第3話 義肢
「え、っと、後藤さん」
緑茶を飲み干すと、少女産業医は順平の方をのぞき込むようにして話しかけた。
「あ、僕は順平でいいです。さん付けはいりません。うちの社は日系のものが多いんですが、それでも出自が様々でいろいろな名前があるので、基本は名前と役職だけで呼び合うように統一しているんです」
「そうなんですか、じゃあ私も的射でかまいません」
「わかりました。ではこれから的射先生と呼ばせていただきます」
「で、今からのスケジュールは?」
的射は早く仕事に取りかかりたいとばかりにキョロキョロと周りを見回した。じっとしてはいられないというようにお下げも宙を舞う。
「それでは先生、今日はまず社長に会っていただきます」
二人は応接室を出て、工場の中央に向かう広い通路に出た。
歩きながら順平が話しかける。
「仕事は明日からと言うことで――、珍しいですか?」
的射は、弾力のある壁を左手で触ったり、左右だけではなく天井にも付いた手すりに興味津々である。
「なぜ天井に手すりを?」
「急いでたりすると、ちょっとした弾みのつき方で、天井に飛び上がってしまうことがあるんです。その時につかまって体勢を整えたりするために――」
順平の言葉が終わらないうちに、的射の体がふわりと浮く。少女は小さな声を上げて、前につんのめった。
慌てて順平が手を差し伸べて、彼女がこける前に抱き留める。
「ごめんなさい、まだGシューズに慣れてないんです。杖をつくと体が浮き上がってしまう感じがあって、体勢がついていかなくて」
真面目な顔が一瞬崩れ、的射は肩をすくめて照れくさそうに笑った。
えくぼの浮かぶその顔を見ていると、この子はまだまだ少女の入り口に立っている子供なのだということをあらためて思い知らされる。辺境の少々荒っぽい顔ぶれが揃うこの工場でやっていけるのだろうか。順平に一抹の不安がよぎる。
「そうですね、一気に足を上げるより、踵から引き剥がすような感じで歩いた方が良いかもしれませんね。常に靴の磁力面がどこか付いているように。慣れるまでブーツの方が脱げにくくていいのではないでしょうか」
室内では、Gシューズと呼ばれる磁力を帯びた靴底の靴に履き替えている。この靴で磁性のある鉱物が含まれた廊下を歩くと、浮き上がりが抑えられて足元だけは地球の1Gに近い感覚になる。ただ、歩き方に少々コツが必要で、慣れるまでは何度か靴を残してじたばたと空中をひっかく、『ラブリュスの猫じゃらし』の洗礼を受ける必要があった。
「地球から来た方はみんな言いますね、履き心地が悪いって。まあ、Gシューズが気にならなくなったらいっぱしの偽ルナ星人ですよ。ん、足を痛めましたか?」
少女が軽く右足を引きずっていることに気がつき、慌てて順平は足を止める。
「すいません、僕がもっと早くに注意していれば――」
「違います。ちょっと右足と左足に左右差があって。だから右手に杖を持っているんです。本当はブーツが良いんだけど、右足は膝から下が義肢で左足と太さが違うから履けないの」
「あ、いや、すみません。まさかそんな事だとは」
低重力でバランスを崩す事が多いため、ここでは杖を携帯する者も多い。少女の足の不自由さに気がつかなかった後藤は額に汗を浮かべた。
「全然大丈夫です。気にしないでください。業務中に何か迷惑をおかけすることもあるかもしれないから、いずれお話しようとは思っていたんです」
少女は、長い背を丸めるように縮こまる青年の目の前で、気にしないでとばかりに大きく両手を振った。
「それに、地球と違ってここに居るとこの右足が全然苦にならないから嬉しいの。地球だと動くのに違和感があるけど、ここでは到着後からあちこち自由に飛び回れて、本当に楽しかった。だってちょっと床を蹴るだけで今まで上がったことも無い高さまで飛び上がれるし、一瞬だけ鳥になった気分」
的射はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そういっていただくと救われます。ラブリュスはほこりっぽいし、楽しいところはあまりないし、みなさん来てすぐどんよりするんですよね」
産業医にとって相棒になる、人の良さそうな安全管理者は、頭を掻いてほっと顔をゆるめた。
程なく通路は行き止まりになり、道が左右に分かれる。
「あの突き当たりを左に行った奥が社長室です」
「社長さんは、いつもこの工場内におられるんですか?」
「いや、結構商談に飛び回ってますね。数日前もラグランジュポイントL2に造られたワープ基地から地球に行っていたようです」
「造骨剤も筋力増強剤も心肺機能調節剤も以前に比べて格段に進歩しているけど、それでもここから高G環境にいきなりワープして、大丈夫なのかしら」
「社長は若い頃結構な事故をやってかなりの部分を機械化しているんです。工場内で一番年よりのくせして、一番無茶でタフなんですよ。まあ、会ってみてください。アバンギャルドにもほどがある、って感じだから」
青年はにやりと笑って、薄汚れた社長室のドアをゴツゴツと叩いた。
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