第16話 沙羅発つ

八月二十九日


 昨夜、帰ってから寝酒を煽ったのが災いしたのか、頭が痛い。軽くふらつく。しっかりと二日酔いだ。時計を見るとまだ朝の6時、散歩はやめて風呂に入ろう。リビングにあった漫画と水のペットボトルを持ち込んで湯に浸かった。二日酔いを早く醒ますならこれが一番だ。上がったり浸かったりを繰り返しながら、漫画を二冊読み終える頃には、汗がびっしよりだ。酒も抜けた。隣のシャワールームから音がした。慣れてきたとはいえ、若い娘が隣でシャワーを浴びているというのは、少々ワクワクする。

 コンコンとノックされ、「おはよー!朝御飯食べれる?」沙羅の声が響く。


 リビングに向かうと濡れた髪のままキッチンに立つ沙羅の後ろ姿が見える。JPOPに合わせて口ずさみながら身体がリズムを打っている。「大丈夫だったー?二日酔いとか?」「ぜーんぜん!たっちゃん、あれからまた呑んだでしょ!大丈夫?」「あらら、バレてる?風呂入ったら抜けた。沙羅も入りたかった?」「先に入った者勝ちだから…。後で。」料理を運ぶのを手伝う。「今日は?」「帰り支度と部屋の掃除。夜は碧かな。」明日以降は叔母の友達がローテーションで世話しに来るらしい。沙羅が帰省していない時はそうやって宿と店を運営している。今日は、出来るだけ沙羅と居たい。宿にこもるとしよう。

 明日のことを考えると辛さが襲ってくる。気持ちを切り替えて部屋で店のプランを練る。パワーポイントで大体の間取り図を描く。スケジュールを組み立てる。必要な設備と物品。一部の内装は工事業者を手配しなければならない。やる事は無限大にある。

 隣の部屋では掃除機の音がしている。明日、内地に帰ってしまうのだ。沙羅はどんな気分なのだろう。

 宿で簡単な昼食を摂ってコーヒーを飲む。「たっちゃん、この後時間ある?オバアのとこ一緒に行ける?」「えっ?俺とかいいの?」「大丈夫。オバアも喜ぶから、ラインしてみるね。」オバアにライン?時代は進化しているようだ。「今、パリ(畑)だから、一時間後に戻るって!」

 オバアの家は宿から港側へ、二三分のところにあった。昔ながらのあかがーらの平屋でオジイと二人で暮らしている。叔母が一緒に住もうと行っているが、近所だし気楽だからと言って聞かないらしい。引き戸をガラっと開け「こんにちは!オバア来たよ!」沙羅の声が響く。「はーい」と玄関に出てきた祖母、もう75歳と聞いているが、思ったよりずっと若々しい。「オバア、オジイは?」「まだ、パリさ。この御方は?」丁寧に自己紹介をする。二十歳年上の女性を私からは何と呼べばよいのだろう?

「沙羅には、本当のオジイが居なくてね。今のオジイをずっとオジイだと思って、懐いておったけど、中学に入った頃かなぁ。外人の血が入ってることを知ってな。ちゃんと話をしたんだよ。それでも、ちゃんと今のオジイに懐いてくれて。」「そりゃ、そうよ!オジイはオジイだし、優しいから好き。」「でもなあ。死ぬまでに何とか一度くらい会わせてやりたい。この子の母親が産まれたことも言ってないから、今更どうすればいいかもわからん。オジイには相談できん。しないさ。」淋しそうに話した。

 オバアが唐突に「達哉さんは、沙羅のこと好きだね。沙羅も思うとるね。」「オバア、ちょっと…。」「隠してもオバアにはわかるさあ。顔に出とるからね。いいから、聞きなさい。好きおうとる者同士離れる辛さは、オバアはよくわかる。立場や歳や色んなもの違っても、好きは好き。自分に正直に生きれば一番さ。オバアは今でもアメリカのあの人にお前という可愛い孫がいることを伝えたいさあ。」顔を赤くした沙羅がうつむいた。「お前が男の人、連れてくるのは初めて、写真も見せてもらったこと無いね。一目見てすぐにわかったよ。好きおうとるなら離しちゃダメさ。」「オバア、わかったよ。でも、まだ何もだから、ほんと。オジイとママにはまだ言わないでね。」「大丈夫さあ。オバアはスピーカー言われとる!」「ちょっと、マジでやめてー!」慌てる沙羅にオバアが笑う。「ほんと、もう絶対やめて!」「可愛い孫が言うこと。わかったよ。」

