞれの用途に沿って成型するまでが業務である金属加工部で働いている。そこはAI搭載ロボットが多く働く暇な部署であり、彼なら業務を抜けても大丈夫だろうということで名ばかりの『衛生に関する経験を持つ社員』として安全衛生委員会に選出されたらしい。

 零介は眠たげな三白眼から涙をにじませる。さきほどから繰り返されたあくびの残滓に違いない。


「手短になんか終わりません」


 はねつけるような返事に、零介は目を丸くして身を起こす。そして見るからに『お嬢ちゃん』という風体の相手をしげしげと見つめた。


「俺は昨日から腹がいてえんだけど、後で診てもらえるかな」


 零介の隣に座った、モップのようなバサバサの茶髪に三日月のように細い目と尖った鼻をした痩せた青年が会話に割って入る。

 議長役の順平が慌てて紹介する。


「先生。彼は半蔵さんの下で溶接をしているカイザイク太一です。『安全に関し経験のある社員』ということで選出されています」


 確かに半蔵の横で溶接していた人だ。的射は監督と言い合っていた自分を彼が胡散臭そうな目で見ていたのを思い出した。


「腹痛があるなら、早退してさっさと病院に行ってください」


 的射の冷たい言葉に、太一は口をぽかんと開けた。


「ええっ、診てくれてたぜ、前の産業医の先生はよお」

「何かはき違えていませんか、産業医は会社で患者さんの治療をする医師ではないのです。私たちの職務はまず、その現場で起こる可能性のある危険や疾患に対して予防、対策すること。また検診の結果や病状、就業状態を調べて、労働する人に就業形態についての助言を行うこと。すなわち、働く人の健康を守るのが目的。診察や治療は産業医個人個人の判断によりますが、基本的に職務範囲外です」


 的射は小鼻を膨らます。


「ま、こっちだって嬢ちゃんみたいな頼りなさそうな先生に見てもらう気はないけどなあ」


 ちらりと的射の様子をうかがった順平は目を剥いた。

 ああ、これは……。順平は目を伏せる。

 的射の目が赤く血走り、眉毛が垂直に近いくらいつり上がっている。彼女はいきなり伸ばした右手の人差し指をモップ頭の尖った鼻にめり込ませて叫んだ。


「んごっ」

「診る方にも選ぶ権利があれば、あなたみたいな失礼な人、絶対にお断りです」

「俺も診てもらうんなら、嬢ちゃんよりはもっと成熟した美人の方が――」


 溶接業務をする彼らのために、財務課まで掛け合いに行ったのに。的射は顔を歪めて相手をにらみつけた。

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