第2話 庶務の順平
「すみませんでしたっ、大変失礼いたしましたっ」
真っ青な顔色の青年は事務室横の応接室に少女を案内すると、膝に頭が付こうかというくらいに身体を二つ折りにして謝った。
「産業医派遣協会から送られてきた画像が不鮮明で、それにフェイスガードの反射が強くてお顔がはっきりわからなくて、ご無礼いたしました」
彼はさっきから噴き出す汗を何度も拭っている。
送付データーに身長の記載はない。もちろん生年月日は書いてあったが、まさかこんなに若い、それも女の子が来るとは思わずによく見ていなかった。
いや、それ以前に日々の雑事に忙殺される庶務の
「いえ、よくあることですから。それより、あなたは?」
少女は長い睫毛を瞬き、ぱっちりした金茶色の目で青年を見上げる。
「あ、申し遅れました」
赤毛の青年は慌てて胸ポケットから薄いカードを差し出した。カードの上には彼のデーターが表示されている。
「僕は、総務部庶務課長の後藤順平です。このアイモト工業には勤務して6年になりますが、安全管理者には急遽1ヶ月前から就任しました。同時に産業医の先生のサポート業務も任されています。社長に会っていただいた後で先生のブレスレット型端末に、僕のと、そのほか産業医活動に必要と思われるこの会社の人事、医療データーのアクセスキーを入れてお渡しします」
「よろしくお願いします。わからないことだらけなので」
的射は幼さを残した外見に似合わない大人びた口調で挨拶をした。
「あ、つまらないものですが、お茶菓子を用意しています。一息ついてください」
勧められて的射は席に着く。低重力用の服には腰から大腿にかけて磁石粉を練り込んだ生地が使われている。そして低重力用の椅子の座面には磁性のあるニッケル含有素材が使われているので、強力と言うほどではないが磁力が働きちょっとした体動で簡単に椅子から浮き上がることはなかった。
的射の目の前には湯のみに入った緑茶と、汁気が多いカステラのような四角い菓子が出されている。
「先生は低重力下でのお仕事は?」
「実は初めてなんです。協会所属なので、私たちは行けと言われたところに行くだけで。でも健康的な職場環境を作るようにがんばりますね」
そういいながら、的射はチラリと湯飲みをのぞき込む。中の水がどろりとして、スライムに近いような見かけ、そこには地球で見る水溶液の緑茶とは違う物体が入っていた。
「ここは月と同じで重力が地球の約6分の一なので、普通の水だと跳ねたときに高く飛び散っちゃうんですよね。だから少し粘性を付けているんです。そのケーキもなんか水浸しって感じですけど、ぱさぱさだと浮いた粉でむせちゃう事があるんで、このほうが食べやすいんです。けっこうこのシロップ漬けカステラ美味しいんですよ」
青年は言い訳するような口調で説明した。
「いただきます」
手を合わせて的射は一礼した。日系企業の多いこの辺境星では、日本風のマナーが一般的に通用する。
まずはカップに入った緑茶をすする。ややどろりとしているが、のどごしは普通のお茶とさほどかわらない。味は銀河中でよく知られているメーカーの緑茶と同じだった。
続いて順平お勧めのカステラ風和菓子を口に入れる。前宇宙時代の地球に起源をもつカステラは、この辺境では原型をとどめないくらい変貌していた。皿に乗っているのは一口大の立方体、地球育ちの的射が見たこともない香りとメタリックな光沢のある外見である。
的射は小さいトングで皿から引き剥がすようにしてつまみ、おそるおそる口に入れた。フォークが用意されていないのは、刺したときに汁が飛び散るのを防ぐためだろう。滴るほどに沁みたシロップから香ばしい苦みを帯びた香りが鼻に抜ける。苦いコーヒーとチョコレートを混ぜたような、良く分析できない香り。
次の瞬間、的射は思わず顔をしかめた。間に挟まれたチョコレートクリームが救いようのない苦さだったのである。
「大丈夫ですか、疑似カカオの含有量が多くて先生にはちょっと大人の味だったかな」
順平は心配そうに彼女をのぞき込んだ。
相当まずかったのか的射の目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「いや、こんな菓子しか用意してなくてすみません。
こんなちっさな子が来るとは、と言いかけて慌てて順平は言葉を飲み込んだ。このラブリュスでも低重力育ちの人口が増えた今、生粋の地球育ちは低身長のためにとりわけ若く見られることが多い。
「なんで子供が来るんだ、ってよく言われます。だから初任地には必ず契約書をすぐ出せるようにして持って行くんです。成人年齢には達していませんが、アカデミーの知力と精神年齢検査で成人と同じように行動して良いという許可証を貰っています」
はっきりとした受け答え。よくよく見れば棗を思わせる目じりが切れ上がったぱっちりした目は普通の子供には無いような理知的な光を帯びている。紅い唇もフェイスマスクをしていたときにはよく見えなかったが、上唇の深いくぼみで際立ったいかにも意志が強そうな形をしている。
やっぱり、この子が産業医の先生なんだなあ。順平はしげしげと少女を見つめた。書類をあらためて確認した後も半信半疑であった彼だが、目の前の少女は本日からこの『アイモト工業』で雇われた専任産業医に違いなかった。
最近は飛び級をして10歳頃に医師の資格をとる子もいるらしい。噂には聞いていたが、本当にいるとは。順平は思わず感嘆のため息を漏らす。しかし、同時に心の中には不安も渦巻いていた。
いったいこのエリートのお嬢ちゃんで務まるのだろうか。あんな事があった後だ、産業医協会は腕利きを送ります、と言ってくれていたのだけれど、話が違うじゃないか。
いや、あんなことの後だからこそ、もう名義貸しくらいの感覚で、あまり物事に首を突っ込まない人選の方が良いのかも知れない。協会もそこのところを汲んで急遽方針を転換したのだろう。
彼は目の前で両手に持ってシュークリームを満面に笑みを浮かべて頬張っている少女をチラリと見た。最初のケーキは口に合わなかったようだが、慌てて買ってきた、売店で委託販売されている大きいシュークリームはお気に召したようだ。頬に黄色いクリームが付いている。
こうして見るとやっぱり、子供だ。
順平はそっとため息をついた。
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