 帰り道、沙羅は黙ったまま前を歩いた。何と話していいかきっかけが見つからない。二人とも迷う心をオバアに見透かされ、戸惑っている。ひょっとすると、オバアに背中を押して貰いたかったのだろうか?色んな考えが頭を混乱させているのは、きっと彼女も同じだろう。何も言わずに三階へと階段を登る。「たっちゃん、お茶?」「あー、ありがとう。」いつものポジションに並んで座る。「あー、もう、オバアったらー。たっちゃん、ごめんね。あんな話したら、困るよね。わかんないよ。」「俺はオバアに会えて良かったよ!素晴らしい人だ。」「ほんとー?オバア、マイペースだから、ズバズバ言うし、困っちゃう。」「でもオバアが言ってたのほんと?沙羅の気持ち。」目を伏せた沙羅は、また赤くなってうつむいた。「うん。多分、そう。こういうの初めてだから、よくわからないけど。」「沙羅。こっち見て。」「迷惑じゃない?」「とんでもない。俺、沙羅のこと好きだ!大切にしたい!どうしていいかわからないのは、俺も同じだよ。」沙羅と見つめあう。ブルーがかった大きな瞳から涙が溢れそうだ。「好き…、たっちゃんが好き。」頬に涙が伝った。「沙羅。」顔を覆う両手の手首を持ってゆっくりと離した。沙羅の頬を両手でそっと抱く。沙羅が両手を被せた。親指でつたう涙を拭う。「何で私、何で泣いてるの?おかしいよね。」「泣いた顔も好きだ。綺麗だよ。」右横に向く身体を抱きしめた。沙羅が顔を右胸に埋めた。ほんのりと淡い躑躅の甘い香りがする。小さな子供をあやすように左手で頭をそっと撫でる。どれほど、こうして抱きしめたいと思っただろう。思いが溢れて、涙が出そうになった。ここは、泣く場面じゃない。我慢しないといけないと思うほど、溢れそうになる。

「たっちゃんもドキドキしてる。」顔の向きを変えて、胸に右耳をあてる。「俺も心臓が口から出そうだ。」「一回、出してみる?」「一回位磨かないとね。」照れてふざけ合う。「これからどうしょうか?」「今日?夜は碧だから、あまり時間無いかな。」「用意は?」「だいたい出来た。」「何したい?」「こうしてたい!」ソファーに移って、並んでコーヒーを飲みながらテレビを観る。恋愛経験が全く無いのだ。焦って迫っても怖がらせるだけ、ゆっくりと沙羅のペースで進めて行こう。まだ、始まったばかりだ。自分の心に言い聞かせる。沙羅の右膝に左手を置いた。沙羅が右手を重ねる。そう今はこれで十分だ。肩がぴったりとくっついても良くなった。体温が伝わるのが、心地よい。

「ごめんね。そろそろ準備しなくちゃ。」時計の針は17時30分を指していた。


「あれ、たっちゃん起きてたの?ただいま。」先に寝る気になれなくて、軽く晩酌をしながら待っていた。今夜は、中々眠れそうにない。「お腹は?」「まかない食べたから、大丈夫。シャワー浴びてくる。」「お湯張ってるからゆっくり浸かったら。」「えー、ありがとう。」「俺、先に寝てるかも。」「もう、遅いから、待たないで先に寝て。おやすみなさい。」こんな気持ちで湯上がりの沙羅がそばに居たら、抑えきれないかもしれない。酔いが欲しくて、スコッチを二杯ほど煽って、ベッドに入った。

 暑くなって目が覚めた。左側にぴったりと沿う柔らかい感触がある。左を見ると沙羅が居る。「ちょっと待て!どうなっている?してないはず!」かなり焦った。うっすらと明るい。手を伸ばしてスマホを見るとまだ6時過ぎだ。

上を向いていた、沙羅が右側に寝返りをうつ。左側から抱き枕を抱くように左腕と左脚を乗せてきた。飛び上がるほど嬉しいが、どうしたらいいのだろう。見つめていると沙羅の目が薄く開いた。「あれ?私…。」「そのままで。動かないで。」「頭上げて。」頭の下に左腕を入れて抱き寄せた。「おはよう。」どうやら沙羅も寝付けなくて、私がテーブルに置きっぱなしにしたスコッチを呑んだらしい。酔って私のベッドに潜り込んだようだ。「部屋間違えたの?」「うん、間違えた。」「まだ、早いよ。どうする。」「このままでいい。」「おやすみ。」再び目を閉じる沙羅、寝顔を見ているうちに私も眠りに落ちていった。

 目が覚めると隣に沙羅が居ない。あれは、酔って見た夢なのだろうか。同じベッドに横たわるなんて。左肩がだるい感じがするが、気のせいかもしれない。

 顔を洗ってリビングに入るといつも通りの沙羅が居る。相変わらず流れるJPOPを口ずさみながら、短パンのお尻が揺れている。「おっはよー!ちょっと待ってね。」いつも通り並んで、同じ番組を観ながら朝食を摂る。「空港まで送るよ。」「バスあるから大丈夫だよ。」「送りたいの!」「じゃ、お願いします。」「何時で間に合う。」「1時の便だから12時前かな。」沙羅が作る朝食を食べられるのは、これが最後かもしれないと思うと、何となく箸が進まない。「美味しくない?」心配したようだ。「いつも通りめちゃうま!」


 空港へ向かう車のハンドルを切りながら、沙羅と過ごした日々が頭を過ぎる。この車の助手席は、いつの間にか彼女の指定席になった。初めて出逢った時と同じ赤いキャップを被って流れる景色を眺めている。そこにいつものお喋りな沙羅はいない。珍しく黙ったままだ。大きな丸いサングラスの下の蒼い瞳は何を見つめているのだろう。会話も無いまま、大橋を渡った。「きれー、この景色が好き。もう暫く観れないなぁ。」「年末は来ないの?」「クラスでやる卒業製作と論文もあるから、来れないと思う。」「春は?」「卒業してからになるかな?就職したら中々来れないかも?たっちゃんは、この島でお店するんでしょ。早く遊びに来たいなあ。」ようやく会話が始まった。

 沙羅の大きなスーツケースを下ろして、ロビーへと向かう。自動チェックイン機で僅か一二分でチェックイン出来てしまう。ほんと便利になったもんだ。スーツケースを預けて、白いテーブルに向かいあって座った。思い出を振り返るように話す二人の時間はあまりにも物足りない。残された時間はあと僅かだ。搭乗案内のアナウンスが流れた。「時間だね。」「うん。」搭乗口を繋ぐ通路まで並んで歩いた。二人ともまた無口になっている。「着いたらラインしてね。」「うん。」「また、春にね。身体に気をつけて。」「たっちゃん、色々ありがとう。じゃ、行くね。」白い皮のショルダーバッグを左肩に掛け直して、歩いて行く沙羅の細い背中が遠ざかって行く。不意に立ち止まった。こちらを振り返り、サングラスと帽子を右手で外した沙羅が、走って来た。「たっちゃん!たっちゃん!」私の胸に飛び込んだ。首に両手を回して、唇を被せてきた。躑躅の甘い香りに包まれて、柔らかい唇が重なり合う。沙羅の目から大粒の涙がこぼれていく。一旦、離れて見つめあい、また唇を重ねた。細い身体を壊れるほど抱きしめる。「たっちゃん、息出来ないよー!」涙を浮かべた沙羅が笑う。身体に回した腕を解いた。両手を繋ぐ。「じゃ、もう行くね。着いたらラインする。」「さよなら、また春に。」「たっちゃん、バイバーイ!元気でね。」後ろに下がりながら手を振る沙羅、やがて振り向いて搭乗口へと歩いて行く。搭乗口でまた振り返り手を振った。何か言っているようだが、もう聞こえない。外から彼女が乗ったLCL機が飛び立つのを見送った。

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